林「情報法」(28)

装着型GPSの発信する情報は誰のものか

 これまで数回にわたって、「所有権」という有体物に対する財産権を、そのまま拡張して「情報」という無体の財に適用することの有効性と限界を説明してきましたが、米国の最高裁でその点が(間接的に)争われたJones v. United States(565 U.S. 400 (2012)、以下ジョーンズ事件)を検討すると、論点がさらに明確になります。

 なお本事件の評釈に関しては、次を参照してください。湯浅墾道 [2014]「位置情報の法的性質―United States v. Jones 判決を手がかりに―」『情報セキュリティ総合科学』Vol.4  http://www.iisec.ac.jp/proc/vol0004/yuasa.pdf

 GPS機能の高度化と民生利用

  GPS(Global Positioning System)は、もともとは軍事用に開発されたもので、地球を周回する衛星を複数打ち上げ、その電波(発信位置と時刻が含まれている)を複数受信したGPS機器が、受信時刻との時差等から位置を逆算できるように設計されたものです。軍事用には精度の高さが求められますが、民生用にはある程度の誤差が許容されるし、技術の進歩とともに誤差も縮小してきました。

 民生用も、当初は航空機や船舶に搭載してナビゲーションとして利用するのが一般的でしたが、GPS 機器の小型化・低価格化によって、自動車にもカーナビとして搭載されるようになり、更にGPS 機能を装備したスマートフォンも普及してきました(かつての大型のGPSと区別するため、仮に「装着型GPS」と呼びます)。

 その結果、各種のソーシャル・メディアやマーケティングにおいても、位置情報が積極的に利用されるようになってきていますが、その反面、個人がどの位置にいるかという情報や、位置の移動の追跡による個人の行動情報が収集され、本人の意図しないところで公開されたり利用されたりする危険も増大しています。

 このようなプライバシーの側面のほかに、位置に関する情報には財産的価値があるか、あるとすれば誰のものか、譲渡・売買の対象となりうるかという点も法的問題点として浮上しています。例えば、自動車の GPS 装置から位置情報を送信しそのデータを使用することを保険会社に許諾すると、自動車保険の保険料が割安になる仕組みが一般化しているのが、その例です。

 ・ジョーンズ事件の争点と最高裁に至るまでの経緯

  連邦捜査局(FBI)とコロンビア特別区警視庁(Metropolitan Police Department)の合同捜査本部は、コロンビア特別区でナイトクラブを営んでいる被疑者ジョーンズを麻薬不法取引の嫌疑で捜査するため、コロンビア特別区連邦地方裁判所に対して「被疑者の妻名義で登録されている自動車(実際は被疑者が使用していた)に、コロンビア特別区内で10 日間GPS 装置を装着する」許可を請求して、令状を得ました。

 ところが、捜査当局が装着に成功したのは期限外(11日目)かつ区域外(メリーランド州の駐車場)となり、以後4週間にわたって公道上を走行する当該自動車の GPSデータ(書面で2000 ページ以上に及ぶ)を受信し、それを証拠として起訴しました。これに対して被告人は、当該証拠は令状なしに収集した違法な証拠であり、「不合理な捜索および押収」から「身体、家屋、書類および所有物(effects)の安全を保障される」権利を定めるアメリカ合衆国憲法修正第 4 条に違反すると主張しました。

 主な争点は、GPS により公道を走る被疑者の自動車を令状なしに監視することは修正第 4 条に違反する違法な捜索であるかどうか、令状の期限外に令状で許可された区域外で公道を走る被疑者の自動車から収集した位置情報は違法収集証拠であり訴訟に使用することは認められないかどうか、という点です。

 最高裁に至るまでの経緯は、いささか入り組んでいます。FBI等は、ジョーンズと共謀者について、5 キログラム以上のコカイン等を供給しようと謀議して、連邦法に違反したとして起訴しました。被告人はコロンビア特別区連邦地方裁判所に対して GPS 装置によって得られた証拠を用いないことを求める申立を行い、裁判所はその申立の一部を認めてジョーンズの敷地内の駐車場に自動車が停めてあったときに収集された証拠を採用しないこととした反面、その他については採用を認めました。この事案は、2006年10月に陪審の評決が不一致になったため、それ以上進展しませんでした。

