小林「情報産業論」(10)

ひとまずの終止符

わたしは、こういう方向で、未来の外胚葉蚕業時代の経済学を構想したい。(p. 63)

先般、最終回のつもりで、原稿を矢野さんに送ったら、「なんだか尻切れとんぼだねえ」というお叱りを頂戴した。お言葉を返すようでありますが、矢野さん、梅棹の「情報産業論」そのものが尻切れとんぼなのですよ。よく言うと、壮大なオープンクエスチョンで終わっている。

梅棹のお布施理論は、その未来の経済学への補助線として語られている。そして、前回触れたように、それは歴史が未来への補助線であるという意味で、梅棹の文化人類学/民俗学への知見/懐かしさを伴った憧憬に彩られている。

であれば、梅棹が構想した外胚葉時代の経済学は、具体的にはどのようなものだったのだろうか。残念ながら、梅棹自身は、その具体的な姿を示すことなく他界した。しかし、梅棹自身が、『情報の文明学』の中でも記しているように、多くの論者が、この「情報産業論」について、様々に論じている。《情報産業》という言葉そのものが、いまだに梅棹の影響下にある。

もう一度、梅棹の「情報産業論」の大筋を振り返ってみよう。

「情報産業論」は、大きくは、3つの部分から構成されている。最初に、シンボル操作のプロフェッショナルとしての、情報業者をくくりだし、ついで、内胚葉産業、中胚葉産業、外胚葉産業という形で、産業構造の変遷の中に、情報産業を位置づけ、最後に情報の価格決定メカニズム解明への方向性を、お布施理論という形で提示する。

この3つの部分のうち、もっとも多く論じられたのは、当然ながら第2の部分であり、それもアルビン・トフラーの「第三の波」との対比でその慧眼と先見性に注目した論述が多数を占めたことは、ぼくのこの一連の駄文も含め、当然のことといえば、当然のことだった。

それにひきかえ、お布施理論については、言葉そのものは広く流布したが、その内実についての深い議論が多く展開されたようには、見られない。梅棹自身の、『情報の文明学』が単行本として刊行された際、1988年2月に書き下ろした「四半世紀のながれのなかで」で振り返ったお布施理論に関わる部分を見てみると。

「さきにあげた稲葉論文では、お布施原理に対して、労働価値説の立場から、それは現象的なとらえかたにすぎず、『本質にせまろうとすると、労働市場における需給の法則が価格決定原理であることに気づくし、その価格の底にあるものとして労働力の価値を問題にせざるをえない』と論じている。またさきにあげた城塚氏も『より一般的に価値の問題として』とらえるべきであるとしている。」

と、否定的な論調を引用し、さらに、今井賢一氏の情報の価値についての論文の一部を引いて、「『このお布施の原理というのは、経済学的にみてもかなり本質をついたもの』としながら、「格」というものが一般的な市場理論になじみにくい点を論じて、『情報材の特殊性を考慮して、市場理論を再検討する必要に迫られる』としている。情報の価値および価格決定については、今後もさまざまな議論が展開しうるであろう。」と結んでいる。

世上の議論の大勢は、梅棹が構想した方向に、そのまま展開していったわけではなさそうである。

・名和小太郎<情報産業ゲートウェイ論>

こうした中で、異彩を放つのが、名和小太郎の《情報産業ゲートウェイ論》である。

名和さんは、このホームページでも健筆をふるっておられるし、なによりも、矢野さんを介して知遇を得た貴重な大先達なので、名和さんを俎上に乗せるのは、恐れ多い限りなのだが、まさに、蛮勇を奮って。

矢野さんを通して、名和さんの知遇を得たときのこと、というよりも、矢野さんと名和さんの知遇を得たのは、同じ機会だったのだけれど、そのことについては、以前、書いたことがある(『EPUB戦記』p.18)。

その後、折に触れて、矢野さんの後ろにくっついて名和さんを訪ね、お二人の談論風発を身近に拝聴する機会を得てきた。

もう10年以上も前になるだろうか、京都の佛教大学で「情報ビジネス論」と題する集中講義を担当したことがある。ぼくにとっては、単発の講演や講義を除くと、まとまった形で大学での授業を担当した最初の機会だった。

このとき、初めて、梅棹の「情報産業論」をテキストとして用いた。

迂闊なことに、このときまで、ぼくは、お布施原理が梅棹のものではなく、名和さんオリジナルのものであると勝手に思い込んでいた。

きっかけは、名和さんの名著『情報社会の弱点がわかる本』(当時のJICC出版局、今の宝島から出ていたブックレット)。96ページというブックレットでありながら、そこには名和さんの慧眼が詰め込まれている。

ぼくは、このブックレットを、ジャストシステムに入社した直後に読んでいる。そして、大いに啓発された。その折、名和さんが情報産業ゲートウェイ論への補助線として紹介された梅棹のお布施原理を、てっきり名和さんオリジナルのものだと思い込んでしまっていたのだった。

佛教大学での集中講義の準備のために、名和さんのブックレットを読み返そうとしたら、どこかに散逸してしまっていて、手元に見当たらない。名和さんに、コピーの提供を依頼したら、早速署名までして原本を一冊送ってくださった。

読んでみて、愕然とした。そして、梅棹の「情報産業論」について初めて知った。

近所のフェリス女学院大学の図書館に行って、梅棹忠夫著作集の『情報と文明』の巻を借り受け、夢中になって読んだ。

爾後、「情報産業論」は、まさに座右の書となった。

三上喜貴さんに頼まれて、長岡技術科学大学で「情報と職業」の夏期集中講義を始めた時も、矢野さんの後任として明治大学で「情報と社会」の授業の担当を始めた時も、「情報産業論」をテキストに使うことに、何のためらいもなかった。

「情報産業論」を学生とともに読み直す作業は、ぼくに、古典を読むという営為がどのようなものであるか、ということを実感させ続けている。

しかし、そもそも「情報産業論」を古典として読み直すことの、大切さとその要諦のようなものを教えてくれたのは、名和さんの『情報社会の弱点がわかる本』と、このブックレットともに送っていただいたエコノミスト誌1988年11月1日号に掲載された『ポストモダン時代に自立する?情報産業 梅棹忠夫「お布施原理を読みなおす」』ではなかったか。

もう1回分何かを書くのであれば、名和さんの「情報産業論」論以外にない、と即座に考えた。そして、今しがた、このエコノミスト誌への論考を読み直した。

この名和さんの論考そのものが、もう30年も前のものである。そして、その時点で、「情報産業論」が世に出てから、四半世紀が経過していた。

この時点での名和さんの梅棹批判は、ぼくがこのブログで書き連ねてきたことどもと、驚くほど重なっているとともに、名和さんご自身が優れた工学者であることを反映して、「要素還元論・数量還元論を奉じるシステム技術者」の立場から梅棹の有機体論的な装いを鋭く批判している。ぼく自身は、前回も書いたように、特にお布施原理の背後に、梅棹の民俗学・文化人類学的な世界観がすかして見えるように思えるのだが、名和さんは、おそらく、ぼくが感じたと同じことを、ポストモダンという言葉で指摘しているのではないか。

近代=工業化の時代を軸に、梅棹的前近代と名和さんの指摘されるポストモダンは、みごとなほどの鏡像関係にある。梅棹も名和さんも、そして、ぼくも、共に近代の超克を、情報論的世界観に託している。しかし、梅棹の「情報産業論」初出から半世紀以上、名和さんの「情報産業論論」から四半世紀たった今でも、未だ、近代が超克されたとはとても言えた状況にはない。もちろん、諸処各所に近代のほころびが見え隠れし、そのほころびが徐々に拡がっていることもまた確かなことではある。

ぼくは、このブログの一連の論考で、たびたび時代精神(ツァイトガイスト)という言葉を用いてきた。梅棹はその「情報産業論」を彼が生きた1960年代初頭の時代精神の中で書いた。名和さんは、その「情報産業論論」を、1988年というまさに世紀末の立ち入らんとする時代精神の中で読み、論じた。そして、今、ぼくは、2019年2月、平成という時代が幕を閉じようとする時代精神の中で、読んでいる。

矢野さんは、ぼくに、何を求めて、「もう一回何か書け」と求めたのだろう。前回が尻切れトンボだったからか。だがしかし、ここまで書き進めてきて、ぼくには尻切れトンボではない結論めいた言葉は、どうにも浮かんでこない。さまざまな思考の断片が、次々と浮かび上がり拡がるばかりだ。

