林「情報法」(13)

品質保証の制度的枠組み

 前回と前々回では、品質表示の偽装という事象が、特に情報財のような目に見えないものの取引において想像以上に重要であることを、法学と経済学の両面から分析しました。今回は、そうした理論分析ではなく、ビジネスの実際面において、この問題がどう取り扱われているかを紹介します。

・価格とは別に品質を担保する仕組み

 経済学が「品質は価格の中に体現されている」と考え、法学も基本的にはその考えを受け入れてきたことは、既に述べました。しかし、それは「理論を突きつめれば、そう考えるしかない」ということであって、実際には多くの品質保証手段が(理論的根拠を問われることなく)消費者を守ってきたのです。それを一覧にすると、表のようになります。なおこの表は拙著で使ったものをベースにしていますが、前2回の流れに合わせるため、かなり修正しました。

表 品質保証のための手段(拙著の図表3-6を修正)

手段

概要

長所

短所

① 参入規制(②と併用される場合が多い)

法人全体(や担当者の技術レベル)を評価し、条件を満たさなければ事業の認可をしない

基準が分かり易い。アウトサイダーを許さないので実効性がある

規制のコストがかかる上、営業の自由への介入だとして、現代では事後規制(⑦+⑦´)に移行しつつある

② 安全基準の設定と取扱者の資格認定

安全面の基準を法的に定め、取扱者の資格を認定する

基準が分かり易い。ある程度事業横断的に定められる

規制のコストがかかる。資格取得者が既得権益に拘れば改善が遅れる

③ 自己点検・適合性宣言

財の提供者が自身で品質をチェックし適合性を宣言する

事情を一番よく知っている者が行なう。いつでも実施できる

自己満足に終わる危険。更に悪い場合は偽装も

④ 相互チェック

同種の財の提供者によるチェックを受ける

知識が豊富な者が行なう。ライバルでもあるので厳しく見る

ライバルを意図的に引きずり下ろす恐れ。義務化すれば作業負担が大

⑤ 第三者認証

第三者機関により品質基準適合性の認証を受ける

専門家の目で見てもらえる。利益相反の程度が低い(第三者機関の中立性が高い)

被評価者の費用で実施するので利益相反はある。時として「客観性」の偽装に使われる

⑥ 評判システム

市場等(小規模の場合は口伝えの場合も)の評価に任せる

完全競争市場や限られた範囲では有効に機能する。制度的な仕組みに伴う費用が要らない

期待通りに機能しない(例、不祥事があっても株価が変動しない)。時として過剰反応も

⑥ ´格付け

 

上記を専門にする組織が第三者として評価する

専門家の目で見てもらえる。格付け機関同士の競争で客観性が保たれる

被評価者の費用で実施するので利益相反はある。寡占なので客観性が疑わしい

➆   不法あるいは違法行為に対するサンクション

品質保証に関する不法あるいは違法行為に対して事後的に責任を問う

司法を介した妥当な解決が図られる。法化社会にふさわしい

解決に時間とコストがかかりすぎる。わが国では当事者間での解決が好まれる

➆ ’独立行政委員会による ⑦ の実行

上記 ⑦ の判断を、裁判所ではなく専門の独立行政委員会が行なう

司法判断の必要性と専門性のバランスを取ることが出来る

事故情報の開示が十分になされないと、絵に描いた餅になる

・各手段の利害得失

 まず最も伝統的な手法は、事業を開業する前に所管官庁から事業許可(認可等類似の用語をまとめて、ここでは許可と言います)が必要であるとして、官庁が信頼できる事業者かどうか審査する「参入規制」(①)です。これに加えて、特に安全管理等に携わる従業者について、試験などによって必要な知識を備えていることを担保する「資格制度」(②)が加わるのが通例です。

 この方式(①+②)は、多くの産業に対して、どの国でも実施されてきたことで、基準が分かり易い、アウトサイダーを許さないので実効性がある、などの利点があります。しかし反面で、営業の自由に対して国が介入することになるので、規制のコストがかかることと相俟って、先進資本主義国では忌避される傾向があります。とりわけ、1980年代以降の規制緩和の世界的潮流の中では、このような直接介入は回避され、「非違行為は事後的に厳しく罰すれば良い」という主張(表では⑦)に道を譲る傾向にあります。

 ③ の例として、電気通信機器の自己確認制度(電気通信事業法63条)など法律によって委任されたもののほか、「アクセシビリティを考慮した商品」のűマーク(情報通信アクセス協議会 [2007])や、著作権の自己登録方式である CCマークなどがあります。自己申告なので信用できないという見方もありますが、マークを作った仲間に背くことが心理的な圧力となるので、ある程度の実効性を期待できます。

