小林「情報産業論」(7)

「虚業」観念の居なおり

虚業であるがゆえに、それは実業にはない新鮮で独自の性格をもちえたのである。
このことは、数学における虚数の発見に似ている。(p50)

時代精神という言葉がある。ツァイトガイスト。なんだか、この言葉には、独特のニュアンスがある。だれもが、時代精神から完全に解き放たれた思考、生き様を全うすることは不可能なことだ。しかし、時代精神は変容する。そして、その変容を牽引し下支えするのも、また時代精神の中で生きている人たちなのだ。

梅棹の『情報産業論』で「虚業」もしくは「虚業」産業という言葉に出会うたびに、ぼくの脳裏には、時代精神という言葉がよぎる。梅棹が『情報産業論』を著したのは、まさに、実業を重んじ、まだ言葉としてさえも生まれていなかった情報産業を軽んじる時代精神のただなかにあってのことだった。この言葉に出くわすたびに、ぼくは、梅棹の時代精神に抗う姿が目に浮かぶ。梅棹は、重厚長大の時代にあって、軽薄短小の時代が到来することを、見越していた。

本論に入る前に触れたことだが、時代は新幹線を始めとする東京オリンピックに付随する重厚長大な建造ラッシュに沸いていた。池田勇人の所得倍増計画の只中。

その只中で、梅棹はあがいていた。悪あがきではない。確信をもって、力強く。しかし、時代精神の抵抗は大きい。梅棹の「虚業観念の居なおり」というやや揶揄的もしくは自嘲的な言葉の響きのかげに、ぼくには、当時の梅棹の苦闘と決意が透けて見える。

アルバート・ゴア・シニアがインターステートハイウェイを提唱したのが、1956年、ゴアジュニアがインターネットスーパーハイウェイを提唱して副大統領になるのが、1993年。この二つの年代を見比べただけでも、梅棹が日本だけではなく、地球規模で見回して見ても、いかに時代精神を突き抜けていたかがうかがえよう。

・虚数概念のアナロジーには違和感

梅棹の先進性に、全幅の尊敬の念を抱きながら、しかし、ぼくには、梅棹の虚数概念へのアナロジーへの違和感だけは、何度読んでも拭い去ることができない。

思いついてネットで虚業の訳を見たら、risky businessとある。やれやれ。

一方、虚数は、imaginary number。

う〜ん。

-1の平方根にimaginary numberという言葉を充てたのは、ルネ・デカルトだと言われている。デカルトの脳裏には、虚数なんてなんの役にも立たないもの、という先入主が宿っていたとも言われている。Imaginary numberに虚数という訳語を充てたのは、用語としては定着してもいるし、まあ良しとしよう。しかし、《虚》という漢字の連関だけから、虚数と虚業のアナロジーを展開するのは、どうにもいただけない。

デカルトは、虚数にimaginary numberという名称を充てるとともに、いわゆるデカルト座標系という以後の自然科学や工業の発展に欠くことのできない「役に立つ」概念への道をも拓いた。虚数は、実数軸上にプロットができないという点では、虚実の虚ではあるが、2次元空間の拡がりを措定した途端に、確かなリアリティを持って実体化する。虚数を捉える時代精神はデカルトの名付け以降大きく変貌することとなった。

先に、梅棹は、重厚長大の時代にあって、短小軽薄の時代を見据えていた、と書いた。それはそれとして、梅棹の虚業という言葉には、どこか軽佻浮薄といった自虐的なニュアンスが感じられる。しかし、それでも梅棹が用いた時代の虚業という言葉が指し示す職業の実態と、現在のrisky businessの訳語として用いられる虚業という言葉が指し示す職業の実態との間には、大きな隔たりがあるように思われる。今や、情報産業をして虚業だと揶揄する人はもういないだろう。情報産業は、日本のみならず地球規模での経済活動の多くの部分を支える実業へと成長した。デカルトの虚数が、実数軸という1次元の世界を飛び出し、デカルト座標系という2次元の世界に飛翔したとたんに確かな実体性を獲得したと同様、情報をビジネスの対象、すなわち、商品として捉えたとたん、それは、矢野さんの言葉を借りれば、サイバースペースの中で確かな実体性を獲得したのだ。

ここまで書き進んできて、改めて、梅棹の「虚業」という言葉遣いに対するぼくの違和感を思う。ぼくの違和感は、梅棹が生きた時代の時代精神に対する違和感ではなかったか。いまだ言葉すら存在しなかった情報産業を、軽薄短小、軽佻浮薄といった形容で捉える時代の精神、梅棹自身が抗い続けた当時の時代精神に対する違和感。

「虚業」という自虐的、揶揄的な言葉を遣いながら、そこに最も違和感を抱いていたのは、他ならぬ梅棹自身ではなかったか。

大きさや重さという外延量を持たない情報の、商品としての位置付けについて語り尽くすためには、「虚業」という言葉では、いかにも不十分だった。梅棹が揶揄的に「虚業」という言葉で示さざるを得なかった実態を語るためには、デカルト座標における虚数軸に相当するなんらかの視点もしくは基軸への想像力がどうしても必要だった。

情報産業論において、今まで地球上の誰もが想像しなかった新たな視点・基軸を提唱する地平にまで梅棹は到達していた。

 

林「情報法」(21)

主体と客体に関する情報法の特異性

 前回の記述を、連載の初期に紹介した「情報法の客体である情報の特異性(ユニークさ)」と掛け合わせてみると、いよいよ情報法の真髄に迫れるように思います。情報通信学会での講演テーマ「情報社会(情報法)の主体と客体」は、そのような意図で選んだものですが、果たして聴衆に通ずるでしょうか。この歳になっても、多くの聞き手の前で話をするのは、緊張するものです。

・有体物の法と情報法の差異

 有体物の法は、主体として自然人と法人を、客体として有体物のみを扱うもので、シンプルな構造になっています。これに対して情報法の主体として、センサー・ロボット・自動運転車やAI(Artificial Intelligence)などが加わることは、前回述べたとおりです。また、その客体には、情報がコンテナとしての有体物に入れられた(法律用語では「化体された」と言いますが、法律以外では使わない言葉なので、判決では「体現された」と言い換えています)場合と、「情報」という無体財のまま流通する場合があります。 

 この両者の関係を、主体が客体をどこまで支配できるかを示す「権利」という法概念で整理できるでしょうか? 有体物は通常1つしかないので(量産品であっても、製造番号なので識別できれば、それぞれ1つと数えます)、「その権利は誰かに独占的に帰属する」と考えることは現実的です。「占有」(民法180条) とか「所有」(同206条) という法概念は、実際に情報社会以前の社会を効率的に規律してきました。

 ところが、情報には「占有」や「所有」といった概念はなじみません。なぜなら、情報は広く世界に存在しているので、共有する方が楽で(この性質を経済学では「情報の公共財的性格」と呼びます)、逆に独占的権利を割り当てる方がコストがかかるからです。しかも、有体物なら売手から買手に物自体と権利が移転しますが、情報の場合は「複製」という行為によって売手にも買手にも同じ情報が残ります。加えて、その取引は不可逆で「売りたくなかった」と思っても、取り戻すことができません。従って、情報に対して例外的に権利が付与されるのは、「知的財産」か「秘密」に該当する場合だけです。