名和さんがエコノミスト誌に寄せた論考は、梅棹の「情報産業論」が収められている「情報の文明学」が単行本として刊行されたことを契機として書かれたものだ。そして、この梅棹の単著の掉尾には、「中央公論」誌1988年3月号に掲載された『情報の考現学』が収められている。

この『情報の考現学』の「古典」と題された項のこれまた最後の部分を引いて、果てしなく続く「情報産業論」再読の作業に、ひとまずの終止符を打つこととしたい。

大気は地球をおおう普遍的な存在である。われわれは、歴史的所産としての大気を、人間個体としては、つねに新鮮なものとして呼吸する。全世界をおおう情報の体系は、歴史的に蓄積された、普遍的存在としてわれわれをとりまくが、人間個人は、つねにそれを新鮮な「空気」として呼吸するのである。こうして、古典は現在においても新鮮な意味をもつ。(p302)

小林「情報産業論」(9)

梅棹が情報産業の未来に見たもの

変化の時代にあっては経済もまた変化する。(p56)

情報産業の時代を、まさに文明史的な視座から画したうえで、いよいよ梅棹は、情報産業時代の経済学の分野に打って出る。すなわち、情報価値論。おっと、この言葉は、もしかしたらぼくの造語かもしれない。

梅棹の情報価値論の中核に、お布施理論があることは言を俟たないが、情報産業論の掉尾を飾るお布施理論に至る梅棹の論の進め方は、まるでロッシーニオペラ幕切れのストレッタを思わせるものがある。

ぼくは、1995年ごろからミレニアムの境をまたいで、アメリカの西海岸、いわゆるシリコンバレーに頻繁に出向いていた。そんな折、役得で、勤めていた会社のPR誌に連載を持っておられた紀田順一郎さんの米国IT業界取材に便乗して、サンノゼにあるウィンチェスターミステリーハウスを見に行った。サンフランシスコから、リムジンをハイヤーしてね。

ウィンチェスターミステリーハウスというのは、ウィンチェスター銃で巨万の富を築いたかのオリバー・ウィンチェスター未亡人が、心の病を得てから生涯に渡って作り続けたまさに世にも奇妙な建物だ。見事に歪んでいるとはいえ、ウィンチェスターが武器製造で得た富の大きさをうかがわせて余りある。

そのころ、カーネギー・メロン大学も、何度か訪問した。ニューヨークのカーネギーホールには、行ったことはない。いずれにしても、今のアメリカの文化や学問が、梅棹の言葉を借りると、中胚葉産業の遺産によって支えられていることに、疑いを挟む余地はない。そこに、以前触れた、アール・ゴア・シニアによるインターステイト・スーパー・ハイウェイを加えてもいいだろう。

しかし、そのころのベイエリアは、そういった中胚葉的産業から、外胚葉産業への移行が急速に進んでいた。1939年創業のヒューレッド・パッカード社を嚆矢とし、ゼロックス社のパロアルト研究所やアップルコンピューター、サン・マイクロシステムズ等々。マイクロソフトも本拠地は、ワシントン州のレッドモンドに置いていたが、ベイエリアにも巨大なキャンパスを持っていた。

そのころから、日本でも、バブルの崩壊とインターネットの爆発的な普及とを契機として、産業の外胚葉化は急速に進んでいった。2004年楽天が、2012年にはDeNAがプロ野球の球団を持った。かつては、プロ野球のオーナーといえば、新聞社か電鉄会社がその多くを占めていたが。DeNAが球団を持とうとした時、楽天のオーナーが、ゲーム会社が球団を持つ資格はない云々といった妄言を口にして、世の失笑を買ったことは記憶に新しい。

そのような時代の変化を、梅棹は、情報と産業との関係から、どのように捉えたのか。

一言で述べれば、情報の価値をどう捉えるか。

先回りして、弁明しておくと、ぼくは、《価値》という言葉と《価格》という言葉を、少し異なった層で捉えている。

その上で、まずは、議論を《情報の価格》に絞ろう。

この種のものは、さきにものべたように、そもそも軽量化できない性質のものだし、原則としておなじものがふたつとないのだから、限界効用もへちまもないのである。(p57)

梅棹の問題提起は、まず、需要と供給の関係を基礎とする価格決定プロセスに対する疑義から始まる。情報の唯一無二性に立脚すると、需給バランスの議論が成立しない、云々。ぼく自身は、むしろ、情報の(技術的には超安価な)複製可能性に立脚して、需給バランスの議論が無力なことに力点を置きたいが。

いずれにせよ、需給バランスを前提とした価格決定メカニズムでは、世界に二つと無い芸術作品などは価格が高騰し、安価な複製が可能な情報資産は価格が限りなく低下する。

もう一つの論点を。

以前、ケインズの近代経済学の要諦は、局所バランスの可能性を前提とするところにある、といった話を仄聞したことがある。議論の詳細は詳らかにしないが、直感的には、モノや情報の偏在が、経済活動の原動力となる、といった意味で捉えることが出来よう。

では、情報が即時に地球上を覆い尽くす今の時代、ケインズ的な経済理論は、まだ、有効なのだろうか。はたまた、ケインズ的局所均衡議論とは全く異なる形での、たとえば、ナッシュ均衡のような、情報の即時伝播性と、その阻害(情報の秘匿または断絶)の鬩ぎ合いを前提とした議論に取って代わられたのだろうか。もしくは、この両者には、深い関わりがあるのだろうか。

ともあれ、梅棹は、情報の価格決定が、モノの価格決定メカニズムでは解決できないことを、例によっての鋭い直感で見抜いていた。

その上で、梅棹は、外胚葉産業時代の価格決定メカニズムを、《一物多価》(この言い方は後の名和小太郎による梅棹経済学の読み直しに負っている)という問題に収斂させる。

そして、《一物多価》の代表として、僧侶と檀家の間でのお布施額決定のメカニズムを取り上げる。すなわち、僧侶の格と檀家の格とのトレードオフ。お布施理論の誕生である。

情報の価格が、お布施と同じようなメカニズムで決定される、と聞けば、多くの日本人は、直感的に、なるほど、と納得する。しかし、本当にそれだけなのだろうか。ぼくは、一方で至極納得した思いを抱きながら、どこかえもいわれぬはぐらかされ感がぬぐいきれない。梅棹のお布施理論は、ある方向感としては、至極納得できるものの、議論を尽くしているとは言い難い。梅棹は、お布施理論の先に何を見ていたのだろう。

情報産業論劈頭で、梅棹は、歌比丘尼や吟遊詩人を情報業者の一角に位置付けて、読者を瞠目させた。

そして、同じ情報産業論掉尾での、このお布施理論。情報産業論執筆時点で、梅棹の研究対象は発生学から文化人類学に大きく方向を変えていた。そんな梅棹ならばこそ、情報産業を歌比丘尼や神社仏閣、温泉などの民衆の生活との関わりで捉える視座が得られたに違いない。

では、情報業者としての歌比丘尼は、どのようにして糊口をしのいでいたか。門付けか投げ銭か。ぼくは、その委細を詳らかにはしない。しかし、それが、広い意味での喜捨、ドネーションによるものであったことは、言を俟たないだろう。

もう10年以上前、ひつじ書房の松本功さんに触発されて、電子書籍などの少額課金制度に投げ銭の考え方が援用できないかと、考えていたことがある。そのころ、マルセル・モースを中心に贈与論に関わる論考をいくつか読んだ。

・オープンソースとドネーション

随分後になって、オープンソースソフトウェアの周辺で、ドネーションウェアといった言葉が出現してきた。最近では、SNSを中心に、《いいね》ボタンの功罪が云々されている。

このような現代的な情報社会での動向も含め、モース的な意味では、贈与とは、まさに記号の交換である。

アメリカ先住民族のポトラッチから、銀座のクラブの新装開店の店頭を飾る胡蝶蘭に至るまで、物品の贈与(時には毀損)が、送る側と送られる側の関係性を象徴する記号として機能している、と捉えるのが、贈与論の要諦だとすれば、歌比丘尼への喜捨も僧侶へのお布施も、広い意味での謝意を象徴する贈与そのものと見ることが出来よう。すなわち、喜捨もお布施も、なんらかのサービス(情報)に対する対価ではなく、謝意を表象する記号なのである。であれば、あるサービスや情報の価値判断が、情報の受け取りようによって異なることも、ごく自然のことであろう。さらに、その価値判断の差が、記号として表象されることも、また自然なことだろう。

ちなみに、胡蝶蘭が、(特に企業間などのビジネスの世界で)贈答品として重宝がられるのは、その価格が高値安定しており、一目で支払われた金額を推測することができるからだ、と仄聞したことがある。

