小林「情報産業論」(8) 

なぜ「情報産業の時代」と言わなかったのか

夏の間、他の雑文書きにかまけて、しばらく間が空いてしまったが。

虚業を虚数のアナロジーで論ずることに対する批判の、続きから。

こういうふうに整理してみると、人類の産業の発展史は、農業の時代、工業の時代、精神産業の時代という三段階をへてすすんだものとみることができる。(p52)

この先の、内胚葉の時代、中胚葉の時代、外胚葉の時代というアナロジーも含め、梅棹の産業発展の三段階区分が世界的に見ても、時代を魁(さきがけ)ていたことは、言を俟たない。

先にも触れたが、アルビン・トフラーの『第三の波』の出版が1980年だったということだけで、梅棹の先進性を語るに十分であろう。

しかし、例によって、ぼくには、「精神産業」という言葉に対する違和感が拭いきれない。なぜ、「情報産業の時代」ではいけなかったのだろう。後に、トフラーは高らかに「情報革命」と言い放ったではないか。

梅棹はなぜ、一方で、情報産業のことを「虚業」と卑下し、その一方で「精神産業」という21世紀に生きるぼくからすると、いかにも座りの悪い言葉を使ったか。

これも、以前言及したことだが、梅棹の生きた時代、「情報」という言葉の主たる意味は、まだ、「①事柄の内容、様子。また、その知らせ。」(日本国語大辞典縮選版)という意味が主流だったと考えられる。
「②状況に関する知識に変化をもたらすもの。文字、数字などの記号、音声など、いろいろの媒体によって伝えられる。インフォメーション。」(同上)
⑵現在のように information と緊密に結びつくようになったのは、一九五〇年代半ばに確立した information theory が「情報理論」と訳され、普及したことによる。」(同上)

逆に、このような時代背景を鑑みると、梅棹が作った「情報産業」という言葉は、その時代、いかにも斬新で、ある意味ではゴリっとした違和感をもって迎えられたのではなかったか。

その違和感を埋めるために、梅棹は意図してか意図せずにかは措くとしても、「虚業」「精神産業」という両極端の印象を持つ言葉を使ったのではなかったか。

言葉は、時代精神とともに変化する。

ぼくたちは、その後、精神産業としての宗教産業の鬼っ子とも言うべきオウム真理教によるサリン事件を体験する。

だからと言って、ぼくたちは、梅棹の「精神産業」という言葉に対する違和感を以ってして、梅棹の先進性を貶めてはならない。梅棹が工業の時代のその先に見据えた「情報産業」の時代は、世紀を超えて今も時代の先端を切り拓き続けている。

・発生学のアナロジーと梅棹の悪戦苦闘

もう少し先まで読み進めておこう。

わたしたちは、現代の情報産業の展開を、きたるべき外胚葉産業時代の夜明け現象として評価することができるのである。(p54)

じつは、ぼくは最近まで、梅棹の農業時代=内胚葉時代、工業時代=中胚葉時代、精神産業時代=外胚葉時代という、彼が学生時代に学んだ発生学へのアナロジーについては、どこか為にするアナロジーだといった印象を抱いていた。大学での授業の際も、あえてこの部分を飛ばして読んでいた時期もある。梅棹自身、「情報産業論」が単行本としてまとめられた際、20年の時を経て執筆した「情報産業論への補論」の劈頭で、「外胚葉産業」という言葉についての、説明を試みている。その文章の端々からは、どこかしら、弁明めいたニュアンスを感じ取ることができて、平素は舌鋒鋭い梅棹とは異なる面を見るようで、すこし微笑ましい気分になる。

それはそれとして、「精神産業」という言葉について考えているうちに、ぼくは、梅棹が「外胚葉産業」というこれまたちょっと違和感のある言葉を用いた理由も、少し分かったような気がしてきた。

そう。繰り返しになるが、「情報産業」という言葉は、梅棹が用い始めた時代には、新しすぎたのだ。「情報産業」という言葉が持つ時代精神との乖離を梅棹自身が一番感じていたのではないか。その乖離を埋めるために、「虚業」という言葉を用い「精神産業」という言葉を用い「外胚葉産業」という言葉を用いたに違いない。

もとより中胚葉産業の時代にあっても、後に展開するはずの外胚葉産業の芽はいくらも存在する。さらに、もう一つ前段階の内胚葉産業の時代にあっても、中胚葉産業および外胚葉産業の先駆形態がたくさん存在した」(p54)

トフラーの「第三の波」に係わって、恩師伊東俊太郎から

「情報革命が起こったからといって、農業がなくなるわけではありませんよ」

という言葉を聞いた記憶がある。ぼくが2年の留年を経て大学を離れたのが1976年だから、直接師事していたころのことではなく、後に、テレビで見たか何かの文章で目にしたかなのだと思うが、伊東俊太郎の言葉として鮮明に覚えている。

さらに時代が降り、脳科学が時代の寵児となり始めたころ、そして、それは、あのサリン事件に至るオウム真理教の時代とも重なるのだが、脳のある部分に刺激を与えると、空腹感を抑えることが可能になった、という話を耳にした。おそらく、脳科学を援用したダイエット法といった下世話な話ではなかったかと思う。

その時、ぼくは、ある思いに至って慄然とした。

「人類は、空腹感を覚えることなく餓死する可能性を獲得した」

梅棹の謂を藉りると、外胚葉産業が内胚葉産業に突き刺さる時代、とでも言えようか。

梅棹は、情報産業を虚数のアナロジーとして論じた。それは、実業=中胚葉産業 vs 虚業=外胚葉産業といった2次元空間へのアナロジーだった。

ある時、学生たちとの議論の中で、内胚葉産業、中胚葉産業、外胚葉産業を、単に時代区分として捉えることについての議論が沸騰したことがある。その議論の延長で、いっそのことこれらの言葉を、内胚葉軸(農業=食物摂取)、中胚葉軸(工業=筋肉的労働)、外胚葉軸(情報産業=精神労働)という3次元の軸で捉えてはどうか、という話に落ち着いた。

この考え方の変化は、劇的だった。

例えば、今をときめく農業情報処理一つを取っても、みごとに梅棹の視野の中で論じることができる。農業に不可欠な天候の予測にしても、観天望気の時代から、気象衛星とスーパーコンピューターを用いた最先端の気象予測まで。

梅棹は、「情報産業論」を含む一本をまとめるに際して、『情報の文明学』という書名を与えた。情報産業を地球規模の文明論的な視座で捉える雄渾な構えを得るためには、情報産業という時代を魁た言葉で時代精神に切り込むための、悪戦苦闘があった。その痕跡を読み解くことができることを、ぼくは今、とても幸せなことだと思っている。

 

名和「後期高齢者」(21)

「弘法は筆を選ぶ」か?

