林「情報法」(19)

情報法的責任論のまとめ(2): 差止対自由な流通、加害者対被害者

 法律は複雑な利害関係の調整のためにあるので、「あちら立てれば、こちら立たず」というトレード・オフが頻繁に生じます。これは有体物の世界にもあることですが、非占有性・意味の不確定性・流通の不可逆性という特徴のある情報法(特に情報セキュリティ分野)では、決定的な意味を持つ場合があります。ここでは、差止と自由な流通のバランス、加害者の責任対被害者の防御義務という2つのケースを取り上げます。解決策は一筋縄ではいきませんが、民事法分野での「コミットメント責任」がヒントになりそうです。

 ・差止の現状維持機能と作為命令の妥当性

 前回は差止の必要性を強調しましたが、差止命令の一環として、裁判所が情報を削除する命令を安易に出すことには、十分な警戒も必要です。なぜなら、情報は私たちの社会生活に欠かせないものであり、個人の「言論の自由」にもつながるものですから、「情報の自由な流通」が大原則であり、その流れをせき止めるには「自由な流通」を上回る法的な利益が無ければならないからです。

 差止命令の根拠は法律に規定するのが原則と思われますが、児童ポルノの情報が拡散するのを防ぐため、DNS(Domain Name Server)ブロッキングという手法が「緊急避難」(刑法37条)を根拠にして以来、それに類する主張をする向きがあるのは要注意です。ごく最近では、漫画村など著作権侵害の作品を大量に掲載するサイトに対して、総務省がISPに対して自主的な削除を要請し、通信ビジネス最大手のNTTがこれに応ずることとしたため、賛否両論が戦わされています。本来、行政指導などで対応するのではなく、法制化を急ぐべきでしょうが、バランスの良い法律を作るのも簡単とは言えないようです。

 同じことは、Google やヤフーなど主要な検索事業者に対して、多くの「削除請求」(その実態は検索結果の非表示請求)がなされていることにも言えます。特にEUが「忘れられる権利」(the right to be forgotten)という言葉をGDPR(General Data Protection Regulation)の中に残した(反対意見があって条文そのものはthe right to eraseに代わったが、見出しとしては残っている)こともあって、2つの重要な誤解が生じています。1つは、これがあたかも「人格権にもとづく請求権」であるかの如く論じられていること。2つは、それが「作為命令」であると考えられていることですが、両者に共通なのは、これが差止という範疇に入るとの意識の欠如です。

 第1の誤解については、前述のとおり「情報の自由な流通」が原則であり、差止は例外なのですから、その根拠を明確にすべきでしょう。第2に関して、英米法には「作為命令としての差止」がありますが、わが国では差止は原則として「不作為命令」として運用されています。つまり、差止の基本的機能は「現状維持」(status quo)なのです。

 これらの諸点を含めて、いよいよ「救済手段としての差止のあり方」を抜本的に考える時期に来たようで、ここに「情報法」としての新しい芽吹きが感じられます。

 ・加害者の注意義務と被害者の防御(受忍)義務

  もう1つ注意を要するのは、有体物が中心の世界でも「加害者の過失」だけでなく「被害者の過失」を併せて考慮し、場合によっては両者を「過失相殺」することがあります(自動車事故などが典型例です)が、情報法においては両者を比較衡量することが常態化することです。なぜなら、情報には「価値の不確定性」という性質がありますから、誰に注意義務があるかも「時と場所と態様」によって幅広くならざるを得ず、「加害者の注意義務」と「被害者の防御義務」の両方を含む場合が多いからです(その極端な例は、サイバー・セキュリティ攻撃者と、防御者の間に生じます)。

 被害者に義務があるとは厳し過ぎるようにも見えますが、営業秘密の3要件として、① 有用性、② 非公知性に加えて、③ 秘密管理性が求められること(不正競争防止法2条6項)や、不正アクセス禁止法の「不正アクセス」に該当するには、防御側で「アクセス制御」がなされていなければならない点(不正アクセス禁止法2条3項、4項)等に、具体的に示されています。

 また個人情報保護法においては、個人情報取扱事業者に「安全管理措置」を取る義務(個人情報保護法20条)があるので、漏えい・窃用などがあれば、同事業者が違法行為者に対しては被害者であると同時に、当該個人情報が帰属する自然人に対しては加害者になります。以上の3つの秘密のほか、特定秘密の保護の場合も同様で、総じて「秘密」を保護する場合は、「自ら保護する手段を講じていなければ国家が保護してくれない」という見方は常識的とも言えます。

 実は、有体物の世界では「被害者の受忍限度」という似たような概念がありますが、それは上述した「能動的義務」に対して、あくまでも受動的な義務です。典型的な公害などのケースでは、「平均的な合理的自然人(average reasonable person = ARP)」を基準に、加害と受忍のバランスを考慮しているように思えます。しかしセクハラやパワハラなど、加害行為を有体物に還元しにくいケースでは、時代が進むにつれて被害者の「受忍重視」から「救済重視」へと移行しつつあるように見えます。ここ数か月で起きたセクハラ事案では、こうした時代の変化を知る世代と、それ以前の世代の感受性の差を垣間見る思いがします。

 情報法として、このバランス論を一挙に解決する名案はありませんが、これまでに議論してきた点を表にまとめれば、次のようになると思われます。

表。違法・不法行為と被害者の防御(受忍)義務

侵害の度合い

被害者の防御(受忍)義務なし

コンプライアンス・プログラムの機能

被害者の防御義務あり

可罰的違法(刑事)

