林「情報法」(11)

品質表示偽装の情報法的意味

 これまで10回にわたって、情報ネットワーク法学会での議論を中心に記述してきましたが、それらは「情報は誰のものか、どこまで排他性を主張できるのか?」というテーマを巡るものでした。これは『情報法のリーガル・マインド』の主要な部分ですが、その全てではありません。また、従来の分類法では、情報法の客体である「情報」について論ずれば、その主体の方も議論してみたくなります。

 しかし、それでは「情報法」の一部を強調する印象を拭えず、それ以外の要素を見えにくくする恐れがあります。そこで今回からは話題を変え、主体―客体関係以外の論点について短いコメントを加えていきましょう。まず昨今話題になっている、製造業の品質保証に関する偽装あるいは手続き違反について、情報法の観点から考察を加えます。

・製造業で相次ぐ品質保証関連の偽装

 2017年9月29日に日産が、乗用車出荷前の最終検査(完成検査。この部分は本来国が行なうべきところ、メーカーに委託されている)を資格のない社員に担当させていたため、約6万台(その後120万台に拡大)もの新車をリコール(回収・無料修理)すると発表して、世間を驚かせました。その後、有資格者の印鑑を流用するにとどまらず、データを改ざんしたり、資格試験でも不正が行われるなど、一流企業とは思えぬ対応が次々に判明しました。どうやら増産に見合った検査員を配置できなかったのが原因のようですが、トップと現場の意思疎通を欠いた不祥事の影響は大きく、品質管理等の国際規格の認証取り消しや大幅な販売の落ち込みとなって現れています。

 これだけでも驚きのところ、10月9日には神戸製鋼が、アルミや銅製品の強度を改ざんしたまま販売していたことを、同月28日にはスバルでも、日産と同様の無資格検査が30年以上も続いていたことを発表。11月23日には、三菱マテリアル系の2社が、自動車部品などの製品データを改ざんしていたと発表。同月28日には、東レの子会社でもタイヤ補強材などについて、品質データを不正に書き換えていたことが発覚するに至りました。

 ここまでくると、ごく一部の製造業だけが疑われるのではなく、日本企業全体の品質管理のガバナンスに、疑いの目が向けられても仕方ありません。特に東レは、経団連会長の榊原氏の出身母体(現在も相談役)でもあり、経団連は約1,500社の会員企業や団体に、品質に関するデータの改ざんなどの不正行為が無かったか調査依頼しましたが、結果がまとまるのは新年になるでしょう。

・製造物でも「品質のすべてが価格に反映される」訳ではない

  この事例には、以下のように多くの論点が含まれています。

 ① 国から委託された条件を守らなかったこと、② 社内規定に反して(慣行として)資格のない者が検査していたこと、③ 品質管理に関する第三者認証を得ながら、その条件を守らず消費者(あるいは取引先企業。以下同じ)を誤認させたこと、④ 消費者に危険を及ぼす恐れを生じさせたこと、⑤ 現実の事故が発生していないとすれば、そもそも設定された保証基準がオーバー・スペックだった(その結果「高いもの」を売りつけていた)疑いがあること、⑥ 規則違反の情報がトップに上がり対処するまでに時間がかかりすぎたこと、⑦ またSNSで公開された後で情報開示するなど、広報活動のまずさが目立ったこと、⑧ 上記の要素が全体として「日本の製造業の品質管理はいい加減だ」という印象を与えたこと。

 マス・メディアの報道は概ね ⑧ を強調するもので、それは日本経済全体の大問題ですから当然としても、その解決策を探るには「情報法という視点」が必要かと思います。問題設定自体を簡素化すると、a) 「品質管理情報」は、検査や第三者認証などの「手続き」に担保されて初めて「信頼すべき情報」になる、b) 「品質管理情報」を偽装したり紛らわしい表示をすることは、この基本から逸脱する行為で重い社会的制裁に値する、c) そのような意識改革を推進するとともに、それを担保する制度を確立すべきである、という3点になるでしょう。

 私たちは日常の経済取引において、品質と価格という2つの要素を頭において「買うか買わないか」を決めています。ところが、経済学が品質の扱いを無視して(実際には、品質を扱う理論を見出せなかったために)「品質は価格に体現されている」という強弁を続け、法学もそれに従ってきました。しかしそれでは「いかにもコスト・パフォーマンスがよさそうに見えるが実は品質が良くない」商品の利益率が一番高いことになって、長期的には「悪貨が良貨を駆逐する」弊害を免れません(いわゆるブランド品の偽物が後を絶たないことを考えてみてください)。 