このような贈与論の視座のもとで、歌比丘尼や吟遊詩人、琵琶法師から白拍子などの異能の情報提供業者の社会との関わりを捉え直してみると、このような人々が、自らの才能に依って民衆にサービス(情報)を提供し、そのサービスへの謝意(対価ではなく)を表象する行為としてのドネーションが行われていたのは、近代位以前においては、日本に限らず、洋の東西を通して、かなり普遍的なことだったように思われる。そして、そのようなタレントの中でも、特に才能豊かな人物に、為政者や富豪がパトロンとなることも、また洋の東西に共通のことだった。

梅棹的な外胚葉産業は、まさに、人々の心と精神の豊かさに寄与するがゆえに、その存在が社会全体にとって不可欠なものと受け止められ、社会全体として、ドネーションを通して、それら異能の人々の生活を下支えする、というシステムが成立していたのだった。梅棹の謂を藉りれは、近代以前においては、情報業者は、社会の文化を支える、まさに公共人材として遇されていたのではなかったか。

このように見てくると、オープンソースにおけるドネーションウェアのありかたも、全く同型のものと考えられる。

お布施理論として、梅棹が提唱したかった情報産業時代の経済学というのは、じつは、贈与論的記号交換の社会的メカニズムの解明ではなかったか。

そしてそれは、近代の礎となった中胚葉的産業を超克したポストモダーンの豊穣なコミュニケーションを下支えするメカニズムそのものではなかったか。梅棹が情報産業の未来に見ていたのは、彼がフィールドワークで出会った近代以前の社会の豊穣さの復権ではなかったか。

 

 

 

 

 

小林「情報産業論」(8) 

なぜ「情報産業の時代」と言わなかったのか

夏の間、他の雑文書きにかまけて、しばらく間が空いてしまったが。

虚業を虚数のアナロジーで論ずることに対する批判の、続きから。

こういうふうに整理してみると、人類の産業の発展史は、農業の時代、工業の時代、精神産業の時代という三段階をへてすすんだものとみることができる。(p52)

この先の、内胚葉の時代、中胚葉の時代、外胚葉の時代というアナロジーも含め、梅棹の産業発展の三段階区分が世界的に見ても、時代を魁(さきがけ)ていたことは、言を俟たない。

先にも触れたが、アルビン・トフラーの『第三の波』の出版が1980年だったということだけで、梅棹の先進性を語るに十分であろう。

しかし、例によって、ぼくには、「精神産業」という言葉に対する違和感が拭いきれない。なぜ、「情報産業の時代」ではいけなかったのだろう。後に、トフラーは高らかに「情報革命」と言い放ったではないか。

梅棹はなぜ、一方で、情報産業のことを「虚業」と卑下し、その一方で「精神産業」という21世紀に生きるぼくからすると、いかにも座りの悪い言葉を使ったか。

これも、以前言及したことだが、梅棹の生きた時代、「情報」という言葉の主たる意味は、まだ、「①事柄の内容、様子。また、その知らせ。」(日本国語大辞典縮選版)という意味が主流だったと考えられる。
「②状況に関する知識に変化をもたらすもの。文字、数字などの記号、音声など、いろいろの媒体によって伝えられる。インフォメーション。」(同上)
⑵現在のように information と緊密に結びつくようになったのは、一九五〇年代半ばに確立した information theory が「情報理論」と訳され、普及したことによる。」(同上)

逆に、このような時代背景を鑑みると、梅棹が作った「情報産業」という言葉は、その時代、いかにも斬新で、ある意味ではゴリっとした違和感をもって迎えられたのではなかったか。

その違和感を埋めるために、梅棹は意図してか意図せずにかは措くとしても、「虚業」「精神産業」という両極端の印象を持つ言葉を使ったのではなかったか。

言葉は、時代精神とともに変化する。

ぼくたちは、その後、精神産業としての宗教産業の鬼っ子とも言うべきオウム真理教によるサリン事件を体験する。

だからと言って、ぼくたちは、梅棹の「精神産業」という言葉に対する違和感を以ってして、梅棹の先進性を貶めてはならない。梅棹が工業の時代のその先に見据えた「情報産業」の時代は、世紀を超えて今も時代の先端を切り拓き続けている。

・発生学のアナロジーと梅棹の悪戦苦闘

もう少し先まで読み進めておこう。

わたしたちは、現代の情報産業の展開を、きたるべき外胚葉産業時代の夜明け現象として評価することができるのである。(p54)

じつは、ぼくは最近まで、梅棹の農業時代=内胚葉時代、工業時代=中胚葉時代、精神産業時代=外胚葉時代という、彼が学生時代に学んだ発生学へのアナロジーについては、どこか為にするアナロジーだといった印象を抱いていた。大学での授業の際も、あえてこの部分を飛ばして読んでいた時期もある。梅棹自身、「情報産業論」が単行本としてまとめられた際、20年の時を経て執筆した「情報産業論への補論」の劈頭で、「外胚葉産業」という言葉についての、説明を試みている。その文章の端々からは、どこかしら、弁明めいたニュアンスを感じ取ることができて、平素は舌鋒鋭い梅棹とは異なる面を見るようで、すこし微笑ましい気分になる。

それはそれとして、「精神産業」という言葉について考えているうちに、ぼくは、梅棹が「外胚葉産業」というこれまたちょっと違和感のある言葉を用いた理由も、少し分かったような気がしてきた。

そう。繰り返しになるが、「情報産業」という言葉は、梅棹が用い始めた時代には、新しすぎたのだ。「情報産業」という言葉が持つ時代精神との乖離を梅棹自身が一番感じていたのではないか。その乖離を埋めるために、「虚業」という言葉を用い「精神産業」という言葉を用い「外胚葉産業」という言葉を用いたに違いない。

もとより中胚葉産業の時代にあっても、後に展開するはずの外胚葉産業の芽はいくらも存在する。さらに、もう一つ前段階の内胚葉産業の時代にあっても、中胚葉産業および外胚葉産業の先駆形態がたくさん存在した」(p54)

トフラーの「第三の波」に係わって、恩師伊東俊太郎から

「情報革命が起こったからといって、農業がなくなるわけではありませんよ」

という言葉を聞いた記憶がある。ぼくが2年の留年を経て大学を離れたのが1976年だから、直接師事していたころのことではなく、後に、テレビで見たか何かの文章で目にしたかなのだと思うが、伊東俊太郎の言葉として鮮明に覚えている。

さらに時代が降り、脳科学が時代の寵児となり始めたころ、そして、それは、あのサリン事件に至るオウム真理教の時代とも重なるのだが、脳のある部分に刺激を与えると、空腹感を抑えることが可能になった、という話を耳にした。おそらく、脳科学を援用したダイエット法といった下世話な話ではなかったかと思う。

その時、ぼくは、ある思いに至って慄然とした。

「人類は、空腹感を覚えることなく餓死する可能性を獲得した」

梅棹の謂を藉りると、外胚葉産業が内胚葉産業に突き刺さる時代、とでも言えようか。

梅棹は、情報産業を虚数のアナロジーとして論じた。それは、実業=中胚葉産業 vs 虚業=外胚葉産業といった2次元空間へのアナロジーだった。

ある時、学生たちとの議論の中で、内胚葉産業、中胚葉産業、外胚葉産業を、単に時代区分として捉えることについての議論が沸騰したことがある。その議論の延長で、いっそのことこれらの言葉を、内胚葉軸(農業=食物摂取)、中胚葉軸(工業=筋肉的労働)、外胚葉軸(情報産業=精神労働)という3次元の軸で捉えてはどうか、という話に落ち着いた。

この考え方の変化は、劇的だった。

例えば、今をときめく農業情報処理一つを取っても、みごとに梅棹の視野の中で論じることができる。農業に不可欠な天候の予測にしても、観天望気の時代から、気象衛星とスーパーコンピューターを用いた最先端の気象予測まで。

梅棹は、「情報産業論」を含む一本をまとめるに際して、『情報の文明学』という書名を与えた。情報産業を地球規模の文明論的な視座で捉える雄渾な構えを得るためには、情報産業という時代を魁た言葉で時代精神に切り込むための、悪戦苦闘があった。その痕跡を読み解くことができることを、ぼくは今、とても幸せなことだと思っている。

 

小林「情報産業論」(7)

「虚業」観念の居なおり

虚業であるがゆえに、それは実業にはない新鮮で独自の性格をもちえたのである。
このことは、数学における虚数の発見に似ている。(p50)

時代精神という言葉がある。ツァイトガイスト。なんだか、この言葉には、独特のニュアンスがある。だれもが、時代精神から完全に解き放たれた思考、生き様を全うすることは不可能なことだ。しかし、時代精神は変容する。そして、その変容を牽引し下支えするのも、また時代精神の中で生きている人たちなのだ。

