林「情報法」(17)

Inforg である法人の刑事責任と免責

 前回に続いて「法人の刑事責任」を取り上げますが、今回はその理論づけを含めて、主として英米法的な視点から論じます。この分野はわが国の学界でも議論が深まり、川崎友己『企業の刑事責任』(2004年、成文堂)や、樋口亮介『法人処罰と刑法理論』(2009年、東京大学出版会)といった良書が現れたので、それらに依拠して最近の動きを紹介します。

 ・代位責任説と同一視説

 「なぜ法人が刑事責任を負うのか?」という基本的疑問に対して、「代位責任説」と「同一視説」という2つの違った見方がありました。前者は、民法の「監督責任」と同じ発想で、本来自然人のみが違法行為の主体であり、法人は当該個人を適切に選任し監督する義務を怠ったとして、「代位責任」のみを負うものと捉えます。一方後者は、法人そのものが違法行為の主体になり得る(「法人の犯罪」という概念を想定し得る)と捉えますので、結果として「自然人と法人を同一視する」立場になります。

 法人の犯罪理論の長い歴史を突き詰めると、この両説の対立だったといえますが、これは理論を純化して敢えて対照的に描いたもので、この両者の中間的な立場が多いと思われます。例えば、行為は自律的な意思決定に基づくものでなければならないとして、法人の犯罪能力を原則として否定しつつも、一定の犯罪については法人を同時に処罰すべきとする政策論。あるいは、法人の受刑能力の視点から「法人は自由刑を受けることができない」ことを所与としつつ、罰金刑を高額にすることで抑止効果の実効性に期待するものなどがあります。

 一般的な傾向として見れば、当初は自然人のアナロジーに過ぎなかった法人の存在感が高まるにつれて、民事法における法人は確固たる地位を占めるようになり、刑事分野においても個人には還元できない「法人固有の犯罪」があり得るとの考えが、次第に強くなりました。

 そのきっかけは意外に早く、憲法学者として有名な美濃部達吉の『経済刑法の基礎理論』(有斐閣、1944年)における「監督過失の推定理論」でした。彼は一般の刑事犯の場合には、道徳的な意思決定ができることが要件で法人にはその能力がないが、行政犯は「(手続)義務違反」の要素が強い罰則だから、法人も対象になるとしました、そして両罰規定がある場合、監督過失は推定されるものとし、個人の責任が法人に容易に転嫁される解釈を導きました(樋口 [2009])。

 美濃部の理論は、解釈論を巧みに利用することで法人の責任範囲を拡大したものでしたが、戦後、法人処罰の発想は藤木英雄による『法人に刑事責任がありうるか』(『季刊現代経済』1974年)などの一連の著作によって、より明示的に提案されました。これは「監督責任」を介するまでもなく、法人の責任を直接的に追及する立場ですが、「同一視」の範囲は過失犯に限られ、故意犯(名誉毀損罪など)についての議論は未成熟でした。

・組織モデルからInforg 論へ

 しかし、板倉宏『企業犯罪の理論と現実』(1975年、有斐閣)が、「個人には可罰性がないとされる非違行為であっても、企業体の組織活動全体を見て処罰される場合があり得る」という「組織モデル」を提唱して以来、このモデルを認める学説が優勢になってきました。つまり、法人の行為を個人の行為と同列に論じ、故意・過失を問わず法人の刑事責任を問うことに、さほどの違和感がなくなってきたのです。前回紹介した「環境(犯)罪法」は、なお代位責任説に基づく両罰規制に留まっていますが、立法趣旨として法人自身による公害の防止が緊急の課題であることは、誰の目にも明らかでした。

 その後の展開を見ると、1980年代半ばのインターネットの商用化と1989年の東西冷戦の終結以降は、アメリカ企業の急成長が顕著で、一時「独り勝ち」の状態になりました。そして、新技術を駆使した法人の活動がより広範囲になり、グローバル企業が登場するにつれて競争も激化したので、レント(超過利潤)を求める企業の行動は法の網目をくぐるように精緻になり、不正経理が続出しました

 例えば、SOX法(Sarbanes-Oxley Act」。正式名称はPublic Company Accounting Reform and Investor Protection Act of 2002)を生むことになったエンロン事件は、単なる不正経理というよりも、電力供給事業という「お堅い」事業を、デリバティブの全面的な活用により「融通無碍」な金融事業に変えてしまった点に、問題の根幹があったと思われます。つまり、グローバル企業が後刻「強欲資本主義」(Greed Capitalism)と批判されるようになる動機と、何でも商品化することができるインターネットという「汎用技術」が結びついた結果、従来とは規模が格段に違った「企業犯罪」が可能になった、と捉えるべきでしょう。

 こうして今日では、「法人の犯罪行為」は自然人よる犯罪に擬制したものというよりも、法人の特性に合致した「実体を伴ったもの」と考えるのが一般的になったようです。この点について私は、フロリディが「人間は情報処理有機体(Informational Organism = Inforg)である」と説いているのを、自然人と法人の両方に適用可能なように拡張して、「個人も法人も Inforgである」と見ることによって、統一的な理解が可能ではないかと考えています。

 この考えは、Luciano Floridi [2014] “The Fourth Revolution”, Oxford University Press(春木良且・犬束敦史(監訳)先端社会科学技術研究所(訳)[2017]『第四の革命』新曜社、という邦訳があります)から借りたもので、拙著を構成する基本概念の1つです。

 ・コンプライアンス・プログラム遵守による免責

 法人も自然人と同様に犯罪の主体になり得るとの発想は、思弁的な大陸法よりもプラグマティックな英米法に、より適合したものです。しかも情報技術やファイナンス理論を使ったビジネスは英米両国の得意分野でもあり、この分野の犯罪が多発しているばかりか、銃社会の米国では、自然人による犯罪も頻度が高く、市民の不安を呼んでいました。

 このような流れに沿って米国では、「医療モデル」と呼ばれる教育刑主義から、「正義モデル」という名の応報主義に転換しました。包括犯罪規制法(Comprehensive Crime Control Act of 1984)がそれで、同じ年に制定された量刑改正法(Sentencing Reform Act of 1984)と相俟って、① 「適正な応報」思想の下で制裁の質と量を再検討し、② 量刑において裁判官の裁量を制限して透明性を高めるため「連邦量刑ガイドライン」を制定してポイント制により量刑を決定する、などの改正がなされました。なお連邦国家であるアメリカでは、刑法は州の権限の部分が多く、これが適用されるのは連邦が定める犯罪のみです。