 製造物(あるいは人工物)という有体物の場合には、「品質は使えば分かるから誤魔化しようがない」という迷信がはびこっているのも問題です。現に、製造物に「品質保証書」がついていることは、その性能(通常の使用法)とは別に、逸脱(異常状態)に対処する手立てが必要なことを暗示しています。つまり「すべての品質が価格に反映される訳ではない」ことと、「モノ自体」と「品質情報」は一体不離の関係にあるが同時に別物でもあることを、忘れてはなりません。

・情報財については品質保証の手続きが大切

 製造物(有体物)とは違って情報財については、事態がより複雑になります。価格よりも品質が大切で、しかも製造物のように見たり触ったりすれば推測できる部分はごく限られています。むしろ逆に、情報財を試用できれば購入したと同じ結果になる場合もあります。映画やテレビ番組の予告編では、ごく「さわり」の部分だけを見せるのが限界で、かなりの部分を見せてしまえば売却したと同じです。

 このようにintangibleな(目に見えない)情報財については「製品情報とは独立して、品質情報をどのように定型化するか」「情報そのものが定型化できなければ、その生産(創作)プロセスを定型化できないか」「その違反に対して、どのような制裁が望ましいか、また実効性があるか」といった難題を抱えていることになります。

 実は今回の不祥事を、私は複雑な心境で眺めています。というのは、このような事件が起こるであろうことを、『情報法のリーガル・マインド』で予見していたとも言えるからです。同書における章立ては、「第1章 情報の特質と法のあり方」、「第2章 法的規律の対象としての情報:有体物アナロジーの工夫と転回」、「第3章 品質の表示と責任:情報による品質保証の可能性と限界」、「第4章 情報法の将来:情報によって法律行為を規律する」、となっています。そして、類書が「情報法」のテーマだとは思っていない第3章に、70頁(全体の4分の1)近い紙幅を費やしているからです。「先見の明があった」とも言えるので、いささか誇らしい気持ちと、「やはり起きてしまったか」という失望とが、入り混じった複雑な状況にいます。

 このように「品質表示と責任」を情報法の重要な要素として扱ったのは、世間一般では「見た目では品質が分からない」ことを(あきらめに似た気持ちで)所与とし、それを担保する仕組みに対しても「たかが手続きではないか」といって軽視する声が多いことに反発を覚えたからです。この点に関する感度は、日本と欧米(特に英米)との間に対照的とも言えるギャップがあります。

 わが国は、匠(熟練工)の個人技や組織に内蔵された「暗黙知」を重視する反面で、それをマニュアル化して誰でも使えるようにすることに消極的ですし、その技に名前を付けることも考えません(トヨタの「Just-In-Time」は米国が付けてくれた名前です)。他方、英米では手先が器用な人が少ないのか、匠の技よりも「誰でも一応のことが出来る」ことを重視し、法律のdue process of lawに倣って、手続きを重視します。

 どちらが優れていると一概には言えませんが、ISO(国際標準化機構)が技術標準を超えて経営標準をも包摂することを目指すほか、政府調達においてセキュリティを担保するには手順を守らせるしかないなど、「情報法」においては「実体法」と同程度かそれ以上に「手続法」が大切であることを、忘れてはなりません。

●乳幼児の約2割がスマホを毎日見ている(2017年10月発表)

ベネッセホールディングス「第2回 乳幼児の親子のメディア活用調査」
調査日:2017年3月
調査対象数:3400名
詳細データ:http://berd.benesse.jp/up_images/publicity/press_release20171016_2media.pdf

 ベネッセホールディングスの社内シンクタンクであるベネッセ教育総合研究所は、2017年3月に首都圏在住の0歳6ヶ月~6歳までの乳幼児を持つ母親3400人を対象に「乳幼児の親子のメディア活用調査」を行った。