 ところが2007 年 3 月、ジョーンズ他の共謀者が同じコカイン等供給の謀議に問われた別の事件で、大陪審は起訴相当と決定しました。本件の審理では、最初の事件と同じ証拠に基づいて、共謀者が所有する隠匿場所に隠されていた 85 万ドルの現金、97 キログラムのコカイン等にジョーンズが関係していると主張され、陪審が有罪と評決したのをうけて、コロンビア特別区連邦地方裁判所はジョーンズに対して、無期懲役の判決を下しました。

 ジョーンズの控訴を受けたコロンビア特別区連邦控訴裁判所では、FBI側も証拠収集が令状で認められた期間外・場所外で行なわれたことを認め、控訴裁判所は令状なしに GPS 装置を使用して証拠を収集することはジョーンズの「プライバシーの合理的な期待」の侵害であり連邦憲法修正第 4 条に違反するとして、原審判決を覆しました(2010年8月)。 連邦政府がこれを不服として連邦最高裁に裁量上訴を求めて上告し、2011年6月連邦最高裁はこれを認めた、という経過です。

・最高裁の判断

 最高裁は、全会一意で控訴裁判所の判決の結論部分を支持し、当該捜査は違法であり、令状のないGPS捜査は憲法修正4条違反と判断しましたが、実はその理由付けは控訴裁判所と異なり、しかも意見が割れています。最高裁の9人の裁判官を理由付けの面から分類すると、trespass 派5人対反対派4人と逆転し、しかも僅差なのです。

 Scalia裁判官が執筆し4名の裁判官が同調した多数派の法廷意見(opinion of the court)は、所有者の意に反して自動車にGPS装置を物理的に装着することは、個人の所有物(personal effects)に対する侵害(trespass)であり、それ自体で捜査(search)に当たるから、令状が無ければ憲法修正4条違反だというのです。そしてKatz判決が採用した「プライバシーの合理的期待」という概念はtrespassの法理を補強するもので、代替するものではないとします。これまでの何回かの連載をお読みいただいた読者には、trespass to chattelの理論はお馴染みのことでしょうし、プライバシーの合理的期待もKatz判決も、連載第24回で紹介したとおりです。

 これに対してAlito裁判官が執筆し3裁判官が同調した補足意見は、法定意見の結論には賛成だが、理由付けとしてtrespassに依拠するのは適切でなく、長期間GPSによるモニタリングを続けたことが「プライバシーの合理的期待」に反することを重視すべきだとします。この間にあってSotomayor裁判官の補足意見は、プライバシーの合理的期待理論がtrespass理論を補強するという点ではScalia裁判官の法定意見に賛同しつつも、「プライバシーの合理的期待」理論を無視すべきでないとしています。彼女も少数派だとすれば、見かけ上全会一意の判決が、実は5対4の僅差だったという見方も成り立ちます。

・情報法的再解釈

  ジョーンズ事件では、プライバシーの側面と「情報は誰のものか」という議論とが複雑に交錯していますが、その違いは有体物派と無体財(情報)派という色分けをしてみると、はっきりすると思われます。

 有体物派の主張では、侵害されたのは「自動車の所有権」という物理的現象だと考えているかに見えます。これに対して無体財派は、侵害されたのがジョーンズのプライバシーだと考えているようで、ここでは物理的存在は前提とされません。また前者の説では「プライバシーも所有権と同じように譲渡できる」と考えることになりそうですが、後者ではプライバシーは一身専属的なものと考えるでしょう。どちらを採るべきでしょうか?

 答えは、適用事例によって変わってくるのではないかと思います。物理的存在が明白な場合は、trespassなどの伝統的な理論が有効でしょう。所有権(英米法のproperty)は長い伝統を持つ法概念で、資本主義の法的基礎を築いたと言っても過言ではありません。それに依拠すれば法的解決策として妥当な結論を導くことができるのであれば、依拠するに越したことはありません。

 ただし、この理論は物理世界を絶対視する弊害から免れません。GPS捜査の例で言えば、「自動車の所有者(妻名義であることは、ここでは不問にします)=自動車に無断で乗ったり何かを添付することを排除する権利の保有者=仮に意に反する添付物があればそれが発する情報にも排他権を及ぼす者」といったように、物理的世界の支配と情報を含む無体財に対する支配とを連動させる結果となり易いのですが、それで良いかどうかの検討が必要です。