梅棹の『情報産業論』で「虚業」もしくは「虚業」産業という言葉に出会うたびに、ぼくの脳裏には、時代精神という言葉がよぎる。梅棹が『情報産業論』を著したのは、まさに、実業を重んじ、まだ言葉としてさえも生まれていなかった情報産業を軽んじる時代精神のただなかにあってのことだった。この言葉に出くわすたびに、ぼくは、梅棹の時代精神に抗う姿が目に浮かぶ。梅棹は、重厚長大の時代にあって、軽薄短小の時代が到来することを、見越していた。

本論に入る前に触れたことだが、時代は新幹線を始めとする東京オリンピックに付随する重厚長大な建造ラッシュに沸いていた。池田勇人の所得倍増計画の只中。

その只中で、梅棹はあがいていた。悪あがきではない。確信をもって、力強く。しかし、時代精神の抵抗は大きい。梅棹の「虚業観念の居なおり」というやや揶揄的もしくは自嘲的な言葉の響きのかげに、ぼくには、当時の梅棹の苦闘と決意が透けて見える。

アルバート・ゴア・シニアがインターステートハイウェイを提唱したのが、1956年、ゴアジュニアがインターネットスーパーハイウェイを提唱して副大統領になるのが、1993年。この二つの年代を見比べただけでも、梅棹が日本だけではなく、地球規模で見回して見ても、いかに時代精神を突き抜けていたかがうかがえよう。

・虚数概念のアナロジーには違和感

梅棹の先進性に、全幅の尊敬の念を抱きながら、しかし、ぼくには、梅棹の虚数概念へのアナロジーへの違和感だけは、何度読んでも拭い去ることができない。

思いついてネットで虚業の訳を見たら、risky businessとある。やれやれ。

一方、虚数は、imaginary number。

う〜ん。

-1の平方根にimaginary numberという言葉を充てたのは、ルネ・デカルトだと言われている。デカルトの脳裏には、虚数なんてなんの役にも立たないもの、という先入主が宿っていたとも言われている。Imaginary numberに虚数という訳語を充てたのは、用語としては定着してもいるし、まあ良しとしよう。しかし、《虚》という漢字の連関だけから、虚数と虚業のアナロジーを展開するのは、どうにもいただけない。

デカルトは、虚数にimaginary numberという名称を充てるとともに、いわゆるデカルト座標系という以後の自然科学や工業の発展に欠くことのできない「役に立つ」概念への道をも拓いた。虚数は、実数軸上にプロットができないという点では、虚実の虚ではあるが、2次元空間の拡がりを措定した途端に、確かなリアリティを持って実体化する。虚数を捉える時代精神はデカルトの名付け以降大きく変貌することとなった。

先に、梅棹は、重厚長大の時代にあって、短小軽薄の時代を見据えていた、と書いた。それはそれとして、梅棹の虚業という言葉には、どこか軽佻浮薄といった自虐的なニュアンスが感じられる。しかし、それでも梅棹が用いた時代の虚業という言葉が指し示す職業の実態と、現在のrisky businessの訳語として用いられる虚業という言葉が指し示す職業の実態との間には、大きな隔たりがあるように思われる。今や、情報産業をして虚業だと揶揄する人はもういないだろう。情報産業は、日本のみならず地球規模での経済活動の多くの部分を支える実業へと成長した。デカルトの虚数が、実数軸という1次元の世界を飛び出し、デカルト座標系という2次元の世界に飛翔したとたんに確かな実体性を獲得したと同様、情報をビジネスの対象、すなわち、商品として捉えたとたん、それは、矢野さんの言葉を借りれば、サイバースペースの中で確かな実体性を獲得したのだ。

ここまで書き進んできて、改めて、梅棹の「虚業」という言葉遣いに対するぼくの違和感を思う。ぼくの違和感は、梅棹が生きた時代の時代精神に対する違和感ではなかったか。いまだ言葉すら存在しなかった情報産業を、軽薄短小、軽佻浮薄といった形容で捉える時代の精神、梅棹自身が抗い続けた当時の時代精神に対する違和感。

「虚業」という自虐的、揶揄的な言葉を遣いながら、そこに最も違和感を抱いていたのは、他ならぬ梅棹自身ではなかったか。

大きさや重さという外延量を持たない情報の、商品としての位置付けについて語り尽くすためには、「虚業」という言葉では、いかにも不十分だった。梅棹が揶揄的に「虚業」という言葉で示さざるを得なかった実態を語るためには、デカルト座標における虚数軸に相当するなんらかの視点もしくは基軸への想像力がどうしても必要だった。

情報産業論において、今まで地球上の誰もが想像しなかった新たな視点・基軸を提唱する地平にまで梅棹は到達していた。

 

小林「情報産業論」(6)

シャノンとウィーナー

最小の情報とはふたつの可能性のうちのひとつを指定することである。これがビットとよばれる情報の単位となる。(p46)

 過日、矢野さんに声をかけていただいて、林紘一郎さんともども、名和小太郎さんのお宅にお邪魔した。その帰路、地下鉄の牛込神楽坂の駅に向かいながら、林さんがこのサイバー灯台に書かれた原稿の話になった。

ちょっと長くなるが、そのまま引用する(号外「大川出版賞を受賞して」から)。

 振り返ってみると、私は情報理論の先駆者であるシャノンとウィーナーが開拓した産業分野で、55年間も仕事をしてきたことになります。両者とも1940年代末のコンピュータの黎明期に登場した理論家ですが、シャノンの方は、情報の処理・伝送・蓄積という全過程を0 1 のビット列で捉え、「情報量」もビットで測れることを示したことで、今日の情報科学の基礎を築きました。いわば情報から「意味」を捨象して、専ら「構文」として扱うことで、ICT(Information and Communications Technology)の飛躍的発展に貢献したと言えます。

 他方ウィーナーは、通信と制御は別々のものではなく両者合わせて「制御システム」であると理解し、心の働きから生命や社会までをダイナミックに、かつ統一的に捉えることが出来る概念として「サイバネティックス」を提唱したことで知られています。これは、シャノンが捨象した「意味」の方を、より重視した発想であるとも言えますが、当時のコンピュータでそのような高度な判断を実行することはできなかったので、忘れられた存在のように理解されているかもしれません。

 しかし、1948年の『CYBERNETICS: or control and communication in the animal and machine』の第2版の邦訳(1962年、岩波書店)が、文庫化されるに際して、初版の4名の共訳者のうち唯一存命中の戸田巌氏は、「ウィーナーの提唱したサイバネティックスは、通信と制御の観点から機械、生体、社会を統一して扱おうという学問分野である。この50年で、数学、工学の観点からのサイバネティックスの評価は確立したといってもよい。社会学的および生理学的にどう位置付けるかが問題である。」(文庫版あとがき)と述べています。

 そして、戸田氏の要請を受けて [解説] を書いた社会学者の大沢真幸氏が、「本書の書名そのものが新しい学問分野を創成し、自然科学分野のみならず、社会科学の分野にも多大な影響を与えた。現在でも、人工知能や認知科学、カオスや自己組織化といった非線形現象一般を解析する研究の方法論の基礎となっている」と評しているのは、私にとって励みになりました。

 私が通信ビジネスに長く携わっていたので、シャノンとウィーナーは大先輩でもあるから、という理由だけではありません。一旦「意味」を捨象して「構文」に特化したことから情報科学が飛躍的な発展を遂げたのはシャノンのおかげですが、AI まで含めた新しい「法主体」(ある研究会では Legal Being と呼んでいます)を考えるには、ウィーナーのように「意味」を再度取り込む必要があるからです。

引用してみて、しまったと思った。ぼくが、今回書こうと思っていたことが、過不足なく見事に書かれている。まあ、だからこそ、路上での会話にもなったのだろう。

この会話は、それぞれが乗る電車が逆方向だったために中断を余儀なくされたが、ぼくが林さんとお話ししたかった主眼は、まさに、この最後のパラグラフに関わることだった。

一旦「意味」を捨象して「構文」に特化した情報科学は、今こそ再度「意味」を取り込む必要がある、ということ。この必要性は、何も法学に限ったことではない。情報に関わる全ての分野において、そして情報に関わるすべての人が、真摯に考えなければならない問題なのだ。矢野さんがサイバーリテラシーを提唱する根幹の理由もここにある。