 情報についてはもっと面倒な事態も起こります。それは「情報」が有体物に体現されることなく、インターネット等を介して非有体物のまま流通する場合です。有体物に体現されていれば、その有体物に着目して法制度を考えることができます(いわば有体物アナロジーです)が、情報が「生のまま」流通する場合には、有体物法とは違った、真の意味の「情報法」を構想する必要が生ずるのです。

個人的見方としては、「個人データ」と「個人情報」、それに「プライバイー」という概念を巡る混乱は、ここに原点があると思っていますが、この点は既にこの連載の第9回で述べましたので、ここでは繰り返しません。代わりに、ここまでの「主体・客体・権利」に関する議論をまとめてみると、次表のようになります。

表 主体・客体概念を中心にした有体物の法と情報法の差異

比較項目

有体物の法

情報法

主体

自然人と法人

自然人と法人に加え、センサー・ロボット・自動運転車やAI(Artificial Intelligence)など

客体

有体物。知的財産(という情報)も有体物に体現(固定)された状態を想定

広義の情報(データ、狭義の情報、知識)。占有できないし、意味の不確定性がある

権利

主体が客体に対して有する排他権として整理可能(所有権が代表例)

情報には排他性がなく、複製で容易に増えるので、知的財産か秘密に分類される場合以外は、排他権が付与できない。また、主体と客体を峻別できないほか、両者の逆転現象も

(注)主体・客体・権利に関するもの以外にも差異はあるが、ここでは省略している。

・情報機器に関して生ずる法律問題を、有体物の客体論で裁けるか?

 それでは、情報を扱うハードウェア(有体物)から生ずる問題を、従来の法的仕組みである「有体物アナロジー」で裁くことができるか、またそれは妥当か、を検証していきましょう。分かり易い「客体」の方から始めると、情報がコンテナとしての有体物に入れられた場合と、「情報」という非有体物のまま流通する場合があることは前述のとおりです。前者の「体現された」場合の例として、サーバへの無断クローリングや、それによる情報の窃取を検討してみましょう。

 有体物の所有権が侵害された例として、自分の土地に他人が勝手に入ってきた場合を想定するのは、分かり易いと思います。この行為に対して、わが国の法では「不法侵入」として、民事的(所有権に基づく妨害排除請求権。民法709条など)にも刑事的(刑法180条の住居侵入罪など)にも、権利者の救済が認められています。アメリカは法体系を異にする国ですが、trespassという概念で救済されるところは同じです。

 そのアメリカでは、eBayという著名なオークション・サイトが、競争相手(まとめサイトあるいは比較サイト)が無断クローリングを行なった(サーバの機能を著しく低下させた訳ではない)ケースで暫定的差止命令を求めたのに対して、trespass to chattel(動産に対する不法侵入)という法理を適用して、これを認めています(同様の事例が他にもあります)。trespassそのものは不動産に対するものですが、そのアナロジーを動産に適用したものです(eBay v. Bidder’s Edge、カリフォルニア北部連邦地裁、2000年判決)。

 この判決に対しては、無断でアクセスしただけでサーバの機能ダウンなどの実害が生じていないのに、差止を認めるのはおかしいという批判があります。現にインテルで業務中に自動車事故に遭い、5年経っても治癒しないとして同社を解雇された元社員が、かつての同僚に元・現従業員用メール・システムを通じてメールを送った件では、一審・二審とも差止を認めましたが、カリフォルニア州最高裁は4対3の僅差ながら、trespass to chattelに当たらないとして下級審の判断を覆しています(Intel v. Hamidi、2013年判決)。しかし今日でも、この法理は有効なアナロジーだとする有力な論者がいます。

 更に進んでそのサーバにある情報を窃取した場合はどうでしょうか? アメリカではinformation theftという表現はポピュラーですし、日本では「なりすまし」に該当するケースもidentity theftと呼ぶのが普通です。しかし、それは俗語であって法律用語ではありません。法律的には、一般的な「情報窃盗罪」は成り立たず、個別に法律に規定がある場合に限って営業秘密の窃取などとして罰せられるか、その前段であるコンピュータへのアクセスが、Computer Fraud and Abuse Act = CFCA法(わが国の不正アクセス禁止法に相当)違反に問われるだけです。つまり、情報が有体の機器に収められている場合にもアナロジーには限界があり、情報そのものを保護するには、別途の立法や理論建てが必要なのです。  

 ましてや、情報が有体物に体現されることなく、情報そのものとして流通する場合には、実務的には多くの困難を伴います。例えば知的財産の一種として、所有権に近い保護が揃っている著作権法でも、次のようなケースが考えられます。わが国の著作権法では、「固定」(先の「体現」に対応するものと考えて良いでしょう)は要件とされていませんから、ライブ中継のストリーミング情報にも著作権が成立しますが、セキュリティを破った侵害に対する救済は容易なことではないでしょう。

・情報機器に関して生ずる法律問題を、有体物の主体論で裁けるか?

 次に、主体論における有体物アナロジーに移りましょう。ここでは、自然人に適用される原理を、法人に適用してきた経緯と経験が生かせるでしょう。法人は、かつては「擬制」に過ぎないと捉える見方もありましたが、資本主義の発展には不可欠な仕組み(つまり資本調達とリスク分散の格好の手段)として「実在」するものと見られるようになりました。今日では、法の主体として自然人とともに、あるいは分野によってはそれ以上に、重要なプレイヤーと理解されています。

 そこで具体的には、自然人と法人に適用される原理を、センサー・ロボット・自動運転車やAIといった情報機器に関して生ずる法律問題に、アナロジーとして適用できるか否かが問題になりますが、私はそれは可能だと信じています。その根拠は、これらの情報機器の方こそ、人間の脳や情報処理のあり方をシミュレートして作り上げられた人工物に他ならないからです。これを別の面から見れば、自然人・法人・情報機器の間には、何らかの共通項があるのではないか、という仮説を示唆しています。

 そして私が読む限り、このような発想に最も近い書物は、Luciano Floridiの “The Forth Revolution” ではないかと思われます。彼は「人(自然人) はInformational Organism = Inforg だ」と言っていますが、その理論を延長すれば「自然人・法人・情報機器はすべてInforg だ」と言えないかというのが、私の仮説です。もっともFloridiでさえ、未だ「法人はInforgだ」とは言っていないので、私の道はなお遠いのかもしれません。

 

名和「後期高齢者」(12)

同意する

 ひょいと気づいたら、私は携帯で指示を受けながらATMを操作している老人そっくりの状態に置かれていた。ただし、私のまえにあったのは固定電話であり、PCであった。私はすでに同意ボタンをクリックし、数件の個人情報を入力していた。数年前のことであった。

 相手は大手電話会社の代理店と名乗り、新しいサービスへの契約を代行したいと提案してきた。私はそのようなサービスが計画されていることを知っており、そのサービスに興味をもっていた。相手は丁寧に時間をかけてこちらの疑問に答えてくれ、気が付いたらすでに同意ボタンを押していた、ということ。しまったと思い、私は相手との通話を切った。