 このガイドラインは当初自然人の犯罪に対処するものでしたが、1991年には「組織体に対する連邦量刑ガイドライン」が制定されました。そこでは「有効なコンプライアンス・倫理プログラム」を実施している企業については、量刑を軽減する規定を設けるとともに、このようなプログラムを構築していない企業には、罰金刑を宣告する前に猶予期間を与え、同プログラムを作成・実施することを前提に保護観察(probation)とすることができる、としていることが目を引きます。

 これは、「同一視説」「組織体説」のいずれに拠るのであれ、法人処罰の実効性が「企業の代表者や従業者などの個人とは切り離された企業自身のシステム面での注意義務を具体的に提示できるかどうかにかかっている」(川崎 [2004])と考えれば、納得がいくものと思われます。私のように、更に進んで「Inforg説」を採る者からすれば、「社内における情報処理過程を見える化して、どの段階でどのような注意義務が期待されているか」を定めて、リスクをその範囲内に留める努力をしていることを証明して初めて、免責されると考えるべきだと思います。

 刑事と民事は違った側面はありますが、第15回で紹介した「責任は加重されるのか、軽減されるのか、それとも影響がないのか」というケース・スタディは、このコンプライアンス・プログラムのことを念頭に置いたものでした。また同じく民事ですが、コーポレート・ガバナンス・コードで定められている「comply or explain」の原則も、コードの規定をデフォルト・ルールとしつつ、当該企業の事情が許さない場合には、「その理由を説明せよ」と求めているものと考えられます。

 このように英米の方式は、企業に対して強い姿勢で臨む一方で、企業には自治が必要であり、特にリスク管理に関しては「経営判断の原則」を尊重すべきことから、自主的に作成・運用するコンプライアンス・プログラムを免責条項としている点が特徴です。川崎は、この方式はわが国にも有効であるとしていますが、樋口はなお若干の留保が必要と考えているかに見えます。また、いずれの態度を採るにしても、業務が全面的にシステムに依存している以上、その基礎となるソフトウェアにはバグが避けられませんが、その責任問題は世界中どこでも未解決のままであることも、頭の片隅に覚えておかねばならないでしょう。

 

森「憲法の今」(1)

世論調査の怪―「改憲必要」はなぜ急上昇したか

  世論調査結果は質問の仕方で大違い。不十分、不用意な質問文言や選択肢によって世論が歪んで映し出される場合がある。特定の意図をしのばせ、世論を一定方向に誘導することもできる。その点では、世論を反映する以上に世論を作るものである――言い古されたことだが、昨年5月3日の「安倍改憲提案」以来の憲法9条問題の世論調査について、そのことを痛感している。質問が「提案」以前と以後で大きく変わり、「改憲意見」が激増しているのだ。

・朝日新聞の改憲に関する世論調査

 たとえば朝日新聞。2月20日の1、2面に17、18日に実施した調査結果が掲載されていた。9条に関する質問は「安倍首相は憲法9条について、戦争を放棄することや戦力を持たないことを定めた項目はそのままにして、自衛隊の存在を明記する項目を追加することを提案しています。このような憲法9条の改正をする必要があると思いますか」だった。

 その結果は、「必要40%、不要44%」だった。見出しは数字をそのまま出し、「9条改憲 割れる賛否」としていた。9条改憲については「賛否拮抗」というわけである。はたして本当に「改憲」についての賛否の割合だろうか。

 昨年3月から4月にかけて行われた朝日新聞の世論調査では「9条改定賛成29%、反対63%」だった。9条の条文を示した上で、「変える方がいいと思いますか、変えないほうがいいと思いますか」と聞いた結果だ。質問の仕方によって、結果がこんなに変わったのである。

 「それは質問の仕方に問題があるのではなく、安倍提案という新しい世論変動要素ができ、その提案が評価されたからではないか」と説明できるかもしれない。しかし簡単にはうなずけない。その安倍提案が実現を意図している自衛隊像についてきちんと説明されていないからだ。

 しばしば政府関係者が持ち出す数字だが、自衛隊は、現在では92%の国民の支持を受けているという(2015年11月内閣府調査)。「その自衛隊が憲法に位置づけられていないのはおかしい」と安倍首相は主張している。かなりの人が「そうだ、そうだ」というわけだ。しかしそのうちの多くの人の自衛隊イメージは、専守防衛・災害救助・復興に奮闘する「平和的な」自衛隊像ではないだろうか。

 いうまでもなく安倍首相が明記しようという自衛隊は、「集団的自衛権を前提にした、従来とは性格が一変した自衛隊」だ。そのことを設問で明確にしておかなければ、安倍提案を説明したことにはならないのではないか。

 ・読売新聞調査では「自衛隊明記必要」意見71%

 実は他メディアも朝日新聞と同様に「自衛権について極めて厳しい制限をしたうえでの自衛隊の明記」という選択肢を欠落させたまま聞いた結果を、「改憲についての国民の意見」としている。それはいずれも安倍提案以前とかなり異なっている。それを安倍提案前と今年2月実施の調査で見てみよう。

<読売新聞の場合>
 2017年3月14日調査票郵送、4月18日までに回収、4月29日紙面発表
 質問と回答結果「憲法9条の条文には第1項と第2項があります。それぞれについて、改正する必要があると思うかどうかをお答えください。
◇「戦争を放棄すること」を定めた第1項については、改正する必要があると思いますか、ないと思いますか。・ある15% ・ない82% ・答えない2%
◇「戦力を持たないこと」などを定めた第2項についてはどうですか。 
・ある46% ・ない49% ・答えない5%」
2018年2月10~12日電話調査、14日紙面発表
 質問と回答結果「憲法に自衛隊を明記することについて、自民党は、戦力を持たないことを定めた9条第2項を維持する案と削除する案を検討しています。あなたの考えに最も近いものを、1つ選んでください。
①9条2項を維持し、自衛隊の根拠規定を追加する36%
②9条2項を削除し、自衛隊の目的や性格を明瞭にする35%
③自衛隊の存在を憲法に明記する必要はない20%
④答えない9%」

<毎日新聞の場合>
 2017年4月22~23日電話調査、5月3日紙面発表
 質問と回答結果「憲法9条を改正すべきだと思いますか、思いませんか ・思う30% ・思わない46%」
 2018年2月24~25日電話調査、26日紙面)
 質問と回答結果「憲法9条1項は戦争の放棄、2項は戦力を持たないことを定めています。自衛隊の存在を明記する改正について、あなたの考えは次のどれに近いですか。
①憲法9条の1項と2項をそのままにして自衛隊に関する条項を追加する37%
②憲法9条の第2項を削除して自衛隊を戦力として位置付ける14%
③自衛隊を憲法に明記する必要はない20%  
④わからない20%」
(以上各新聞から)

