林「情報法」(5)

「知的財産」を経済学で考える

 第3回と第4回で述べたことに若干の補足を加味し、主として経済学の用語で説明し直すと、次のようになります。

 情報財は、① 排他性(他人の利用を排除することができる)も、② 競合性(私が使っていれば他の人は使えない)も欠いており、むしろ「公共財」に近い。加えて、③「占有」状態も不確かで、その移転(内容が受け手に移転され、渡し手には残らない)も起きず、④ 財貨としての取引は「引き渡し」ではなく「複製」という行為を通じてなされ、⑤ デジタル化されていれば複製は簡単で、費用はゼロに近く、また品質も劣化せず、⑥ 一旦(意に反して)流出したら、これを取り戻すことはできない(流通の不可逆性)し、⑦ どこに複製物があるかも分からないので削除も効果がない。そのため、所有権に近い排他性を付与することは難しいばかりか、有効性も疑わしいのです。

・知的財産権と知的所有権

 このように情報という財貨には、旧来の所有権をそのまま適用することができないこともあって、先進諸国では19世紀の末頃から「知的財産権」という、新しい法制度が導入されました。この制度の本質は、経済的価値を持つ「情報」に、所有権に類似した権利(=排他性)を付与して、円滑な経済取引を促進することにありました(それが回りまわって、創作者や発明家を経済的に潤すことにもなります)。既に確立していた「所有権」になぞらえることで、その試みは成功した感があります。

 世間では知的財産権のほかに知的所有権という表現もあり、どちらを使うかは人さまざまです。しかし意外に知られていませんが、立法者(特に、わが国の立法者)は、所有権アナロジーは「擬制」に過ぎず、両者の間には明確な差があることを、忘れていなかったと思われます。というのも、所有権の前提になる状態は「占有」ですが、知的財産制度には「占有」の用語は一切出てこないからです。例えば著作権法は、「占有」概念を避け、「権利の専有」の語を用いています(著作権法21条「著作者は、その著作物を複製する権利を専有する」など)。

 恥をさらせば、私は最初にこの条文を読んだとき、意味を正しく理解するまでに時間がかかりました。「権利を専有する」って、一体どういうこと? 「専有する」権利は自分で実行することしか許されないの? 著作者が自分で複製するケースは希だから、「複製を許諾する権利を専有する」なら分かるのだけれど、などなど。

 しかし、ここで用語法に深入りすると、読者の皆様を混乱させることが懸念されますので、別途まとめて議論します。ここでは代わりに、1点だけ強調しておきましょう。それは、立法者の慎重な配慮にもかかわらず、所有権の「擬制」が実際には「限りなく所有権に近い」解釈を呼んでいること(これが第3回で、所有権を妖怪になぞらえた所以)です。

 著作権をはじめとした知的財産権は(所有権と同じ)物権の一種とされ、物権と債権を峻別するわが国(あるいは大陸法系)の法制にあっては、物権には対世的(世間一般に対する)排他性があり、それが制限されるのは例外だという大原則を貫かざるを得ません。それゆえ英米法的なフェア・ユースの規定を設けて、裁判所の判断に委ねるという方式を取らず、「著作権の制限」(同法2章3節5款)という分かりにくい表現をしています。その実態は、公共財的性格を有する情報財に排他権を設定する以上、権利者と利用者との間の利益のバランスを取ろうとする点(比較衡量)にあるのですが、その限界も内包していることになります。

・著作権保護期間に見る所有権アナロジーの限界

 「知的所有権」という表現を好む人は、「知的財産権も所有権のアナロジーで処理可能だし、また処理すべきだ」と信じている人が多いようですが、所有権アナロジーには限界があります。それを端的に示しているのは、法改正のたびに長くなっている著作権保護期間です(以下の記述は、拙著 [2004]『著作権の法と経済学』勁草書房と、田中辰雄・林紘一郎 [2008]『著作権保護期間』勁草書房、のエキスを要約したものです)。

 まず著作権は、政府に登録するなどの一切の手続きを取らなくても、創作と同時に自動的に成立することを確認しましょう(無方式主義、著作権法17条2項)。これは著作物が「言論の自由」の発露であるため、検閲を避ける有効な仕組みですが、特許など登録を要する他の知的財産と違って、権利の存在を不明確にする欠点があります。