 直後、私はグーグルで当の代理店の評判を検索した。そしてよくないコメントを少なからず見つけた。私はまず当の代行システムに再アクセスし、さらなる上書きによって先刻の入力を無効化し、つぎに区役所の消費者保護センターの手助け得て、当の契約を解消することができた。

 ところで、この「同意する」だが、契約全文をキチンと読んでこれをクリックする人は何人いるのだろう。昔話だが、電電公社の時代、私はその約款が100ページを超えていたことを覚えている。時代が移り、サービスが多様化し、利害関係者が増大した現在、契約に関する文書は、より複雑になり、より増加していることは容易に推測できる。

 だから、ユーザーのリテラシーは、とくに拘忌高齢者(㏍)のリテラシーが、サービスの多様化に追いつかない、ということになる。矢野さんがこのホームページを運用されているのも、このリスクを抑えたいためだろう。

 そういえば、かつて「シュリンクラップ」という契約方式があった。それはソフトを記録したCDの購入について、そのパッケージを破った時点で契約が成立するという商慣行であった。とすれば事業者は考えるだろう。「ブラウズラップ」あるいは「クリックラップ」があってもよいではないか、と。前者はユーザーがソフトをダウンロードした時点で、後者はユーザーが「同意する」をクリックした時点で、よしという方式となる。

 調べてみたら、すでに米国の経済学者は「インフォームド・マイノリティ仮説」という概念を示していた。市場に敏感な買い手がいればそれで十分、という説。なぜならば、それで市場の競争は維持されるから、と理由を示した。だがオンライン取引の実情をみると、利用規約をクリックし、ここに1秒以上滞在したユーザーは0.12%にすぎない、という報告もあったりした。

 いっぽう、米国の法廷は「平均的インターネットユーザー」という概念を示し、平均的ユーザーが認知できればよいという提案を認めたりしている。この概念を受け入れれば、大部分の人はスマホやPCをもっており、したがって「平均的インターネットユーザー」に入ってしまう。この理解は上記の「インフォームド・マイノリティ仮説」のそれと折り合うものではないが。

 ということで「同意する」の理解には諸説あるようだ。当面は「存在するものは合理的である」という哲学にでも頼ることとしようか。その結果か、私は自動更新のサービスをいくつか、それも何年も、続けている。

 たまたま昨日、手元に「アマゾン・エコー」がとどいた。そこで質問した。「アレクサ!“同意する”とはどんなこと?」。アレクサは答えた。「すみません。わかりません」。

【参考文献】
名和小太郎「ブラウズラップ、クリックラップ、スクロールラップ、あるいは?」『情報管理』 v.58, n.8, p.564-567  (2015)

森「憲法の今」(3)

憲法審査会でまず議論されるべきこと

 安倍内閣は2014年7月に集団的自衛権容認を閣議決定し、翌15年5月、「平和安全法制」(安全保障関連法)として1つの新法と10にものぼる関連法の改定を束ね、国会に提出した。

 その主なものは、①武力攻撃事態法改正案(政府が、密接な関係にある他国への武力攻撃が起こり、これにより日本の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある〈存立危機事態〉と認定したとき、〈他に適当な手段がない〉、〈必要最小限の武力行使〉という3要件のもとに、日本が直接攻撃を受けていなくても、集団的自衛権を行使した攻撃を可能にする)、②周辺事態法改正案(重要影響事態法に名称変更。「重要影響事態」を新設し米軍以外にも他国軍を支援、行動の範囲としてあった「我が国周辺」を撤廃し、世界中で支援を可能にする)、③PKO(国連平和維持活動)協力法改正案(PKO以外にも自衛隊による海外活動での復興支援活動を可能にし、駆けつけ警護や任務遂行のため武器使用を可能にする)、④国際平和支援法案(新法で、戦争中の他国軍を自衛隊が後方支援することを可能にする)、というものだった。

 その法案に対して、国民や野党、憲法学者らから、改定・新設法の内容は安全保障上かえって危険である、明らかに現憲法に違反しているという声が多く出され、抗議の渦が国会を取り巻いた(「平和安全法制」という政府の呼び方とは別に、マスメディアは「安全保障関連法」、野党は「戦争法」などと呼んでいる)。国会やメディアの追及に、政府の説明が二転三転する場面がしばしば見られた。

・安全保障関連法に対して憲法学者が「違憲」陳述

 法制への反論の中でも特筆すべきできごとは、法案提出の翌月の6月4日に開かれた衆院憲法審査会での参考人招致で、3人の憲法学者がそろって、集団的自衛権の行使を可能にする法案は「憲法違反」との見解を示したことである。特に自民党推薦の長谷部恭男・早稲田大学教授の「集団的自衛権の行使が許されるというのは憲法違反。個別的自衛権のみ許されるという従来の政府見解の基本的な枠内では説明がつかない。法的な安定性を揺るがす。閣議決定の文脈自体におおいに欠陥がある論理で、なぜ集団的自衛権が許されるのか、どこまで武力行使が認められるのかも不明確で、立憲主義にもとる」(朝日新聞6月5日付3面)という発言は衝撃的だった。

 最もショックを受けたのは長谷部教授を推薦した自民党関係者だっただろうが、長谷部教授は一貫して集団的自衛権の違憲性を指摘していた。教授を推薦したのは、2013年成立の特定秘密保護法に関する参考人招致で彼が賛成意見を述べていたため、てっきり「わが党案に賛成してくれるだろう」と思い込んだのではないか。少しでも長谷部教授の発言や著作の内容を知っていればありえない人選だった。そんなところに、「改憲」意思が先立ち、地道な調査や研究を怠っていた「いい加減さ」が、はしなくも現れてしまったのではないだろうか。

 その後2人の元内閣法制局長官と1人の元最高裁判所判事が国会の参考人招致に呼ばれ、その中の元最高裁判所長官は共同通信のインタビューに答えて「集団的自衛権は違憲」と明言した。

 そのころ朝日新聞が、憲法学者209人に「安保法制は合憲か違憲か」とのアンケートをしたところ、回答者122人のうち104人が「違憲」、15人が「違憲の可能性がある」とし、「合憲」は2人だけだった。

 また国民世論でみると9月19日の法案成立直後の朝日新聞の世論調査では安保法制に「反対51%、賛成30%」だった。憲法に違反しているかどうかについては「違反している51%、違反していない22%」だった(9月21日紙面)。読売新聞調査では「成立を評価する31%、評価しない58%」だった(9月21日紙面)。成立前後の国民の声は非常に厳しいものだった。

 そうした憲法学者たちの意見や、国民世論にもかかわらず政府・与党は、衆参の各特別委員会、本会議で審議打ち切り、強行採決を繰り返し、「平和安全法制」を成立させたのである。

 安倍首相は、前回取り上げた読売新聞インタビューで、「大切なことはしっかりと国民の目の前で具体的な議論をしていくことだ。自民党の憲法改正草案は党の公式文書だが、その後の議論の深化も踏まえ、草案をそのまま審査会に提案することは考えていない。発議する上で何をテーブルの上にあげていくか、柔軟に考えるべきだ。国民的な議論を深めていく役割も、政党は担っている。国民の皆さんの中に入って議論すべきだ」と述べている。