梅棹の情報産業論が、今でも、情報と社会の関係を考える上で古典中の古典であり続ける所以も、また、この点にこそある。

冒頭に引いたとおり、梅棹は、シャノンが規定したビットの概念を、正確に理解している。その上で、テレビ・ドラマを例に挙げて、その情報量が何ビットであるかという議論がまるで意味をなさないことを指摘している。林さんの言を俟つまでもなく、ビットの概念からは捨象された「意味」にこそ、価値の軽重が論じられなければならない。しかし、そのような「意味の価値」は、人により、時と場合により、さまざまに変化する。

「お代はみてのおかえり」(p48)

梅棹は、この言葉を情報産業のインチキ性を示すものとして、捉えていると読める。

しかし、ぼくには、ここでのこの言葉の含意は、ずっと広く深いもののように思われる。

梅棹と同世代の社会学者吉田民人に、『自己組織性の情報科学』(1990年、新曜社)というこれまた古典的名著がある。副題に「エヴォルーショニストのウィーナー的自然観」とあるのも、また因縁めいたものを感じるが、この中で、吉田は、情報を、flowとstock、factとevaluative、instructiveという都合6つのメトリックス(例によって吉田の本が手元に見当たらないので、名称はぼくの言い換えになっている)で分類している。

たしかに、梅棹が論じる情報の中には、一方で、競馬の勝馬予想や株のインサイダー情報のように、一度聞いてしまえば、対価を支払うのをためらってしまう情報や、「立ち読みお断り」のマンガや週刊誌のように、まさに立ち読みしてしまえば、用が足りてしまう情報もあれば、文学や哲学の古典、名作映画、音楽の名演奏など、滋味豊かで幾度となく再受容される情報もある。おっと、急いで補足しておくが、マンガや週刊誌の記事の中にも、後々まで古典として読み継がれていくものがあることも、忘れてはならない。

「お代は見てのおかえり」でなくとも、たとえその情報受容体験が一過性のものであっても、その体験に深い感銘が伴えば、その感銘を投げ銭のような形に変えて表すことも考えられる。「お代は見てのお帰り」という言葉には、その情報受容体験が、客すなわち情報受容者にとってインチキと思えるものではなく、充分以上に満足感を与えるものである、という情報提供者側の自負が込められているとともに、情報の価値がその受容者によってさまざまに変容しうるものであるという含意もある。

近来、オープンソースのソフトウェアの一部に、ドネイションウェアと呼ばれるものが散見されるようになっているが、このような情報受容者ごとによる情報価値の多様性を認めた上で、情報受容体験による満足感をドネイションという形で表す方策は、もっと考えられてもいいように思われる。

吉田民人の分類を援用した上で、「お代は見てのおかえり」的情報のあり方について、再考することも必要なのではないか。

小林「情報産業論」(5)

「情報」は「商品」たり得るか

一定の紙面を情報でみたして、一定の時間内に提供すれば、その紙が『売れる』ということを発見したときに、情報産業の一種としての新聞業が成立した。
一定の時間を情報でみたして提供すれば、その『時間』が売れるということを発見したときに、情報産業の一種としての放送業が成立した。(p.45)

さて、ここからいよいよ梅棹は、情報産業の中核に切り込んでいく。課題は、ずばり、情報の価値とは何か。

今では、当然すぎるほど当然のこととして、一般に受け止められていることだが、半世紀前の日本では、《情報》が商行為の対象である《商品》たりうるか否かが、問いかけるべき問題として成立した。

後述するが、アルビン・トフラーの『第三の波』の邦訳が出版されるのは、1980年。20年近く後のことだ。梅棹が情報産業論を発表した時点では、新聞業界も、出版業会も、放送業会も、ひっくるめてC・G・クラークの第3次産業(商業、運輸業、サービス業)の分類に押し込められていた。そして、それが当然のこととして受け止められていた。

商業を含め、物を右から左に動かすだけで、何も生み出すことなく口銭を掠めとる商売。額に汗して物を作り出す農業や工業にこそ、産業の本筋がある。このころでも、そのような士農工商的価値観の残滓がまだあったと考えるのはうがち過ぎだろうか。とはいえ、梅棹の論に見え隠れする実業としての農業や工業との対比での情報産業即ち虚業という言い回しにも、このような当時の社会の価値観が色濃く反映していたように思える。そして、マスコミ即ち虚業という価値観は、ぼくが編集者を過ごした1970年から1980年ごろにも、まだ残っていた。

そのような時代にあって、複製可能な記号の列、すなわち、情報がその媒体(紙や電波)とは独立に、商品として成立することを、声高らかに宣言することには、大きな勇気が必要だったのではなかったか。情報産業という言葉が、梅棹の造語であるならば、《情報》が《商品》たりうるか否か、という問題設定そのものも、梅棹が生み出したものと考えるべきだろう。問題を発見することの困難さと重要さ。そして、その問題を言挙げする勇気。

しかし、その問題に対する答えを見出すことも、また容易なことではなかった。むしろ、この梅棹が見つけ出した設問の答えが明確な形で与えられているとは、今に至っても考え難い。

例えば、昨今世上を騒がせているマンガの海賊版サイト(正確には、海賊版を公開しているサイトへのリンク情報を集めたサイト)へのブロッキング対策問題にしても、マンガ家が創作し、出版社が販売している《商品》は、一体何なのか、その対価はどのようにして決定されるべきものなのか、という梅棹の問いかけに対する解答が、いまだに誰もが納得する形では提示されていないことが、議論を錯綜させている理由の一つであるように思われる。

情報産業論における梅棹の議論は、この個所以降、《商品》としての《情報》の価値は、どのようにして定められるべきか、という問題の核心に向かって、鋭く鏨(たがね)を打ち込んでいくことになる。

小林「情報産業論」(4)

「シンボル」を巡って

 かれら情報業者がすべてシンボル操作の技術的熟練者であったということは当然のことであった。(p.42)

「情報業における技術の発展」の節で、梅棹は、「情報技術者はシンボル操作の熟練者である」と断言している。

しかし。

何度読んでも、ぼくには梅棹の「シンボル」という言葉の使い方への、いわくいいがたい違和感がぬぐいきれない。どうして梅棹は、ここで「シンボル」という言葉を用いたのだろう。「コード」ではいけなかったのだろうか。「サイン」や「マーク」ではいけなかったのだろうか。

ちょっとググってみても、symbolという言葉の訳語には、主に「象徴」「記号」という2つの言葉が当てられているようだ。一方、「記号」という日本語に対応する英語としては、code、sign、mark、symbolなどがある。

洋の東西を問わず、どのような言葉も、その言葉が使われた時代と地域の文脈(コノテーション)に制約される。おそらく、時代や地域、習得してきた背景知識の違いが、梅棹とぼくのsymbolと象徴の理解の違いを生んだのだろう。

とはいえ、『情報産業論』を読み進む上で、梅棹とぼくとの間に立ちはだかる言葉の壁は、何としても乗り越えておきたい。

ぼくにとって、象徴という言葉は、まず「日本国統合の象徴としての天皇」という日本国憲法の文脈で入ってきたように思う。この点では、梅棹が『情報産業論』を書いた1962年ごろも、「象徴天皇」という言葉は、新憲法の根幹をなす言葉として、社会に受け入れられていたであろうことは、疑いを得ない。だとすれば、梅棹にとっては、シンボルという言葉と象徴という言葉の結びつきは、それほど強固なものではなかったのかもしれない。

一方、1970年代に学生時代を過ごしたぼくにとって、象徴という言葉とsymbolという言葉の結びつきは、抜き差ししがたいほど強固なものだった。

エルンスト・カッシーラの『象徴形式の哲学』(Philosophie der symbolischen Formen)やカール・グスタフ・ユングの『人間と象徴』(Man and His Symbols)など、象徴という言葉には、これらの書物のタイトルと強く結びついていて、ある種の哲学的、分析心理学的匂いのようなものが、染み込んでいた。もう一つ、磔にされたキリスト・イエスの象徴としての十字架を付け加えてもよい。とはいえ、これは、ユングの文脈の範疇にあるかしらね。

ぼくの、梅棹が使うシンボルという言葉への違和感は、おそらくは、このあたりにあるのではないか。

 ・「シンボル」を「記号」と読み替えてみる

梅棹においては、シンボルというカタカナ語は、単純に記号に対応する英語としてのsymbolだったのではなかったか。だとすれば、ぼくにとっては、シンボルという言葉よりも、記号という日本語だったり、codeという英語だったりの方が、ずっとしっくりする。

もうひとつ、ぼくの言葉遣いを制約しているものに、符号化文字集合がある。この言葉は、coded character setの訳語なのだが、符号化する対象は、自然言語の記述に用いられる文字(character)だけではなく、まさに、symbolやicon、pictogram なども含まれる。ぼくのなかに、情報として操作される対象は、symbolだけではありませんよ、という無意識の思いが働いているのかもしれない。