<NHKの場合>
 2017年3月(個人面接法で実施)
 「憲法9条は改正する必要があると思うか ・思う25%、必要はないと思う57% ・どちらともいえない11% ・わからない・無回答8%」
 2018年1月6日~8日電話調査
 「自民党の憲法改正推進本部は、自衛隊の明記に関する論点整理で、戦力の不保持などを定めた9条2項を維持する案と削除する案の両論を併記しました。憲法9条への自衛隊の明記について、どうすべきだと思うか聞いたところ、①『9条2項を維持して、自衛隊の存在を追記する』が16%、②『9条2項を削除して、自衛隊の目的などを明確にする』が30%、③『憲法9条を変える必要はない』が38%でした」
(NHKホームページから)

 以上の調査で、①、②としたのは、いずれの調査の場合も、自民党が、昨年12月に「両論併記」で発表した、いわば自民党の候補案である。①は安倍首相の昨年5月の提案をそのまま、②は同党安保・防衛政策に大きな影響力を持つ石破茂元防衛相の主張にほぼ沿っている。両方とも自衛隊明記を主張している。その両方を合わせると読売新聞は71%、毎日新聞では51%、NHKは46%だった。それを「改憲賛成」とすれば、毎日新聞調査、NHK調査とも最近の数字は前年ほぼ同期より21%も増えている。読売新聞の2017年春の調査は第1項、第2項それぞれについて賛否を聞いているので、いちがいには言えないが、「改憲賛成は大幅増」の印象を与えている。

・石破提案と「戦力」の説明

  なぜそうした「世論の変化」が生まれたのか。その一つの理由は、もともと「自衛隊明記が必要」と考える層が潜在的にあり、それが安倍提案によって表面に浮かび上がったということが考えられだろう。ところがもう一つの理由を見過ごすわけにはいかない。それは質問文言や選択肢の不十分さ、あるいは意図的とも思える質問によって生じたのではないか、ということである。

 安倍提案には「集団的自衛権を前提とした自衛隊」が明らかにされていないことは、すでに指摘した通りである。石破氏の主張についても、毎日調査を除いて重大な指摘が欠けている。それは石破氏の年来の主張は、自衛隊の「戦力」としての性格・目的を明確にするということだ。その記載がなければ、回答者の多くは「白紙の状態で、これから目的などを決めていくんだ」と勘違いしてしまうのではないだろうか。その点で、毎日新聞調査の結果が示唆的だ。②への支持が読売、NHKに比べて非常に少ないのは、「戦力としての自衛隊の位置づけ」と自民党併記案の内容を明確にしているからではないだろうか。

 「注目すべき質問」は、読売新聞のものだ。いきなり「憲法に自衛隊の存在を明記することについて、」となっている。これでは、かなりの回答者は「明記することが前提で、それにあたってどう明記すべきか」を問われているような気持ちになり、2つのうちどちらかを選んでしまうのではないだろうか。

  改憲意見の急増という〝怪〟現象の背景を考えると、質問項目自体が「集団的自衛権を認めないという考えに立ったうえでの自衛隊明記」という視点を欠いていることに行きつく。これだと、どうしても既存の改憲論議の支配的潮流に流されてしまう。

 たとえば、まず「あなたは自衛隊の存在を明記することに賛成ですか、反対ですか」を聞く。そして賛成の人に「その自衛隊は集団的自衛権を前提にしたものですか、それとも集団的自衛権を否定したものですか」と聞けば、答えはだいぶ違ってくるだろうし、以下のような選択肢を設ければ、さらに正確に国民の意見を知ることができるだろう。
 ①9条改定は不要 ②集団的自衛権の容認とそれを担保する組織(自衛隊)の明記 ③(集団的自衛権を否定し、専守防衛の範囲内での自衛権にとどめるなど)自衛権についてきわめて厳しい制限をし、それを担保する組織の明記(③は「新9条案」「護憲的改憲論」などと称され、急速に注目を集めているもの)。

 憲法という国の基本法を改めるということであれば、大事なのは改憲をめぐるいろんな論議を丁寧に説明し、国民が改憲の意味をよく理解したうえで選択できるようにすることである。集団的自衛権そのものが、歴代の内閣が日本国憲法下では「違憲」だと見なしていたものである。それが安倍政権によって強引に閣議決定された経緯を考えると、改憲論議において「集団的自衛権」に触れないわけにはいかないだろう。

 ちなみに朝日新聞の3月調査(17、18日実施)では、質問は「安倍首相は、憲法9条を改正し、自衛隊の存在を憲法に明記することを提案しています。安倍政権のもとで、こうした憲法の改正をすることに賛成ですか」に変わり、賛成33%、反対51%だった。読売新聞の調査(10、11日実施)では「自民党は、憲法に自衛隊の存在を明記することについて、戦力を持たないことを定めた9条2項を維持したうえで、自衛隊の根拠規定を追加する案を検討しています。この案に、賛成ですか反対ですか」という質問に、賛成44%、反対41%だった。毎日新聞調査(17、18日実施)では2月と同文の質問に、「憲法9条の1項と2項はそのままにして自衛隊に関する条項を追加する」が38%、「憲法9条の2項を削除して自衛隊を戦力と位置付ける」12%、「自衛隊を憲法に明記する必要はない」18%だった。

 朝日の場合は、「安倍首相のもとで」という文言を入れただけで、「改憲賛成」は7%減り、「反対」は逆に7%増えている。読売の場合は、前月の「改憲賛成」71%とは大違いの数字が出てきている。自民党案の選択肢を2つから1つに減らしたことが大きな原因ではないか。9条をめぐる「世論」の振幅の激しさは、かなりの程度調査する側の質問の仕方に起因しているといえる。

 いま必要なのは、安易な質問項目によって〝捻じ曲げられた〟世論を作り上げることではなく、<日本国憲法の今>を理解できる材料を読者に提供することではないだろうか。いささか面はゆいが、本連載はその一環をめざしている。

追記(2018.6.20)

●選択肢から「2項削除案」が消えた

 全国紙、通信社、TVキー局など大手メディアは、毎年3月から4月にかけて憲法に集中した世論調査(憲法調査)を実施し、その結果を5月3日の憲法記念日の前後に発表している。(以後調査実施月を明示しない限り、「調査」は憲法調査をさす)。

 通常はそのときどきの政治課題、社会現象への質問と合わせての調査なので、「賛成」「反対」までしか聞いていないが、この調査では、いくつかの重要設問については「賛成」「反対」の理由まで聞いている。そのため、かなりきめ細かく国民の「憲法観」が浮かび上がってくる。

 今回調査の特徴は、前稿で指摘した、9条改定意見の選択肢から「2項を削除して自衛隊を戦力と位置付ける」が消え、「憲法9条の1項と2項をそのままにして自衛隊を明記する」だけになったことである。自民党の改憲案が、昨年5月の安倍首相提案の方向でほぼまとまった、ということが理由だろう。その結果、もともと2項削除論を選択肢としていなかった朝日を除く調査では、みかけの「改憲賛成」はかなり減っている。