 しかし、国民の声を聞いてその合意の上で憲法を変えていくという姿勢は、現政権には見られない。安倍政権と国民の意見の一致は、安倍政権の意向に国民が従うことでしか成立しない。この現実を国民は十分認識すべきである。

・次の舞台は国会の「憲法審査会」

 改憲についての最初の審議の場は、衆参両院それぞれに設けられた憲法審査会だ。まずここで改憲が論議され、それが本会議にかけられて、衆参それぞれの総議員の3分の2の賛成で発議へと進むのである。

 憲法審査会は、第1次安倍政権下の2007年8月に設置され、その役割は「日本国憲法及び日本国憲法に密接に関連する基本法制について広範かつ総合的に調査を行い、憲法改正原案、日本国憲法に係る改正の発議又は国民投票に関する法律案等を審査する」(国会法第102条6)とされている。

 現審査会のメンバーは、衆院は自民30人、立憲6人、国民民主4人、公明3人、共産2人、無会派2人、維新・自由・社民各1人の計50人。参院は自民24人、公明5人、民主5人、立憲4人、共産3人、維新2人、希望の会・希望の党各1人で計45人(衆院は5月17日、参院は6月16日現在)。国会の議席数を反映して、与党が圧倒的に多い。

 その審査会はこれまでほとんど動いていなかった。1月22日開会の今国会では、参院は実質的な討議としては2月21日に開かれ総論的意見が述べられただけ、衆院は6月17日に開いたが、メンバーの交代を承認しただけで、9条問題には入っていない。「今は森友・加計学園問題、そこから浮き出てきた首相(近辺?)の関与についての徹底究明が先」という野党の声に与党側が押されてのことだが、なによりも自民党が「出す、出す」と言っている改憲案が出てきていないのだ。

 国会は7月22日まで32日間延長された。その間に議事についての交渉をする幹事懇談会だけでなく本審査会開催の可能性はないわけではなく、また審査会は国会休会中に開催することも可能だ。しかし働き方改革法案やカジノを含む統合リゾート(IR)実施法案、参院定数6増法案などの審議、採決を理由にした延長国会で憲法審査会の審議は説得力に欠き、国会休会中の審議はさらに考えにくいため、9条問題の審議はあるとしても、かなり先のことと見るのが妥当だろう。もちろん、政府・与党が、再び「数の力」で審議の前倒しを図る可能性はある。野党はそれにどう対抗するかを常に考えておく必要があり、国民も事態の動きを注意深く見つめていなければならない。

・安保法制を「決裁済」にしてはならない

 国会(憲法審査会)で究極的に議論すべきなのは、安倍政権が強引に成立させた閣議決定、およびその後に成立した安保法制であることは明らかである。

 安倍首相は国会答弁で、自衛隊明記について「自衛隊を違憲とする主張があるから、文言を入れただけ。憲法の趣旨は1ミリも変わらない」という発言をしている。これについては「1ミリも変わらないのなら変える必要はないだろう」という意見もあるわけだが、本質を見るなら、この明記によって、平和憲法の骨格は大きく変わる。それがどのように変わるのか、そしてそのことが本当に平和と安全をより確実にするものなのか。それをこそ議論すべきだろう。

 憲法審査会がここにどの程度踏み込めるかが大きな課題である。憲法やそれに密接に関わる基本法制について「広範かつ総合的に調査を行い、発議等を審査する」というのであれば、その最も重要課題であり、しかも違憲の疑いの濃い政府方針を審査の外に置くというのは論外である。いわば、取締役会議の席に着いたときすでに、最も検討必要な案件が審議なしに「可決」という決裁箱の中に入っているようなもので、それではなんのために会議を開くのか意味をなさない。それを「可決済み」の箱から取り出し、法的正当性、内容の妥当性についてあらためて慎重かつ抜本的に審議することが必要不可欠だと言えよう。

 憲法審査会での実質的議入りには安保法制の廃棄ないし棚上げが不可欠との意見が各方面から強く出されるだろうし、今後出される自民党案に盛り込まれるはずの「自衛隊の明記」は、議論の深まりにつれて、違憲性と危険性が明確にならざるをえないだろう。これは安倍政権にとっても両刃の剣となるだろう。

 多くの国民が「自衛隊の明記」と聞いたとき思い浮かべるのは、かつての専守防衛と災害時の救助・復興協力に徹した自衛隊像だろう。「平和安保法制」を成立させる前なら安倍首相は、明記する自衛隊像をすり替えることできたかもしれない。しかし、今となっては、ごまかしはきかない。その自衛隊は「平和安保法制」によって集団的自衛権行使を前提にしたものであり、同盟国や密接な国の状況によっては地球の裏側にまで出かけて戦火を交えることがありうる。

 国民の目に、「明記される自衛隊」がそのような存在であることが明瞭になったとき、仮に国会議員の数の力で「改憲」を発議できても、過半数の国民の賛成が得られるかどうか。非常に疑わしい。改憲に向けて着々と手を打ってきた安倍首相の「上手の手」から、あるいは「水が漏れる」ことになるかもしれない。

<リンク集・資料集>

衆議院憲法審査会
参議院憲法審査会
衆議院憲法審査会での平和安全法制をめぐる長谷部恭男、小林節、笹田栄司参考人の意見陳述(ユーチューブ録画) 要旨は各新聞2015年6月5日朝刊
「平和安全法制」の概要(内閣官房)
安保法案の論点(ヤフー「みんなの政治」)

 

名和「後期高齢者」(11)

友だちの友だち

 「友だちの友だち」という関係を6回くりかえせば、地球上のだれとでも知り合いになれるという研究成果がある。ここでの友だちはファースト・ネームで呼び合える仲とされている。研究者の名前をスタンレー・ミルグラム、この現象を「6次の隔たり」と呼ぶ。

 この話を聞いたとき、もう十数年もまえの話だが、私も追試をしてみた。ただし私の目標は2次の隔たりまでたどること、と矮小化した。このために、まず、私とまったく交流のない人、そんな人の自伝を購入し、そこへ登場する人物のなかに私の知り合いがいるかどうか、確かめた。

 その自伝としては、相手が日本人であること、世代が重なっていること、人名索引の充実していること、とした。この条件を充たすサンプルとして、私は柴田南雄の『わが音楽 わが人生』を選んだ。巻末の索引には1000人を超える人名があり、うちほぼ7割は同時代の日本人名だった。

 私自身びっくりしたのは、ここに私の知人が6人も見つかったこと。小学校の同級生のNさん、大学教師であったTさんとBさん、たぶん役所の審議会でご一緒したJさん、飲み友だちだったKさん、そして近所付き合いのもう一人のTさん、だった。Jさんの記憶は消えているが、確かめたら名刺は手元に残っている。つまり私は大作曲家の柴田南雄と「友だちの友だち関係」を6つももっていたことになる。当方はしがない企業人の一員であったにもかかわらず、だ。 