 その欠点が顕在化しているのが、孤児作品(orphan works権利者が不明なため利用許諾が取れずに死蔵されたままの著作物)の存在です。著者の死亡後50年未満の場合、国会図書館でデジタル化して配信しようとしても、権利の相続者やその所在が不明のため作業が進まないことがあると言います。文化庁による裁定(著作権法67条以下)という救済制度もありますが、認められる例はごく限られています(2001年の著作権法改正を機にかなりの改善がなされましたが、なお潜在需要とは隔たりがあります)。

 このような中で保護期間を延長すると、どういうことが起きるでしょうか? 著作者には創作のインセンティブが効きますので、新しい創作の量は従来より増えるでしょう。しかも保護期間を延長した分だけ、著者の死後も権利が継続する著作物の比率は高まります。この2つの要素が掛け算されるので、孤児作品は指数関数的に増える恐れがあります。

 孤児作品が利用されないまま放置されるのは社会的損失なので、各国とも対策を講じていますが、「保護期間を短縮しよう」という動きは目立ちません。おそらく「保護期間の短縮が全体最適である」という主張よりも、「保護期間を延ばす方が創作のインセンティブが高まる」という主張の方が、直感的に理解し易いからでしょう。その結果、保護期間は延長される一方で、わが国でも死後33年から始まり、35年、37年、38年と延長されて、現在の50年になっています。そしてTTP(Trans Pacific Partnership)協定がアメリカ抜きで成立すれば、死後70年となる見込みです。

 しかし、よくよく考えて見ると、現代はドッグ・イヤーとかマウス・イヤーと呼ばれ、1年の間にかつての7~8年分の変化が生ずる時代です。つまり形式的な1年(ドッグ・イヤー)が、実質的には7~8年分(ヒト・イヤー)と同等なのですから、死後70年は実質的には死後500年程度に相当します。これだけ長い保護期間を設定するのが妥当かどうか、直感的にも疑問符が付くのではないでしょうか? 特許権(保護期間は出願後20年)について保護期間の長さが問題とならないのは、ある種の妥当性を持っているからでしょう。

・小さな改善で現行制度の弱点を補う

 「柔らかな著作権制度」を主張する私からすれば、死後70年も市場価値が続く著作物は稀なのですから、例外として「文化財保護法」的な処理をすべきだと思います。現に丹治さんの労作によれば、わが国の書籍の場合「没後51~60年に出版されるものは全体の1.3%、同61~70年に出版されるものは0.87%」とごく少数です(丹治吉順「本の滅び方:書籍が消えてゆく過程と仕組み」田中・林 [2008] 所収).

 しかし、このような主張は権利者やその団体のロビーイング力には適いませんので、すぐ実現する見込みはありません。「反著作権」ではなく「補著作権」の立場に立つ私としては、以下のような小さな改善の積み重ね(piecemeal engineering)で、現行制度の弱点を補う努力も必要かと考えます。

 ① クリエイティブ・コモンズや ⓓ マークは、「権利表明制度」という一種の自主登録制度でもあるから、孤児作品を生まない工夫として推進したい、

 ② 著作権制度を創作にインセンティブを与える制度と捉えるなら(現代の法理論では、このような説明=インセンティブ論が通説です)、検閲につながらないよう工夫した登録制度を新設して、登録を訴訟要件とするなどの改善が望まれる(現にアメリカでは、登録を訴訟要件としている)、

 ③ さらに進んで、特許の登録料が時間の経過とともに逓増する例に倣って、「登録する価値がある著作物だけが登録される」ような仕組みを組み込むべきであろう、

 ④ ドッグ・イヤーの影響は情報技術関連分野に顕著なので、プログラムの著作物については全面的に見直し、かつての「プログラム権法」(中山信弘 [1986]『ソフトウェアの法的保護』有斐閣)に近い制度を創設してはどうか。

林「情報法」(4)

所有から利用へ?

 有体物の世界では所有権が有効に機能し、有体物ではない世界、特に情報の世界では必ずしも有効ではないとすれば、それはどういう事情によるのでしょうか。その答えは単純で、有体物は「一物一権」(1つの物に1つの権利が対応する)が可能だが、非有体物(無体財)では、「一財多権」(情報の場合、1つの情報に複数の権利が重畳的に存在する)にならざるを得ないからです。私たちの身の回りを見ても、特定の少数者が排他的に利用できる情報(営業秘密のように「秘密」として管理されている情報)は少なく、不特定または多数がアクセスできる情報が圧倒的に多いのを、実感されていることでしょう。