 一方、選択肢として残った「安倍・自民党提案」が集団的自衛権を前提にしたものであることについては、一部の社の調査ではこれまでより踏み込んではいるものの、全体的には記述にまだ消極的だ。

 朝日新聞調査では、質問は「安倍首相は、憲法9条の1項と2項をそのままにして、新たに自衛隊の存在を明記する憲法改正案を提案しています。こうした9条の改正に賛成ですか。反対ですか」で、「賛成」39%、「反対」53%、「その他・答えない」8%だった。

 「賛成」「反対」の理由を聞く設問には、賛成理由の選択肢に「自衛隊を憲法に明記することで、自衛隊が海外で活動しやすくなるから」、反対理由の選択肢に「自衛隊を憲法に明記することで、自衛隊の海外活動が拡大する恐れがあるから」があるが、それぞれが集団的自衛権と不可分に結びついていることの記述はない。

 読売新聞調査の質問は、「憲法9条について、戦争の放棄や戦力を持たないことなどを定めた今の条文を変えずに、自衛隊の存在を明記する条文を追加することに、賛成ですか、反対ですか」で、「賛成」55%、「反対」42%だった。同社もその理由を聞いているが、その選択肢には示唆的にでも安倍案が集団的自衛権を前提にしていることを指摘したものはない。

 毎日新聞調査は、「自民党は憲法9条の1項と2項はそのままにして、新たに設ける9条の2に自衛隊の存在を明記し、『必要な自衛の措置をとることを妨げない』とする改正案をまとめました。自衛隊の位置づけが明確になる一方で、集団的自衛権の全面的な行使容認につながるとの指摘もあります。この案について賛成ですか、反対ですか」と、自民党(安倍)案と集団的自衛権の関係について述べている。その質問には「賛成」27%、「反対」31%、「わからない」29%だった。

 NHKは「あなたは、憲法改正について、戦力の不保持などを定めた9条を維持したまま、自衛隊の存在を明記することに賛成ですか。反対ですか。それともどちらとも言えませんか」に「賛成」31%、「反対」23%、「どらともいえない」40%、「わからない・無回答」6%、だった。

 毎日、NHK調査で「どちらともいえない」「わからない」が、朝日、読売の調査に比べてかなり多いのは、質問票を郵送して返送までに1か月程度の時間があった朝日、読売調査に対し、電話での調査で、回答者に考える時間が少なかったためだろうか。NHKの場合は「わざわざどちらともいえませんか」としていることも影響しているかもしれない。

●自衛隊の活動を制約するために「改憲賛成」も

 前稿で、筆者は「憲法9条の1項と2項をそのままにして自衛隊を明記する」「2項を削除して自衛隊を戦力と位置付ける」という2つの選択肢を、ともに「9条改定に賛成意見」とした。その観点からいえば、2月調査では改定賛成意見は読売調査では71%、毎日調査では51%、NHK調査では46%だった。数字の上では「自衛隊明記」賛成意見はかなり減っているのである。

 「自衛隊明記」反対派にとって喜ぶべきことだろうか。必ずしもそうはいえない。読売調査では、一見護憲意見とみられる「自民党案に反対」意見の中に、「自衛隊を国防軍と位置付ける憲法改正を行うべきだから」という理由を挙げた回答者が20%強含まれているのである。毎日調査では13%、NHK調査では3%が、同趣旨の理由を選択している。

 安倍政権下での改憲発議があるとすれば、それは「自衛隊明記に賛成か反対か」ということになるだろう。その場合、この層のほぼ全員と「わからない」層のかなりは、賛成票を投じることになるのではないだろうか。

 しかし一方では、逆の現象もある。前稿では紹介しなかった共同通信社も郵送で憲法世論調査をしており、「あなたは『戦争放棄』や『戦力の不保持』を定めた憲法9条を改正する必要があると思いますか、改正する必要はないと思いますか」と質問している。結果は「必要がある」44%、「必要ない」46%、無回答10%だったが、「必要がある」という理由の中に選択肢として「自衛隊の活動範囲を『専守防衛』に制約するため」を入れている。「改憲賛成」意見を持つ人の10%がそれを選択している。

 そうした意見は、いわば「護憲的改憲論」だが、これまであまり紹介されることはなかった。しかし今後、選択肢の1つとしてはっきりとした形で浮上してきた場合はどうなるか。憲法9条についての新しく、大きな民意が見えてくるかもしれない。

 

ディストピア映画(~1980年)

スリーパー [DVD]

 どもども。kikです。今回は、特定の映画ではなく、ジャンル・ムービーについて書いてみようかなと。

 これまで、1980年より前の、つまりまだインターネットなんてものがなかった時代に作られた映画を題材に、ざっくりとですが、サイバーリテラシー的(?)なテーマを探ってきました。

 大半がSF映画でしたが、SFというのは単に Science Fiction の略だけでなく、Speculative(思弁、思索)Fiction としての側面もあるため、その時代に作られたSF映画から、当時の人々が(少なくとも映画人が)、どういった問題に関心を持っていたかが分かります。特に、悲観的な未来を描いた作品からは、当時の人々が未来に対して、どういう不安を感じていたかを(多少なりとも)窺い知ることができるわけです。

 そして、そのような悲観的な未来像=およそ「ユートピア(理想郷)」とは正反対の未来を描いた作品群を、フィクションの世界では「ディストピア」というジャンルに分類します。

 1980年より前の時代、このジャンルで多かったのは、やはり「核戦争後の世界」を描いた作品でした。二度の世界大戦や東西冷戦といった当時の世界情勢は、全面核戦争で世界が滅ぶ未来像に、リアルな説得力があったのでしょう。

 ただ、この種の映画は「ディストピア」の一種ではありますが、「ポスト・アポカリプス(終末後)」というジャンルにも分類されます(まあ、細かいジャンル分けをしだすとキリがないのですが)。

 なので、名作『渚にて』 (1959)を始め、『タイム・マシン 80万年後の世界へ』(1960)、 『タイム・トラベラーズ』(1964)、 『未来惑星ザルドス』(1974)、 『SF最後の巨人』(1975)、 『世界が燃えつきる日』(1977)等々、SFマニアには有名な作品も多い年代ながら、今回これらの作品には触れません。