 じつは「友だちの友だち関係」(2次の隔たり)のまえに、「友だち関係」(1次の隔たり)がある。それはファースト・ネームで呼び合う関係、年賀状交換の関係、名刺交換の関係、共同研究者、師弟、ヨガ教室の仲間など。私たちはそれぞれに対して、自己についてここまでは開示、ここからさきは隠蔽と使い分けている。

 なお、本人の氏名は公共領域にあるが(第9回)、その友だちは本人のプライバシーに属する。

 フェイスブックはこのような友だち関係を含む「友だちの友だち関係」を、それも隔たりの次数を制限せずに、捌けるのだろうか。拘忌高齢者(KK)たる私には素直には信じられない。

 それにしても、フェイスブックでは、友だち1000人を超す顔をおもちの方が少なくないのにはただただ感嘆するばかり。モーツァルトの、「さてスペインでは おどろくなかれ 千三人 千三人 千三人」というカタログの歌を、つい連想したりして。

 はっきり言って、友だち1000人の人と友だち10人の人とでは、「いいね」の価値が違うだろう、ということ。そういえばプロスペクト理論もあったよね。たしか、富者と貧者とでは同じ一万円であっても有難みが違うよね、というあの理論だ。「友だちの友だち関係」はどこまで「スケールする」のかな。

 ところで私の場合だが、友だち数は142人、うち77人が1次の隔たりをもつ人、さらにいえばうち5人が80代の方である。だが、80代の方はほとんど黙して語らない。私の本音は同世代の方と㏍としてよしみを復活したかったのに。しかも、ほとんどの方が好奇高齢者あるいは高貴高齢者になっておられるのに。

 これで文章を閉じるつもりであったが、思いがけなくも、フェイスブックに好意的ともいえる意見を発見した。それを引用しておく。

「平生さしたる要用はなきときにも、折々一筆の短文にて、互いに音信を通ずるの習慣を成し来れば、マサカの時の大事に鑑み、片言以て用を弁ずる利益あり。」

 発表は明治29年、著者は福沢諭吉である。\(^o^)/

【参考文献】
柴田南雄『わが音楽 わが人生』、岩波書店 (1995)
アルバート=ラズロ・バラシ(青木薫訳)『新ネットワーク思考:世界のしくみを読み解く』、NHK出版、p.41-62 (2002)
新ネットワーク思考―世界のしくみを読み解く
福沢諭吉「交際もまた小出しにすべし:福翁百話(五十八)」『福沢諭吉全集:第十一巻』岩波書店, p132-134 (1981)

名和「後期高齢者」(10)

「いいね」の意味は?

 この呟きブログをはじめてほぼ半月、他愛のない拘忌高齢者(KK)の独り言につきあってくださり、「いいね」といってくださった方が十数人いらした。ありがとうございました。現役の方からはネグリジブル・スモールじゃないかと冷笑されるかもしれないが。

 びっくりしたのは、船山隆さんからの「マーラーを連想したよ」というコメント。その真意をただしたら、「嘆き節の振りをしていながら、じつは攻撃的なメッセージだね」との答えをいただいた。褒められたのか、けなされたのかは図りかねたが、船山さんはマーラー研究の専門家であるので、私自身としてはどちらにしても嬉しい。

 ここで本論に入る。もし、船山さんの上記のフェイスブックでのコメントに私が「いいね」を返したら、どうなるのかな。私は自分の攻撃性を自認することになってしまう。「いいね」の含意は複雑ですね。近年、「いいね!」「超いいね!」「うける」「すごいね」「悲しいね」「ひどいね」などと細分化された表現ができたのは、このためかとも思う。

 ただし、上記の細分化表現は、いずれも相手に共感を寄せるメッセージと理解できる。とすればフェイスブックは共感メッセージの交換システムという役割をもつ、と解してもよいだろう。ここに注目すればフェイスブックはユーザーに共感せよというアフォーダンス(第2回)をもつ。このアフォーダンスは物理的にも心理的にも孤立しがちなKKにとって望ましい特性となる。

 そのアフォーダンスは友だちリクエストという仕掛けで実現されている。くわえて友だちリクエストは「友だちの友だちは友だち」というルール(詳しくは次回)に支えられている、ともみえる。

 ここで私のフェイスブックとの付き合いを振り振り返ってみたい。7~8年前のある日、突然、数十年間、行き来のなかった知人から友だちリクエストが届いた、これがきっかけ。ちょっと戸惑ったが、懐かしさが先だって、「承認」を返した。その後、多くの方からリクエストがあいついで舞い込んだ。いずれも面識のある方からであり、「承認」を返した。

 ただし友だちの数が30人を越えるころになると、面識のない方からのリクエストが舞い込むようになった。私自身、とうの昔に退役しているし、自分の仕事に対する引用数などロングテールに埋もれてしまっているので、嬉しかった。

 私は、古臭いねと言われることを自覚してはいるが、それでも

           マジック・ナンバー=7±2

というJ.ミラーの法則を信じている。だから7人はともかく、同時に数10人の方と友だち付合いできるとは思わなかった。ここにいうマジック・ナンバーとは一度に処理できる短期記憶の数、つまり「統制の限界」を指している。(私はこの数を、占領軍が日本のビジネス界に残した下士官教育で学んだ。その教科名をManagement Training Programと呼んだ。)

 ということで、私は100人をこえる友だちをもつ方からのリクエストと「友だちの友だち」からのリクエストは謝絶することにした。いずれも私の統制の限界からはみ出してしまうから。

 当初、私は内心では友だちの数の上限を7人にするつもりであったが、ほとんどの方がすでに30人以上の友だちをお持ちなので、そして私自身の友だち数がすでに30人を超えてしまったので、上記のようにした。それでも、私自身の友だちは、思いがけない方がたからのリクエストに戸惑いつつ、現在142人にもなっている。なかには、30年ぶりで旧交を温めた人もいる。退役したものにとっては予想外。

 入稿後に林紘一郎さんから下記のようなメールを頂戴したことを思い出した。すっかり忘れていた。それを紹介しておきたい。

以前、「年長者がネットで意見交換できるのは、30人が限度」というメールをいただいたかと記憶します。また、それをインターネットの世界では著名なEさんに伝えたら、「30人ないし∞」という彼らしい反応があったことも、お伝えしたかと思います。
ところが、ネット・ジャーナリストとして著名な、中川淳一郎さんの『ネットのバカ』(新潮新書)を読んでみたら、何と彼自身も「30人の法則」を主張しているではありませんか(p.213以降)。
これはもはや「年長者の法則」ではなく、「普遍的法則」あるいは「ネットのバカが認めようとしない法則」ではないかと思った次第です。ぜひ、ご一読を。

【参考文献】
船山隆『マーラー』,新潮文庫  (1987)
マーラー (新潮文庫―カラー版作曲家の生涯)
名和小太郎「7±2」『情報セキュリティ:理念と歴史』、みすず書房、p.43-44 (2005)
情報セキュリティ―理念と歴史

 

林「情報法」(20)

情報社会(情報法)の主体

 『情報法のリーガル・マインド』を出版し、幸いにも大川出版賞をいただいたことも手伝って、あちこちの会合に招かれるようになりました。6月30日(土)には、慶応三田キャンパスで開催される、情報通信学会の「国際コミュニケーション・フォーラム」の基調講演を依頼され、「お題は自由」ということだったので、連載に合わせて「情報社会(情報法)の主体と客体」とさせていただきました。講演では広く情報社会の特徴を述べる予定ですが、本連載ではやや狭く「情報法の主体」に絞って議論しましょう。