いかなる場合も自力救済は許されず、被害者の行為態様は量刑で参酌されるのみ。逆に、加害者が正当防衛の場合は違法性が阻却されるが、過剰防衛は許されない

コンプライアンス・プログラムを遵守していれば、可罰的違法性が免責・軽減される場合がある

営業秘密は「秘密管理性」が欠けると保護されない(不正競争防止法)。コンピュータ・システムは適切なアクセス制御を施していないと保護されない(不正アクセス禁止法)など、無体財に関して

被害者に防御義務がある場合がある

違法(民事)

原則として賠償責任が生じ、その一部に差止が認められる

コンプライアンス・プログラムを遵守していれば、免責・軽減される場合がある

該当なし

不法(民事)

一般的に受忍義務があり、それを上回る(社会的に容認されない)

行為に損害賠償責任が

発生。差止は例外的

過失相殺の参考として、コンプライアンス・プログラムの遵守状況が反映される場合がある

個人データの関しては

個人情報取扱事業者に安全管理義務があり、被害者というよりも加害者になる

・ソフト・ローの規範力と民事法分野のコミットメント責任

 この表を見ながら、改めて私たちが主張している「コミットメント責任」の意義について考えていただきたいと思います。この連載の第14回で、セキュリティ分野のソフト・ローの代表格であるISMSを紹介し、第15回ではソフト・ローを守っていることを第三者に認証してもらうことが「責任を軽減する方向に働くべきか、その逆か」というケース・スタディを行ない、最後に私たちが提案する「コミットメント責任」という仮説を提起しました。

 この仮説は今後も検証していただく必要がありますが、今回述べたことで、その真意をある程度理解していただけたのではないかと、淡い期待を抱いています。

名和「後期高齢者」(5)

プラットフォームにて

 杖の使い手の困惑について、もう少し続ける。とくに難儀なのが電車の乗降。プラットフォームと電車とのあいだの隙間が気になる。まず、乗車のとき。このときに頼れるのは杖1本、あとは隣人とぶつからないように、最後に乗る。だから、席の取り合いには不利。ただし、ラッシュ時でなければ、当方のよれよれぶりを察知して、席をゆずってくれる人は多い。ここで思い出した。吉野弘に「夕焼け」という作品がありましたね。あとで紹介したい。

 降車のときはどうか。電車の扉の内側には握り棒があり、そこを残った片手で掴めばよいのだが、多くの場合、そこには大きな鞄を肩に掛けた屈強の若者が立っていたりする。ただし、ほとんどの人は声をかければ避けてくれるので助かる。それでも、こちらは最後の降り手となるので、せっかちな乗り手とぶつかることがしばしば。

 ここで飯田橋駅(JR中央線)について不満をぶつけたい。この駅のプラットフォームは曲率が大きい。だから車両とのあいだの隙間も大きい。とくに、4号車とその前後のあたりがひどい。なぜ4号車の前後かといえば、この付近でレールの曲率がもっとも大きいためだ。

 もう一つ。隙間は下り列車のほうが大きい。なぜ下りかといえば、曲線のレールには付きもののカントがあるためだ。カントとは曲線部分で走行中の車両が遠心力で脱線することを防ぐために、外側のレールを高くすることを指す。この駅では下りプラットフォームが外側レールに接する。つまり隙間に高低差が加わる。

 もしあなたが飯田橋駅の乗降者であれば、お節介ながら申し上げたい。乗降ともに、4号車は、とくにその車両中央部の扉は、絶対に使わないように。ここがプラットフォームからもっとも離れる。しかも足場となるプラットフォームが階段脇の狭い通路になっているので。

 そもそも、駅はヒトを車両に誘導するための人工物である。その誘導という機能のなかにはアフォーダンスも入るだろう。とすれば、飯田橋駅はわざとアクセスを不便にして乗降客を少なくしようと企んでいるとしか思えない。

 だからか、「飯田橋駅 ホーム隙間」という検索語を入れてみると、24万件の記事が現れる。私と同じ危惧を持つ方が多いということだろう。現在の飯田橋が貨物駅として建てられたのが大正末期。とすれば、この駅はほぼ1世紀にわたり人びとにとって尋常ならざる存在であったということか。ただし、いま飯田橋駅は改良工事中である。プラットフォームを200メートル西に移し、直線化するという。

 ついでに隣のJRお茶の水駅についてもひと言。この駅の周辺には病院が多い。だが、なぜか乗降の手段は階段のみである。エレベータもなければエスカレータもない。

 最後になったが、ここで吉野弘の「夕焼け」について、その梗概を紹介しておこう。詩の梗概とは乱暴な話だが、許してほしい。「いつものことだが 電車は満員だった。・・・・・・うつむいていた娘が立って としよりに席をゆずった。・・・・・・やさしい心にせめられながら 娘はどこまでゆけるのだろう。・・・・・・美しい夕焼けもみないで。」(私事にわたるが、吉野弘は私にとって労働組合運動の先輩だった。)

【参考文献】
吉野弘『幻・方法』飯塚書店 (1959)
幻・方法 (愛蔵版詩集シリーズ)

名和「後期高齢者」(4)