梅棹とぼくの、シンボルという言葉の受け止め方の違いを、このように整理した上で、当面、梅棹のシンボルということばを、記号(code)と置き換えた上で、読み進めていきたい。

「情報とは、すべて記号によって伝達されるべきものである」

うん、すっきりした。

シャノンの情報理解は、ソシュールの言葉を借りると、指し示されるもの(signifié)を棚上げして指し示すもの(signifiant)の伝達の正確さのみに注目したものと捉えることができる。

もちろん、梅棹は、シャノンとは異なり、記号や記号の一種としての言葉の背後にある指し示されるものをも視野に含めた上で、操作という言葉を用いている。

梅棹が、張儀(本文中では、「諸子百家時代におけるひとりの青年情報業者」として言及されている)について語るとき、張儀の舌(メディア)は、張儀の人生・生命を担うものとして、意識されていたに相違ない。

・物理空間と情報空間の接面

いささか話が飛躍する。

ニュートンは、その『自然哲学の数学的原理』(Philosophiae naturalis principia mathematica)を幾何学的思考によって著した。しかし、ニュートン力学が花開くのは、この著作が海を越えてフランスに伝わり、ハミルトンやラグランジェによって、代数学的に定式化され、形式的記号操作が容易に行えるようになった後のことだった。そして、このような記号操作と数値計算をコンピューターが行えるようになり、ついには人類を月に送り込むことが可能となった。

1969年人類は、初めて月面に足跡を残す。梅棹が『情報産業論』を発表した1963年は、アメリカが、その威信をかけてスプートニク計画を追撃し始めたころだった。

我々が生命活動としての生を営む物理世界の法則が、ある数学的定式化を得ることにより、機械的操作が可能となり、膨大な計算量をこなすことが可能となる。その結果が、物理世界に、新たな可能性の地平を拓く。梅棹が『情報産業論』を著し、ぼくが少年時代を過ごした1960年代は、そのような関係が楽天的に捉えられていた時代だった。

そんな時代にあって、梅棹は、情報科学の未来にも、そして、情報科学がもたらす物理世界の未来にも、大きな夢と期待、そして、混乱と暗い未来への一抹の不安を抱いていたに相違ない。

ぼくのこの原稿が掲載されるサイトは、矢野直明さんが主宰するするサイバーリテラシー研究所のホームページ(サイバー燈台)だ。矢野さんは、以前からリアルワールドとサイバーワールドの接する、もしくは、接しない接面についての議論の重要性を説き続けている。

この問題意識は、梅棹の問題意識とみごとに符合する。

すなわち、記号的描写と機械的な記号操作による物理世界の豊潤化への期待と、物理世界との接面を見失った記号的世界への一抹の不安。

しかし、梅棹の不安は、千年紀の境を越えた今、多くの人々の共通の不安となっている。

ボードリアールがシュミラークルの議論で提起した問題やチューリングやサールが提起した人工知能の問題から、SNSが引き起こす物理世界から乖離した人と人とのかかわり方や、仮想通貨の問題に至るまで、物理空間と情報空間の接面に横たわる問題は、枚挙にいとまがない。

梅棹が情報技術者をシンボル操作の熟練者と言った時、梅棹の脳裏には、シンボルによって指し示される拡がりと深みをもった豊かな物理世界が存在していた。ぼくは、いま、こう確信している。

小林「情報産業論」(3)

「情報産業」は、梅棹の造語 

   なんらかの情報を組織的に提供する産業を情報産業とよぶことにすれば……(p.39)

『情報産業論』の劈頭から、梅棹は「情報産業」という言葉を使っている。

じつは、この言葉、梅棹自身の造語であるらしい。

この事実を知らずに、この回の初稿を矢野さんに送った際、「情報産業という言葉の初出、朝日新聞とかのデータベースで調べられないでしょうか」などというマヌケな質問をしたら、以下のようなメールが返ってきた。

「情報産業という言葉をはじめて使ったのは梅棹忠夫だと言って間違いないでしょうね。本人が「情報産業論再説」(p.120)で「情報産業ということばは、じつはわたしの造語であります」とはっきり書いているし、同書所収の中野好夫、白根禮吉氏らの発表当時の論評記事を見ても、そういう前提で書いているように見受けられます。ご両人の所説は今回の原稿には大いに参考になりますよ。」

自らの不明を恥じた。

さらに、梅棹と「情報産業」という言葉との係わりを手繰っていくと、梅棹が情報産業という言葉を用いたのは、この『情報産業論』が、初めてではない。『情報産業論』を発表した『放送朝日』の1961年10月号のために書かれた、「放送人の誕生と成長」(原題は、「放送人、偉大なるアマチュア−−この新しい職業集団の人間学的考察」にも、下記のような記述がある。

「じつは、ある一定時間をさまざまな文化的情報でみたすことによって、その時間を売ることができる、ということを発見したときに、情報産業の一種としての商業放送が成立したのである。(p.24)」

梅棹自身が書いた文庫版『情報の文明学』のこの論文の解説に、以下のような記述がある。

「『情報産業』ということばも、本項(『放送人の誕生と成長」のこと)ではじめてあらわれている。この情報産業という語は、わたしの造語である。おそらくは、この語が印刷物にあらわれたのは、このときが最初であろう。(p.17)」

梅棹が「情報産業」という言葉を造った背景には、『放送朝日』という質の高い広報誌と、そのころ勃興めざましかった民間テレビ放送局の存在があった。

ちなみに、インターネットで、「情報産業とは」と検索すると、コトバンクに、いくつもの辞書の該当個所が列挙される。

「情報の収集・加工処理・検索・提供などを業務とする産業の総称。広義には出版・新聞・放送・広告を含むが、一般的にはコンピューター関連産業をいう」(デジタル大辞泉)

「各種の資料・情報を収集整理し,より高次の加工情報として販売する産業分野。株式・商品市況,産業情報,統計,技術文献などの提供,各種コンサルタント業務,ソフトウェアの製作提供などが含まれる」(マイペディア)

「情報の生成・収集・加工・提供およびコンピューター情報システムの開発などを行う産業の総称。広くは新聞・出版・放送・広告などのサービス産業をも含める」(大辞林第3版)

どれを見ても、冒頭の梅棹の定義が源流にあることは、疑い得ない。

ついでに、手元にある「広辞苑」の初版(昭和30年5月25日発行。手元の版は、昭和39年1月15日発行の第22刷)には、「情報産業」ということばの記載はない。「情報」の語義も「事情のしらせ」としか記載されていない。梅棹が「情報産業論」を書いた時代は、「情報」という言葉自体が新たな衣をまとい始めた時代だった。前回も触れたように、先の大戦後、欧米で芽吹いたコンピューター技術、通信技術を中核とする新たな「情報」概念が、いかにも新鮮に響いていたことは想像に難くない。

このような背景を前提として、情報産業という言葉を、梅棹のように規定すれば、放送産業を初めとするいわゆるマスコミは、すべて情報産業に属するとするという梅棹の主張は、ごく自然なものと思われる。

・競馬の予想屋も歌比丘尼も

しかし、梅棹の真骨頂はこの先の目を奪われるような跳躍にこそある。

しかし、情報ということばを、もっともひろく解釈して、人間と人間とのあいだで伝達されるいっさいの記号の系列を意味するものとすれば、そのような情報のさまざまの形態のものを『売る』商売は、新聞、ラジオ、テレビなどという代表的マスコミのほかに、いくらでも存在するのである。出版業はいうまでもなく、興信所から旅行案内業、競馬や競輪の予想屋にいたるまで、おびただしい職種が、商品としての情報をあつかっているのである。 (p.40)

それにしても。ここに例示されている情報業の具体例のなんとしなやかなことか。今になってみれば、そして、梅棹が見定めた情報産業のその後を耳目にしてきた身にすれば、興信所や旅行案内業ぐらいまでは、まあ、理解が出来る。梅棹の真骨頂は、ここの競馬や競輪の予想屋を措いたところにこそ、ある。情報が「人間と人間との間で伝達されるいっさいの記号の系列」であるならば、競馬や競輪の予想も、みごとにこの範疇におさまる。言われてみれば、納得せざるをえない自明なことを、ぼくも含めて凡庸な人間は気付かない。梅棹は、このような普段は気付くことのない、じつは自明なことがらに目をとめ、そこから自らもそして読者をも限りなく豊かな連想の世界に飛翔させる天賦の才を持っていたように思われる。