・情報は「占有」できないから「所有」もできない

 これを法律的に言い直せば、有体物には「占有」を観念することができるが、無体財(特に情報財)を占有することは不可能である(非占有性)ことを意味します。現行の法律はこの点を良くわきまえています。「占有」とは、「自己のためにする意思をもって物を所持する」(民法180条)ことで、「物」とは有体物です。反対解釈をすれば、無体財には占有の規定がそのまま適用されることはないのです。もっとも「例外のない規則はない」の喩えどおり、「準占有」(民法205条)という規定がありますが、この点には深い含意が隠されていますので、次の機会まで取っておきましょう。

 情報を「占有」できないということは、情報には 100% の排他性を持たせることが難しいことと同義です。また「一財多権」にならざるを得ないことは、「占有の移転」を観念できないこととパラレルです。有体物を譲渡すれば私の手元には何も残りません(占有の移転)ので、これを盗む行為(窃盗)に刑事罰を科すことで違法な移転を抑止し、また民事的に取り戻すこと(返還請求権)で法的秩序を保つこともできます。

 ところが情報の場合は、私がある情報を誰かに伝えた後も、私は同じ情報を持ち続けています(非移転性)。つまり情報は、占有の移転ではなく「複製」(著作権法2条1項15号参照)という行為を通じて拡散していきます。また、一旦複製を許せば「そうするつもりではなかった」と言って取り消しても、情報は戻ってきません(流通の不可逆性)。

 情報に対しても窃盗に類似する行為があり(いわゆる「情報窃盗」)、これを処罰してもらいたいところですが、どの情報を対象にするかを決めるのは、とても難しい。下手に「情報窃盗罪」を作ると、うかつに情報を取得できない事態になって、日常生活に支障をきたしかねません。したがって、現在「情報の違法な取得・窃用・漏示行為」として刑事罰が科せられるのは、「特定秘密」の漏示(特定秘密保護法23条以下)や、不正な手段による「営業秘密」の取得(不正競争2条1項4号)、医師など特定職業従事者による秘密漏示(刑法134条)など、対象がごく限られています。

 それでは、このように情報に対して所有権の有効性が失われる場合に、それに代わる適切な法的制御の方法はあるでしょうか? 多くの経済学者が主張しているのは、「所有から利用へ」というトレンドと、「共同利用」という仕組みです。経済全体がシェア(sharing economy)やフリー・エコノミー(この場合のフリーには、自由とタダの両方が含意されています)に向かっていると主張する学者もいます。確かに、民泊のインターネット版ともいえる Airbnb や、自家用車をタクシー代わりに相乗りする UBER の隆盛を見ると、そのような時代が来そうな気もします。

 ところが、どっこい。「所有」という妖怪は、この程度で衰退してしまうような「ヤワ」なものではありません。人間の「所有欲」はかなり根源的なもので、「人は経済原理だけで動く訳ではない」という心理の好例とされているほどです。ブランド品や別荘などは、経済計算では「ムダ」と判定されるでしょうが、購入者は後を絶ちません。ですから「利用」が「所有」に全面的に取って替わることはなく、せいぜい補完するものだと思われます(タイトルに?を付けたのは、その気持ちを表すためです)。

・排他性のスペクトラム

 そのように考えるには、法的な理由もあります。前回の議論で、「所有権は絶対的排他権」と説明しましたが、これを排他性のスペクトラムとして表示すれば、次のようになります。左端は、著作権等の知的財産権において、all rights reserved と表記されることと符合しています。つまり100% の絶対的排他権が認められるのです。一方、右端にあるのはno rights reserved = 誰が使っても自由、つまり純粋なコモンズという位置づけです。

 排他性の強度
<------------------------------->
排他性100%                       排他性0%
All rights reserved            No rights reserved
            Some rights reserved

 現在の知的財産制度は、所有権になぞらえたものですので、「権利があるかないか」つまりスペクトラムの両極端に分かれています。しかし現実の世界は複雑なので、中間的扱いが望ましい場合があり得ます。著作権の例では、「創作者が私であることは表記して欲しいが、コンテンツは無料で自由に使ってもらって構わない」とか、「改変も含め、どんどん使って宣伝して欲しい」といった要望があり得ます(極端な例だと思われるかもしれませんが、売れない創作者が第1作から儲けることは難しいので、まずはタダで利用してもらって名前が知られることが大切なのです)。

