<補遺・「忘れられる権利」とEU判決>2014/7/24
この事件は、2014年1月15日、東京高裁で一審判決が取り消され、Aさんは逆転敗訴となりました。日本経済新聞(1.16)の報道によれば、高裁判決は「Aさんの不利益がサジェスト表示を削除することで検索サービス利用者が受ける不利益を上回るとは言えない」と判断、「表示はウエブページの抜粋にとどまり、それ自体で名誉を棄損したり、プライバシーを侵害したりしているとは言えない」と結論づけたようですが、事件の本質を突いたものとはとても言えないことは、授業を聞いてくれた方にはよくわかると思います。
ところで、ルクセンブルクにある欧州連合(EU)司法裁判所は2014年5月13日、自分の過去の報道(新聞記事)内容に関するリンクをグーグルの検索結果から削除するよう求めたスペイン人(男性)の訴えを認める判決をしました。
判決は、EUの個人情報保護指令で定められた「忘れられる権利(Rights to be forgotten)」を認めたものです。この「忘れられる権利」は、個人が自分に関するオンライン上の「不適切、不十分、すでに関連性がない、あるいは過度な(inaccurate, inadequate, irrelevant or excessive)」情報の削除を要求できる権利」のことで、その基本的考えは、EUが1995年に採択した個人データ取り扱いに関する「データ保護指令」に含まれていますが、EUの執行機関である欧州委員会が2012年1月下旬、rights to be forgottenとして明文化する法案をまとめています。
この法案については「サイバー閑話」の<「忘れられる権利」と「消費者プライバシー権利章典」>で触れましたが、抜本改革の内容は以下のようなものです。
①ユーザーがもはや不要と思う個人データ(名前、写真、メールアドレス、クレジットカード番号など)は、事業者に対して削除要請できる。
②正当な理由がない限り、事業者は削除要請に応じなくてはいけない。
③個人情報漏洩が発覚した場合、事業者はすみやかに当事者や当局に届けなくてはいけない。
④深刻な違反に対しては、事業者に最大100万ユーロ(約1億円)か、売り上げの2%の罰金を科す。
法案は欧州議会と27加盟国の承認を得たあと、2年後に実施されることになっていますが、今回のEU司法裁判所判決は、「忘れられる権利」を明確に認定して、「自分の過去の報道内容に関するリンクを検索結果から削除する」ようにとグーグルに命じました。
グーグルはこの判決に遺憾の意を表明しましたが、これはEU最高裁の判決で、上訴はできないために、欧州の利用者を対象に検索結果に含まれる自分の情報に対する削除要請を受け付けるサイトを設けました。さらに同社幹部や外部の専門家で構成する委員会を設けて対応の検討を始めています。自分の情報を削除してほしいとの要請は2014年7月までに7万件を超えたと言います。グーグルがいつから、どのような基準で削除するかは明らかになっていません。
この判決に関しては、ジョナサン・ジットレイン(The Future of the Internet、邦題『インターネットが死ぬ日』の著者)がさっそく、ニューヨークタイムズに「グーグルに『忘れる』ことを強制するな、Don’t Force Google to ‘Forget’」と批判する論考を書きました。
第一の論点は、グーグルに対して記事のリンクを外すように命じることは、アメリカでは明らかな憲法違反である「検閲」をグーグルにさせるものである、第二はいくらグーグルの記事へのリンクを外したところで、ウエブ上の情報そのものは消えるわけではなく、原告の名前や情報は決して「忘れられる」わけではない(対応としては不十分である)、ということです(新聞社こそが当該記事を削除すべきだとの別の論評もありました)。
オンライン上の不適切な記事にどう対処していくかは、法的というより社会的な大問題であり、グーグルなどの検索サイトの努力も含めて、周知を集めて考えていかなくてはいけないと論じています。ジットレインの主張は『IT社会事件簿』でのコメントと一致するものです。
しかしこの難問に果敢に切り込んだEU司法裁判所の姿勢は評価されるべきだと私は思います(プライバシーの権利に関する欧米の考え方の違いを反映しているとも言えるでしょう)。この種のグーグルを相手にした訴訟は他にも多数あると言われており(一説によれば200も)、日本のケースもここに含まれるでしょう。
EUの場合は、記事の出典がマスメディア(新聞記事)であるのに対し、日本のケースは、不特定多数の、多くは匿名の記事だという違いがあります。しかしEU司法裁判所の判決が具体的にグーグルを動かしたのに対して、日本の場合は、ほとんど小さく報じられたばかりで、大きな社会的問題に発展していないという彼我の差についても大いに考えさせられます。