・ロボットや自動運転車も主体に

  この連載は、情報法の対象(客体)である「情報」には、「物(有体物)」にはない性質があり、それが「情報法」という独立の領域を形成する根拠になる、という認識からスタートしました。それは物事を簡素化する作戦として効果的でしたが、法学では「主体と客体」が一対として用いられることからも分かる通り、両者は連動しています。つまり、もう1つの重要な要素である「主体」の側にも、情報法に特有な性格があるのです。

 法学者が「主体」と言えば、存命中の人(自然人)と法人を示すのが普通で、有体物が中心の世界では、その両者以外に「主体」を観念することができません。自然人のうち未成年者や成年被後見人などは、自ら行使できる権利が制限されることがありますが、誰でも基本的人権の享受を妨げられることはありません。

 法人は法の定めに従って設立され登記されなければ、権利の主体になり得ないため、現実に存在していても法的な資格がない、いわゆる「権利能力無き社団」という鵺(ぬえ)的な存在が残ります。例えば、あなたが「釣り仲間の会」を作り規約通り運営していても、NPO法人などとして登記していない限り契約の当事者にはなり得ないので、その会が銀行から借り入れをしようとすれば、あなた個人が借りるしかありません。

 ところが「情報法」においては、自然人と法人に加え、センサー・ロボット・自動運転車やAI(Artificial Intelligence)など、幅広い主体が登場する可能性があります。もちろん自然人と法人だけが「主体」であり、それらはすべて「客体」でしかないと割り切ることもできなくはありません。しかし科学者が「シンギュラリティ」(AIの知的能力が人間を上回る特異点)と呼ぶ事象が起これば、人間よりも判断能力に優れたAI が登場することになる訳ですから、その「法的主体性」を否定しているだけでは済まないでしょう。

・自動運転車の場合

 具体例として、自動運転車が事故を起こした場合を考えてみましょう。「自動運転」と一言で言っても0~5までレベルがあり、レベル0は自動運転に関する装備が全くない通常の乗用車、レベル5になると乗用車がシステムによって自律的に走行するものという、アメリカのSAEインターナショナルが定めた「SAE J3016」が使われています(次表参照)。

表 自動運転車の自動化レベル

レベル

自動化の機能

具体的内容

レベル0

運転自動化なし

自動運転の機能がついていない乗用車(一般的な車)

レベル1

運転支援

ハンドル操作や加速・減速などの運転のいずれかを車が支援

レベル2

部分運転自動化

ハンドル操作と加速・減速などの複数の運転を車が支援。ACC(アダプティブ・クルーズ・コントロール)が進化したものだが、ドライバーは周囲の状況を確認する必要

レベル3

条件付き自動運転

このレベル以上が、本格的な自動運転になる。レベル3は、周りの状況を確認しながら運転をしてくれるが、緊急時はドライバーの判断が必要

レベル4

高度自動運転

レベル4になると、ドライバーが乗らなくてもOK。ただし、交通量が少ない、天候や視界がよいなど運転しやすい環境が整っているという条件が必要

レベル5

完全自動運転

どのような条件下でも、自律的に自動走行してくれる

 上記の分類で、レベル0からレベル2までは従来の交通事故の対応と変わりません。運転の主体は自然人ですから、運転者に注意義務違反があれば、過失責任を問われます(被害者にも過失があれば、過失相殺されます)。希に自動車の構造に欠陥があれば、自動車メーカーが製造物責任を負うことになるでしょう。

 しかし、レベル3以上では様相を異にします。運転している自然人がいる場合でも、彼(または彼女)は監視しているだけで、真の運転者は「自動運転ソフト」というソフトウェアです。ましてや運転席に誰も座っていない「完全自動運転」の場合には、法的責任を負う「主体」は、まぎれもなく「自然人以外」ということになるでしょう。

・ソフトウェア自体は製造物ではない

 それでは「自動運転ソフト」に責任を負わせることができるでしょうか? 現在の「製造物責任法」(Product Liability=PL法)では、「製造物」とは「製造又は加工された動産をいう」(2条1項)と定義されています。ここで「動産」とは有体物のことで、データやプログラムといった「無形物」は「製造物」とはみなされない、という理解が一般的です。受託開発したシステムの不具合でユーザー企業が被害を被っても、PL法の対象外となり、コンピュータにプリインストールされたOSやアプリケーション・ソフトも、PL法の対象とはならない。ただし組み込みソフトについては、機器に組み込まれた「部品」ととみなされるためPL法の対象となる、と理解されています。

 自動運転車の場合、この点の解釈が結論に直結するので、十分な検討を加える必要があります。まず、ソフトウェアにはバグが付き物ですから、製造物の品質保証のレベルに達していないし、近い将来にそのレベルに追い付く保証もありません。この面を強調すれば、ソフトを製造物責任の対象に加えることは、「不可能を求める」結果となって、産業の発展を阻害するおそれがあります。しかし他方で、完全自動運転車が事故を起こしても、誰も責任を負わなくてよい、という結論は常識的ではありません。

 ここで確認しておきたいことは、① 誰が運転するのであれ、事故をゼロにすることはできないこと、② 自動運転と人間の運転を比較すれば、前者の方が優位(たぶん桁違い)に安全であり、その差は今後拡大していくと見込まれること、の2点です。この2点の合意があれば、英知を絞って「事故の責任分配のあり方」として冷静な議論が可能ではないか、と私は考えますが、読者の皆さんはいかがでしょうか?

[ちょっと道草]

 この連載が掲載されているサイトは、矢野さんが主宰する「サイバー灯台」の「プロジェクト」の欄です。本日現在、名和小太郎さん・小林龍生さん・森治郎さんと私が執筆者として登録されています。そのうち矢野さん・小林さんと私が名和さん宅を訪問して歓談するという珍しい機会がありました。その時の話題を、小林さんが紹介してくれています(同氏の連載第6回「シャノンとウィーナー」から)が、そこでは今回のテーマに関して、次のような「緩やかな合意」に至っています。

(林コメント:本連載の号外「大川出版賞を受賞して」から)
 私が通信ビジネスに長く携わっていたので、シャノンとウィーナーは大先輩でもあるから、という理由だけではありません。一旦「意味」を捨象して「構文」に特化したことから情報科学が飛躍的な発展を遂げたのはシャノンのおかげですが、AI まで含めた新しい「法主体」(ある研究会では Legal Being と呼んでいます)を考えるには、ウィーナーのように「意味」を再度取り込む必要があるからです。
(小林さんのコメント)
 一旦「意味」を捨象して「構文」に特化した情報科学は、今こそ再度「意味」を取り込む必要がある、ということ。この必要性は、何も法学に限ったことではない。情報に関わる全ての分野において、そして情報に関わるすべての人が、真摯に考えなければならない問題なのだ。矢野さんがサイバーリテラシーを提唱する根幹の理由もここにある。