 するとここに、some rights reserved の需要が出てきますが、現在の法律は100% か 0%かのデジタル的割り切りをしているので、何らかの工夫が必要です。ローレンス・レッシグたちが考えた Creative Commons(以下 CC) は、こうした需要に応えようとするもので、attribution(氏名表示)を必須とし、これとnon-commercial(非商用利用なら自由)、no  derivatives(改変禁止)、share-alike(改変後シェアする義務がある) の3つの権利表示マークの組合せにより、6種類の権利処理の選択を可能にしています(原語は私流に訳していますので、クリエイティブ・コモンズの公定訳とは異なることに、ご留意ください。レッシグ他 [2005]『クリエイティブ・コモンズ』NTT出版、参照)。

 実は私も、ほぼ同時期にⓓ マークというアイディアを出したのですが、レッシグの案が優勢になったので、私はこの運動を日本でサポートし、「アメリカ以外では最初」と言われたCC の契約書等を翻訳して、サイトを開設するなどの協力をしました。CC は現在ではWikipediaの標準利用方式となっていますので、ある種の感慨を覚えます。

 しかし、個人的感慨を離れて本題に戻れば、ここで改めて強調しておきたいのは、CC やⓓ マークが目指したものは「反著作権」ではなく「補著作権」だということです。これは時として誤解されやすいのですが、仮に著作権法が無ければ、CCも ⓓ マークも機能しなくなる(誰も実効性を担保してくれないので自滅する)ことは明らかでしょう。権利者を中心に、私たちを白い目で見る方々がいますが、よくよく考えていただければ、私たちの提案は「排他性が100% か0% か」という硬直的な仕組みでは救済できない、ニッチな需要に対応するもので、かえって現行制度を助けているのではないでしょうか。

林「情報法」(3)

所有権という妖怪

『情報法のリーガル・マインド』で強調したように、私は「情報法は有体物の法と連続している部分がある」と同時に、「有体物の法とは断絶した部分もある」と考えています。それを象徴する例として、まず所有権について「物を所有するのと同様に、情報も所有することができるのか」という視点から、数回に分けて整理しておこうと思います。情報ネットワーク法学会のプレゼンテ―ションも「情報は誰のものか、どこまで排他性を主張できるのか?」をテーマにする予定です。

・「所有権」は資本主義社会の基本

 「物を所有する」という事実を社会的にどう位置づけるかは、古代から人間社会の秩序を形成する基本的な枠組みでした。生産手段や市場機能の発展と密接な関係にあり、「所有権」概念が成立するまでの過程は国や風土により、文化や生産方式によって多様で、「所有」をめぐる言説は経済学や法学にとどまらず、人文・社会科学全般に広く行き渡っています(大庭健・鷲田清一 [2000]『所有のエチカ』ナカニシヤ出版)。

 現在、私たち日本人が住んでいる「資本主義社会」では、各人が自己の財産(私有財産)を持ち、それに対して「排他的支配」を及ぼすことを基礎として、経済活動が営まれます。ですから理想型としての資本主義社会では、皆が生活を維持できるだけの私有財産を持ち、経済的に平等に近いことが想定されています。資本主義と民主主義(自立した個人による統治)が同一視される場合が多いのは、そのためです。

 ここで権利の基本となるのは「所有権」で、私有財産を「使用・収益・処分」する自由が、すべて含まれます(民法206条)。自分で使おうが、他人に利用させて対価を貰おうが、焼いたり捨ててしまおうが、原則として自由です(法に触れたり、社会秩序に反してはいけませんが)。つまり、一旦「所有権」を得たら、それに関する限り政府その他の干渉を受けることがないので、絶対的排他性があると言えるでしょう(もっとも、法律でその権利を制限する場合はあります)。

 これこそ、近代市民の理想像とする「自己決定」(自分のことは自分で決める)を実現するものです。封建社会のように生まれた時から人生が決まるのではなく、才覚と運に恵まれればどのような人生も選べるには、「自己決定」が不可欠です。近代社会における私法の原則として「契約自由の原則」「過失責任の原則」とともに、あるいはそれに先立つものとして「所有権の絶対性」が挙げられるのは、理に適ったことでした。

・「所有権=排他性」の限界

 しかし、20世紀後半から21世紀にかけての時代の変化の中で、「所有権」の有効性にも疑問が投げかけられています。それには、所有権に代わる新しいテーゼの追究と、所有権では裁けない事象の顕在化という、2つの全く違った側面があります。

 前者の先駆けは「共産主義」の登場です。しかし、当初「ヨーロッパに幽霊が出る」(マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』冒頭の有名な言葉)として華々しく登場した理論も、結局は昔からある数多の独裁国家と変わらぬ制度と化して、20世紀末には衰退しました。