 知人に筆まめの美学者がいる。その人を私はひそかに迷亭さんと呼んでいる。(だからといって、私は自分を寒月であると擬するわけでない。寒月先生の孫弟子ではあるのだが。)

 その迷亭さんが「弘法は筆を選ぶ」という手紙を送ってきた。本人の説明によれば、迷亭さんは4本のモンブラン万年筆をもっており、それを使い分けているという。さらに、その手紙をみると、みずからがザインした便箋に書かれている。後日、当人に確かめたら、原稿用紙も自家製だという。

 なぜ、こんな手紙を送ってきたのか。私が、迷亭さんの手書きはヒエログリフのようだ、と評したことへの反応らしい。私は褒め言葉のつもりだったが。

 迷亭さんの「弘法は筆を選ぶ」だが、それは巷間いわれている「弘法は筆を選ばず」という諺の逆命題になっている。迷亭さんが弘法ではないことは確実だから、どちらかの主張が間違っていることになる。私は「“クレタ人は嘘をつかない”とクレタ人はいった」という文章を読んだときのように、幻惑のなかに放りこまれた。

 私の場合はどうか。改めて考えると「弘法ではないのに筆を選ばない」という惨状である。念のために言えば、私の筆はPC。入出力ともに、カタカナでも、ひらがなでも、ローマ字でも使える。さらに、筆がなくとも、語りかけるだけでも、使える。

 ところでIT技術者は「弘法は筆を選ばず」をどう表現するのかな。「弘法はネズミ(マウス)を選ばず」かな。

 ここで私は「ユニバーサル・デザイン」という言葉を思い出した。これは「できるだけ多くの人が利用可能であるようなデザイン」にすること、だという。とすれば、鉛筆とPCとのどちらが「ユニバーサル・デザイン」の意にかなっているのか、にわかには判断できない。なお、「ユニバーサル・デザイン」はデザイン対象を障害者に限定していない点が「バリア・フリー」とは異なる。ほかにも「ノーマライゼーション」という上から目線の概念があった。

 ここで私が「ユニバーサル・デザイン」という言葉を想起したのは、PCにはよく不具合が生じ、そのトラブル・シューティングが、孤立しがちな高齢者には難儀だからである。多くの高齢者に頼りになるのは、家族や現役時代の仲間だろうが、その人たちがインターネットの「犬の歩み」に追いついているか否かは疑わしい。付言すれば、トラブル・シューティングについては、いつもマーフィーの法則が現れる。それは

 「何でも間違いうるものならば、間違うことになる。」

という経験則である。

 つい先週も、私の契約しているプロバイダーから「緊急・警告」というメッセージが跳びこみ狼狽した。まず、そのメッセージの真偽を確認しなければならない。さっそく電話をしてみたが、その番号は存在しないという電話会社の回答。こんなことが月に1回はある。これに比べて、代表的な筆である鉛筆であれば、こんなことは皆無といってよい。ただし、万年筆は保守に若干の手間はかかるかな。

  いっぽう、PCには重いという弱点がある。近ごろの現役世代はその重いPCを鞄に放り込んで仕事をしている。先日もSNSで悲鳴を上げている活動家がいた。脊椎を痛めたという。私も似た経験をもっている。くわえて、筆には欠かせない紙も重いね。ただし、こちらは後期高齢者にならなければ気付かない。

 思い出したことがある。90年代だったか、工業標準化調査会で21世紀の標準化の在り方について議論したことがある。そのときに、私はマン・マシン・インタフェイスについて1通りであるべきと主張した。独りものの遭遇するトラブル・シューティングが念頭にあったからである。

 だが、多くの委員の意見は違った。それは、個々のユーザーに特化したマン・マシン・インタフェイスが望ましい、というものであった。この意見はたぶんバリア・フリーを意識したものだったかとも思う。

 いまになって思えば、私の意見と他者の意見とは矛盾するものではなかった。私の主張は、ユニバーサル・デザインに関する7原則のうち、第3原則と第5原則と第6原則を強調したものであった。その7原則とは、ウィキペディアによれば、(1)公平な利用、(2)利用における柔軟性、(3)単純で直感的な利用、(4)認知できる情報、(5)失敗に対する寛大さ、(6)少ない身体的な努力、(7)接近や利用のためのサイズと空間、を指すという。

 ところで、「弘法も筆の誤り」という言葉もありますね。ユニックス・ユーザーは、コマンド嫌いのマック・ユーザーに対して、「悪いユーザーは自分の道具をけなす」というらしい。

【参考資料】
R.L.ウェーバー編(橋本英典訳)『科学の散策』, 紀伊国屋書店(1981)
科学の散策
(2)Wikipedia「ユニバーサルデザイン
(3)オースティン・C・トラビス(倉骨彰訳)『マックの法則』、BNN (1994)
マックの法則―Macにはまった馬鹿なやつら

森「憲法の今」(5)読書案内付

「9条維持」から「護憲的改憲論」まで―日本国憲法をとりまく状況②

 憲法、とくに9条について、しばしば、現状が合憲かどうかという認識論と今後どうあるべきかという実践論が混同されている。つまり前者の意見がそのまま「今後どうあるべきか」と同一視されたり、後者の意見を実現したいために前者の結論を導いたりしている。私たちがよりよい憲法を持つためには、その両者を峻別して考えることが大切だ。

  ●「合憲か違憲か」&「望ましい憲法」

 まず、現状は合憲か違憲かの議論を、自衛隊の存在、自衛権の範囲にしぼって整理してみよう。大きく、①9条の本旨は一切の「戦力」を認めないということだから、自衛隊は違憲であり、個別的か集団的かを問わず自衛権そのものが違憲である、②9条は自衛権のうち個別的自衛権とそれを実行するための組織は禁止していない。個別的自衛権と自衛隊は合憲である、③国連憲章で個別的自衛権、集団的自衛権とも認められており、9条はそれらの確保と行使は禁じていない、に分けられるだろう。

 そのいずれを妥当とするかは、自身の信条を離れて、憲法全体の精神、条文、法理論上の常識や通説などに照らし合わせて、客観的に判断されるべきだろう。これは、かなり明確に「結論」が出てくるのではないだろうか。当然、「合憲」ならよし、「違憲」ならそれが実際には正当で望ましいものであっても、その違憲状態を最も適切な方法で正さなければならない。それが立憲主義の基本である。