 しかも、物理的損害が軽微か全く生じていない場合にも、この理論を適用するとなると、拡張解釈により結論を歪める心配があります。Trespass理論の限界を示したHamidi判決に連載の1回分を当てたのも、そのような事例を紹介したかったからです。ましてや本件のように、既にKatz判決で「プライバシーの合理的期待」といった新しい概念が認められているのであれば、それに依拠した方が無理のない結論を導く可能性が高いでしょう。

 ただし、1点だけ注意したいことがあります。それは、無体財に関する法理論は未だ発展途上にあり、人格権との境目が不明確なことです。わが国における個人情報保護(その実は個人データの保護だと割り切るべきですが)に対する過剰反応を見れば、その危険が大きいことがお分かりでしょう。

 しかし、サイバー空間が拡大し進化するとともに、実空間との融合(サイバー・フィジカル融合)が進展すれば、時間をかけてもサイバー空間や無体財にふさわしい法のあり方を模索せざるを得ないのは、必然だと思われます。2007年には偽装という形での企業不祥事が続発し、その年の「今年の漢字」に「偽」が選ばれました。また2018年は、パワハラやセクハラが世間をにぎわした年でしたが、両者とも偶然ではなくサイバー・フィジカル融合の一側面だと思われてなりません。

名和「後期高齢者」(22)

さび付いたインターフェース

 前回はPCの設定画面が急激に変化することに老人は追いつけないと苦情を述べた。今回は逆にさびついたインターフェースもある、と指摘しておこう。

 それは何か? 新聞紙面である。いまの大きさの新聞紙がいつできたのか、それを私は知らないが、私の少年期でもあった戦中、すでにそうであった。いま検索してみたら、明治時代からそうらしい。

 この新聞の寸法は老人にとっては悩ましい。まず、大きすぎる。ページをめくるにも、全体を折りたたむのにも、小柄の老人にとっては、とくにその老人の筋肉が傷んでいる場合にはしんどい。くわえて、視力が衰えている場合には、拡げて見開きの全面をスキャンするのは厄介だ。とくに経済紙ともなると、フォントが小さい。全面のスキャンはまず不可能。

 さらに加えて、近年の新聞には全面広告が多い。その部分は多くの読者にとってはノイズにすぎないだろうが、その部分のページのみが厚手の良質紙をつかっていることにも、老人は納得できない。

 新聞紙の大きさを調べると、一般紙のそれをブランケット版というよし。その規格は、406.5mm×546mmだという。この数値はあきらかに本来の規格が英語圏にあったことを推定させる。たぶん、明治時代、最初に輸入した輪転機が英国製か米国製であったためだろう。それが鉄道のゲージ幅や電力のサイクル数のように、近代日本のなかに埋め込まれてしまった、ということかな。

 新聞はいわば知的インフラといっても差し支えないだろう。それが明治の枠組みに束縛されている。現代が「ドッグズ・イヤー」と呼ばれるようになってからすでに久しいのに。似たようなインフラがないかな、と考えてみたら、そう。ありましたね。あの、QWERTY配列。こちらにはその功罪についていろいろな説があるようだが。

 数年前だったかな。私は某紙の編集委員に会ったことがある。そのときに私はあらまし上記のような苦情を述べ、せめてタブロイド版にしたら、と提案した。その答えは明快なノーであった。そして付け加えた。タブロイド版はイエロー・ペーパーの使うものだ、と。

 もうひと言。新聞は読みにくいばかりではない。おそらく他のメディアに比べて大量のエネルギーを消費しているはずだ。森林の伐採→輸送→パルプの生産→輸送→製紙→輸送→輪転機の運転→宅配――以上のすべてのプロセスでエネルギーを消費しているはずだ。

 もうひと言、私が現役の企業人であった数十年前、中間管理者の出社後の最初の仕事は、新聞を数種よむことであった。かれらは、まず、競合会社の記事を探し、ついで、昇進記事や死亡記事をブラウジングすることであった。後者は取引先に幸不幸があったときにそれを見逃すことを恐れたからである。

 さらにひと言。現在の新聞は他のメディアとの競争力を失った。だから、デジタル版を出すのだろう。残されたものはなにか。ジャーナリストの魂だろう。それを支えるのは誰か。後期高齢者という読者だろう。幸か不幸か、後期高齢者はデジタル版に乗り遅れている。ここがねらい目かな。

 

 

名和「後期高齢者」(号外)

