林「情報法」(35)

「第三者」と「利害関係者を除く」の差

 毎月勤労統計の不正に端を発した一連の統計不正問題は、厚生労働省の監察委員会の追加報告書(2019年2月27日)、総務省の統計委員会の意見書(同3月6日)、第三者委員会報告書格付け委員会の結果報告(同3月9日)など、多くの判断材料が揃ったので、実態をできるだけ解明して再発を防いでもらいたいところです。しかし私からすると、「そもそも第三者とは誰か」という理解が共有されていない心配があるので、この点について若干掘り下げてみます。テレビ番組のサブ・タイトル風に言えば、「第三者」と「利害関係者を除く」、その差ってなんですか? となるでしょう。

・「自己契約と双方代理の禁止」にみる第三者性の出発点

 第32回の「基幹統計よ、お前もか!」で触れたように、厚生労働省の監査委員会については、当初からその「第三者性」に疑問が出されていました。不祥事の解明には当然のごとく登場する「第三者委員会」ですが、「第三者」とは、そもそも誰のことでしょうか? 単純な質問のように見えて、ここには意外に深い含意が隠されています。

 まず民法108条(自己契約及び双方代理)が、次のように定めていることが、議論の出発点になります。「同一の法律行為については、相手方の代理人となり、又は当事者双方の代理人となることはできない。ただし、債務の履行及び本人があらかじめ許諾した行為については、この限りではない。」これに違反した代理行為は権限のない代理となるので、本人に対して効力を生じませんが、本人が追認することはできます (民法113条)。

 こうした規定が置かれているのは、代理人自身が契約の相手方となったり(自己契約)、契約当事者両方の代理人となったり(双方代理)すると、代理人が本人の利益を犠牲にして自己の利益を図ったり、契約当事者の一方の利益のみを図ったりする危険性が内在するからです。つまり法は、本人と代理人との間で「利益相反」となる行為には、原則として法的な効力を認めないこととし、利害関係のない人を「第三者」と考えているのです。

 しかし杓子定規にこの規定を適用すると、些細な代理行為まで出来なくなってしまうので、但し書きで一定の行為を除外しています。代表的な事例として、不動産売買において「両手媒介(あるいは両手取引)」といって、宅地建物取引業者が売主と買主の間に立って取引を媒介することが、広く行なわれています。(公財) 不動産取引流通センターのサイドでは、これは本来「代理」ではなく「準委任」(民法656条)の問題であるとしていますが、後述する英国の建築確認の考え方と対比するまで、私の考えは保留としましょう。
https://www.retpc.jp/archives/1613/

・会社法における「社外取締役」と「独立取締役」

 個人が主体の契約に関しては、このような理解で十分かもしれませんが、企業という複雑な仕組みが関係する場合は、利害関係者の排除に関して、より厳しい視点が求められます。わが国でもグローバル経営の展開に歩調を合わせて、corporate governance に関して国際標準に合わせる動きが加速して、上場企業を中心に社外取締役の設置が義務付けられてきました。

 その際「社外」である要件として、会社法2条十五は、「イ当該株式会社又はその子会社の業務執行取締役(カッコ内略)若しくは執行役又は支配人その他の使用人(以下「業務執行取締役等」という。)でなく、かつ、その就任の前十年間当該株式会社又はその子会社の業務執行取締役等であったことがないこと。」ほかホまで5つの要件を定めていますが、いずれも「○○でないこと」と、「要件」というよりも「欠格事項」を上げています。

 その点は、東京証券取引所の有価証券上場規程436条の2に定める「独立性基準」と、それを受けた「上場管理等に関するガイドライン」や「独立役員の確保に係る実務上の留意事項」等になるとより明確になり、A – Eまでの「いずれかに該当し『利益相反』が疑われることが無い者」を「独立役員」と規定しています。そのAは「上場会社を主要な取引先とする者又はその業務執行者」です。

 このように見てくると、民法が主として念頭に置いている個人対個人の一時的な契約関係は別として、法人が関係する長期継続的な取引関係にあっては、「第三者性」とは「利益相反(と疑われること)が無いこと」という、より厳格な基準だと言い換える方が適切だと考えられます。つまり「社外取締役」ではあるが「独立取締役」には該当しない人が存在し得る、ということです。

(この節は、なるべく条文の細部に入らないよう工夫して表現しているため、厳密性を犠牲にしています。より詳しい説明は『情報法のリーガル・マインド』pp. 181-186を参照してください)。