 その結果、乳幼児の約2割がスマートフォン(以下、スマホ)に「ほとんど毎日」接していることが分かった。年齢別に見ても驚くことに、0歳後半の乳児でも2割がほぼ毎日使っている。本調査の1回目が実施された2013年と比較すると、16.5%増加している。また、1歳児では24.4%、2歳児は最も多く25.9%に達している。
 どんな場面でスマホを使わせているのかを見ると、最も多いのが「外出先での待ち時間」で33.7%、次いで「子どもが使いたがるとき」が29.7%、「子どもがさわぐとき」が23.5%となっている。2013年と比較して増えているのが「子どもがさわぐとき」で6.5%増、「親が家事で手をはなせないとき」は7.7%から15.2%へと7.5%増えた。
 スマホ利用の低年齢化が進んでいることがよく分かるが、その一方で、スマホに接している時間は15分未満が約7割を占める。1~4時間以上は12.8%だ。4時間以上が1%程度いるとは言え、多くの母親がある程度制限している様子が見て取れる。
 「目や健康に悪い」「夢中になりすぎる」などデメリットについても7~8割の母親が懸念を示している。また、外遊びやおもちゃで遊ぶ時間などとのバランスも4年前とそれほど変わってはいない。

 調査企画・分析メンバーである汐見稔幸氏(白梅学園大学学長、東京大学名誉教授)は、「乳幼児のメディア利用に対して社会の方が過度な心配をしなければならない、という結果ではありませんでした」と語っている。また、汐見氏は今後のメディアの可能性に触れ、こう述べている。
 「電子絵本などが普及し、3D映画のように立体的な映像を手軽に楽しめるようなツールが出てくることも予想されます。(中略)その活用の仕方を家庭が模索することによって、各家庭でより豊かな親子関係と親子の会話を楽しむ時間が増えることを期待しています」
 手前味噌になるが、サイバーリテラシー研究所でも、親子で読みながらサイバーリテラシーを学べる「サイバー絵本」を掲載しているので、よろしければご一読ください。

 

林「情報法」(10)

「法と経済学」という方法論

 私は学者になって20年経ちますが、ビジネスマンとしての経験は33年もありますので、何かを分析するに際しては、まずは「実態」を直視することとし、先に「方法論」を考えるといった思考法は取りません。今でこそ、だんだんと学者らしくなってきましたが、転向当初は「林さんは、まず自分で筋道を立ててから、それに合った方法論を見つけてくる」と言われたほどです。

 しかし誰しも好みの発想はあるもので、私の場合のそれは「法と経済学」的アプローチということになるでしょう。分科会でも松尾さんから「法と経済学的思考の痕跡がある」と指摘されましたが、それは当っていると思われます。

・民営化の理論武装から始まる

 私が「法と経済学」に傾く理由は、私が学者に転向した理由と、ほぼ重なっています。

 1982年の2月に私は、当時の電電公社の計画局総括課長を命ぜられましたが、従来このポストは電話等の普及の長期計画と、単年度の設備計画をまとめる職位でした。しかし、当時の電電公社は電話の普及が一段落する時期で、その後何をコア・ビジネスにするかが見通せない状況にあり、加えて日米調達協定によってアメリカ製品の購入を要求されるなど、国鉄改革と一体となった民営化論争の渦中にあって、事業のあり方全体の見直しを迫られていました。

 しかも民営化の論議は、国の財政にとって緊急の課題であった「国鉄の赤字をどうするか」という視点から論じられること(経営論的民営化論)が多く、三公社という概念に引きずられて電電公社問題が論じられるという「受け身」のものでした。そこで私は、「そもそも何のために民営化するのか」という答えを、経営論ではなく「電気通信ビジネスが将来どうなるか、どうなるべきか」という視点の中(産業論的民営化論)に見出すべく、経済学を独学で学び、また経済学者との交流を深めることで、理解を得ていく努力を始めました。

 その際、民営化後の市場秩序をどうすべきかについては、IHIの社長から電電公社の総裁に転じた真藤恒氏が、造船技術者だった経験を踏まえて「造船業と旅客(や貨物)船運送業は別のビジネスだということを、アナロジーにして考えよ」と指示していました。そこで私は、「交換機や線路といったインフラを所有して事業を行なう者」と、「それらを借りてサービスを提供する者」を分けて考えてはどうかと提案しました。私は前者を「1次キャリア」、後者を「2次キャリア」と命名した(『インフォミュニケーションの時代』中公新書、1984年)のですが、これは後刻電気通信事業法に生かされ、「第一種」「第二種」電気通信事業という区分になりました(この区分自体も、2004年施行の法改正で消滅しましたが)。