 11月10日に実施されたセンター試験(国語第2問)に小生の文章が使われました。出所は『著作権2.0』(NTT出版、2010)です。法学の専門家を差し置いて拙文を利用していただいたことに、退役老人の私は舞い上がっております。
https://www.dnc.ac.jp/sp/albums/abm.php?f=abm00035472.pdf&n=02-01_%E5%95%8F%E9%A1%8C%E5%86%8A%E5%AD%90_%E5%9B%BD%E8%AA%9E.pdf

林「情報法」(27)

Intel v. Hamidi 事件再論

 前回軽く触れるにとどめた Intel v. Hamidi 判決には、① 動産侵害(Trespass to Chattel、以下TTCと略す)には実害の発生が必要かという論点に加え、② 被害者に自力救済の能力と資力があれば自力救済も認められるのか、という論点の2つが含まれています。今回は、この2点について敷衍するため、ケースをかなり詳細に検討します。

・事案の背景と概要

 Hamidiはインテル社の自動車部門のエンジニアでしたが、1990年に社命による出張から帰宅する際、自動車事故で負傷しました。彼はその後18か月間勤務しましたが、病状が悪化したため1992年1月にインテル社の産業医の勧めで病気休職に入り、1995年4月まで休職しても仕事に復帰できなかったため、解雇されました(公的な補償も受けられませんでした)。

 雇用契約解除後、Hamidiは支援仲間の従業員とともにFormer And Current Employees of Intel (FACE-Intel)という組織を作り、ウェブ・サイトを開設するとともに、インテルの社内ネットワークを介して、21か月間に6回にわたり最大3万5千通のeメールを送信しました。内容は、インテルの雇用慣行を批判しFACE-Intelへの加入を促すものでした。ただし、すべてのeメールには、受信者が望まない旨の通知をすればメーリング・リストから削除することが示され、実際Hamidiは要請に応えて削除していました。

 インテルは内部フィルターを設置したので、ある程度のeメールはブロックされましたが、Hamidiは送信コンピュータを変えるなどしてフィルターを回避しました。インテルは1998年3月にHamidiとFACE-Intelに送信を止めるよう要請しましたが、Hamidiは同年9月にも送信しました。

 そこでインテルはHamidiとFACE-Intelを相手取って、TTCによる将来の侵害を防止するため差止命令を請求しました(当初はnuisanceによる損害賠償も訴えていましたが、途中で取り下げたため、差止だけが争点となりました)。第1審裁判所は、インテルが求めた略式命令を認め、HamidiとFACE-Intelにeメール送信の永久的差止を命じました。

 Hamidiは控訴しましたが、控訴裁判所も1名の反対を除き、「インテルのpropertyを使って業務に損害を与えたのだから、TTCの法理により差止めが認められる」として、請求を斥けました。ところが、上告を受けたカリフォルニア州最高裁は、4対3という僅差でこれらの判決を覆し、Hamidiの行為はTTCに当たらないと判断しました。この判決は、「実害が生じていないのに、コンピュータの文脈にTTCの法理を拡大して適用するには、消極的である」ことを示したものとして、広く知られるようになりました。

・カリフォルニア州最高裁の判断

 判決の要点は、以下の通りです。

 ① Hamidiは、インテルの社員と交信するに当たって、セキュリティ上のバリアを迂回していないし、メーリング・リストから削除して欲しいという受信者の要請にも応えている。大量のスパム・メール(unsolicited e-mails in bulk)を送信したのは事実だが、それによってインテルのコンピュータ・システムのどの部分にも損害を与えていないし、同社のコンピュータの利用権を奪取してもいない。
 ② 権限のないコンピュータ・アクセスがTTCに当たるか否かを、カリフォルニア州法に基づいて判断すれば、当該コンピュータ・システムに損害も機能の低下も与えないような電子通信には適用されないし、されるべきでもない(この点に関する判決文は以下のとおりIntel’s claim fails not because e-mail transmitted through the Internet enjoys unique immunity, but because the trespass to chattels tort–may not, in California, be proved without evidence of an injury to the plaintiff’s personal property or legal interest therein.)
 ③ このケースにおいて主張され得る損害は、eメールの内容が受信者に与える困惑や動揺であって、個人の資産の保有や価値から生ずるものでも、それに直接的に影響を与えるものでもない。
 ④ インテルは、管理者や従業員がeメールを読み対応することも、内部フィルターをセット・アップするのも生産性を下げるというが、不愉快な手紙を読んで苦痛を感じたり、望まない電話でプライバシーが失われるのと同程度である。
  ⑤ こう述べたからと言って、電子通信だけが特別の免責を受けるという訳ではなく、他の通信手段と同様eメールによっても受信者に損害が発生し、コモン・ローや制定法によって裁判を起こすことが出来るケースが生ずる。インテルの主張が通らないのは、(上述 ② のとおり)カリフォルニアでのTTC法理は、原告のpropertyかそれから生ずる法的利益に損害が生じたという証明がない限り適用されない点にある。もし異常な量か、それに発展し得る量のeメールが送信され、コンピュータの機能に障害が生ずれば、損害の発生が認定されるだろう。