喫茶店にて

 椅子のアフォーダンスについて、もう少しこだわりたい。足腰の衰えた私は、外出時には椅子を探し求める。もっとも手軽な解決法は喫茶店の利用。ただし、問題がある。その店の椅子が、私の変曲した姿勢になじむかどうか。クッションの硬さ、背もたれと肘かけの有無、キャスターの有無、座面の高さ、など。いずれも、事前に調査はできない。

 近年は、ほとんどの店がセルフサービス。私はすでに片手を杖に奪われている。残る1本の手で、トレーを持ち、そこにコーヒーを載せ、さらに財布を操つらなければならない。もし、店が混んでいれば、トレー上のコーヒーが零れて他の客人の衣服を汚さぬように、片手に杖、片手にコーヒーを持った姿勢のまま、こり固まっている自分の身体を制御しなければならない。つまり、椅子のみではなく、店の空間的な仕切りもアフォーダンスをもつ。

 店が混んでいる場合には、あらかじめ席を確保しておかなければならない。ここは私の席だよと主張するために、私たちはそこに何かを置くという行為をする。その何かには何が有効か。目立つものがよいが、たとえばカバンは、万に一つではあるが、だれかに攫われてしまうというリスクがある。だからといって、読みかけの新聞などは、屑と間違えられてしまうかもしれない。いつぞや、派手な柄入りのハンカチーフを置いた人がいたが、このへんが境目かな。ハンカチーフはプロクセミックスの強化機能をもつということか。ここでも、アフォーダンスとプロクセミックスとの衝突が生じる。

 前回、ワンボックスカーの3人がけ座席について喋った。ここで、車を替えてより大型のバンにしたらよいだろう、という異論がでたかもしれない。だが、私の住んでいる街の道幅は狭い。狭い道のアフォーダンスとしてワンボックスカーが採用されたともみえる。町の顔役に聞いたことがあるが、この街の道幅の狭さには歴史があり、道幅は人力車がすれ違えればよい、という発想があったからだという。とすれば、1世紀以上まえには、当時の乗物のもつアフォーダンスに応じて狭い道が建設され、それが半永久的に残っている、ともみえる。道路というインフラストラクチャーにもアフォーダンスあり、ということか。漱石が『硝子戸のなか』でふれていた公衆便所は、いまも同じ場所に残っている。

森「憲法の今」(2)

安倍首相主導改憲案の遮二無二とご都合主義

 国会の場での本格審議入りをめぐって一進一退の日本国憲法改定問題(以後「改憲問題」)だが、改憲を「悲願」とする安倍首相およびその周辺の数々の強引なやり方には、国会や国民との間で丁寧な論議を経て合意に至ろうとする、国の基本法を改める際に期待される姿勢がきわめて希薄だ。

 安倍政権の強引な手法は次の2点に顕著である。

<1>安倍首相は2017(以後は2桁年だけ記載)年5月、これまでの自民党改憲草案とは異なる改憲案を、唐突に、しかも私的なルートで提示、自民党は党内議論すら十分に行わずに両論併記の「取りまとめ」を公表した。

<2>安倍内閣は14年7月、従来、憲法9条に違反すると理解されてきた「集団的自衛権」を閣議で容認することに踏み切った。安倍改憲案はこの決定を前提にしている。

 安倍政権は国の基本法に絡む重大決定をあいまいな手続きで進め、憲法学者の意見も含めて、多くの異論をほとんど無視している。安倍首相が進める9条をめぐる改憲や自民党改憲草案のねらい、さらには改憲をめぐるさまざまな意見を整理し、<日本国憲法の今>を考える判断材料(データ)を提供したい。あわせて国民1人ひとりが重要な事態を迎えていることに注意を喚起できればと願っている。

 まず、これまでの経緯をあらためて振り返ると同時に問題点を指摘し、次回で国会の憲法審査会の役割、私たちの決断が示されることになる国民投票についてふれたい。

<Ⅰ>安倍改憲案と従来の自民党案との齟齬

 安倍晋三首相は憲法制定70周年の17年5月3日、読売新聞でのインタビューや改憲をめざしている日本会議など主催の集会で(ビデオメッセージの形で)、自民党総裁として「憲法9条は1項、2項とも残し、追加として自衛隊の記述を明記する」こと、および「2020年の施行をめざす」との方針を示した。

 「自民党総裁」としての発言といいながら、「首相官邸」でインタビューを受けたり、それを録画したりする公私のけじめのなさ(「党総裁」は「首相」に比べれば「私」だろう)、重大な提案を自民党機関紙でもない一新聞で公表、しかも国会答弁で「私の意見は読売新聞で読んでほしい」と述べる不誠実な態度はさまざまに批判されたが、このインタビュー記事によれば、首相は今回の提案と従来の自民党案との違いについて、「党の目指すべき改正はあの通りだが、政治は現実であり、結果を出していくことが求められる。改正草案にこだわるべきではない。……。9条1項、2項をそのまま残し、そして自衛隊の存在を記述する。どのように記述するかを議論してもらいたい」と述べている。

 その安倍提案を受けて自民党憲法改正推進本部は、改定案のとりまとめに入ったが、容易にまとまらなかった。そもそも自民党には12年に策定した憲法改正草案がある。戦争放棄をうたった9条に関しては、1項はほぼそのまま残され、2項(戦力不保持・交戦権の否認)は削除され、国防軍の保持が入れられている。