 ④ の例として、学会誌における査読を挙げることができ、理系を中心にpeer review方式はグローバル・スタンダードになりつつあります。しかし査読者の作業負担が大きく、専門分野が狭くなるほど執筆者とライバル関係にある者しか査読できないので、歪んだ人間関係が持ち込まれる危険もあります。品質保証でこの方式を明示的に採るものはありませんが、実は「横並び」が好きなわが国では、事業者は常にライバルの動きを見ているので、暗黙の裡に実行しているとも言えそうです。

 ⑤ は最も一般的な手段で「信頼できる第三者(Trusted Third Party = TTP)モデル」として知られます。利害が対立しがちな当事者以外の第三者に判断を委ねることで、客観性が確保されると信じられているからです。この方式については、次回ISMSを例にして改めて説明します。

 ⑥ の例として、市場原理を重んずるアメリカで信じられている指標は、株価の変動です。企業が社会的な期待に反する行為をすれば、投資家が黙っていないから株価が下落して、経営者は修正行動をとらざるを得ないという考えです。ESG投資(Environment- Social- Governanceに問題意識を持った経営をしている企業に集中的に投資をするファンドなど)の伸びを見ると、アメリカではそのような機能が期待できるかもしれません。しかし、わが国の観察結果では、株価が評判を代表しているとの結果は得られません。

 ⑥´は、これをビジネス化したもので、株式や債券、金融派生商品(デリバティブ)などの信頼度を指標化して、売手の信用度を客観的に示し、買手の行動をやり易くする仕組みです。専門知識を元に、ある程度客観的な評価をシグナルとして発信する機能は取引を促進しますが、そのコストは売手負担となっているので利益相反があり、サブプライム問題を引き起こしたりしました。また格付け機関同士の相互チェックに期待しようにも、寡占状態となり易く、期待薄です。

 ⑦ と ⑦´は、「事前規制から事後規制へ」という流れに沿って、①+② 方式に代わって注目されているもので、不法あるいは違法行為があった場合には厳しく対処する一方、参入や平時の事業運営などはなるべく自由にしようというものです。しかし実際には、法的な責任を問うためには証拠が無ければなりませんが、その大部分は事業者の内部にあるため、入手や証明が難しいという難点があります。⑦ よりは ⑦´の方がその面で優れていますが、代表例としての事故調査委員会でも、なかなか証拠が得られないのが実情です。

 それでは、どうすれば良いのか。回答はかなり長くなりますので、次回に続きます。

林「情報法」(12)

品質保証と「情報の経済学」

 前回は、日本の著名な製造業の間で相次ぐ「製品の品質保証」に係る不祥事を取り上げ、「情報法」の観点からすれば、それは「単なる手続違反」として見逃すことのできない事象であると述べました。今回は、この主張を「情報の経済学」ではどう見ているかを、紹介しましょう。

経済学の暗黙の前提と科学性

 経済学は、以下のような前提をおけば、市場で行なわれる取引について、理論的に分析(更には予測・制御)可能であるとする学問です。

① 取引の当事者(売手と買手)は、自分の効用を最大化するために「合理的(rational)に」行動する、
② 両者ともに意思決定に十分な情報を持っている、
③ 相手を探す、相手の信用度を調べる等の、取引コストはかからない、
④ 取引の可否を判断する最大の指標は「価格」であり、「品質」も価格に体現されている、
⑤ 市場における価格は需要と供給の関数として決まり、当事者は「受容者」(price taker)として、これを受け入れる(つまり「市場を支配する」独占的供給者はいない)、
⑥ 取引の効果は当事者間でのみ発生し、外部に影響(近くに駅ができると地価が上がるといった外部経済や、公害のような外部不経済)を及ぼさない、
⑦ 市場が成り立たない(市場の失敗)ために分析できない公共財(教育やインフラ整備)や、⑤ が成り立たない独占については、別の分野(公共経済学、独占・寡占の経済学)として分析する。

 以上の7つの前提条件は、相当に「おおざっぱ」なものですが、それでも他の人文・社会科学に比べれば「科学的」であり、学問の第1着手として「検討の対象を実現可能な範囲に絞った」とすれば、許容範囲にあるようにも思えます。しかも、⑤~⑦ という市場の機能不全を予め想定したので、①~④ については、十分に科学的・実証的分析が可能なように思われました。そして事実、数学を分析道具に取り入れ、20世紀の中葉からコンピュータの能力をも活用した経済学は、「社会科学の雄」と認められるようになりました。

 その象徴的な例が、1968年に創設された俗称「ノーベル経済学賞」です。これはノーベルの遺言に基づくものではなく、スウェーデン国立銀行が設立300周年祝賀の一環として、ノーベル財団に働きかけて設立されたものです。従って、「アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞」と呼ぶ方が真実に近いと思われますが、受賞者には広く認められた研究者が多いことも事実です。彼らは、上記の7前提を更に精緻化した人々が多いのですが、前提自体を疑い部分的にせよ修正させた人もいます。その中には、「情報の経済学」の礎を作った多くの学者が含まれています。