 このように私は、「新しい法体系を作る」という作業に偶然引き込まれたため、法解釈論より先に立法論を経験することになり、また同時に「法が欠けているときには、他の学問の知恵を借りるのは当然」と考えるようになりました。事業法(産業法)を作るのであれば、経済学の知識を借りることに、何の躊躇もなかったわけです。

 なお偶然ですが、民営化を目前にして電電公社の広報部が「テレコム社会科学賞」論文を募集していたので、私は「情報通信産業の生成と新産業秩序」というタイトルで応募し、受賞5編の1つに加えていただきました(前出の中公新書は、この論文を中心にリライトしたものです)。これが、その後経済学で博士号をいただき、学問の道に転向するきっかけになりました。

・経済学に行き詰って再転向

 このような経験を生かして、私は学者になり、しかも慶応義塾大学という伝統ある大学に職を得ることができました。しかし、経済学者として一生やっていけるかと考えた時に、いかにも「原始的蓄積」に乏しいことに気付かざるを得ませんでした。というのも、私はもともと法学部の出で、当時の法学部の経済学関係の講義はすべてマルクス経済学系の教授が担っていましたから、いわゆる近経の教育は一切受けていないのです。

 加えて、経済学をやっているうちに、次第にその限界を感ずるようになってきました。というのも、経済学は homo economicus(合理的な判断をする経済人)を大前提としていますが、その前提自体が疑わしい上、合理性を貫徹することが社会を平和で豊かにするかどうかにも、疑いを持つようになったからです。私の経済学の知識がもっと深ければ、カーネマンのように合理性を疑った経済学もあり得ることを、もっと早く知ることが出来たかもしれません。そうすれば私は、行動経済学者になっていたかもしれませんが、当時はその知識さえありませんでした。

 そして私がやっていた経済学は、「公益事業論」と呼ばれてきた産業分野が、「ネットワーク産業」とでも呼ぶべきものに変質したのに合わせて、「規制の経済学」として発展させたものでした(私の京都大学での学位論文は『ネットワーキングの経済学』NTT出版、1989年)。これは経済学でもありますが、法学的要素も併せ持っており、私が法学に再転向するには、プラスになってもマイナスになる要素はありませんでした。

 かくして私は、慶應から情報セキュリティ大学院大学に移るころから、経済学よりは法学を重視するようになり、学問的な方法論としては、「法と経済学」を明示的に採用するようになりました。なお、その際、再転向する以上、法学でも学位をいただくべきだと考え、『情報メディア法の研究』(後刻再編集して『情報メディア法』東大出版会、2005年)で慶應義塾大学から博士(法学)の学位をいただきました。周りには、ダブル・ディグリーに懐疑的な人もいましたが、私のように大学院の課程を経ていない者にとっては、学位は学者になるための、最低の認証プロセスではないかと思っています。

・法と経済学に3つの流派

 しかし、同じ「法と経済学」という名前で呼んでいるものの中に、① 法の経済分析、②法解釈における経済学の活用、③ 法学と経済学の学際的交流という、大きく分けて3つの流派があることにも、注意していただきたいと思います(拙編著『著作権の法と経済学』勁草書房、2004年、第1章)。

 ① の「法の経済分析」とは、この学派の始祖であるリチャード・ポズナーの主著である『Economic Analysis of Law』(初版はLittle Brown, 1973年)の方法論を引き継いだもので、現在もEasterbrookなど有力な論者がいます。この流派は、ミクロ経済学の諸概念を法に適用するとどうなるかを論ずるもので、ここでのLawは法学ではなく、考察の対象としての「法」であるにとどまります。いわば、経済学が法学に帝国主義的侵略を試みたものです。

 ② の「法解釈における経済学の活用」は、ポズナーほど過激ではありませんが、ミクロ経済学の手法を主として法解釈に生かそうとするもので、キャラブレイジ(前述のポズナーやイースターブルックも含め、経済学出身で連邦控訴裁判事です)の『The Costs of Accidents: A Legal and Economic Analysis』Yale University Press. 1970年)が代表格です。この本の副題からも分かるように、ここではlegal analysisとeconomic analysisが対等の位置にあります。

 ③  の「法学と経済学の学際的交流」は ② の立場を更に進めて、法学と経済学が学際的交流を図ろうとするもので、私の立場です。このように考える背景には、法学教育の日米の差が反映されています。