 「安倍提案」と「自民党草案」とは、少なくとも文言の上では大きな違いがある。その間を埋めるための調整はどうなっていたのか。それは問題の性格上、ちょっと料亭で話し合う、ということではすまない。党を挙げての大議論になるはずだ。ところがそれが安倍発言以前にあったとは聞いたことがない。「自分の意志は党の意志」。安倍一強の一つの具体例だろうが、さすがに党内から強い反発が出た。

・党内混乱を示す「論点取りまとめ」

 その代表が以前から9条問題には一家言も二家言も持っていた石破茂氏(元防衛庁長官・防衛大臣)である。彼は、あらためて9条第2項を削除して、自衛隊を「戦力」として位置付ける、という党草案に沿った案を提起した。その他、議論百出し、党案のとりまとめはずるずると伸び、昨年末に憲法改正推進本部が示した「憲法改正に関する論点取りまとめ」では、9条については、「改正の方向性として以下の二通りが述べられた。『①9条1項・2項を維持したうえで、自衛隊を明記するにとどめるべき』との意見、『②9条2項を削除し、自衛隊の目的・性格をより明確化する改正を行うべき』との意見」として、首相案と従来案とが併記されていた。ここには首相提案を受けて混乱した党内事情が浮き彫りになっている。そうしたことから細田本部長が「今年3月25日の党大会には」としていた具体的な改憲文言の決定は、その党大会では二階俊博幹事長から同党が検討している「改憲4項目」の「条文イメージ・たたき台素案がまとまった」と報告されるにとどまった。

 首相案はどういう経過で浮上したのか。この経緯はきわめて不鮮明である。2012年12月、首相はネット番組で、憲法の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という前文をとらえて「つまり、自分たちの安全を世界に任せますよと言っている。…いじましいんですね。みっともない憲法ですよ、はっきり言って」とまで述べている。そこまで忌み嫌う憲法の根幹ともいえる9条1項、2項とも残すというのはどういうことだろうか。「とりあえず後退したように見せておこう。とにかく自衛隊の存在を明記さえすれば、後はどうとでもなる」という「戦略」が透けて見える。

 また、つけ加えられた教育問題は、維新の党が以前から主張していたもので、安倍提案の裏には、公明党に加えて改憲発議に必要な国会議員の3分の2をさらに増やし、20年までに「自分の手で」何としても改憲したいという安倍首相の強い執念がにじみ出ていると言えよう。

<Ⅱ>集団的自衛権の強引な閣議決定

 上記のような憲法観を持つ安倍氏にとって、06年9月の首相就任は改憲へ満を持してのものだった。それだけに現在まで、見方によっては「周到」「強腕」とも「強引」「遮二無二」ともいえる軌跡がくっきりと残されている。その具体的現れが「集団的自衛権」をめぐる動きだった。

 首相としての安倍氏が、具体的に9条改憲への道を開き始めたのは就任から約半年後の07年4月のことで、集団的自衛権の問題を含めた、憲法との関係の整理につき研究を行うための私的諮問機関として「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」を設置した。私的諮問機関だから、そのメンバーは自由に選べる。座長となった柳井俊二・元駐米大使ら13人のメンバーの多くは集団的自衛権に積極派として知られていた人たちだった。

 その時点での政府の9条解釈は、1972年10月に田中角栄内閣が参院決算委員会に提出した答弁書にあり、9年後に鈴木善幸内閣がほぼ同内容を閣議決定し、歴代内閣が踏襲してきた下記のような見解だった。

 「憲法は…わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであって、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとは考えられない。しかし、平和主義をその基本原則とする憲法が、自衛のための措置を無制限に認めるとは解されないのであって、それは、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右(ここでは上)の事態を排除するためにとられるべき必要最小限の範囲にとどまるべきものである。したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とする、いわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない」

 しかし柳井座長は朝日新聞のインタビューに「安全保障の議論にタブーはない」として、集団的自衛権に踏み込む姿勢を示した(07年4月26日付4面)。そのまま進めば、その年の秋に報告書が出され、安倍首相は集団的自衛権容認に一直線に走ったかもしれない。

 ところが首相に蹉跌が待っていた。07年7月の参院選で、相次ぐ閣僚の不祥事や年金データの入力ミス、郵政造反組の復党問題などがあって大敗、自身も体調に異変をきたし、9月に辞任せざるをえなくなった。後任の福田康夫首相は、懇談会に冷ややかで、同内閣誕生後は一度も開かれなかった。ところが12年、9月に谷垣禎一総裁の任期満了を受けて行われた選挙で安倍氏が石破茂、石原伸晃両氏をやぶって再選されるという逆転劇が起こる。

・国連憲章と「集団的自衛権」

 集団的自衛権をめぐる動きも再燃した。このことにふれる前に、集団的自衛権とは何かについておさらいしておこう。

 集団的自衛権は、概念として政府文書でもしばしば使われているが、明確な定義がされているわけではない。その行使は国連憲章第51条に【自衛権】として「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」と述べられているが、個別的、集団的自衛(権)そのものについての定義は見当たらない。

 たとえばブリタニカ国際大百科事典では、英文をright of collective self-defenseとして下記のように説明されている。本稿では集団的自衛権については概ねそれに従う。

 「国際関係において武力攻撃が発生した場合、被攻撃国と密接な関係にある他国がその攻撃を自国の安全を危うくするものと認め、必要かつ相当の限度で反撃する権利。自衛権の一つで、個別的自衛権(individual right of self-defense)に対していう。国連憲章51条において、安全保障理事会が有効な措置をとるまでの間、各国に個別的自衛権と集団的自衛権の行使が認められている」