 次に「どのような『9条』が望ましいか」である。それは各人が「合憲」「違憲」を離れて自由に考え、選択すべきものである。選択肢は非常に多いだろうが、現時点での代表的意見を整理すると下表のようになる。

 大きく、①「現在の9条は自衛を含むあらゆる戦力・戦争の放棄を定めている」と理解して9条を維持する、②「9条は専守防衛・個別的自衛の範囲内での自衛権と実行組織(自衛隊)は容認している」と理解して9条を維持する、③専守防衛・個別的自衛権にとどまる自衛権と実行組織を明記する、④9条1、2項を残し、集団的自衛権を含む自衛のための実力組織としての自衛隊を明記する、⑤戦力不保持・戦権否認を定めた9条2項を削除し、自衛のための戦力(自衛隊あるいは国防軍)を明記する、にまとめられるのではないだろうか。

 ①②は「護憲派」と呼ばれ、④⑤は「改憲派」と呼ばれる。この間に、現憲法の平和主義を引き継ぎつつ「改憲」をめざす③が存在するわけである。立憲的改憲論、新9条論、護憲的改憲論などと名乗っているが、自称するほど、現時点では大きな存在にはなっていない。「新9条論」は文字通り新しい9条を定めようというもの、「護憲的改憲論」は憲法9条の理念を強く意識している、「立憲的改憲論」は統治者を律するための規範を明確にする、という側面からのネーミングである。

 私は、さまざまなバリエーションはあるにしても、③の考え方に現実的な可能性を見ている。本稿ではそこに焦点をあてて、発想誕生の経緯、内容、可能性について述べたい。

  巻末に[この際の憲法読書案内]掲載(1行コメントつき)

<立憲的改憲論>

 前回、立憲民主党憲法調査会事務局長(衆院議員)の山尾志桜里が、今年8月に『立憲的改憲――憲法をリベラルに考える7つの対論』を出版、その中で実質的に個別自衛権の範囲内での「戦力」や「交戦権」を認めた案を示していることを紹介した。「これからの憲法」についての私案発表の先駆としては、民主党衆院議員時代の枝野幸男立憲民主党代表が『文藝春秋』2013年10月号に発表した「憲法9条 私ならこう変える」があるが、国会議員としてはおそらくそれ以来のまとまった考えの表明だろう。

 立憲民主党は、同党の「憲法に関する当面の基本的な考え方」(2018年3月15日改定)で、「日本国憲法をいっさい改定しないという立場はとらない」としているが、9条について、安倍=自民党改憲案に反対の意志は明確ではあるものの、党としての具体的な方針を明らかにしていない。なぜこの時点での山尾の発表だったのか。

 6月に朝日新聞記者から受けたインタビューで2つのタイミングをあげている。

 「一つは安保法制が通った2015年。薄々感じていたけれど、安倍政権というのは先人からの蓄積とか憲法の解釈とか、書いていないものは一切無視して、解釈を悪用したり、憲法の『余白』を逆手に取ったりする政権だと実感した。一言で言えば、9条の役割は少なくとも自衛権を個別的自衛権にピン留めすること。その役割を果たすことができなかった。つまり、9条は安保法制を止めることができなかった」(※1)

●9条を「解釈」に頼る危うさ

 山尾は、ここで9条を「解釈」に頼る危うさを痛感したのだという。山尾を含め、歴代の内閣や多くの政党・政治家、そして国民は9条を「国家には基本的権利として個別的自衛権と集団的自衛権という2つの自衛権がある。しかし日本国憲法で認められるのは専守防衛・個別的自衛権までであって、他国への侵略可能性のある集団的自衛権は認められない」と理解し、その範囲での自衛隊の存在を認めてきた。

 ところが、安倍内閣はそうした「国民的合意」に委細構わず、2014年に集団的自衛権容認の閣議決定を行い、翌年にはそれを具体化した安保法制を成立させた。集団的自衛権容認が安全保障政策として妥当かどうかの前に、それが憲法に合致しているかどうかを問うことが「立憲国家」としてあるべき姿であることは、先に述べたとおりである。「違憲」であれば、集団的自衛権容認を撤回しそのまま断念するか、撤回の後あらためて憲法の方を改定すべく国民に発議するか、である。いずれにしも「違憲状態」のままの集団的自衛権容認は許されない。

 国会で意見を求められた3人の憲法学者が一致して「憲法が許す範囲を超えており、違憲である」と述べ、複数の最高裁判所、内閣法制局の長官経験者らも同じ意見を公にしたにもかかわらず、安保法案は強行可決された。9条はそうした「無法」を止めることができなかったのである。

 9条はいうまでもなく、「戦争の放棄」として第1項「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段として、永久にこれを放棄する」、第2項「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」から成っている。

 「戦力」とはなにか、国の基本的な権利としてあるとされる「自衛権」までも放棄するのか、それともそれは不文の権利として認められるのか、その場合「権利の程度」はどうなのか、については9条には明文的に触れられていない。

 9条の本旨は、個別的、集団的を問わず「戦力不保持」「交戦権否認」によって武力による自衛権を放棄している、したがって自衛隊の存在そのものが違憲である、という見方がある(どころか、憲法学者の圧倒的多数と国民のかなりはそう考えている)。

 一方、「憲法で禁止されてきた戦力とは近代戦争遂行能力で、この組織はそのような能力を持っていないから戦力ではない」として1954年に誕生した自衛隊は、その後のさまざまな「解釈」によって、膨大な予算を背景に核兵器を持たない「軍隊」としては世界で5指に入るまでに「成長」した。

●憲法に込められた不文律の明文化

 9条に関しては、ことごとくが「解釈」で運用されてきた。安倍内閣の閣議決定、安保法制強行が「解釈による改憲」であるなら、「専守防衛・個別的自衛権の容認」にも同じことが言えるのではないか。いつの時代にもありうる(安倍内閣ほどのものは滅多にないかもしれないが)、政府による勝手な解釈を許さないためにも、「憲法に込められた不文律を明確化・明文化する必要がある」というのが山尾の結論である。

 『立憲的改憲論』は、自らの考えに加え、今年3月から4月にかけて元法制局長官、憲法学者、法哲学者、政治思想史学者、国連PKO勤務経験のある国際政治学者ら7人と個別に行った討論を踏まえて、書かれたものである。