 アメリカのlaw schoolは学部を持たない大学院なので、半分以上の院生は経済学部から進学し、law and economicsがいわばデフォルトになっているのに対して、わが国の法科大学院は法学部と併存しているため、一度も経済学を学ばないまま法学を納める方がデフォルトになっています。そこでは ① や ② のような進んだ交流は望めませんが、かといって交流無しですまされないほど、現在の経済社会は複雑化しています。そこで、私のように独学で経済学をやっても良いから、何らかの形で交流を促進したい、というのが私の意図です。

 私が入学した当時の東大文科一類は法学部か経済学部か、いずれかに進学するコースで、おかげで私は多くの経済学者と知り合いになれました。学問が進化すれば分化が進むのはやむを得ないことですが、複雑な事象を読み解くには学際研究が不可欠で、法学はまさに現在その苦労を前にしているのではないでしょうか?

林「情報法」(9)

理論構築は孤独な作業

 情報ネットワーク法学会で楽しい時間を過ごしたことは、逆に「理論構築は、やはり1人でするしかない孤独な作業である」ことを思い出させてもくれました。

・人と情報との関係に4つのパターン

 今回の私の問題提起は、「情報は誰のものか、どこまで排他性を主張できるのか?」と題するものでした。そこには、有体物と無体財、主体と客体、権利の本質と排他性の強弱など、複雑な要素が入り混じっていますが、法律が専門でない読者に理解していただくための第一歩は、以下の表に行き着くでしょう。つまり、自然人(に AI を加えたもの)と情報との関係には、4種類があると考えるのです(拙著では3種類でしたが、その後 AI を加えました)。

自然人(+ AI)と情報との関係

 まず ① の「自然人特定情報」は、従来のように「自然人が主役として情報の扱いを決める」のではなく、全く逆に「情報から自然人が規定されたり特定されたりする」ことを示しています。DNA 情報が私を規定するのが典型例ですが、それは一般的には「一意に決まる」ものと理解されています。しかし実際には、一卵性双生児の場合でも完全に一意とは限らない部分が残り、却って ID 情報のようなものの方が、「一意性」が高い場合があります。プライバシー保護に熱心な論者が「番号」のような無機的なもの(シャノンの世界)に敏感なのも、このような事情から理解できます。

 表の ② は、「当該情報が特定個人を示すことがかなりの蓋然性を持っている情報」のことで、私はこのようなケースを「ある情報がある自然人に帰属する」関係として整理したいと考えています。英語の attribution を踏まえたもので、著作権法の「氏名表示権」も英語では同じです。

 このようなケースで、蓋然性が相当高いと考える向きは、その扱いを ① になぞらえて考えようとするので、「所有権アナロジー」に傾きます。他方、蓋然性がさほど高くないと考える向きは、② に固有な扱いが必要と考える傾向があります。個人データ(個人情報という語は事物の性質を曖昧にするので、私は一貫して個人データという語しか使いません)保護のあり方を巡って、保護派と活用派の折り合いがつかないのは、この発想の違いから来ていますので、簡単に妥協点が見つかる問題ではありません。

 表の ③ は、自然人と彼(彼女)が生み出した情報との関係、つまり知的財産における関係性です。この関係は「所有権アナロジー」で処理されてきましたが、それが限界に近づいていることは、既に何度か繰り返した通りです。そして、④ として AI(Artificial Intelligence)に代表される人工物が生み出す情報を追加したのは、AIが創作者になることは、既に実現しているからです。ここまでくると、従来の「法的な主体は自然人に限られる」という人間中心主義は見直さざるを得ないでしょう。

 この表には、従来では「主体」=自然人、「客体」=情報という2分法で説明してきたものを超える要素があり、私としては多くの批判を期待していたのですが、残念ながら登壇者からもフロアからも、反応はありませんでした。

・批判者は不可欠だが、最後は1人で考えるしかない

 さて、前回の記述から得た教訓は、1) 他人の説を理解するのは意外に難しくエネルギーが要る、2) まとまったポジション・ペーパーは相互理解に役立つ、3) その上で討議をすれば理解は更に深まる、というポジティブな側面でした。 しかし上記の問題提起に反応が無かったことに加え、パネル・ディスカッションで水野さんに「著作権保護期間が長すぎるのではないかという、私の指摘をどう思いますか?」と問いかけたところ、「私に聞かれれば、そう思います、で終わってしまいますよ」という答えが返ってきたときに、あることに気づきました。