 このようにして、20世紀後半の「資本主義対共産主義」の大論争は、前者の圧勝に終わったかに見えました。ところが歴史の皮肉か、勝者のはずの資本主義の側が、現在存立の危機に立たされているようで、しかもその主因は意外なことに、前述の「所有権の絶対性」そのものなのです。つまり妖怪化した絶対的な権利には歯止めがないことが、致命傷になりそうなのです。

 その顕著な例は、資本主義がグローバル化を深める中で、貧富の差が拡大して解決策が見出せないことです。白人の貧者の支持で当選したトランプ大統領が、自身は大富豪であるというのは何とも皮肉ですし、所有権が絶対視される一方で「寄付文化」が根付いている国でも(例えば、ビル・ゲイツがいくら寄付しても)、医療保険の恩恵を受けられない国民をすべて寄付で救済することはできません。わが国の格差はアメリカほどではありませんが、それでもじわじわと拡大していますし、高齢化は更なる負担増をもたらします。

 このように、所有者の自己決定権を尊重するだけでは解決できない問題は、随所に見られます。わが国での具体例を上げれば、次のような事象です。① 排他性が絶対視されると公益が阻害される(市街地の景観維持や地震で機能不全になったマンションの建て替えが進まない、空き地・空き家問題が深刻になっている)、② 個を尊ぶことが行き過ぎると他人への配慮を欠いた無縁社会につながる(災害時の「共助」は言うは易く行なうは難い、老人の孤独死も「助け合い」精神の衰退と無縁ではない)。いずれも皆さんの身近で起こっている事柄ではないでしょうか。

 これらの問題は、「所有権」信奉が情報法を考える上でネックになっている事象につながっています。その例をいくつか挙げておきましょう。③ 生命情報の扱いをめぐって自己決定をどこまで認めるべきかの規範が定まっていない(臓器移植の意思表示なしに死去した場合誰が決定するのか、DNA情報は誰が取り扱いを決定するのが妥当か)、④「会社は株主のもの」という論理を徹底し過ぎると利潤が自己目的化する(リーマン・ショック以降「強欲資本主義」が批判されていますが、「自己決定」と「強欲」の境目はあるのでしょうか)、⑤ 知的財産も「所有できる」こととし他人の利用を排除すると、全体最適にならない(フェア・ユースなどの利用に対して敵対的になる)ことがある。

・たかが「所有権」、されど「所有権」

 しかし、このような欠陥を内包しつつも、「所有権」はなお、私権の基本としての地位を保ち続けるでしょう。物=有体物(民法85条は、「この法律において『物』とは、有体物をいう。」と定めています)は私たちの生活に不可欠で、製造業などの伝統的な産業が無くなってしまうことはないからです。しかし、有体物ではないサービスや情報が経済活動の中で比重を高めることは間違いなく、これらの活動を有体物中心の「所有権」で裁くことができるのか、また裁くことが効率的かは、まだまだ検討の余地があります。

(なお今回から数回分の原稿は、お断りしない限り書き下ろしですが、このような考えをまとめる機会を得たのは、丸善から7月に出版された『社会学理論応用事典』の1項目として「情報の所有と専有」という項目の執筆を、拙著の執筆に先立って依頼されたからです。編集幹事の1人である遠藤薫教授に感謝します。)

 

小林「情報産業論」(2)

「情報産業論」とその時代(2)

情報量というものは適当な定義をあたえれば、量的に処理することができないわけではない。じっさい、サイバネティックスあるいはいわゆる情報理論(Information theory)においては、それをおこなっている。その場合、情報とは、いくつかある可能性のなかのひとつを指定することである。すると、最小の情報とは、ふたつの可能性のうちのひとつを指定することである。これがビットとよばれる情報の単位となる。(p.46)

『情報産業論』において、梅棹は情報という言葉の意味を驚くほど広く捉えている。その上で、さまざまな社会的情報事象を縦横無尽に展開する。ぼくが考えておきたいことも、まさにその部分にあって、梅棹が論じた情報事象が現在の社会的情報事象とどう係わるのか、または、当時の時代精神をどう映し出しているのか、といったことが中心になると思う。

しかし、梅棹の議論は、凡俗な人文科学系研究者の浅薄な自然科学議論とは、比較にならないほど正鵠を射た情報概念の上に成り立っている。
※ぼくは、ここでソーカルらがサイエンス・ウォーズで仕掛けた議論を念頭に置いている。