 9条改憲案については、山尾は先のインタビューで「3点セットで考えている。1点目が、9条に個別的自衛権の範囲を明定して自衛権を統制する。2点目が、自衛権の発動と継続を民主的に統制することをしっかり憲法に書き込む。3点目は、自衛権の範囲や手続き面での統制に反する国家の振る舞いがあった時、それを是正できる憲法裁判所を設置する」とし、同書の巻末に「試案であり私案」として具体的な条文を発表している(※2)。

 それは、9条第1項、第2項をそのまま残し、以下の条項を追加するものである。

第9条の2(原文漢数字、以下同)
1項 前条の規定は、我が国に対する急迫不正の侵害が発生し、これを排除するために他の適当な手段がない場合において、必要最小限度の範囲内で武力を行使することを妨げない。
2項 前条2項後段の規定にかかわらず、前項の武力行使として、その行使に必要な限度に制約された交戦権の一部にあたる措置をとることができる。
3項 前条第2項後段の規定にかわかわらず、第1項の武力行使のための必要最小限度の戦力を保持することができる。
4項 内閣総理大臣は、内閣を代表して、前項の戦力を保持する組織を指揮監督する。
5項 第1項の武力行使にあたっては、事前に、又はとくに緊急を要する場合には事後直ちに、国会の承認を得なければならない。
6項 我が国は、世界的な軍縮と核廃絶に向け、あらゆる努力を惜しまない。

 護憲派政党としては これまでタブーだった「戦力」そして、一部にしても「交戦権」を明文化するということは、将来議論を呼ぶとしても「現実」の要請に答えたということで、「理屈」がつくかもしれない。

●山尾案「不可解」「不備」はさまざまあるが

 しかし、不可解なのは、山尾が従来から、そして同書でもしばしば述べている「個別的自衛権の範囲内において」が消えていることである。山尾はその理由として、「急迫不正の侵害が発生し、これを排除するために他の適当な手段がない場合において、必要最小限度の範囲内で武力を行使することを妨げない」は個別的自衛権のみを認めたかつて閣議決定の自衛権行使の3要件であり、「憲法で自国の自衛権を自制する範囲を明記するには、旧3要件を明示すれば足り、あえて国際法上の評価概念としての『個別的自衛権』という言葉を用いる必要はないと考えた」としているが、この場合はあえて使わないことの説明が必要だ。

 「不使用」の背景には、山尾が本書のための討議や各所での討議の中で、「個別的自衛権だけでも侵略が可能。独自で行動するだけに場合によっては集団的自衛権より危険がある」と指摘されたことがあるのかもしれない。私もその指摘は正しく、自衛権の範囲として「個別的自衛権」だけでは不十分だと考えている。そこに「専守防衛」の定めも置くべきだろう。

 それとともに、山尾の提案では、敵地攻撃や先制攻撃を禁止するのかしないのか、そして肝心の集団的自衛権禁止が明確ではない。国会承認の基準も明らかではない。出席議員の過半数か、総議員の3分の2以上か、では国会の統制力はまったく違ってくる。同書を通読すれば、山尾の意のあるところは理解できるが、条文策定にあたってはさらに検討する必要があるだろう。

 また、立憲民主党にとっても、「憲法調査会事務局長」である山尾提案は早急に党の憲法方針を練るためのたたき台として非常に有益だと思われる。それは他の野党にも率先して検討材料を示すという「野党第一党としての責任」でもあるはずだ。

<新9条案>

 「新9条案」として条文を具体的に示し、その浸透をめざして活発に活動しているのは、ジャーナリストの今井一(市民グループ「国民投票/住民投票」情報室事務局長)や楊井人文(弁護士)らのグループである。その中には山尾の対論相手となった伊勢崎賢治(東京外国語大学総合国際学研究院教授)、井上達夫(東京大学法学研究科教授)のほか、堀茂樹(慶応義塾大学名誉教授)らがいる。彼らは完全に意見が一致しているわけではなく、大きな枠組みでの「平和のための新9条論」者としてシンポジウムや著書執筆などで行動をともにしている。

 彼らが一致して指摘するのは、「日本国憲法をGHQ(実態としてはアメリカ)の押し付けといいながら、それと同等の大改革であった農地改革や安保条約、自衛隊の元になった警察予備隊や保安隊の創設を『押し付け』といわない。それどころか現に『アメリカのポチ』と揶揄といわれるほどの追従をしている」、「憲法を解釈によってどんどん捻じ曲げてきた」など。自民党の身勝手、反立憲性批判はもちろん、それと同樣な厳しさで、彼らは「原理主義的護憲派」、「修正主義的護憲派」と呼ぶ人たちの「欺瞞性」をも糾弾している。

 「実質的にはすでに形骸化しているのに、その条文さえ残せば『平和憲法』を護っているかのように考えている」、「9条の本旨に目をつむり、個別的自衛権なら許されるとして自衛隊を認め、9条と実態との乖離を放置し続けている。その意味で憲法を踏みにじっている」というのである。「そうした矛盾、乖離は9条を再検討する以外にない」。今井は、下記のような「9条案」を提案している(※3)。

①日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、侵略戦争は、永久にこれを放棄する。
②我が国が他国の軍隊や武装集団の武力攻撃の対象とされた場合に限り、個別的自衛権の行使としての国の交戦権を認める。集団的自衛権の行使としての国の交戦権は認めない。
③前項の目的を達するために、専守防衛に徹する陸海空の自衛隊を保持する。
④自衛隊を用いて、中立的立場から非戦闘地域、周辺地域の人道支援活動という国際貢献をすることができる。
⑤防衛裁判所を設置する。ただし、その判決に不服な者は最高裁に上告することができる。
⑥他国との軍事同盟の締結、廃棄は、各院の総議員の3分の2以上の賛成による承認決議を必要とする。
⑦他国の軍事施設の受け入れ、設置については、各議院の総議員の3分の2以上の賛成による承認決議の後、設置先の半径10㌔㍍に位置する地方公共団体の住民投票において、その過半数の同意を得なければ、これを設置することはできない。

●「交戦権」や「戦力」の扱いないままの海外派兵

 伊勢崎は、国連NGOで10年間、アフリカの開発援助に従事、2000年から国連PKOの幹部として東ティモールで暫定行政府の県知事を務め、2001年からシェラレオーネで国連派遣団の武装解除部長、2003年からは日本政府代表としてアフガニスタンの武装解除を担った。そうした経験を踏まえ、日本国憲法のもとでの自衛隊の海外派遣が「交戦権」や「戦力」発揮の点で法的根拠を欠き、それが自衛隊員たちを危険な状態におき、派遣を受ける側にも大きな誤解を生んでいること、安保法制によってその危険がさらに拡大することを指摘、下記のような新9条案を提案している(※4)。