・「取引費用の経済学」「情報の非対称性」「シグナリング効果」など

 その最初の契機を作ったのが、コース(Ronald Coase、1991年受賞)です。彼は1960年の論文で「仮に取引費用がかからないとすれば、取引当事者のどちらに所有権を付与しても結果は変わらない」という証明(俗に「コースの定理」と称される)を通じて ③ の非現実性を証明しました。その結果、所有権をどちらに付与するかが重要なことと「取引費用節減装置」としての法人 (会社) の存在意義を、経済学的に説明したと評価されています。彼の学説は「取引費用の経済学」という分野を創設し、その後ウィリアムソン(Oliver Williamson、2009年受賞)などによって精緻化されています。

 次の展開は、アカロフ(George Akerlof、2001年受賞)による「レモンの市場」の研究でした。論文そのものは1970年に書かれたもので、レモンとは、アメリカの俗語で質の悪い中古車を意味します。レモンの市場では、売手は取引する財の品質をよく知っているが、買手は財を購入するまでその品質を知ることはできません(これを「情報の非対称性がある」と言います)。売手は買手の無知につけ込んで、悪質な財(レモン)を良質な財と称して販売するため、買手は相対的に価格の高い本当に良質な財を購入したがらなくなり、結果的に市場に出回る財はレモンばかりになってしまいます。

 これは、先の前提条件の ② に強い疑いを投げかけるものでした。その後、この分野の研究は保険の市場分析に及び「逆選択」(保険の市場では、健康な人が入らず不健康な人が多く入る)「モラル・ハザード」(保険に入ることによって安心して冒険をしたがる)など、経済合理性に反する事象を次々と発見しました。後者は更に、株主(プリンシパル)と経営者(エージェント)の間では、後者が前者よりも知識が豊富なため、プリンシパルを騙そうというインセンティブになる(プリンシパル・エージェント問題)にも及んでいます。

 更に、ゲーム理論の展開と呼応して、情報の非対称性を克服する対策も考察されました。シグナリングはその1つで、私的情報を保有している者が、情報を持たない側に情報を開示するような行動をとることで、その逆の流れを、スクリーニングと言います。

 こうしてこの分野は、「情報の非対称性」の研究とか、更には広く「情報の経済学」とさえ呼ばれるようになり、ノーベル経済学賞においても、アカロフと同時に、スペンス(Michael Spence)、スティグリッツ(Joseph Stiglitz)が受賞しています。

・「情報財」の経済学は不在?

 このような歴史を、どう評価したら良いのでしょうか? これは経済学が自ら設定した前提を、自分の手で修正して行く過程を示していますから、それこそ「パラダイム変換」(トーマス・クーン)であり、経済学が科学の要件を満たしていると見ることができます。更に、事例を「品質保証」に限って言えば、「レモンの市場」や「シグナリング効果」は、上記前提 ④ を修正して「価格」とは独立に「品質」を考察の対象に取り込むとともに、前提 ② と ③ にも修正を迫る点で、同じく「パラダイム変換」を示しています。

 そうして、こうした修正が今なお続いていることも、評価すべきでしょう。「行動経済学」は、とうとう ① の「合理的経済人モデル」にも修正を迫っており、経済学が心理学と一部融合しつつあることも重要です。2002年のノーベル経済学賞はカーネマン(Daniel Kahneman)に与えられましたが、彼は心理学の実験を通じて、人間が直感(heulistic)に頼り、各種のバイアスから逃れられないことを前提に、経済人モデルを見直すべきことを提言しています。純粋の経済学者の中でもサイモン(Herbert Simon、1978年受賞)は1947年という早い時期に、人間を「限定合理性」しか持たない存在だと主張していましたが、時代に先駆け過ぎたのか、多くの理解を得られませんでした。

 と言って、いささか「褒め殺し」に近い言辞をささげた後で若干の不満を述べれば、「情報の経済学」は、私の分析枠組みである「情報法の規律の対象である情報」と「情報法の規律の手段である情報」に対応する区分を意識的にか無意識的にか避けている上、前者に対する分析が後者に比して著しく少ない点が、気になっています。私から見れば、現在の「情報の経済学」はいささか羊頭狗肉であり、実態は「取引手段としての情報の経済学」に近く、「取引対象である情報財の経済分析」が殆どゼロに近い点に、最大の欠陥があるように思われます。

 もっとも、その視点を一番意識していたバリアン(Hal Varian)が、教授職を捨ててグーグルのチーフ・エコノミストに転じたことからも推測できるように、このような分析は現時点では象牙の塔の中で行なうことはできず、ビジネスの現場に頼らざるを得ないのかもしれません。当面は、ビッグ・データのあるところでしか研究が出来ないとすれば、それも仕方のないことかもしれませんが、近い将来に「研究成果」という「公開情報」が世に出ることを期待して待ちましょう。