 一方、個別的自衛権とは、「他国からの武力攻撃に対し、実力をもってこれを阻止・排除する権利である」とされている。

 なお、似た言葉として「集団安全保障(collective security)」があるが、「対立している国家をも含め、世界的あるいは地域的に、すべての関係諸国が互いに武力行使をしないことを約束し,約束に反して平和を破壊しようとしたり,破壊した国があった場合には,他のすべての国の協力によってその破壊を防止または抑圧しようとする安全保障の方式」と説明されている。PKO(国連平和維持活動)はそれにあたる

・2014年の閣議決定

 さて、自民党総裁として12年12月の総選挙で大勝し、首相の座に復帰した安倍氏は、2カ月後に「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」を再開した。メンバーは1人が新たに加わった以外は設置時と同じだった。

 半年後の8月には、外務省国際法局長として最初の懇談会の立案実務に携わり、集団的自衛権容認に積極的と見られていた小松一郎駐仏大使を、外交官出身として初めて内閣法制局長官に起用した。法制局は、内閣の下で法案や法制の法的妥当性や瑕疵についての審査・調査等を行い、内閣に対して意見具申をする機関で、高度な法知識が必要とされている。ところが小松氏はそれまで法制局に勤務したことはなかった。

 その年の12月、国家安全保障の重要事項を審議する機関として、アメリカのNSC(National Security Council)を模した国家安全保障会議が設置され、そのサポート機関として内閣官房に国家安全保障局が新設された。同会議は安倍首相が第一次内閣で実現を目指したが、成らなかったものだ。

 14年5月15日に先の懇談会の報告書が出された。前文で「我が国を取り巻く安全法環境は、2008年6月の安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会の報告書提出以降一層大きく変化した」として、北朝鮮のミサイル開発や中国の国防費の増大など、日本を取り巻く安全保障環境の変化が強調され、前報告書よりさらに強く集団的自衛権容認の必要性を説くものだった。小松氏はその翌日体調不良で辞職、6月23日に死去した。

 報告を受けて安倍内閣は、7月1日に集団的自衛権についてそれまでの内閣の解釈を覆す閣議決定を行った。決定文には「日本国憲法の施行から67年となる今日までの間に、我が国を取り巻く安全保障環境は根本的に変容するとともに、更に変化し続け、我が国は複雑かつ重大な国家安全保障上の課題に直面している。いかなる事態においても国民の命と平和な暮らしを守り抜くためには、これまでの憲法解釈のままでは必ずしも十分な対応ができないおそれがあることから、いかなる解釈が適切か検討してきた」とあり、それに続いて「憲法9条が、我が国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置を禁じているとは到底理解されない」とし、集団的自衛権容認に踏み込むものだった。

 翌年4月、安倍首相は米議会上下両院合同会議で演説し、「日本は、世界の平和と安定のため、これまで以上に責任を果たしていく。そのために必要な法案の成立を、この夏までに、必ず実現する」と述べた。これから国会に提出し、審査を受ける法案の成立をその前に米国の議会で約束するという、首相がしばしば口にする「国辱的」ともいえる行為だった。

[リンク集・資料集]

 このリンク集では、本文中、ゴチックになっている用語を中心に、オンライン上で参照できる資料にリンクを張って、読者の便宜に供したいと考えています。オンラインメディアならではの利点です。第一次ソースにはリンクを埋め込んでありますが(文字をクリックすれば先方に飛びます)、メディアやブログなどを見れば参照できる記録などについても、URLを紹介しています。他のリンク先をご存知の方は、コメント欄やサイバー燈台へのメール(info@cyber-literacy.com)までお知らせください。適時、補充していくつもりです。

憲法改正に関する安倍首相ビデオメッセージ 2017.5.3
自由民主党日本国憲法改正草案 2012.4.27
自民党の憲法改正に関する論点取りまとめ 2017.12.20
・自民党・石破茂氏の9条論「日本国憲法第9条の改正について」2018.2.23
集団的自衛権の行使を認めた閣議決定 2014.7.1 
国際連合憲章
安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会

・安倍首相、自民党大会で自衛隊明記を訴え(産経ニュース 2018.3.25) http://www.sankei.com/politics/news/180325/plt1803250049-n1.html
・「自民党改憲4項目」条文素案全文(産経ニュース 2018.3.25)https://www.sankei.com/politics/news/180325/plt1803250054-n1.html
(朝日新聞デジタル) https://digital.asahi.com/articles/DA3S13415464.html
・安倍首相の「みっともない憲法」発言(ユーチューブ 2012.12.14) https://www.youtube.com/watch?v=lNWqVJ_-XOA 
(朝日新聞デジタル)http://digital.asahi.com/senkyo/sousenkyo46/news/TKY201212140595.html

[紙媒体]
・讀賣新聞2017.5.3朝刊 首相インタビュー なお、ブログで石堂智士氏がインタビュー全文を再録している。https://blogs.yahoo.co.jp/tokocitizen_c14/43167613.html

 

名和「後期高齢者」(3)

ワンボックスカーのなかで

 最近、私は筋力の「単調減少」(これは物理屋のジャーゴン)を避けるためにヨガ道場に通っている。往復はワンボックスカーに詰め込まれる。この椅子は3人掛けなので窮屈。多分、隣人とのあいだは30センチを超えないだろう。呆け老人であっても、こんな環境はこそばゆい。黙り込むか、ひたすら喋りまくるのか、どちらか。