①日本国民は国際連合憲章を基調とする集団安全保障(グローバル・コモンズ)を誠実に希求する。
②前項の行動において想定される国際紛争の解決にあたっては、その手段として、一切の武力による威嚇又は武力の行使を永久に放棄する。
③自衛の権利は、国際連合憲章(51条※下記)の規定に限定し、個別的自衛権のみを行使し、集団的自衛権は行使しない。
※この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的自衛権又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。後略。
④前項の個別的自衛権を行使するため、陸海空の自衛戦力を保持し、民主主義体制下で行動する軍事組織にあるべき厳格な特別法によってこれを統制する。個別的自衛権の行使は、日本の施政下の領域に限定する。

 日本が世界の平和に貢献するには、これまであった「解釈改憲」、したがって法的根拠と内容があいまいなままでの自衛隊の海外派遣ではなく、国連による組織化と統制による集団安全保障を基調にし、その上で戦力としての自衛隊を認めるべきである、そうすれば自衛隊が犯す可能性がある戦争犯罪を国際法に則って裁く根拠が生まれる、というのである。

 「安倍加憲での発議を止めた後に、立憲的改憲ができるんだということを見せなければいけない、という指摘ですね」という山尾の問いかけに「それがなかったら、そういう(安倍加憲の提案は70年間ずっと続けている矛盾をやっと変える一歩としてまだマシであるという)人たちは絶対についてこない。安倍加憲に反対する我々が『護憲ではない』もう一つの方向に強く舵を切らないと、彼らはついてこない」と答えている(※5)。

● 「9条削除」という“ラディカルな”発想

 自身がリベラリストである法哲学者、井上達夫は、『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』、その続刊『憲法の涙』で、リベラルと称する(あるいは称される)人々の中に潜む理念と現実の乖離、これを糊塗するための欺瞞を指摘、「常識と良識」を問い直すことの重要性を訴え、「良識派」に衝撃を与えた。

 特に憲法9条問題について、「専守防衛の範囲なら自衛隊と安保は9条に違反しない」とする「修正主義的護憲派」に対して、「自分たち自身が解釈改憲をやっているのだから、安倍政権の解釈改憲を批判する資格はない」(※6)と批判し、「原理主義的護憲派」に対して「自衛隊と安保が提供してくれる防衛利益を享受しながら、その正当性を認知しない。認知しないから、その利益の享受を正当化する責任も果たさない。…。私に言わせれば、これは右とか左に関係なく、許されない欺瞞です」と断じている(※7)。そうしたことが、安保問題、9条問題についての根本的な追究と追求を阻んできたというのである。

 それでは井上はどう考えるのか。「立憲民主主義の観点から、最善は9条を削除すること」という。

「日本の安全保障の基本戦略――非武装中立で行くのか、あるいは武装中立か、個別的自衛権のなかで安保・自衛隊をとどめるのか、集団的自衛権まで行くのか。それは、憲法に書き込むべきではない。憲法に書き込んで、凍結――つまり容易に変えられないようにすべきではない。通常の民主的な立法過程で、絶えず討議され、決定・施行され、批判的に再検討され続けるべきだ」(※8)  

 ただし、規範がなくていいということではなく、どのような戦略が選ばれようと、それが濫用されないための国会による統制など戦力統制規範を憲法入れる必要があるとし、「9条があるために、日本国憲法は戦力統制規範を設定できない。9条を削除することにより、戦力統制規範を憲法で固めると同時に、安全保障政策については、実質的な議論を国会でちゃんとやり、それを欺瞞的な憲法解釈議論で棚上げするのを止めることができる」(※9)としている。

 しかし“どんでん返し”がある。「9条を削除するなんてラディカルすぎる。政治的に実現する見込みが乏しい」と受け取られるかもしれないと認めたうえで、「それなら私にとっての次善のシナリオは、いわゆる『護憲的改憲』です」(※10)と述べているのである。

 三善の策は、集団的自衛権解禁明記の憲法改定を試みること(※11)。最悪は9条に関しては何も変わらず、国民の審判を受けるということがされないまま終わること。「9条は解釈改憲で完全に死文化され、憲法はないがしろにされる。国民の憲法改正権力の発動は棚上げされて終わる。立憲主義も、民主主義も、コケにされる」(※12)からだ。

 「あるべき姿」を考える法哲学者としての井上の立場は「9条削除、戦力統制規範のみ記載」だが、実現可能性を踏まえた政治的立場としては「護憲的改憲」であるようだ。前者は後者が実現されたあとの熟議を経て実現したい、ということだろう。

●個別的自衛権にも侵略危険性はある 

 フランス文学・思想研究者の堀は、以下の提案をしている(※13)。

第1項 日本国民は、公正な法的秩序の確立による世界平和を希求し、国権の発動たる戦争と、武力よる威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
第2項 前項の規定は、他国や、その他の国外の勢力による武力攻撃に対する日本国憲法の自衛権の行使と、そのための戦力の保持を妨げるものではない。この戦力を構成する組織には、軍法会議を設ける。
第3項 日本国民は国際連合憲章に則って行われる平和維持活動には戦力の提供を含むあらゆる手段をもって貢献する。なお、この戦力を構成する組織には、軍法会議を設ける。

 堀は提案への付記として「この9条改正案は、国家の自衛権(=正当防衛権)が、個人の自衛権(=正当防衛権)に準じる準自然権である以上、憲法を含むどんな実定法も日本国憲法からそれを奪うことはできないという前提に立った上で、平和主義の原則に基づいて自衛権の行使に明確に抑制的な法的リミットを設け、かつ国際協調の原則に基づいて国連中心の集団安全保障に積極的に参加することを誓う、という趣旨の改正案」、「この改正案は、自衛権の行使を、『他国や、その他の国外の勢力による武力攻撃』に対処する場合に制限する。いいかえれば、旧周辺事態法の範囲(我が国周辺の地域)に制限するということ。その一方で、それが個別的自衛権の行使であるか、集団的自衛権のそれであるかは問わない。…その理由は2項を改正したとしても、個別的自衛権の行使は認めるが集団的自衛権のそれは認めないというたぐいの主張は、集団的自衛権の容認を危険視する割に、個別的自衛権の孕む同樣の危険性を看過している点で、致命的にピントが外れている。戦前・戦中の我が国の海外派遣は基本的に個別的自衛権の発動であった」と述べている。