 さて、ディストピア本来の定義からすると、ディストピア映画とは、基本的に全体主義管理社会監視社会を描いた作品が中心となります。

 まあ、同じ管理社会でも、何が管理されているかによって、描かれるテーマは変わります。70年代は、ちょっと特徴的なディストピア作品が増えた時代でもありました。

 この時代、人々の関心に「急激な人口増加」が加わったため、『赤ちゃんよ永遠に』(1972)、 『ソイレント・グリーン』(1973)、 『2300年未来への旅』(1976)といった、人口問題を扱った作品が多く発表されました。

ZPG: Zero Population Growth [DVD] [Import] (1971)

 それぞれ「人口爆発」への対処法が描かれますが、『赤ちゃんよ永遠に』の未来世界では、そもそもの出産が禁止されています。妊娠、出産をした者は死刑。子供が欲しい夫婦はロボットベビーを買って育てます。そんな世界で、どうしても本物の赤ちゃんが欲しくなったキャロル(ジェラルディン・チャップリン=チャーリー・チャップリンの娘)は、危険を覚悟の上で、ある決断をします。

ソイレント・グリーン [DVD]

 『ソイレント・グリーン』の世界では、人口増加によって格差社会が広がっています。食糧不足のため、貧しい人々には、プランクトンを原料とした合成食品が配給されます。その合成食料を作っている会社の幹部が殺されたことで、捜査に当たったソーン刑事(チャールトン・ヘストン)は、恐るべき真実を目にするのでした。

2300年未来への旅 [Blu-ray]

 一方、『2300年未来への旅』の世界では、出産制限も食料不足もありません。なぜなら、コンピュータで管理されたこの世界では、30歳になった人間は殺されるからです。

 当然、逃亡者も出てくるので、それを追うサンドマンという職業が存在します。サンドマンのローガン(マイケル・ヨーク)は、コンピュータの指令で逃亡者たちの聖地へ潜入しますが、そこで衝撃的な事実を知ります。

 いずれもエンターテインメントである以上、極端な世界を描きますが、問題の本質は現代にも通じます。人口問題もそうですが、命に対する権利について、改めて考えさせられます。

 さて、もう少しサイバーリテラシー的な視点のディストピア作品も挙げてみます(過去に紹介した『メトロポリス』『時計じかけのオレンジ』なんかもその一例ではありますが)。

 街のいたるところに監視カメラがあり、ネットを通じて様々な個人情報が吸い上げられ、何かあればSNSで全世界に身元を晒される現代では、「国家が国民のすべてを監視している世界」「情報統制によって人々が管理されている全体主義社会」というのはリアルな脅威ですが、実はこの時代にも、その種の作品が存在していました。

 というより、(映画に限らず)ディストピアというジャンルの生みの親のような小説があり、この時代にはもう、映像化を果たしていたのです。

1984 [DVD]

 その中で、まず取り上げたいのは、『1984』(1956・英)です。日本では劇場未公開でしたが、ジョージ・オーウェルの原作は広く知られていますね。映画は、ほぼ原作通りです(アメリカ公開版は結末が違いますが)。
※ 尚、本作は1984年にもリメイクされました。そちらの紹介はまたいずれ。

 ここでの世界は、絶対君主ビッグ・ブラザーによる完璧な監視体制によって、国民を管理・支配する全体主義国家です。主人公ウィンストン(エドモンド・オブライエン)は情報操作を行う「真実省」に勤務していますが、体制に疑問を持ったことで(当然ながら)破滅の道を歩きます。

 ちなみにこの小説、約70年前の作品ですが、トランプ大統領就任以降、アメリカ(Amazon)で、ベストセラーのトップに躍り出て話題となりました(売り上げ9500%増だそうです)。作中、国民の思考を制限するための「ニュースピーク」という架空言語が登場しますが、「オルタナティブ・ファクト」だと主張する政権に対し、多くの人が「ニュースピーク」を連想したとのこと(・∀・)

 また、ビッグ・ブラザーの監視体制は、スノーデン氏が告発した、アメリカ情報機関(NSA)による国民への監視をも連想させます。こうした監視は「テロ対策」が主な理由とされますが、「安全」との引き換えに、市民への監視や自由の制限は、どこまで許容すべきでしょうか。「安全か自由か」は、サイバーリテラシー的にも大きな問題の一つです。日本人は、個人情報漏洩は警戒するものの、監視社会についてはあまり気にしていないという調査結果があるようですが、もはや他人事ではありません。

 監視とサイバーセキュリティを専門とする弁護士、ジェニファー・グラニック氏は、「今や私たちは誰もが運動家です。つまり誰しも政府による監視を心配すべき何かがあるということです」と語ります。

 うん。それな(´ー`)σ 

華氏451 [DVD]

 次に挙げる作品は、『華氏451』(1966)です。レイ・ブラッドベリの同名原作をフランソワ・トリュフォーが監督した作品ですが、こちらの世界では、の所持が禁じられています。

 一見、平穏な社会が築かれていますが、市民が相互監視し密告しあう世界です。また、本を読んで考えることをしないので、住民は思考力が乏しく、記憶力も衰えています。そんな世界で、本の焼却を仕事としているモンターグ(オスカー・ウェルナー)は、偶然出会ったクラリス(ジュリー・クリスティ)から本の魅力を教えられていきます。

 この世界では、「本」が有害で、社会秩序を脅かす存在として扱われています。しかし、本を読まず、自ら考えることを放棄した人々は、無害だけど無能な、ただ管理されるだけの存在へと飼いならされているのでした。

 安全、秩序といった、誰もが反対しにくい言葉と引き換えに、監視・管理社会となっていく世界といえば、9・11後のアメリカ社会がまさにそうでしたね。日本のテロ等準備罪(共謀罪)も含め、注意すべき状況は常にあります。

 しかし、人間はそうした管理や抑圧に対して 必ず自由を希求するはず……という考え方は、今も昔も存在します。1967年、南カリフォルニア大学時代のジョージ・ルーカスは、『電子的迷宮/THX 1138 4EB』という短編映画で、恋愛さえ禁じられた世界から、主人公 に愛の脱走劇を演じさせましたし、ウディ・アレンは『スリーパー』(1973)で200年後に生き返り、未来の全体主義を笑いで打ち破っています(抱腹絶倒です)。

 ディストピア映画で、恐ろしい未来を描きながら、どこか希望の残るエンディングとなる場合が多いのは、作り手の、人間性への信頼なのかもしれません。この流れは、『未来世紀ブラジル』(1985)、『マトリックス(シリーズ)』(1999~)等へ受け継がれて、現在に至ります。

 もっとも、インターネット以降の時代に、人々を抑圧するのは、必ずしも国家権力とは限らなくなってきました。既存の権力を批判し、自由を追求してきたはずのネット企業が、自らが(一種の)権力となってしまい、ユーザの自由や権利を制限しはじめています。そのことが、場合によっては国家の権力を強化したり、有益な情報を発信しようとする人々の権利を阻害しているのです。なんとも複雑な時代ですね。