 いや、ラッシュの通勤電車のなかでも同じではないか、という反論もあるかもしれない。だが、どうだろう。ワンボックスカーの場合には、安全ベルトで体を締め上げるという点が違う。体を動かすことができない。この椅子席のアフォーダンスは隣の人と呼吸や体温を伝えあう、という役割ももつことになる。

 ここでまた脇道に逸れる。上記の「30センチの距離」という表現をみて、「プロクセミックス」(proxemics)というジャーゴンを連想する人も少なくないだろう。それは、人間を取り巻く「なわばり」には4つの距離があるという理解であり、人類学者エドワード・T・ホールの説である。密接距離(intimate distance;45cm以内)、個人距離(personal distance;45~120cm)、 社会距離(social distance;120~360cm)、公共距離(public distance;360cm以上) がそれ。ここにいう密接距離は「ごく親しい人に許される空間」という意味をもち、ここには「プライバシー」という価値観がかかわる。孫引きになるが、T.S.エリオットに「鼻のまえ30インチのところ、私自身のさきがけが行く」という詩句のあることを、ホールが指摘している。

 とすれば、ワンボックスカー3人掛けの椅子は、アフォーダンスとプロクセミックスとがぶつかり合う場となる。拘忌コウレイシャ(KK)にとっては、いずれを優先することが望ましいか。自明とはいえない。

 もう一つ。それは医者と患者の椅子について。多くの場合、医者は背もたれ肘かけ付きの椅子に坐り、患者(こちらがクライアント)は背もたれ肘かけなしの丸椅子に坐らせられる。双方の椅子は非対称のアフォーダンスをもつはずだ。なぜか。

 憶測するに、医師は診察にあたり、患者とのあいだに生じるアフォーダンスの均衡を意図的に崩そうとしているのだろう。そうしなければ、プロクセミックスという呪文に阻まれて触診も問診もできない。(お医者さんについて語ることは、患者にとって遠慮があるので、ここまで。)

 ここでKKの本音を語るところにたどりついた。今日、世間のKKにたいする期待、あるいは掛け声は「歩け」「隣人をもて」というところだろう。だが私は、解はこれ一つではないと思っている。それがこの呟きの主題となる。シロウトの呟きなので、皆さま方には、とくに専門家諸氏には、自明のこと、あるいは間違っていることも多々あろう。そこはご教示ねがいたい。

【参考文献】
エドワード・ホール(日高敏隆、佐藤信之訳)『かくれた次元』
かくれた次元

名和「後期高齢者」(2)

椅子への適応

  「アフォーダンス」(affordance)という言葉だが、と書きながら手元の辞書にあたってみたら、’afford’ はあるが ’affordance’ はない。あれっ、とオクスフォードの『英語語源辞典』をみたら、すでに ’afford’ 自体、その素性がはっきりしない単語だ、と書いてある。

 あわてて『ウィキペディア』を参照してみたら、「アフォーダンス」とは、知覚心理学者ジェームズ・J・ギブソンが、「与える、提供する」という意味の ‘afford’から作った単語であり、その意味は「環境が動物に対して与える意味」とのことである。

 だが現在、この言葉は認知心理学者のドナルド・ノーマンが示した「モノに備わった、ヒトが知覚できる行為の可能性」(1988年)という意味に使われている。とくに、ユーザーインタフェースやデザインの領域においては、「人と物との関係性をユーザに伝達すること」、あるいは「人をある行為に誘導するためのヒントを示すこと」という意味で使われているらしい。これは本来の定義からすれば誤用だとする意見が少なくないようだが、ここは専門家に任せ、以下、私はノーマンの理解にしたがいたい。

 ノーマンはアフォーダンスの見本として椅子を示し、椅子は支えることをアフォードし、それゆえ腰掛けることをアフォードする、と説明している。椅子は筋肉の衰えた高齢者にとっては不可欠のものなので、しばしば取り合いの対象となる。以下、しばらく椅子にこだわってみたい。

 椅子には、長椅子もあれば折畳椅子もある。デッキチェアもあればソファーもある。だが、それがどれであっても、どこにあっても、人はそこに腰掛けるように仕向けられる。椅子のうえで結跏趺坐をする人は、あるいは、椅子を亜鈴代わりに持ち上げる人は、まず、いないだろう。

(ところで、岡本太郎に『坐ることを拒否する椅子』(1963年)という作品がありましたね。その表面に坐り心地が悪そうな凹凸があり、しかも硬い陶製、くわえて原色の目玉が描かれている。「くつろがせてくれない」というコンセプトで制作されたとのよし。太郎はすでにアフォーダンスという概念を、逆の立場から把握していたのだろう。ついでに検索してみたら、いま、この作品には162万円の値段がついている。)

 椅子の一種として、プラスチックス製で、背もたれの屈曲した長椅子が、いかにもデザイナー好みの形をしたものが、公共空間に、たとえば駅のホームや病院の待合室に、置かれていることが多い。この背もたれの曲面に自分の身体の曲率がなじまない人にとって、これは悲劇。

 【参考文献】
D.A.ノーマン(野島久雄訳)『誰のためのデザイン:認知科学者のデザイン原論』新曜社 (1990)
誰のためのデザイン?―認知科学者のデザイン原論 (新曜社認知科学選書)

林「情報法」(18)