梅棹以前に、もしかしたら、情報産業ということばを使った人はいたかもしれない。しかし、梅棹以外のだれが競馬や競輪の予想屋が情報産業の一翼を担う、などと言い得ただろう。梅棹は、競馬や競輪の予想屋を情報産業人の一翼に加えることにより、その後の日本の情報産業の発展への自由で伸びやかな想像力の翼をも大きく拡げたのだった。

梅棹の想像の翼は、同時代の拡がりに留まらない。

こうかんがえるならば、このような情報を売る商売は、現代の巨大な情報産業の発達するはるか以前に、原始的な、あるいは非能率的な仕かたにおいてではあるが、いくつもの先駆形態がありえたのであった。たとえば、楽器をかなで、歌をうたいながら村むらを遍歴した中世の歌比丘尼や吟遊詩人たちも、そのような情報業の原始型であったとみることもでき……(p.40)

梅棹の手にかかると、中世の歌比丘尼までが情報業者の範疇に引き入れられてしまう。この個所を読むたびに、ぼくの頭のなかには、さまざまな連想の輪が次々と拡がって、始末に負えなくなる。連想の先に漂う羽毛の一枚。

50歳をいくつか越えたころから、歌舞伎を観るようになった。観るようになってみて、今さらながら納得したのは、歌舞伎が江戸時代にあっては、いわば、テレビの昼のワイドショーのような役割を担っていたのではないか、ということ。

今のようなメディアがあるわけでもなく、幕府による情報統制も強かった時代にあって、忠臣蔵を筆頭に、歌舞伎は大きな事件の情報を民衆に伝える役割を担っていた。

歌比丘尼や琵琶法師、西欧ではトロバトーレやミンネジンガーなどの吟遊詩人は、諸国を漫遊しながら、立ち寄った土地土地で得た情報を他の地域に伝えるメディアとしての役割を担っていた。

メディア論の論客、水越伸さんから聞いた、興味深い話を思い出した。

韓国が民政化する以前のこと。確か、光州事件の前後。韓国は民主化運動で大きく揺れ動いていた。情報統制が厳しく、韓国南部のニュースは北部に位置するソウルにはなかなか伝わってこない。そうした中で、多くの南部出身のタクシードライバーが夜を徹して故郷と首都を往来し、南部の状況をソウルに伝えたという。まさに、タクシードライバーがメディアとして情報を担ったのだ。

梅棹の歌比丘尼への言及は、読者に、このような連想の輪を拡げる強い力を持っている。

・教育も宗教も俎上に

競馬や競輪の予想屋、そして、歌比丘尼を情報業者だと断じた上で、息つく間もなく、梅棹は教育と宗教をも俎上に載せる。梅棹自身が書いているが「聖職者」たちを賭博の予想屋や歌比丘尼(ある種の売春行為も行っていた)と同列に扱うのだから傍若無人としか言いようがない。しかし、梅棹の抜かりがないのは、すかさずそこに、媒介項として占星術者や陰陽師を挿入するところだろう。

ところで。この節の議論に意義を差し挟む気持ちは微塵もないのだが、1つだけ、小さな違和感を指摘しておきたい。

宗教教団とは、神を情報源とするところの、情報伝達者の組織である。(p.41)

この「神を情報源とするところの」というところ。これでは、神の存在が前提とされている(すなわち、有神論)とも読める。情報産業としての宗教にとって重要なことは、神の存在の正否ではなく、神を「情報源」として措定する「組織」という意図で書かれたものであろう。

閑話休題。連想の羽毛をもう一枚。

ぼくは、学生時代、荒井献の謦咳に接し、新約学の片鱗に触れることが出来た。その後も、断続的に聖書学関連の書物に目を通してきた。その程度の素人の域を出ない半可通の知識だが。

マルコ、マタイ、ルカの3福音書は、共観福音書と呼ばれ、互いに共通する個所が多く存在する。永年の研究の成果として、マタイもルカも、主として、マルコともう一つ失われた福音書(Q資料と呼ばれる)、さらに、口承で伝えられてきたイエス伝承を、それぞれが想定する読者層に合わせて再構成して纏めた、ということが分かっている。

福音史家(エヴァンゲリスト)たちは、まさに、とびきりの情報業者だったと言えよう。その後の聖書を巡る神学的な文書群のみならず、仏典や、イスラム教の文書群、ユダヤ教の文書群、その他、もろもろの宗教文書が、まさに、神を「情報源」として措定する「情報を組織的に提供する」営みを続けてきた。そして、「聖職者」は、日々信徒たちを前に、このような情報の連鎖に新しい輪を付け加えている。

じつは、ここまで書いたところで、ちょっと時間が空いてしまった。何か書き足りないことがあるような気がして仕方がない。しかし、その何かがなかなか形とならない。しばらく立って、オレオレ詐欺のことが、しばしば頭に浮かぶようになった。「情報産業論」とオレオレ詐欺?

もう一度、冒頭に書いた梅棹の情報の解釈を反芻してみよう。

しかし、情報ということばを、もっともひろく解釈して、人間と人間とのあいだで伝達されるいっさいの記号の系列を意味するものとすれば、……(p.40)

「情報産業とは何らかの情報を組織的に提供する産業である」何のことはない。梅棹の定義をもってすれば、そして、賭博の予想屋や歌比丘尼をも情報業者の一翼に加えたならば、オレオレ詐欺集団を情報業者の範疇に加えないのは、むしろ不自然なことと思われる。

・情報産業と情報犯罪の狭間

オレオレ詐欺集団も情報業者である、と肚を括れば、インサイダー取引や虚偽に情報を意図的に流すいわゆるフェイクニュースの発信者までをも情報業者の範疇に含めることが出来る。

このような視点で、ちょっと周りを見回すと、今の時代、悪意の情報業者の何と多いことか。梅棹が予見した情報産業の今は、同時に、情報犯罪の今でもある。

梅棹が、「情報産業論」を書いたとき、賭博の予想屋や歌比丘尼のことを頭に思い描いたとき、情報犯罪が脳裏に浮かんだか浮かばなかったか、今では知る術もない。しかし、この1962年の梅棹の文脈の中に、情報犯罪の議論を投げ込んでも、彼の論旨は微動だにしない。

サイバーリテラシーを提唱する矢野直明さんが、梅棹の「情報産業論」を称揚してやまない所以でもあろう。

小林「情報産業論」(2)

「情報産業論」とその時代(2)

情報量というものは適当な定義をあたえれば、量的に処理することができないわけではない。じっさい、サイバネティックスあるいはいわゆる情報理論(Information theory)においては、それをおこなっている。その場合、情報とは、いくつかある可能性のなかのひとつを指定することである。すると、最小の情報とは、ふたつの可能性のうちのひとつを指定することである。これがビットとよばれる情報の単位となる。(p.46)

『情報産業論』において、梅棹は情報という言葉の意味を驚くほど広く捉えている。その上で、さまざまな社会的情報事象を縦横無尽に展開する。ぼくが考えておきたいことも、まさにその部分にあって、梅棹が論じた情報事象が現在の社会的情報事象とどう係わるのか、または、当時の時代精神をどう映し出しているのか、といったことが中心になると思う。

しかし、梅棹の議論は、凡俗な人文科学系研究者の浅薄な自然科学議論とは、比較にならないほど正鵠を射た情報概念の上に成り立っている。
※ぼくは、ここでソーカルらがサイエンス・ウォーズで仕掛けた議論を念頭に置いている。

『情報産業論』の世界に沈潜していく前に、梅棹がこの論文を書いた時期が、コンピューターや情報科学の歴史のなかで、どのような位置にあったかを、一瞥しておこう。

冒頭に引用した個所に出てくるノーバート・ウィナーの『サイバネティックス』の第1版が出版されたのが、1948年。邦訳の出版が1957年。(池原止戈夫, 彌永昌吉, 室賀三郎訳『サイバネティックス: 動物と機械における制御と通信』岩波書店 (1957))

梅棹は、おそらく、この池原、彌永訳を通して、サイバネティクスの概念を知ったことだろう。今では、ウィナーが提唱したフィードバックの概念は、ロボット工学を初めとしてありとあらゆる産業分野で欠くことの出来ないものとなっている。当時、目を洗われるような新鮮な概念として識者に受け入れられたサイバネティクスの議論は、今では、われわれの生活全般の中に、具体的な製品や環境として広まっている。サイバネティクスという概念は、時代の推移とともに社会全体を支える基本的な考え方のなかに溶解し、今ではことさら取り上げられることは稀である。しかし、ウィナーのサイバネティクスという概念は時代のあだ花などでは決してなかった。梅棹も、おそらくは、ウィナーがサイバネティクスという言葉で表そうとしたさまざまな事象を、ウィナーと同じ視点で見ていたに相違ない。