 しかし、CNNの元記者で北京支局長や東京支局長を務めたレベッカ・マッキノン氏は、「テロとの闘いで、権利を犠牲にする必要はない」と言い切ります。

 確かにその通りです。でも、もちろん、そのための「闘い」は必要でしょう。あらゆる平等、自由、権利は、それを理想とする人たちの長期間にわたる運動によって、ようやく勝ち得たものです。スピーチの中で彼女が言うように、公害を撒き散らしている企業の社長が、ある朝突然、「よし土地の汚染を取り除こう!」と思い立つことはありません。企業への規制も、市民の運動があってこそ。まさに、「沈黙を守っている知恵、あるいは 発言する力なき知恵は無益なり」(キルケ)ってとこでしょうか。

 映画は時に権力側のプロパガンダとしても利用されますが、それでも多くの示唆を与えてくれます。ディストピアというジャンルは、人類の未来に対する、最終的な希望のジャンルかもしれません。その希望に応えるには、やはりサイバーリテラシーこそ重要なのです(無理やり着地した感)。

 

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)
ジョージ・オーウェル
早川書房
売り上げランキング: 976
ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)
早川書房 (2012-08-01)
売り上げランキング: 15,424
侍女の物語
侍女の物語

posted with amazlet at 18.03.02
早川書房 (2014-11-28)
売り上げランキング: 2,159
茶色の朝
茶色の朝

posted with amazlet at 18.03.02
フランク パヴロフ ヴィンセント ギャロ 藤本 一勇 高橋 哲哉
大月書店
売り上げランキング: 37,959
アメリカから〈自由〉が消える 増補版 (扶桑社BOOKS新書)
扶桑社 (2017-07-05)
売り上げランキング: 43,367
華氏 911 コレクターズ・エディション [DVD]
ジェネオン エンタテインメント (2004-11-12)
売り上げランキング: 47,232

林「情報法」(16)

責任論に戻って:損害賠償(民事責任)と刑事罰

 本題に戻ります。第11回から第15回までは品質表示の偽装を巡って、情報法的に見てなぜそれが大切なのか、責任(民事責任)は誰が負うべきか、ISMSなどの認証と手続きを守っていれば責任は軽減されるのか、といった論点を議論してきました。そこでこの流れの最後に、民事責任(≒損害賠償責任)ではなく、刑事責任はどうなるのか、コンプライアンス・プログラムの遵守が免責事由になるのか、といって点を2回に分けて議論しましょう。

・法人の民事責任は「監督責任」だが、一次的な訴訟当事者でもある

  まず確認しておきたいことは、伝統的な法学(特に大陸法系)においては、法律的な効果が生ずる行為(法律行為)の主体は、原則として自然人であり、法人にはその「監督責任」という形で責任が生ずる、という2段階構成になることです。

 この点を、わが国の民法において見れば、違法行為の主体は自然人であり(民法709条)、その自然人を使用して事業を執行する者は「監督責任」を負いますが(同715条第1項)、「使用者が被用者の選任及びその事業の監督について相当の注意をしたとき、又は相当の注意をしても損害が生ずべきであったとき」は免責されます(同項但し書き)。従って、ISMSを守っていれば責任が軽減されるか否かは、「監督責任」に係る議論だったのです。

 もっとも実際の訴訟においては、被害者は行為者を訴えることも、その者が雇われている会社を訴えることもできますが、法人の方が金持ちなので、法人を相手に訴訟を起こすのが普通です(法人が賠償額を支払えば、行為者に対する求償権が生じます。民法715条3項)。その結果、民事法の分野では、責任の主体が誰であるかの論議は、さほど厳格に考えられていません。

・刑事責任はより厳格で「両罰」が一般的

 一方、公害や品質表示の偽装などは、いわゆる「会社ぐるみ」で行なわれるので、庶民感情としては「会社が加害者」です。「会社自身の非違行為」に対しては、被害者が裁判を起こさねばならず時間と費用がかかる民事事案としてではなく、刑事事件として処理して欲しい、という見方が強いと思われます。現に相次ぐ公害事件を経て、「公害(犯)罪法」(正式の名称は「人の健康に係る公害犯罪の処罰に関する法律」1970年法律第142号)が制定されましたが、そこでは以下のように規定されており、行為主体が自然人であるという原則は貫かれています。

(故意犯)
第2条 工場又は事業場における事業活動に伴つて人の健康を害する物質(カッコ内略)を排出し、公衆の生命又は身体に危険を生じさせた者は、3年以下の懲役又は300 万円以下の罰金に処する。
2 前項の罪を犯し、よつて人を死傷させた者は、7年以下の懲役又は500万円以下の罰金に処する。

(過失犯)
第3条 業務上必要な注意を怠り、工場又は事業場における事業活動に伴つて人の健康を害する物質を排出し、公衆の生命又は身体に危険を生じさせた者は、2年以下の懲役若しくは禁錮こ又は200万円以下の罰金に処する。
2 前項の罪を犯し、よつて人を死傷させた者は、5年以下の懲役若しくは禁錮こ又は300万円以下の罰金に処する。

(両罰)
第4条 法人の代表者又は法人若しくは人の代理人、使用人その他の従業者が、その法人又は人の業務に関して前2条の罪を犯したときは、行為者を罰するほか、その法人又は人に対して各本条の罰金刑を科する。

 このように、刑を科されるべき者は実際に生きている人間、いわゆる自然人であることを前提としつつも、違反行為によって実際に利益を得るのは法人ですから、法人自身を別に処罰する旨の規定(「両罰規定」と呼んでいます)を置くことがあり、行政刑法と呼ばれる行政規則違反行為の面では多くなっています。

 両罰規定の中には、公害罪法4条のような規定の後に、「ただし、法人又は人の代理人、使用人その他の従業者の当該違反行為を防止するため、当該業務に対し相当の注意及び監督が尽くされたことの証明があったときは、その法人又は人については、この限りでない。」という但し書きのあるものがあります。立法技術的には、現在はこの但し書きは付けないことになっているので、判例に従えば、但し書きがなくても同様に解釈されることになります。

・法人処罰に関する考え方

 このように「法人の犯罪行為」を直接認めず、自然人の犯罪行為が認められることを前提に「両罰的」に認めることには、違和感を覚える読者もおられるかもしれません。しかし、それには以下のような理由があると考えられます。