情報法的責任論のまとめ(1):責任とともに救済を

 前2回における責任論の記述は、原則として伝統的な「民事と刑事の峻別」を前提にしていましたが、どうやら情報法の分野では、その発想自体も見直す必要がありそうです。以下2回にわたって、その点に焦点を合わせて、「品質表示の偽装」から始まった議論をまとめます。今回は、情報財の特質から見て、救済の実を上げる必要性について。

・情報財の特徴を生かした救済

 まず、情報財には ① 非占有性・非移転性、② 意味の不確定性、③ 流通の不可逆性、という3大特徴があることを前提にしましょう。ここでは細部を省略しますが、これらの特徴に関しては、拙著の随所で触れています。

 ① の特性から、有体物の財産的扱いをそのまま延長できない(情報窃盗を観念することができないのが典型例)という教訓が導かれます。② の不確定性から、「個人データを定義し保護することはできるが、個人情報プライバシーそのものを事前に定義することはできず、事後救済にならざるを得ない」という知見が得られます(現行の個人情報保護法に関する過剰反応の問題は、この点を十分考慮して「個人データ保護法」として制定していれば、かなりな程度に軽減できたはずですが、この点に深入りする紙幅がありません、ぜひ拙著を参照してください)。また ③ の流通の不可逆性から、「損害賠償という事後救済では不十分で、差止や削除請求権が求められる」という立法論が生じます。

 ところが、従来の有体物中心の法体系では、これらの諸点は無視ないし軽視されてきました。しかし情報財では ①~③ の特性から、以下のような問題が生じています

 a) 侵害があったか否かを判定するには、「情報をどう取り扱うべきか」という手順に沿っていたかどうかで判断されるので、手続きが重視され
 b) そうした手続きは法定されることは希で、ソフト・ローに依存することが多い
 c) 「故意あるいは一方当事者の全面的過失」は裁きやすいが、a) b) のようなケースが多ければ双方過失が多くなる
 d) 責任の所在や範囲を定めるには、事前の意思表示を定型化することが望ましい
 e) 責任の存否や所在を突き詰めるよりも、公正妥当と思われる救済措置の早期実施が求められる場合がある

 純理論として考えれば、①~③の特質と、a)~e) の問題がどのように関連しているのかは興味深いテーマですが、ここでは ① と ② は解釈論でもある程度解決できるが、③ だけは立法に拠るのが妥当と思われることを確認して、以下はその点に焦点を絞りましょう。

・民事と刑事のグレイゾーン

 次の議論に進む前提として、刑事裁判と民事裁判との違いを理解することから始めましょう。両者の違いの主なものを表示すると、次のようになります。

項目

刑事裁判

民事裁判

グレイゾーン

目的

国家が一定の非違行為に対し刑罰をもって抑止する

私人間の紛争を国家が第三者として解決する

行政目的を達成するための規律違反(わが国には行政専門の裁判所はない)

憲法の人権保障との関係

刑事罰を科すため、人権保障の多くの規定が関連(憲法32条から40条)

「(公開)裁判を受ける権利」など基本的な原理が適用される(憲法32条、(82条))

特許や営業秘密の裁判では、非公開が求められる場合がある

当事者と裁判所

検察官対被告人という当事者主義、専門の裁判官による裁判のほか一部裁判員裁判も

原告対被告という当事者主義、専門の裁判官による裁判

刑事では被害者が「蚊帳の外」に置かれるのを防ぐため、被害者参加や意見陳述が制度化された

証明手続

無罪の推定、任意性に疑いがある自白・伝聞証拠・違法収集証拠等の排除、「合理的な疑い」を超える証明力を前提にした自由心証主義

証拠能力・証拠力とも刑事ほど厳密ではなく、「高度の蓋然性」のある証拠を前提にした自由心証主義

交通事故の場合などは例外的に、刑事裁判で和解調書に執行力を付与したり、損害賠償が命じられる場合がある

主たる救済手段

行為者(被告人)への刑事罰

損害賠償、一部差止

刑事罰である罰金と行政罰である課徴金。差止の一般法がない

和解の可否

不可

和解は常態

司法取引が導入されたが限定的

 しかし実行上は、表に「グレイゾーン」として掲げたような「融合領域」が生まれています。最も分かり易い例は、交通事故の被害者が損害賠償を請求するために、別個の民事訴訟を提起し、検察が持っている証拠の開示を改めて求めるのは負担が大きいとして、刑事裁判に「被害者損害賠償請求制度」(犯罪被害者保護法23条から28条)を設け、刑事と民事を一括した解決を可能にしたことが挙げられます。ただし、判決に異議があれば民事裁判に戻ります。

 また独占禁止法などの行政規制の分野では、刑事罰である罰金の他に課徴金という制度があり、その目的は違法行為の抑止という点で共通ですが、手段としては刑事罰的要素と民事賠償的側面が混ざり合っているように見えます。特に、違反行為を自己申告すれば当該事業者の違反行為に対する課徴金が、その申告した時期・順位に応じて免除(100%減額)または減額(30%もしくは50%の範囲)されるリニエンシー(leniency)という制度が注目されます。独禁法の場合、第一申告者は刑事罰も免れる運用がなされているので、実質的には「司法取引」の側面も持っています。