 「個別的自衛権ならいい」という見解に待ち構える落とし穴への重要な指摘である。

<森の護憲的改憲論>

  最後に私自身の提案を紹介しよう。第1項、第2項の後に、第3項として下記を加えるというものだ。

前2項制定後の国際環境と前2項の趣旨に鑑み、他国・組織からの攻撃に対して、自国と自国民を守るための必要最小限の組織と装備は、これを保持する。核、生物、毒物兵器などの大量破壊兵器の開発並びに使用は禁止する。その組織は、他国領での戦闘や戦争に加わってはならない。国連の平和維持活動への参加は各議院の総議員の3分の2以上の賛成を経て法律に基づいて行う。
その組織は、国内の災害救助・復旧活動への参加も本来業務とする。国際連合など確立した国際機関あるいは他国から、災害救助・復旧支援要請があった場合は、法律に基づいて行う。

 私がその着想を得たのは、昨年5月3日の安倍改憲発言の直後だった。「これはチャンスだ。これで安倍首相は自らの手で改憲できなくなるのではないか」と思った。翌々日、上記の提案(「条文」はその後、同趣旨でリファンインしている)と、それを出すにいたった理由の詳しい説明を加えて、友人たちに送った。

 安倍首相は「9条1、2項を残す」と言っているのである。それは翻すことは、いくら便利な口を持っている安倍首相もできない。1項、2項の上に明記される自衛隊はどのようなものか。それは2014年の閣議決定、15年の新安保法制で集団的自衛権を付与されている自衛隊にほかならない。その違憲性は憲法学者たちの意見を待つまでもなく、一般国民の多くの目にも明らかである。閣議決定だけで、新安保法制が未提出であれば、その自衛隊について言い逃れができたかもしれない。しかし今となっては言い逃れはできない。その自衛隊は1項、2項の精神とまったく相容れない「世界中に戦火を広げる可能性」を持っている自衛隊なのである。

 安倍改憲案に対して、同じく1、2項を残し、3項で「専守防衛・個別的自衛権に徹した自衛隊を十分な国際的平和環境が整うまで保有する」を対峙させたらどうだろうか。1項、2項を残すのは、この国の「理想」がどこにあるかを明示するためである。3項は「にもかかわらずなぜ自衛のための武力組織を持つのか」の説明でもある。「我が国は、世界規模での平和環境の確立に全力を尽くす。しかしそれまでは自衛のための組織をもたざるをえない」ということを同時にアピールするということである。そのことによって、外部からの万一の攻撃や侵略に備えての国民の安心感を得ると同時に、日本からの侵略性を明確に阻止する憲法を作ることができるのではないだろうか。

●「国民投票の壁」を厚くする

 しばしば、護憲野党や護憲派は「国会から発議されるのは1案だけ。自民党案に対抗するものを出しても可決されるはずがない。憲法改定審議を促すだけになってしまう」と言う。そして憲法審議の場に乗ることに及び腰になり、議論を避けようとする。それは大きな間違いだ。

 これまで見てきたような「改憲案」を出し、正面から対決したらどうか。最後にはおそらく自民党など「向こう側の改憲派」は、特定秘密保護法や新安保法制のときにそうしたように、「圧倒的多数」によって強引に可決、発議をするかもしれない。しかしそこからがこれまでと違う。国民投票の壁がある。発議にいたるまでの国会や国民の間の議論や意思表示の展開は、(いくらメディアの力が弱くなっているとはいっても)国民に詳しく報道されるだろう。発議された案以外に国民の思いに即した案があったこと、そして発議された案がいかに危険性を持ったものであるかが、ひたすら議論を避けているよりははるかに国民の前に明らかになるのである。

●「自衛隊明記派」を向こう側から取り返す

 私は、日本と世界の平和と安全の推進のために、そうした「護憲的改憲」が最も有効と考えているが、「安倍的改憲の阻止の道」ということも強く意識しての策でもある。

 まず、「憲法への自衛隊明記は必要」と考えている人のうち、多数を占めるのではないかとみられる「それが侵略的なものであったり、他国との同盟関係に引きずられて世界に戦火を広げたりするようなことがあってはならない」と考えている人たちの賛同を得ることができるのではないか。もともとの「9条改憲反対」の層に、その層が加われば、自民党改憲案に対して強大な壁になるに違いない。

 試みに昨年夏、親しい大学教員たちに、学生の意見を聞いてもらった。「9条は今後どうあるべきだと思いますか」という設問で、選択肢は①9条は現行のまま ②第9条に第3項を設け自衛隊を明記する。その自衛隊には集団的自衛権による海外での戦闘行為を認める ③第9条に第3項を設け自衛隊を明記する。その自衛隊には海外での戦闘行為を禁止する ④その他(自由意見)、だった。3大学148 人の回答が集まり、①33%(49人) ②22%(32人) ③41%(61人) ④4%(6人。第2項削除1、どちらともいえない5)、だった。現憲法の精神を守るという意味での護憲派は74%。3大学のそんなに多くない学生の回答なので、必ずしも若者、学生、国民の意見をそのまま反映しているとはいえないが、ある程度全体意見を示唆しているのではないだろうか。

 護憲派とされる野党は、今こそ正念場である。堂々と「対案」を出すべきである。「9条は断固維持」でもいい。もちろん、それが自民党改憲案より平和と安全をもたらすこと、そして9条の空洞化を招いている現状をどう解消するか、を明らかにする必要があるが…。

 当然ながら、私としては「護憲的改憲論」を練り上げることが、最も確実に自民党改憲案を跳ね返し、より確固とした平和への理念と逞しい現実性を持った憲法規範の樹立につなげることができると確信している。

<出典>
※1  2018年6月4日「朝日新聞デジタル」
※2  『立憲的改憲論』p375
※3  2015年10月14日付東京新聞28面に掲載。[国民投票/住民投票]情報室発行『「戦争、軍隊、この国の行方 9条問題の本質を論じる』p44
※4 2015年10月14日付東京新聞28面に掲載。[国民投票/住民投票]情報室発行、前掲書p45
※5 『立憲的改憲論』p211
※6 『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』p49
※7 同上p50
※8 『憲法の涙』(毎日新聞出版)p42
※9 [国民投票/住民投票]情報室発行、前掲書p10
※10 『憲法の涙』p60
※11 同上p65
※12 同上p69 
※13 今年3月30日参院議員会館での「国民投票に関するアピール」時に参考資料として配布

[国民投票/住民投票]情報室 
山尾志桜里の「立憲的改憲論」(朝日新聞デジタル)。 https://digital.asahi.com/articles/ASL627K7GL62UTFK012.html