 それは「相互理解が深まったことは良いが、逆にそこで生まれた同質性が、更なる議論の発展の妨げになるかもしれない」という気づきでした。考えて見れば、同じ時期にほぼ似たような問題意識で本を出版したということ自体、相当程度の「同質性」がある集団と考えるべきで、「同質からは飛躍は生じない」ことに留意すべきだったかもしれません。

 そこで今回は、a) パネル・ディスカッションでは「想定外」の指摘は少なかった、b) 後世に影響を及ぼすような画期的な理論は、大方の賛同を得るよりも大方の反対に合うことが多い、c) それを克服するには、批判者の声に耳を傾けると同意に、最後は「自分で考えるしかない」と覚悟すべきである、といった点を強調しておきたいと思います。

 わが国の法学界では少ないのですが、欧米では共著論文がかなりあり、経済学に至っては共著がデフォルト的とさえ言えます。しかしノーベル経済学賞をもらったカーネマンが、優れた共著論文を量産して史上最高のコンビとされたトベルスキーとの間で、人知れぬ葛藤に悩んでいたと知ると(マイケル・ルイス、渡会圭子訳『かくて行動経済学は生まれり』文芸春秋、2017年)、レベルが低い私もそれなりに思い当たるフシがあるのです。

 彼らも、「良き批判者」としての相方の議論に触発されて、更に斬新なアイディアが浮かんだことは事実でしょうが、それには「適度な距離感」(arm’s length relationship)が保たれることが不可欠だったし、最後はそれぞれが自分自身で考えるしかなかったと思われます。

・シャノンとウィーナーという先駆者

 ところで、表の中に複数回シャノンとウィーナーが出てきたことに、違和感を覚える方もおられたかもしれません。しかし両者にフォン・ノイマンを加えた三者が、今日の情報科学の基礎を築いたことは、大方の認めるところでしょう。しかも、シャノンとウィーナーの説を融合すれば、極めて今日的な問題状況が浮かび上がってくるのです。

 ヒントを与えてくれたのは、ある学会で稲見昌彦教授(情報科学)が、シャノン界面(情報世界と物理世界の区分)とウィーナー界面(制御できるものとできないものの区分)で、世界を切り分けることができないかと問題提起したという、ジャーナリストの長倉克枝さんの投稿です。これを私流に図示すると、以下のようになります(長倉さんあるいは、稲見さんの図式化とは若干異なります)。

シャノン界面とウィーナー界面

 つまり世界を、物理世界と情報世界、制御可能と制御不可能という2軸で分けることによって、人間がどの部分を制御できているか、今後制御が必要になるのはどの部分かが分かってくる点に、図式化の意味があります。割り切って言えば、人間はほとんどの人工物を制御可能にしてきましたが、今後の発展が見込まれるセンサーや AI(特に、自己学習するAI)については、制御のあり方自体を検討すべき段階にあると言えるでしょう。AIが物理世界と情報世界にまたがっていることも、課題の重要性を暗示しています。

 しかも、この表がすべてをゼロかイチかで割り切っていると考えることも危険です。リスクをゼロにすることは不可能なので、リスクを最大限低減してもなお最後まで残るもの(residual risk)を忘れてはならないからです。科学者であるウィーナーは、この点を十分理解していたと思われます。その著『サイバネティックス』(『CYBERNETICS: or control and communication in the animal and machine』)の日本版(現在は、池原止戈夫・弥永昌吉・室賀三郎・戸田巌訳『サイバネティックス』岩波文庫、2011年)に寄せた序文の中で、次のように述べているからです。

 われわれの状況に関する2つの変量があるものとして、その一方はわれわれには制御できないもの、他の一方はわれわれに調節できるものであるとしましょう。そのとき制御できない変量の過去から現在にいたるまでの値にもとづいて、調節できる変量の値を適当に定め、われわれに最もつごうがよい状況をもたらしたいという望みがもたれます。それを達成する方法がサイバネティックスにほかならないのです。(「第1版」に際して)

 このように、AIがどこまで制御できるか、どこまでの制御を認めるべきか、更にはその法的責任はどうあるべきか、などに思いを致した先人がいることは、心強い点があります。しかし、その先は自分自身で考えるしかないのでしょう。そのような思いを抱いた学会でした。