 また英米では、有罪を認める代わりに訴追を軽減してもらうplea bargainingとか、民事事件であっても懲罰的賠償制度や、裁判所の決定に反した場合には「法廷侮辱罪」という刑事罰が科せられる場合があります。前者については、日本人の感覚では「法廷は真実を発見する場」であり、取引というビジネスで使われる用語には、違和感があるかもしれません。しかし2018年6月からは、わが国でも限定的(経済犯や銃器・薬物犯罪の共犯者に限り、被疑者・被告人と弁護人のすべてが合意し、検察官を加えて合意文書を作成した場合のみ)に導入されるようになりました。前述のリニエンシーも、2006年の導入当初は「仲間を裏切るようなもので日本的風土になじまないのでは」と言われていましたが、10年余を経て定着してきたようです。

・手続法である救済制度の見直し

 伝統的な法学では実体法と手続法を区分し、学者は主として実体法を中心に論じてきました。刑事法の分野では、刑法(実体法)と刑事訴訟法(手続法)では前者の議論の方が相対的に多く、更に手続法の細部である「刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律」(2005年法律第50号)となると、実務家以外に関心を持つ人はごくわずかです。しかし刑事法には、「疑わしきは被告人に有利に(法の謙抑性)」や「法の適正手続(due process of law)」の原則が徹底しているので、手続法軽視に傾く危険は少ないと思われます。

 他方、民事法の分野はどうでしょうか? 民法の不法行為は多くの論者が議論しますが、損害の救済方法に関する議論は相対的に少なめです。特に、損害賠償が主たる手段とされ、差止は特別法に根拠規定がある場合(例えば著作権法112条)や、名誉毀損など人格権侵害の場合に例外的に認められるだけで、民法に一般的規定が置かれていません。

 ところが「流通の不可逆性」を有する情報に関して、違法または不法な内容の情報や、違法または不法な方法で情報が流通する場合、その法的救済が必要だとすれば、事後的な損害賠償ではなく差止を認めなければ、実効性を担保することができません。しかし、差止の論点を深掘りした議論としては、根本尚徳 [2011] 『差止請求権の理論』有斐閣、がほぼ唯一かと思われます。

 それには十分な歴史的事情もあります。近代法の発展に大きな影響を与えた英国では、国王が管轄するコモン・ロー裁判所が中世以降に確立していきましたが、そこでは裁ききれない例外的なケースについて、大法官(Lord Chancellor)に直訴するという道も開かれました。そして後者が発展してエクィティという法制度とエクィティ裁判所が成立するに至ったのです。そして損害賠償はコモン・ロー裁判所での救済手段であり、差止はエクィティ裁判所でのものとして、役割分担がなされていきました。従って差止は、通常の救済手段である損害賠償の例外であり、その判断は裁判官の裁量に大きく依存することになったのです。

 しかし、情報を守るという観点から新しい動きも見られます。営業秘密という有体物には固定しにくい情報に関して、従来は社内での共有を守るだけでした。しかし、サプライ・チェーンが国境を越えるほど長くなり、グループ経営が一般化した中では、企業をまたがる営業秘密の共有にも配慮せざるを得ません。そこで現在国会で審議中の不正競争防止法の改正案では、ID・パスワード等により管理しつつ相手方を限定して提供するデータを不正に取得、使用又は提供する行為を、新たに不正競争行為に位置づけ、これに対する差止請求権や損害賠償の特則等の民事上の救済措置を設けることとしています。

 

名和「後期高齢者」(1)

自転車が怖い

 「コウキコウレイシャ」(以下、KK)の一員になって久しい。ただし私はこの言葉を「拘忌コウレイシャ」と聞いてしまうことが多い。まれには「好奇コウレイシャ」か。まちがっても「好機コウレイシャ」とは聞こえない。そんな年寄りの世迷言を、以下、呟いてみたい。

 ㏍にとっての脅威、それは自転車である。音もなく、突如として出現し、高速度で自分の脇を通り抜けていく。反射機能が鈍く、姿勢制御が衰えた㏍にとっては、これが怖い。私は腹筋と背筋とが弱いので杖を使っているのだが、その杖が自転車をこぐ人へ注意を送るシグナルになることは、まず、ないようだ。

 念のために、いま、ウェブで確かめたら、自転車は車道を通行すべしというルールがあるようだ。だが、その実態は上記の通り。自転車はトレーラーなどが往来する車道上では弱者になる。たぶん、それを避けるために歩道に侵入するのだろう。これがデファクト標準になってしまった、ということかな。

 自動車には「左前方ニ注意」などと音声メッセージを呟いてくれる車載警報器がある。同種のものを自転車や杖につけるという手もあろうが、これは「ながらスマホ」と同じく、ユーザーの注意を分散させることになるかもしれない。

 老残の身にはこれ以上のことには考えが及ばないが、ここで「アフォーダンス」(affordance)という言葉があることを思い出した。ということで、まずは、KKのアフォーダンスについて考えてみたい。

 ここで編集者の矢野さんから助言をいただいた。歩道の自転車通行については、道路交通法でいくつかの場合には歩道通行がよしとされており、その一つに「運転者が13歳未満又は70歳以上、または身体の障害を有する者である場合」があるという。それで思い出したが、私は歩行に不自由な人(たぶんKK)が、何回か失敗したあとに、やっと自転車にまたがることに成功し、あとは、スイスイとその自転車をこいでいく姿をみたことがある。これ、ご当人にとっても周りの人にとっても、危ない。だが、ご当人にとっては欠かせない生活の一部であるはず。さて、いかがすべきか。