 連載が進むにつれて、執筆者間の交流が、もっと増えるかもしれません。

名和「後期高齢者」(9)

名前はだれのものか

 地図から地名へと追いかけてきたので、つぎは地名から氏名へとたどっていきたい。

 電話をかける。「こちらナワです」。相手が聞き直す。「お名前は」。「ナワです」。「もう一度」。・・・。こんな問答を数回くりかえしたあと「名前のナと平和のワです」。これは私にとって日常的な現象。たしかに、私の姓は短くかつ子音がないに等しいために、聞きとりにくいのだろう、と思う。

 私の知人に本田さんと本多さんと誉田さんがいるが、皆さん、私の場合と理由は違うが、同じようなご苦労をなさっているのではないかな。漢字に「アルファのA」、「ブラボーのB」というようなフォネティック・コードのないことが厄介。

 フォネティック・コードで思い出したが、かつてアマチュア無線では、ユーザーには「暗号を使うな」という縛りが課せられていた。当時、この暗号には俗語も含まれており、うろ覚えだが、たとえば養毛剤だったかの商品名を「この先、凍結」という意味に転用することについて議論があった。

 スマホが、そしてSNSが日常的な環境に組みこまれた現在、この規制はとうに消えてしまったかと思うが、もしいまでも生きているとすれば、「いいね!」も、親指の絵文字も、暗号になるのでは。

 ここで本題に入る。地名の一意性、そして不変性を確保するためには、その番号化がよいだろう、と――これが前回の主題であった。この論議の先に、戸籍名の扱いとその番号化とがある。

 まず戸籍名について。それを表現する字体は、その初期値のまま世代を越えて継承される(婚姻、養子縁組といった例外はあるが)。その字体が権威ある漢字辞典に載っていなくとも、俗字、誤字であっても、本人はそれを改めることはできない。不満な人は芸名、筆名、字(あざな)などを使う。屋号というものもある。ハンドル・ネームもある。つまり戸籍名は本人のものではない。それは自治体のものらしい。諸説あるようだが。

 つまり、戸籍名は不変性を確保している。だからといって、戸籍名はその一意性を保証するものではない。同性同名の方は多い。フェイスブックで友達リクエストをするとき、複数の同姓同名の候補者が現れ、そのどれが当の本人かに戸惑うことは、だれもがもつ経験だろう。

 とすれば、一意性を確保するためには、氏名についても、その番号化が、つまり個人番号が、必要という流れとなる。ただし、個人番号をとる手順は厄介。このためには本人確認のためのトークンが必要である。それは旅券、運転免許証、健康保険証など。(そう、私の少年期には米穀通帳という身分証明書もあった。)

 いっぽう、旅券、運転免許証などを入手するためには個人番号カードなどが必要。ということで循環論法になる。ここでは「クレタ人は嘘つきだとクレタ人は言った」などとややこしいことは考えない。

 循環論法から脱出するためには、一意性、不変性を保証できる身分証明用のトークンを探さなければならない。それは失ってしまったり、盗まれたりするものであってはダメということになる。つまり、本人自身を、たとえば本人の容貌を、あるいは本人の遺伝子配列を、身分証明用のトークンとしなければならない。

 この点で、氏名は、そして個人番号も、本人自身の識別用としては十分ではない。そのカードがどこかに紛れ消えてしまうこともあり、そのデータが他人にコピーされることもありうるから。

 作家のホルヘ・ルイス・ボルヘスはこの面妖な「私」の識別法について語っている。「私は私自身のなかにではなく,ボルヘスのなかに留まることになろう」と。ここにいう「ボルヘス」とは本人識別用の戸籍名、あるいは個人番号に、また「私」とは本人の容貌、あるいは遺伝子配列に相当するのかな。あるいは逆かな。われながら混乱してきた。

 話をもどす。戸籍名は本人のものではなかった。しからば個人番号についてはどうか。それには住民基本台帳の番号とマイナンバーとがある。前者は本人にも秘匿されていたが、後者は本人はおろか第三者にも開示されている。後者は前者からあるアルゴリズムにしたがって変換されたものであるにもかかわらず、だ。だから前者も後者も本人のものではないことは自明。

 そもそも論でいえば、名前は「呼びかける」というアフォーダンス(第2回)を持っている。だから、孤立しがちな拘忌高齢者(KK)としては自由に使いたい。だが、どうだろう。近年、町内会名簿、同窓会名簿などは私たちの周辺から消えてしまった。私たちの社会が、いつの間にか、プライバシー保護という泥沼に足をとられている。

 KKとしては、「まだ名前はない」と猫の真似でもしてみるか。

【参考文献】
ボルヘス, ホルヘ・ルイス( 牛島信明訳)「 ボルヘスとわたし」『 ボルヘスとわたし:自撰短篇集』. 筑摩書房, 2003. p.158(原著 1956)
ボルヘスとわたし―自撰短篇集 (ちくま文庫)
名和小太郎「納税者番号制度にかんする思考実験」『電子メディアとの交際術』、勁草書房、 p.224 (1991)
電子メディアとの交際術

名和「後期高齢者」(8)

郵便番号のバイアス

 地名は難読なほど識別しやすく、平明なほど一意的には決めがたい、と前回に語った。平明にして一意的にするためには、どうしたらよいのか。番号を振る、という方式がある。いわゆる郵便番号である。ということで、今回は郵便番号にこだわる。郵便番号は記号にすぎないが、インフラストラクチャとしての機能をもつ。

 郵便番号については、じつは最近の『日経新聞』に解説が示されたので、先をこされた私はちょっとひるんだ。だが日経の記事は実用的な記事で、私のような引っ込み思案の拘忌高齢者(KK)にはよそよそしい感じ。だから以下、我流の郵便番号論を呟いておく。現役の方々は日経の記事を参照してほしい。

 郵便番号は、NNN-NNNNの7桁の数字で表示される。とりあえず、上3桁をたどってみよう。最初の001は札幌市にあり、最後の999は山形市、鶴岡市、酒田市にある。これだけでは、どんなアルゴリズムで付番されているのか、まったく見当がつかない。私が喋りたいのは、番号がどんなアルゴリズムによって、つまりどんな価値観によって付番されているのか、ということだ。

 その第一は、東京中心という価値観。記憶しやすい101は東京都千代田区になっており、東京周辺は、東西南北を問わず、東京都のあとになっている。

 その第二は、表日本優先という価値観。たとえば、501が岐阜市、601が京都市、701が岡山市、801が北九州市、901が那覇市。そして、920は金沢市、930は富山市、940は長岡市、960は福島市、970はいわき市、980は仙台市、990はすでに示したように山形市ほか。

 その第三は、残りは北海道という理解。青森、秋田,盛岡は北海道各地と等しく、0NNを付与されている。

 北方の上位は納得できるとしても、この時代、東京中心、裏日本(この表現を嫌う人は多いはず)は後回しという発想はいかがなものか。この件、KKならずとも、不審に思う人は多いだろう。