・英国の発想

 このような発想は、ただでさえ「社外取締役」の必要数を満たすことが難しい、わが国の現状を無視した「学者の空論」だと思われるかもしれません。しかし私は、「表示と偽装」問題の発端になった、建築確認における構造計算書偽造事件(2005年)が起きた時、ある会合で聞いた、英国とわが国の考え方の差が頭から離れません。

 わが国で建築基準法上の建築物を建てようとする場合、着工前の「確認」(同法6条以下)と完成後の「完了検査」(同7条以下)の両方を受けねばなりません。建築確認とは、建築物などが建築基準関係規定に適合しているかどうかを、着工前に審査する行政行為で、着工後に法令違反を発見し是正を求めるよりも事前にチェックする方が合理的であることから行なうものとされています。建築確認や完了検査の審査を扱うのは、地方自治体の建築主事か、指定確認検査機関に属する建築基準適合判定資格者です。

 ここでは完了検査のみを取り上げると、建築主は工事完了の日から4日以内に、建築主事に到達するように完了検査を申請するか、指定確認検査機関に完了検査を引き受けさせなければなりません。建築主事あるいは指定確認検査機関は、受理日から7日以内に完了検査を行ない、問題がなければ建築主に検査済証を交付しなければなりません。ここで構造計算者などの重要な書類が偽造されていた場合は、不合格となるのは当然のはずです。しかし強度計算がコンピュータ処理されていたため疑われることが無かったなどの理由から、社会問題になるほど多数の建築物が、検査をすり抜けてしまいました。

 この問題を受けて多くのセミナーが開かれましたが、ある会合で英国の建築会社の役員をしている日本人がパネリストに名を連ねていたので、興味本位で参加しました。その席で彼が言ったことは、衝撃的でした。「日本では建築を請け負った業者が建築主に代わって完成検査を申請するが、それは『利益相反』だからやってはならない。建築主が雇った建築士に任せるべきで、英国ではそうなっている」と言うのです。

 なるほど、建築主と請負業者では、前者は少額の予算でなるべく多くの注文を実現してもらいたいのに対して、後者はなるべく少ない作業量で売り上げを伸ばしたい訳ですから、「利益相反」そのものです。その業者が「完成した」と言っても、注文主が「心から満足している」とは言えないと考えるのが、普通の発想でしょう。

・金銭的独立

 細かいことを言えば、更に問題があります。監査役の人件費を含む費用は、監査を依頼する株主が負担すべきでしょうが、株主から承認を得た会社が負担するのが一般的です。監査費用だけを抜き出して、配当等からチェック・オフすることも可能ですが、手数がかかる上、全株主に共通の費用ですから、会社の費用として計上しても不都合はないというのが一般的な理解でしょう。

 しかし、それは結果として「監査役が会社に雇われている」のと、類似の心証を生むことにつながります。ましてや社員から昇進した(?)監査役にとっては、その心証は強いと言ってよいでしょう。そうした弊害を除去する意味もあって、社外取締役よりもずっと前から、社外監査役が必置とされるようになっていますが、それで十分なのでしょうか? 

 世間では、こうした弊害に気づいている人もいて、「売り上げの一定比率を監査費用としてプールし、監査人は監査役協会から輪番制で派遣する」などの案を提案する人もいます。しかし、会社の業容が複雑化した現代では、ある程度社内事情に通じた監査人でないと、十分な監査が出来ない恐れもあります。

 同じような心配は、学者にもあります。私も研究者の端くれですから、研究費は多ければ多いほど歓迎ですが、同時にその提供者にも気を付けています。ある提供者から多額の委託調査などをいただくと、どうしてもその委託者の気持ちを忖度してしまう懸念が生ずるからです。学界では、こうした弊害を少しでも避けるため、委託研究や研究助成を受けた場合は、謝辞とともに資金源を明示する慣行があります。

 このような視点から見ると、先の宅建業者の「両手媒介」は便法ではあるものの、やはり本質的には双方代理の要素を内包していると言わざるを得ません。なぜなら、取引手数料が売買金額に比例している現状に照らせば、中立のはずの宅建業者も「高く売れる方が良い」というインセンティブを持つ限りで、売主側にバイアスがかかっていると疑うのが当然とも思われるからです。

 しかし、このようなことを心配し続けると、漱石の言う「知に働けば角が立つ」ことになるかもしれません。私の場合は、「経済学に傾きすぎて角が立つ」でしょうか?