[リンク集・資料集]

この際の憲法読書案内

 私たちおよび未来の子孫に大きな影響を与える国の基本法である憲法について、この機会に少し勉強しようという人たちのために、以下の読書案内を掲載する。最初に若干のコメントを。

 この図は本文で掲げたものとほぼ同じだが、「改憲」の中に網かけした「平和主義徹底」というのが加えられている。
 これは、憲法の平和主義の精神を徹底するためには世界平和をめざす、私たち自身のより積極的な努力が必要であるとの考えから、国連への働きかけ強化、米軍基地撤去、積極的中立主義などを主張する考え(加藤典洋、矢部宏治、大澤真幸など)である。本文では現実の短期的可能性に絞って論じたので、煩雑さを避けるために割愛したが、読書案内としてはきわめて重要、かつ示唆に富む考えが展開されている。
 これまでの国会論議やマスコミ論調では「安倍改憲対護憲」が表面に出がちだが、選択の幅はもっと広いということである。集団的自衛権を認めながら、9条2項は残し、そのうえで「自衛隊」を書き加えようとする安倍改憲案は首尾一貫しない内容で、本質をオブラートで包んで国民を丸め込もうとする姑息さを感じさせる。戦後70年余、初めての改憲がこれでは、憲法が泣く。実質的には自民党改憲草案=石破案と同じなのだから、その本質を隠蔽している点で、不誠実とも言えよう。

 2014年10月に『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないか』を書いた矢部宏治は「憲法についての日本の悲劇は、『悪く変える』つまり『人権を後退させる』という勢力と、『指一本ふれてはいけない』という勢力しかなく、『良く変える』という当然の勢力がいないことだ」と書いた。半年後には作家の池澤夏樹が朝日新聞紙上で「主権回復のために 左折の改憲考える時」というコラム(2015.4.7)を書き、矢部本について「この本の真価は改憲の提案にある」と評した。加藤典洋『戦後入門』もその系譜のもとに生まれている。

 ここ数年の憲法論議の活発化を駆動したのが、2014年の安倍政権による集団的自衛権容認の閣議決定であり、翌2015年の安保関連法案の強行可決だった。「平和憲法」というパンドラの函は、上から強引にねじ開けられ、それは護憲派にも反省と転換を迫ったし、今回のテーマ「護憲的改憲論」が注目される原因ともなった。
 保守の立場に立つ中島岳志も、「護憲派の戦略的な9条保持論を維持するのは、安保法制によって、とても難しくなった」(大澤真幸編『憲法9条とわれらが日本』)と述べている。
 本文でも詳述した山尾志桜里の『立憲的改憲論』に、縦軸に「個別的自衛権に限る」対「集団的自衛権も許容する」、横軸に戦力をめぐる9条の理念と現実との齟齬を「放置する」対「整理する」を配した4象限図が掲げられている(下図、p266のものを改めて作成)。護憲と自衛隊明記の安倍案が左に仲良く並んでいるところが興味深い(右にあるのが立憲的改憲と9条2項削除=石破案である)。
 右翼対左翼、保守対革新の構図が崩れたあと、ふたたび脚光を浴び始めた言葉が「リベラル」と「立憲主義」である。立憲主義とは憲法によって権力の野放図な行使に歯止めをかけようという考えだが、安倍政権がいかに非立憲的であるかは、『安保法制の何が問題か』所収の石川健治「『非立憲』政権によるクーデーターが起きた」に鮮やかに描写されている。

 明治憲法施行前に私擬憲法草案として「五日市憲法」があったことはよく知られている。国民の権利として当時としては画期的な内容も書かれていたという。護憲派の泰斗、樋口陽一がよく言及することだが、戦前の日本にも立憲主義が盛んに唱えられた時期があった(大正デモクラシー)。日本が暗黒の時代に突入するのは1930年から45年までの15年間だと言われるが、「戦後レジームからの脱却」を叫ぶ安倍首相が憧憬しているのはどの時代であろうか。

 民間からの憲法草案としてユニークなのが、東浩紀編『日本2.0』に収容されている前文と全100条からなる「憲法2.0」草案である。憲法の客体を「国民(海外居住者も含め日本国籍を有するもの)、「住民(他国籍者も含め日本に一定期間適法に居住するもの)」に拡大するなど、グローバル化を見据えた画期的な私案である(総理公選制も提案)。立憲主義を活性化するには、このような草案がもっと用意されていい。

 現在の憲法論議において特徴的なのは、安倍政権ないし自民党の考えにも、それに反論する野党、マスメディアの論調にも共通に存在する欠陥として、自国(日本)の安全のみが問題にされていることである。私たちは日本国憲法を通して世界平和にどう貢献できるかという論点(公共的価値への言及)がないと、おそらくアメリカからも、世界からも、笑いものにされるだろう。

 日本の法秩序は憲法と安保法体系の二重構造になっており、しかも後者が前者に優先している。憲法を考えれば、日米安保条約の現状に行きつく。以下の読書案内が、矮小化されがちな議論の先にある世界をのぞくきっかけになってくれれば嬉しい。新たな「希望」を見つけるために。(編集部)

<憲法学習の教科書>・憲法を学ぶための定評ある古典
佐藤幸治『憲法[第三版]』(青林書院、1995)・芦部信喜(高橋和之補訂)『憲法第六版』(岩波書店、2015)・奥平康弘『憲法Ⅲ 憲法が保障する権利』(有斐閣法学叢書、1993)
憲法 (現代法律学講座 5) 憲法 第六版 憲法〈3〉憲法が保障する権利 (有斐閣法学叢書10)
伊藤真『高校生からわかる日本国憲法の論点』(株式会社トランスビュー、2005)・9条維持に強い意志をもつ司法試験界のカリスマ塾長による憲法講義
高校生からわかる 日本国憲法の論点