・実害主義と差止の是非

 前回述べたように、TTCの法理は不動産の不法侵入(trespass)から派生したものですが、trespassそのものとは違い、損害の発生を要件とするというのが通説です。カリフォルニア州最高裁の判断は、それに従ったものに過ぎませんが、このケースで争点になったのが有体物であるサーバーというよりは、社内メール・システムという目に見えない(intangible)な存在であったため、その意味するところは意外に広いと考えられます。私個人は、「有体物のpropertyに関する法理を安易に無体財に適用してはならない」という点に配慮して、「情報法」という新しい領域を検討すべきだと考えていますので、判決に賛成です。そのような理解は、広く支持されているかと思います。

 ところが、米国のpropertyの概念は(判例法で形成されてきたので当然とも言えますが)幅の広いもので、かつては奴隷も含まれ現代でも長期リースが含まれるなど、わが国の「所有権」に比べれば内包や外延がはっきりしません。そこで発生源であるtrespassと同様、「損害の発生を要しない」と解釈すべきだという説も強力に主張されています。ここに、前回のテーマであった「資本主義とproperty信仰」の強い結びつきを感ずるのは、私だけではないでしょう。

 その代表的論者の1人に、Richard Epsteinがいます。彼はこの裁判においてインテルのために参考意見(amicus curiae)を書いたほどで、シカゴ学派の論客です。同派の多くはシカゴ大学の経済学部や法科大学院に属し、資本主義の原点はproperty(つまり排他的利用権)を重視することであり、それは有体物にとどまらず無形の資産にも及ぶべきだと主張します。

 ここで、法的には「propertyか否か」と「差止が認められるか否か」が、ほぼ互換的に主張されている点に注意が必要です。本来、この2つの概念は同義ではありませんが、propertyのような強い権利には差止請求権が付随すべきだというのが、一般的になっているからです。Intel v. Hamidiも、最終的には差止の是非が争われた訳です。

・サイバー攻撃に対する自力救済

 ところで、この判決が注目される点として、もう1点「自力救済がどこまで認められるか」という「影の論点」があります。近代国家においては、刑事罰はもとより民事の強制処分も国家に独占され、私人が自身で執行すること(自力救済)は認められていません。しかし、インターネットが時に「新しいwild westだ」と非難されるのは、国家にそのような権限を付与し実行する仕組みが出来上がっていないからです。

 この点で、Epstein は判決が「インテルは自己のネットワークをHamidiに使わせないようにする技術も資金もあるのだから、自己解決せよ」といているのは許せないとして、以下のような議論を展開しているのが注目されます。

 図表(図表自体は著者が作図したもの)は、縦軸に国家による法的救済の有無を、横軸に自力救済が認められるか否かを取って、マトリクスにしたものです。(a) における両立は近代法においては回避され、(d) における救済の不在は、被害者に「泣き寝入り」を強いるので許されません。残るのは (b) か(c) ですが、これこそ「法的救済と自力救済のバランス論」になります。

ところがEpsteinはIntel判決のように「『自力救済があるので、法的手段は認めない』

という判決は聞いたことがない」と言います。それは図表において、(c)の命題とは逆になるからです。そこで彼は「これではインターネットのもたらす問題として、『権利あるところに救済あり』の格言が通用しないかもしれないという不安・不信を醸成してしまう」と批判しています。

図表  Epsteinの議論
 私はIntel v. Hamidiの判決自体は支持するので、結論部分においてEpsteinとは違う見解の持ち主ですが、上記の指摘には無視できない要素が入っていることを認めざるを得ません。それは、「国家が権利侵害を救済するのでなければ、インターネットは無法地帯になりかねない」という警告ですが、この点はまだまだ論ずべきことが多いので、次回に続きます。