 ① 法概念に厳格な大陸法系、特にドイツ法においては、法人実在説と法人擬制説が激しく争った歴史があり、法人実在説が通説となったとは言い難い状況にある。
 ② どちらの説に拠ったとしても、法人自身に「意思」があるとは言い切れず、会社にあっても取締役やその集合体である取締役会などが、実際の意思決定を行なっている。
 ③ 法人に刑罰を科すとしても、懲役や禁錮などの自由刑はあり得ず、罰金刑しか考えられない。
 ④ 私人間の紛争を法的に処理する民事法と、国家権力によって個人や社会全体の利益を保護する刑事法は、目的が異なることから、裁判も全く違った仕組みを取っている(「民事と刑事の峻別」という)。
 ⑤ 民事法と違って刑事法は刑罰という不利益を強制的に科す以上、法の適用にはより慎重であらねばならない(「法の謙抑性」と呼ぶ)。

 しかし実際には、法人の社会的存在意義が大きくなるに連れて、法人に対して刑事罰を科すための要件を緩和したり、罰金類似のサンクションを科すことが、特にプラグマティックな英米法を中心に顕著で、以下のような例があります。

  a) 法人内の意思決定や指揮命令過程は外からは分からないので、結果の発生を以って因果関係の証明があったものとするなど、要件を緩和している(先の公害罪法5条も、「工場又は事業場における事業活動に伴い、当該排出のみによつても公衆の生命又は身体に危険が生じうる程度に人の健康を害する物質を排出した者がある場合において、その排出によりそのような危険が生じうる地域内に同種の物質による公衆の生命又は身体の危険が生じているときは、その危険は、その者の排出した物質によつて生じたものと推定する。」との推定規定を置いている)。

 b) 独立行政委員会(わが国の公正取引委員会のモデルとされるアメリカのFTC = Federal Trade Commission など)が規則等に違反する行為を行なった企業等に課す課徴金は、刑事罰ではないとされるが、実効的には罰金と変わらない機能を果たしている。

 c) しかも、違反行為の発覚前に自主的に申告した企業には、刑事・民事の免責を予め制度に組み込むなどして、刑事罰の適用よりも実効性を上げる工夫をしている(なお、この減免制度 = leniency は、わが国の独禁法にも導入され、談合の自主申告などで効果を発揮している)。

 d) 同一の事案が民事でも刑事でも裁判になった場合に、両者で証拠を共有することが認められている(わが国でも交通事故の裁判などで、この点が認められるようになっている)。

 しかし、アメリカでは更に進んで、法人の刑事責任を厳しく追求する仕組みが検討されています。この点は、次回まとめて紹介しましょう。

小林「情報産業論」(4)

「シンボル」を巡って

 かれら情報業者がすべてシンボル操作の技術的熟練者であったということは当然のことであった。(p.42)

「情報業における技術の発展」の節で、梅棹は、「情報技術者はシンボル操作の熟練者である」と断言している。

しかし。

何度読んでも、ぼくには梅棹の「シンボル」という言葉の使い方への、いわくいいがたい違和感がぬぐいきれない。どうして梅棹は、ここで「シンボル」という言葉を用いたのだろう。「コード」ではいけなかったのだろうか。「サイン」や「マーク」ではいけなかったのだろうか。

ちょっとググってみても、symbolという言葉の訳語には、主に「象徴」「記号」という2つの言葉が当てられているようだ。一方、「記号」という日本語に対応する英語としては、code、sign、mark、symbolなどがある。

洋の東西を問わず、どのような言葉も、その言葉が使われた時代と地域の文脈(コノテーション)に制約される。おそらく、時代や地域、習得してきた背景知識の違いが、梅棹とぼくのsymbolと象徴の理解の違いを生んだのだろう。

とはいえ、『情報産業論』を読み進む上で、梅棹とぼくとの間に立ちはだかる言葉の壁は、何としても乗り越えておきたい。

ぼくにとって、象徴という言葉は、まず「日本国統合の象徴としての天皇」という日本国憲法の文脈で入ってきたように思う。この点では、梅棹が『情報産業論』を書いた1962年ごろも、「象徴天皇」という言葉は、新憲法の根幹をなす言葉として、社会に受け入れられていたであろうことは、疑いを得ない。だとすれば、梅棹にとっては、シンボルという言葉と象徴という言葉の結びつきは、それほど強固なものではなかったのかもしれない。

一方、1970年代に学生時代を過ごしたぼくにとって、象徴という言葉とsymbolという言葉の結びつきは、抜き差ししがたいほど強固なものだった。

エルンスト・カッシーラの『象徴形式の哲学』(Philosophie der symbolischen Formen)やカール・グスタフ・ユングの『人間と象徴』(Man and His Symbols)など、象徴という言葉には、これらの書物のタイトルと強く結びついていて、ある種の哲学的、分析心理学的匂いのようなものが、染み込んでいた。もう一つ、磔にされたキリスト・イエスの象徴としての十字架を付け加えてもよい。とはいえ、これは、ユングの文脈の範疇にあるかしらね。

ぼくの、梅棹が使うシンボルという言葉への違和感は、おそらくは、このあたりにあるのではないか。

 ・「シンボル」を「記号」と読み替えてみる

梅棹においては、シンボルというカタカナ語は、単純に記号に対応する英語としてのsymbolだったのではなかったか。だとすれば、ぼくにとっては、シンボルという言葉よりも、記号という日本語だったり、codeという英語だったりの方が、ずっとしっくりする。

もうひとつ、ぼくの言葉遣いを制約しているものに、符号化文字集合がある。この言葉は、coded character setの訳語なのだが、符号化する対象は、自然言語の記述に用いられる文字(character)だけではなく、まさに、symbolやicon、pictogram なども含まれる。ぼくのなかに、情報として操作される対象は、symbolだけではありませんよ、という無意識の思いが働いているのかもしれない。

梅棹とぼくの、シンボルという言葉の受け止め方の違いを、このように整理した上で、当面、梅棹のシンボルということばを、記号(code)と置き換えた上で、読み進めていきたい。

「情報とは、すべて記号によって伝達されるべきものである」

うん、すっきりした。

シャノンの情報理解は、ソシュールの言葉を借りると、指し示されるもの(signifié)を棚上げして指し示すもの(signifiant)の伝達の正確さのみに注目したものと捉えることができる。

もちろん、梅棹は、シャノンとは異なり、記号や記号の一種としての言葉の背後にある指し示されるものをも視野に含めた上で、操作という言葉を用いている。

梅棹が、張儀(本文中では、「諸子百家時代におけるひとりの青年情報業者」として言及されている)について語るとき、張儀の舌(メディア)は、張儀の人生・生命を担うものとして、意識されていたに相違ない。

・物理空間と情報空間の接面

いささか話が飛躍する。

ニュートンは、その『自然哲学の数学的原理』(Philosophiae naturalis principia mathematica)を幾何学的思考によって著した。しかし、ニュートン力学が花開くのは、この著作が海を越えてフランスに伝わり、ハミルトンやラグランジェによって、代数学的に定式化され、形式的記号操作が容易に行えるようになった後のことだった。そして、このような記号操作と数値計算をコンピューターが行えるようになり、ついには人類を月に送り込むことが可能となった。