ぼく自身が、ぼく自身の情報概念を形成してきた上で、もう一つ、欠くことのできない書物がある。吉田民人の『自己組織性の情報科学』(1990年、新曜社刊)。この本は、発行された年に発表された短い論文「情報・情報処理・自己組織性」と1967年に発表された長い論文「情報科学の構想」とから成っているが、後者には、「エヴォルーショニストのウィナー的自然観」という副題が付されている。この論文も、決して色あせることのない名論文には相違ない。だからこそ、20年以上も経って、一本の書物として発行されることになったのだが、ぼくには、二人の大碩学がウィナーの影を色濃く背負っていることが単なる偶然とは思えない。

・舌を巻くビット概念の理解

先に引用した梅棹のビット概念の理解にも、また、舌を巻かざるを得ない。
手元にある『情報学事典』(2002年、朝倉書房)に西垣通が書いたまさに「情報」の項を見てみよう。

「情報量とは選択肢となるパターン間の差異の数から確率論的に計算されるものであり、2個の確率的に同等のパターンの中から1個を選ぶとき、その不確実性の減少の度合いが1ビットである」(西垣通、『情報学事典』(朝倉書店、2002年、p.437) 

クロード・シャノン(実際には、ワレン・ウィーバーとの共著)が『通信の数学的理論』で、ビット概念を規定したのが、1946年。同じ年には、(多少の異論はあるものの)世界初のコンピューターENIACが稼働している。

一方、シャノンと共に現代の情報科学の礎となったチューリングの「計算可能数とその決定問題への応用」が書かれたのは、つとに1936年。しかし、その後のチューリングは、ナチス・ドイツの難攻不落の暗号機械「エニグマ」の解読チームに組み込まれ、国家秘密への関与故に歴史の表舞台から姿を消し、戦後は不幸にして同性愛に係わるスキャンダルの故か、非業の死を遂げる。チューリングの名誉が公的に回復されるのは、2012年になってからのこと。

『情報産業論』が書かれた1960年代になると――

1960年、DECが世界初のミニコンピュータPDP-1を発売。名機PDP-11を経由して、Sun Microsystemsなどのワークステーションに繋がっていく。
1964年には、IBMが後の各社のメインフレームの原型となるSystem/360を発売。商用分野でのコンピューター利用が本格化する。
時代が下り、Apple Ⅱの発売が1977年。IBM-PC(いわゆるATマシーン)の発売が、1981年、NECのPC8001は、1979年。
1990年代に入り、インターネットが爆発的な普及を開始する。そして、スマートフォンとSNSが跋扈する21世紀の今。

情報をめぐるさまざまな技術は、まだようやく発展の緒についたばかりである。とくに、自動計算機械の開発などの情報処理の技術においては、公平にみて、まだ幼稚きわまる段階にある。それらの技術的手段の発展とともに、情報産業は、これからなお、おどろくべき発展をとげるにちがいない。情報産業は、いわばようやく「産業化」の軌道にのりつつあるところなのである。(p.43)

梅棹は、情報処理の技術においても、その時代の発展段階を、正確に把握していた。

まさに、文明史的な時代認識の膂力をもって、梅棹は、それまで世界中の誰もが考え得なかった〈情報産業〉というカテゴリーを世に問うことになる。

次回から、さっそく『情報産業論』を読み進めていこう。

小林「情報産業論」(1)

「情報産業論」とその時代(1)

10年近くにわたり、毎年、梅棹忠夫の「情報産業論」を読んでいる。ここ数年は、毎年、2度ずつ、非常勤で出講している大学で、学生たちと。何度読んでも、何かしら新しい発見がある。学生たちに教えられることも少なくない。「情報産業論」を読むことを通して、ぼくが得たことどもについて、書き綴っていきたい。「情報産業論」そのものについてはもちろんだが、梅棹忠夫が、「情報産業論」を書いた時代についても、また、ぼくが「情報産業論」に出会った経緯についても、触れることになるだろう。

「情報産業論」は、まごうことなく情報と社会との関わりを論ずるときに欠かすことのできない、古典中の古典だ。しかし、どのような古典も、いや古典となって受け継がれる文章だけではなく、あらゆる文書が、ある時代精神のもとで書かれ、書かれた時代と同じと否とにかかわらず、ある時代精神のもとで読まれる。そして、時代を超えて読み継がれてきた文書のみが、古典となる。

ぼくは、「情報産業論」がどのような時代に書かれ、ぼくが「情報産業論」を読んでいる時代がどのような時代なのか、ということについてもどうしても書いておきたい。「情報産業論」を読み継いでいくであろう、次の世代のささやかなよすがとなることを願って。

・それはどんな時代だったか

「情報産業論」を論ずるためには、自ずから「情報産業論」そのものの引用が不可欠となる。引用には、手元の中公文庫『情報の文明学』(1999年4月18日発行、2010年7月15日第7刷)を用いる。最初の引用は、梅棹本人による解説。

一九六二(昭和三七)年晩秋、わたしはこの「情報産業論」という論文を執筆した。これは『放送朝日』の翌年の一月号に掲載された。『放送朝日』のこの号には、関連する問題をめぐって、大宅壮一氏ほかの諸氏との座談会が掲載されている。
その直後、中央公論社から転載のもうしでがあり、わずかに手をいれたものが、そのまま『中央公論』の三月号に掲載された。ここには、『中央公論』掲載のものを採録した。一九八九(平成元)年になって、この論文は『中央公論』六月号の巻末付録「『中央公論』で昭和を読む凹」に再録された。それには関沢英彦氏による解説が付されている。(p.38)

ときに、梅棹42歳。助教授として大阪市立大学で教鞭をとるとともに論壇でも刮目される気鋭の研究者だった。

このころ、1951年産まれのぼくは、まだ、小学生。「情報産業論」を知るのは、ずっと、後になってのこと。しかし、ぼくも、梅棹と同じ時代の空気を吸い、肌に感じていた。

だれもが、記憶している時代の記憶がある。例えば、三島由紀夫の自害、浅間山荘事件、サリン事件など。そして、その記憶の多くは、映像とともに、その情報を自分が得た場所の記憶と深く結びついている。

このころの、ぼくの記憶といえば、何と言っても、1964年の東京オリンピック。そして、少し遡るが平成天皇明仁の皇太子としての婚姻。

ちょっと、年表風に書き出してみよう。

1956年:大阪朝日放送開始
1958年:『女性自身』創刊
1958年〜1959年:ミッチーブーム
1960年:時の内閣総理大臣池田勇人、所得倍増論を発表
1960年:カラーテレビ本放送開始
1963年:『女性セブン』創刊
1963年:通信衛星によるJFK暗殺画像の送信
1964年:東海道新幹線開通
1964年:東京オリンピック

今の平成天皇明仁が皇太子として、正田美智子嬢と結婚したのが1959年、その前年には、光文社から『女性自身』が創刊され、ミッチーブームを牽引し、週刊誌ジャーナリズムの時代を画した。長く対抗誌となる小学館の『女性セブン』創刊が1963年。

「情報産業論」初出誌の栄誉を担った『放送朝日』誌を発行していた大阪朝日放送がテレビ放送を開始したのが、1956年。1960年には、カラー放送を開始している。

そして、1964年の東京オリンピック。ぼくは、中学生となり、ブラスバンド部の活動に夢中になっていた。皇太子成婚の際に、団伊玖磨によって作曲された祝典行進曲や、古関裕而作曲のオリンピックマーチなどの小太鼓パートは、体に染み込んでいた。自宅の洋間に鎮座していたカラーテレビでオリンピックの入場行進を見ながら、体が自然にリズムを刻んでいた。そんな時代だった。

しかし、メディアの歴史という意味で、何よりもこの時代を象徴するのは、 東京オリンピックでの衛星中継の下準備として行われたアメリカからの送信テストの際に送られてきた、ダラスにおけるJFK暗殺その瞬間の映像ではなかったか。幾度となく繰り返し放映されたJFK暗殺の瞬間の映像は、脳裏に焼き付いている。

1960年に時の首相池田勇人が発表した所得倍増計画。東京オリンピック直前に開通した東海道新幹線。

ぼくが、大学に入学した1970年の万国博覧会は、所得倍増計画の掉尾を飾った。そして、1950年の朝鮮戦争に始まる日本の敗戦後の復興と経済成長は、1990年のバルブの崩壊まで続くことになる。

梅棹忠夫が「情報産業論」を書いたのは、そんな時代のまっただなかだった。