 以下は付け足し。NNN-85NNという番号が多い。役所、病院、大学、大企業、ホテルなどに割り当てられている。ユーザーからみれば、この組織、まあ、世間的には信用がおけるかな、といった感触にはなる。とすれば、東京都心の一等地にあり、かつ歴史をもつ組織の番号は「101-8501」になるはず。そこでこの番号を検索してみたら、「全国農業協同組合連合会全農東京支所」という住所が出力した。なるほど。いずれにせよ、101-85NNはオレオレ詐欺をたくらむものにとって格好の住所表示になるかもしれない。こんな益体もないことが気懸かりになるのは、郵便番号にもアフォーダンスあるからだろう。

 ここで漱石の秀作を一句。

   無人島の天子とならば涼しかろ

【参考文献】
名和小太郎「郵便番号を追いかける」『JDL AVENUE』v.5, p.1  (1994)
嘉悦健太「郵便番号50周年 どう割り振り?」『日本経済新聞』,5月26日朝刊付録, p11  (2018)

小林「情報産業論」(6)

シャノンとウィーナー

最小の情報とはふたつの可能性のうちのひとつを指定することである。これがビットとよばれる情報の単位となる。(p46)

 過日、矢野さんに声をかけていただいて、林紘一郎さんともども、名和小太郎さんのお宅にお邪魔した。その帰路、地下鉄の牛込神楽坂の駅に向かいながら、林さんがこのサイバー灯台に書かれた原稿の話になった。

ちょっと長くなるが、そのまま引用する(号外「大川出版賞を受賞して」から)。

 振り返ってみると、私は情報理論の先駆者であるシャノンとウィーナーが開拓した産業分野で、55年間も仕事をしてきたことになります。両者とも1940年代末のコンピュータの黎明期に登場した理論家ですが、シャノンの方は、情報の処理・伝送・蓄積という全過程を0 1 のビット列で捉え、「情報量」もビットで測れることを示したことで、今日の情報科学の基礎を築きました。いわば情報から「意味」を捨象して、専ら「構文」として扱うことで、ICT(Information and Communications Technology)の飛躍的発展に貢献したと言えます。

 他方ウィーナーは、通信と制御は別々のものではなく両者合わせて「制御システム」であると理解し、心の働きから生命や社会までをダイナミックに、かつ統一的に捉えることが出来る概念として「サイバネティックス」を提唱したことで知られています。これは、シャノンが捨象した「意味」の方を、より重視した発想であるとも言えますが、当時のコンピュータでそのような高度な判断を実行することはできなかったので、忘れられた存在のように理解されているかもしれません。

 しかし、1948年の『CYBERNETICS: or control and communication in the animal and machine』の第2版の邦訳(1962年、岩波書店)が、文庫化されるに際して、初版の4名の共訳者のうち唯一存命中の戸田巌氏は、「ウィーナーの提唱したサイバネティックスは、通信と制御の観点から機械、生体、社会を統一して扱おうという学問分野である。この50年で、数学、工学の観点からのサイバネティックスの評価は確立したといってもよい。社会学的および生理学的にどう位置付けるかが問題である。」(文庫版あとがき)と述べています。

 そして、戸田氏の要請を受けて [解説] を書いた社会学者の大沢真幸氏が、「本書の書名そのものが新しい学問分野を創成し、自然科学分野のみならず、社会科学の分野にも多大な影響を与えた。現在でも、人工知能や認知科学、カオスや自己組織化といった非線形現象一般を解析する研究の方法論の基礎となっている」と評しているのは、私にとって励みになりました。

 私が通信ビジネスに長く携わっていたので、シャノンとウィーナーは大先輩でもあるから、という理由だけではありません。一旦「意味」を捨象して「構文」に特化したことから情報科学が飛躍的な発展を遂げたのはシャノンのおかげですが、AI まで含めた新しい「法主体」(ある研究会では Legal Being と呼んでいます)を考えるには、ウィーナーのように「意味」を再度取り込む必要があるからです。

引用してみて、しまったと思った。ぼくが、今回書こうと思っていたことが、過不足なく見事に書かれている。まあ、だからこそ、路上での会話にもなったのだろう。

この会話は、それぞれが乗る電車が逆方向だったために中断を余儀なくされたが、ぼくが林さんとお話ししたかった主眼は、まさに、この最後のパラグラフに関わることだった。

一旦「意味」を捨象して「構文」に特化した情報科学は、今こそ再度「意味」を取り込む必要がある、ということ。この必要性は、何も法学に限ったことではない。情報に関わる全ての分野において、そして情報に関わるすべての人が、真摯に考えなければならない問題なのだ。矢野さんがサイバーリテラシーを提唱する根幹の理由もここにある。

梅棹の情報産業論が、今でも、情報と社会の関係を考える上で古典中の古典であり続ける所以も、また、この点にこそある。

冒頭に引いたとおり、梅棹は、シャノンが規定したビットの概念を、正確に理解している。その上で、テレビ・ドラマを例に挙げて、その情報量が何ビットであるかという議論がまるで意味をなさないことを指摘している。林さんの言を俟つまでもなく、ビットの概念からは捨象された「意味」にこそ、価値の軽重が論じられなければならない。しかし、そのような「意味の価値」は、人により、時と場合により、さまざまに変化する。

「お代はみてのおかえり」(p48)

梅棹は、この言葉を情報産業のインチキ性を示すものとして、捉えていると読める。

しかし、ぼくには、ここでのこの言葉の含意は、ずっと広く深いもののように思われる。

梅棹と同世代の社会学者吉田民人に、『自己組織性の情報科学』(1990年、新曜社)というこれまた古典的名著がある。副題に「エヴォルーショニストのウィーナー的自然観」とあるのも、また因縁めいたものを感じるが、この中で、吉田は、情報を、flowとstock、factとevaluative、instructiveという都合6つのメトリックス(例によって吉田の本が手元に見当たらないので、名称はぼくの言い換えになっている)で分類している。

たしかに、梅棹が論じる情報の中には、一方で、競馬の勝馬予想や株のインサイダー情報のように、一度聞いてしまえば、対価を支払うのをためらってしまう情報や、「立ち読みお断り」のマンガや週刊誌のように、まさに立ち読みしてしまえば、用が足りてしまう情報もあれば、文学や哲学の古典、名作映画、音楽の名演奏など、滋味豊かで幾度となく再受容される情報もある。おっと、急いで補足しておくが、マンガや週刊誌の記事の中にも、後々まで古典として読み継がれていくものがあることも、忘れてはならない。

「お代は見てのおかえり」でなくとも、たとえその情報受容体験が一過性のものであっても、その体験に深い感銘が伴えば、その感銘を投げ銭のような形に変えて表すことも考えられる。「お代は見てのお帰り」という言葉には、その情報受容体験が、客すなわち情報受容者にとってインチキと思えるものではなく、充分以上に満足感を与えるものである、という情報提供者側の自負が込められているとともに、情報の価値がその受容者によってさまざまに変容しうるものであるという含意もある。

近来、オープンソースのソフトウェアの一部に、ドネイションウェアと呼ばれるものが散見されるようになっているが、このような情報受容者ごとによる情報価値の多様性を認めた上で、情報受容体験による満足感をドネイションという形で表す方策は、もっと考えられてもいいように思われる。

吉田民人の分類を援用した上で、「お代は見てのおかえり」的情報のあり方について、再考することも必要なのではないか。