『情報産業論』の世界に沈潜していく前に、梅棹がこの論文を書いた時期が、コンピューターや情報科学の歴史のなかで、どのような位置にあったかを、一瞥しておこう。

冒頭に引用した個所に出てくるノーバート・ウィナーの『サイバネティックス』の第1版が出版されたのが、1948年。邦訳の出版が1957年。(池原止戈夫, 彌永昌吉, 室賀三郎訳『サイバネティックス: 動物と機械における制御と通信』岩波書店 (1957))

梅棹は、おそらく、この池原、彌永訳を通して、サイバネティクスの概念を知ったことだろう。今では、ウィナーが提唱したフィードバックの概念は、ロボット工学を初めとしてありとあらゆる産業分野で欠くことの出来ないものとなっている。当時、目を洗われるような新鮮な概念として識者に受け入れられたサイバネティクスの議論は、今では、われわれの生活全般の中に、具体的な製品や環境として広まっている。サイバネティクスという概念は、時代の推移とともに社会全体を支える基本的な考え方のなかに溶解し、今ではことさら取り上げられることは稀である。しかし、ウィナーのサイバネティクスという概念は時代のあだ花などでは決してなかった。梅棹も、おそらくは、ウィナーがサイバネティクスという言葉で表そうとしたさまざまな事象を、ウィナーと同じ視点で見ていたに相違ない。

ぼく自身が、ぼく自身の情報概念を形成してきた上で、もう一つ、欠くことのできない書物がある。吉田民人の『自己組織性の情報科学』(1990年、新曜社刊)。この本は、発行された年に発表された短い論文「情報・情報処理・自己組織性」と1967年に発表された長い論文「情報科学の構想」とから成っているが、後者には、「エヴォルーショニストのウィナー的自然観」という副題が付されている。この論文も、決して色あせることのない名論文には相違ない。だからこそ、20年以上も経って、一本の書物として発行されることになったのだが、ぼくには、二人の大碩学がウィナーの影を色濃く背負っていることが単なる偶然とは思えない。

・舌を巻くビット概念の理解

先に引用した梅棹のビット概念の理解にも、また、舌を巻かざるを得ない。
手元にある『情報学事典』(2002年、朝倉書房)に西垣通が書いたまさに「情報」の項を見てみよう。

「情報量とは選択肢となるパターン間の差異の数から確率論的に計算されるものであり、2個の確率的に同等のパターンの中から1個を選ぶとき、その不確実性の減少の度合いが1ビットである」(西垣通、『情報学事典』(朝倉書店、2002年、p.437) 

クロード・シャノン(実際には、ワレン・ウィーバーとの共著)が『通信の数学的理論』で、ビット概念を規定したのが、1946年。同じ年には、(多少の異論はあるものの)世界初のコンピューターENIACが稼働している。

一方、シャノンと共に現代の情報科学の礎となったチューリングの「計算可能数とその決定問題への応用」が書かれたのは、つとに1936年。しかし、その後のチューリングは、ナチス・ドイツの難攻不落の暗号機械「エニグマ」の解読チームに組み込まれ、国家秘密への関与故に歴史の表舞台から姿を消し、戦後は不幸にして同性愛に係わるスキャンダルの故か、非業の死を遂げる。チューリングの名誉が公的に回復されるのは、2012年になってからのこと。

『情報産業論』が書かれた1960年代になると――

1960年、DECが世界初のミニコンピュータPDP-1を発売。名機PDP-11を経由して、Sun Microsystemsなどのワークステーションに繋がっていく。
1964年には、IBMが後の各社のメインフレームの原型となるSystem/360を発売。商用分野でのコンピューター利用が本格化する。
時代が下り、Apple Ⅱの発売が1977年。IBM-PC(いわゆるATマシーン)の発売が、1981年、NECのPC8001は、1979年。
1990年代に入り、インターネットが爆発的な普及を開始する。そして、スマートフォンとSNSが跋扈する21世紀の今。

情報をめぐるさまざまな技術は、まだようやく発展の緒についたばかりである。とくに、自動計算機械の開発などの情報処理の技術においては、公平にみて、まだ幼稚きわまる段階にある。それらの技術的手段の発展とともに、情報産業は、これからなお、おどろくべき発展をとげるにちがいない。情報産業は、いわばようやく「産業化」の軌道にのりつつあるところなのである。(p.43)

梅棹は、情報処理の技術においても、その時代の発展段階を、正確に把握していた。

まさに、文明史的な時代認識の膂力をもって、梅棹は、それまで世界中の誰もが考え得なかった〈情報産業〉というカテゴリーを世に問うことになる。

次回から、さっそく『情報産業論』を読み進めていこう。