1969年人類は、初めて月面に足跡を残す。梅棹が『情報産業論』を発表した1963年は、アメリカが、その威信をかけてスプートニク計画を追撃し始めたころだった。

我々が生命活動としての生を営む物理世界の法則が、ある数学的定式化を得ることにより、機械的操作が可能となり、膨大な計算量をこなすことが可能となる。その結果が、物理世界に、新たな可能性の地平を拓く。梅棹が『情報産業論』を著し、ぼくが少年時代を過ごした1960年代は、そのような関係が楽天的に捉えられていた時代だった。

そんな時代にあって、梅棹は、情報科学の未来にも、そして、情報科学がもたらす物理世界の未来にも、大きな夢と期待、そして、混乱と暗い未来への一抹の不安を抱いていたに相違ない。

ぼくのこの原稿が掲載されるサイトは、矢野直明さんが主宰するするサイバーリテラシー研究所のホームページ(サイバー燈台)だ。矢野さんは、以前からリアルワールドとサイバーワールドの接する、もしくは、接しない接面についての議論の重要性を説き続けている。

この問題意識は、梅棹の問題意識とみごとに符合する。

すなわち、記号的描写と機械的な記号操作による物理世界の豊潤化への期待と、物理世界との接面を見失った記号的世界への一抹の不安。

しかし、梅棹の不安は、千年紀の境を越えた今、多くの人々の共通の不安となっている。

ボードリアールがシュミラークルの議論で提起した問題やチューリングやサールが提起した人工知能の問題から、SNSが引き起こす物理世界から乖離した人と人とのかかわり方や、仮想通貨の問題に至るまで、物理空間と情報空間の接面に横たわる問題は、枚挙にいとまがない。

梅棹が情報技術者をシンボル操作の熟練者と言った時、梅棹の脳裏には、シンボルによって指し示される拡がりと深みをもった豊かな物理世界が存在していた。ぼくは、いま、こう確信している。

『カプリコン・1』(1977年 米)

カプリコン・1 [Blu-ray]

 ども。これまでの人生で、一度も嘘をついたことがない kik です。

 まず、右の写真を見て下さい。有名なアポロ計画による月面着陸の写真ですね。人類初の快挙を撮影した、歴史に残る一枚です。

 しかし、この写真、よく見ると背景が真っ黒です。宇宙空間なのに、星一つ見えません。おかしいですね。それに、なんとなく星条旗がはためいているように見えます。空気がない月面で、なんで旗が揺れるのでしょう。

 その答えは、これが実は月面で撮影された写真ではないからです。
 アポロ計画なんて嘘っぱち。人類は月になんて行ってません。『2001年宇宙の旅』の原作者、アーサー・C・クラークが脚本を書き、キューブリックが監督して、アリゾナで撮影したのです。この写真が何よりの証拠です。

 … という 「陰謀論」 があります。1969年の月面着陸は捏造だっただとする、この「アポロ計画陰謀論」を始め、NASAが絡む陰謀論は、70年代半ばから世界中で噂されていました。(上記の疑問に対する回答はこちら

 てなわけで、こうした陰謀論をヒントに作られたのが本作です。有人火星探査船の打ち上げに失敗したNASAが、火星に無人の宇宙船を送る一方、砂漠のセットで宇宙飛行士たちに火星着陸の演技をさせる、というお話です。

 その映像によって、計画は成功したかのように報道されますが、地球に帰還する宇宙船が爆発したことで事態が一変。公には死んだことになった宇宙飛行士たちは、身の危険を感じて…と、ここから先は観てのお楽しみですが、非常に良く出来た脚本です。

 映画はもちろんフィクションですが、こうした陰謀論は、現在でも(NASA絡み以外も)ネット上に溢れています。有名なところでは、「ケネディ暗殺陰謀論」(これはオリバー・ストーン監督の『JFK』で、日本でも有名になりました)や、2001年の「アメリカ同時多発テロ事件陰謀説」、「ユダヤ陰謀論」等々、びっくりするくらい沢山あります。どれも、「お話」としては大変面白いのですが、真偽のほどは、もちろん不明です。

 ただ、真偽はともかく、なぜこれほどまで多くの陰謀論が囁かれ、ネットで拡散されているのか…といった部分は、非常に重要な点かもしれません。それら陰謀論に共通するのは、権力とメディアへの不信だからです。確かに、権力がハリウッド(=メディア)と手を組めば、どんな「嘘の報道(フェイクニュース)」も簡単ですからね。

 いまや、メディア不信は世界中に拡がっています。メディア自身に責任があるのは言うまでもないことですが、ここ最近で影響が大きかったのは、やはり2016年の米大統領選挙でしょう。トランプ候補が、メディアへの不信を隠そうとしなかったのは、非常に印象的でした。

 ところが、権力の座に就いたトランプ氏は、大統領就任2日目に(就任式に過去最高の参加者がいたという)「嘘」の情報を発表します。この「嘘」は(ロイター通信の写真によって)即座に見破られたものの、トランプ支持者は「写真はメディアが加工したものだ」という陰謀論を展開し、今でもその情報を信じる人々が存在するそうです。

 まあ、「人間は自分が信じたいことを喜んで信じる」(シーザー)ので、特定の人々にとって、フェイクニュースとは、あくまでオルタナティブファクトであって、「嘘とは違う」のかもしれません。

 とはいえ、メディア不信によって権力側の嘘も暴けなくなる(信じられなくなる)としたら、僕らはいったい何を信じれば良いんでしょう。何も信じられない時代になるのでしょうか。最近思うのですが、この状況自体、メディア不信を広げることによって利益を得る誰かによって、こっそり仕組まれた陰謀なんじゃないでしょうか(笑)。

監督・脚本: ピーター・ハイアムズ
音楽:ジェリー・ゴールドスミス
出演: エリオット・グールド/ジェームズ・ブローリン/テリー・サバラス 他

フェイクニュースの見分け方 (新潮新書)
烏賀陽 弘道
新潮社
売り上げランキング: 7,956
「ポスト真実」の時代  「信じたいウソ」が「事実」に勝る世界をどう生き抜くか
津田大介 日比嘉高
祥伝社
売り上げランキング: 30,769
陰謀論の正体! (幻冬舎新書)
田中 聡
幻冬舎
売り上げランキング: 239,830
ワグ・ザ・ドッグ~ウワサの真相 [DVD]
ワーナー・ホーム・ビデオ (2010-11-23)
売り上げランキング: 40,817