<護憲関連>
樋口陽一『いま、「憲法改正」をどう考えるか―「戦後日本」を「保守」することの意味』(岩波書店、2013)・精力的な出版活動の中の1冊
いま、「憲法改正」をどう考えるか――「戦後日本」を「保守」することの意味
長谷部恭男編『安保法制から考える憲法と立憲主義・民主主義』(有斐閣、2016)・安保法制成立後の憲法・政治学・ジャーナリズムの分野からの編者を含む論集
安保法制から考える憲法と立憲主義・民主主義
長谷部恭男・杉田敦『安保法制の何が問題か』(岩波書店、2015)・安保法が国会に提案された直後の緊急出版
安保法制の何が問題か
木村草太、青井未帆、柳澤協二、中野晃一、西谷修、山口二郎、杉田敦、石川健治『「改憲」の論点』(集英社新書、2018)・「立憲デモクラシーの会」メンバーによる「護憲」論。政治に力量がない状況下で、あるべき9条論を考えるのは「力のかけどころを間違っているのではないか」(靑井)
「改憲」の論点 (集英社新書)
松竹伸幸『改憲的護憲論』(集英社新書、2017)元日本共産党安保外交部長で「改憲論に共感することも多々ある」が「現在の条項のまま行く」改憲的護憲論者による憲法を巡る攻防の軌跡紹介
改憲的護憲論 (集英社新書)
伊勢崎賢治、伊藤真、松竹伸幸、山尾志桜里『9条「加憲」案への対抗軸を探る』(かもがわ出版、2018)新9条論、9条維持論、改憲的護憲論、立憲的改憲論の立場からの主張紹介と討論会
9条「加憲」案への対抗軸を探る

<護憲的改憲関連>
山尾志桜里『立憲的改憲』(ちくま新書、2018)。立憲民主党憲法調査会事務局長による改憲試案
立憲的改憲 (ちくま新書)
今井一『戦争、軍隊、この国の行方 9条問題の本質を論じる』([国民投票/住民投票]情報室、2018)・護憲派と新9条論者のパネルディスカッション
戦争、軍隊、この国の行方 9条問題の本質を論じる

<憲法と社会をめぐって>
高橋源一郎編著『憲法が変わるかもしれない社会』(文藝春秋、2018)・明治学院大学国際学部付属研究所の公開セミナーの記録。憲法学の長谷部恭男、石川健治、政治思想史の片山杜秀、ドキュメンタリー映画監督の森達也、元NHK「クローズアップ現代」キャスターの国谷裕子が登壇している。入門書として最適
憲法が変わるかもしれない社会
加藤典洋『戦後入門』(ちくま新書、2015)・自衛隊の「国連待機軍」と「国土防衛軍」への改組、核廃棄、在日米軍撤去 
戦後入門 (ちくま新書)
矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないか』(集英社インターナショナル、2014)、『日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか』(同、2016)・国の最高法規である憲法の上に君臨する日米安保条約の実態を検証。フィリピン方式での米軍基地撤去も提案
日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか 日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか
大澤真幸編著『憲法9条とわれらが日本』(筑摩書房、2016)・中島岳志、加藤典洋、井上達夫インタビューと持説の紹介。副題は「未来世代に手渡す」
憲法9条とわれらが日本: 未来世代へ手渡す (筑摩選書)
大澤真幸・木村草太『憲法の条件』(NHK出版新書、2015)・憲法を考えることの楽しさ
憲法の条件 戦後70年から考える (NHK出版新書)
井上達夫『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』(毎日新聞出版、2015)井上達夫『憲法の涙』(同、2016) 井上達夫・小林よしのり『ザ・議論』(同、2016)・井上の従来の護憲論批判と9条削除をめぐる改憲案。小林よしのりとの「議論」

リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください--井上達夫の法哲学入門 ザ・議論! 「リベラルVS保守」究極対決憲法の涙 リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください2
境家史郎『憲法と世論』(筑摩書房、2017)・憲法制定以来の世論調査のデータを分析、戦後日本人の憲法観の変容を追跡
憲法と世論: 戦後日本人は憲法とどう向き合ってきたのか (筑摩選書)

<自民党改憲草案批判など>
樋口陽一・小林節『「憲法改正」の真実』(集英社新書、2016)・護憲派と改憲派の憲法学者が自民党改憲草案のお粗末さ、危険さを糾弾
「憲法改正」の真実 (集英社新書)
自民党の憲法改正草案を爆発的にひろめる有志連合『あたらしい憲法草案のはなし』(太郎次郎社エディタス、2016) ・「あたらしい憲法のはなし」のパロディ版
あたらしい憲法草案のはなし
吉田善明『平和と人権の砦 日本国憲法―自民党「憲法改正草案」批判を軸として』(敬文堂、2015)・憲法を巡る流れを克明に叙述、自民党憲法草案を逐条的に検討
日本民主法律家協会『自民党改革案の問題点と危険性』(ブックレット、2018)・緊急出版のパンフレット
上脇博之『日本国憲法vs自民改憲案』(日本機関誌出版センター、2013)冒頭章で日本国憲法の内容をわかりやすく解説し、その後に自民党改正草案の問題点を指摘したブックレット
自民改憲案 VS 日本国憲法  緊迫!  9条と96条の危機

<その他>
鉄筆編『日本国憲法 9条に込められた魂』(鉄筆文庫、2016)・元衆院議員平野三郎による憲法制定作業時の首相、幣原喜重郎から、1951年急逝直前での聞き書き
日本国憲法 9条に込められた魂 (鉄筆文庫)
東裕紀『日本2.0 新憲法』(株式会社ゲンロン、2012)
日本2.0 思想地図β vol.3
白井聡『永続反戦論』(太田出版、2013)、『国体論』(集英社新書、2018)・きちんと負けなかったために、いつまでも負け続ける日本。天皇中心の国体からアメリカ中心の国体への横滑り
永続敗戦論 戦後日本の核心 (講談社+α文庫) 国体論 菊と星条旗 (集英社新書)
楾大樹『檻の中のライオン』(かもがわ出版、2016)・檻を憲法、ライオンを権力者に見立てた憲法のやさしい解説
檻の中のライオン
文部省『あたらしい憲法の話』(1947)・日本国憲法制定時の政府の「平和主義」啓蒙書。いろんな復刻版が出ている
復刻 あたらしい憲法のはなし
森治郎編『憲法9条検討資料(2018年3月27日憲法9条を半日考える会資料。9条関係の憲法・条約・法律の条文、自民党憲法改正草案、読売憲法改正試案など。森に請求あればPDFで提供)
田崎久雄・森治郎編集・補筆『朝日新聞記事(1945年7月28日~1947年8月1日)に見る日本国憲法の制定過程上・下』(2016年5月以降逐次追加、現在版は2018年8月刊、上B5判229ページ、下B5判243ページ。非売品。森に請求あればPDFデータで提供)
DVD版『「憲法9条・国民投票」市民14人が本音で議論して視えたもの』(「憲法9条・国民投票」制作・普及委員会、2018)・今年2月に[国民投票/住民投票」情報室]など主催で開かれたディベートを記録