新サイバー閑話(23) ホモ・デウス⑭

いよいよ影が薄くなる「倫理」

 サイバーリテラシーがIT社会の世界観だとすれば、サイバー倫理はそこでどう生きるべきかという処世訓だと私は言ってきた。しかし「できることをあえてやらない」のが倫理の基本だとすると、サイバー倫理の旗色はきわめて悪い。いよいよ影が薄くなっているようにも思われる。

 ハラリも「いったん重要な大躍進を遂げたら、新しいテクノロジーの利用を治療目的に制限して、アップグレードへの応用を完全に禁止することは不可能」と言っている。『サピエンス全史』では「私たちが超人を生み出すのを妨げる、克服不可能な技術的障害はないように見える。主な障害は、倫理的な異議や政治的な異議であり、そのせいで人間についての研究の進展が遅れている。そして、倫理的な主張は、たとえどれほど説得力を持っていても、次の段階に進むのをあまり長く防げるとは思えない」と書いている。

 カーツワイルの本にある「ひとたびこの道を進み始めれば、テクノロジー恐怖症の人が『ここまではいいが、ここから先に行ってはいけない』ともっともらしく言えるような停止点はどこにもない.」という発言はすでに紹介した。

 ヒューマニズムにもとづいた個人主義や自由主義の根幹が崩れれば、人間の内心に焦点を当てる倫理の出番はいよいよなくなるのかもしれない。連載②で取り上げたように、コンピュータ黎明期にはジョセフ・ワイゼンバウムのような人が安易なコンピュータの利用を批判していたのだが……。

 サイバー倫理に対する疑問あるいは批判としては、「一神教の神のような絶対者が存在しないところで倫理が成立する余地はあるのか」とか、「倫理ではなく法こそが大事である。係争に倫理を持ち込むから話が混乱する」など、さまざまな意見を聞いてきた。

 しかし、法はどうしても保守的である。これだけ技術が急速に進む中では、法は事後規制にならざるを得ず、その間にも技術は進化して、結局、取り返しのつかないことになる恐れがある。

 大学で教えていたとき、強調していたのは<倫理はもろい>ということだった。私はよく、チョコレート、ゴディバの由来となった中世のイギリス南部の領主婦人、ゴディバの話をした。

 夫人の夫は冷酷で、領民から多額の税を徴収していた。夫人は「どうかして税を軽減して、領民を楽にしてあげてください」と頼むが、夫は頑として首を立てにふらない。夫人に何度もせがまれて、苦し紛れに「お前が生まれたままの姿で馬に乗って領内を一周すればまけてやってもいい」と言った。中世において女性が、しかも高貴な女性が人前で裸を見せることは死ぬよりも恥ずかしいことで、夫は「どうしてもダメだ」と言ったつもりだったが、夫人は、領民のために、裸で馬にまたがって領内を一周する決断をする。「みんなのためです」。「公益のため pro bono publico」という言葉の由来である。
 ゴディバ夫人の決断を聞いた領民たちは、だれからともなく、自宅の扉や窓という窓を全部、板で覆って、夫人の裸を決して見ないように、見ようとしても見られないようにした。当日、ゴディバ夫人は約束どおり、領内を馬にまたがって一周した。
 比喩的に言えば、これが倫理である。夫人の裸を見たものは打ち首にするという命令が下ったわけでもないし、それを禁じる法律があったわけでも、みんなで作ったルールがあったわけでもない。人びとは、自発的に決断し、それを守った。ここに、強制力をともない明文化された法とも、一定の行動基準としてのルールとも違う倫理の姿がある。

 今でも、たかが倫理、されど倫理という思いが強い。ホモ・デウスをめざす人びとからは一蹴されてしまいそうだが、まさにこういう時だからこそ、倫理を復権すべきではないだろうか(自らは倫理観の微塵もない政治家などがすぐ「道徳教育」、「終身教育」などと叫んで、自らはその埒外に起きつつ、他人を縛りつけようとするのが、倫理のもう一つのやっかいなところである。ジョージ・オーウエルの『1984年』における思考を体制順応に誘導する話法、ニュースピーク開発などの例もある)。

・ローレンス・レッシグの危惧

 連載冒頭でサイバーリテラシーの教科書の一つとしてあげたローレンス・レッシグ『コード』は、IT社会における人びとの行動を規制する4つの要因を以下のように図示している。 ①法(Law) 制裁の脅しによって裏付けられた命令。②規範(Norms) コミュニティのメンバーがお互いに対して課す小さな、あるいは強力な制裁を通じた規範的な制約。慣習、道徳。③市場(Market) 価格を通じて制約する。④コード(アーキテクチャー、Code、Architecture)。サイバー空間の現状を決めるソフトとハード。コードにはある価値観が埋め込まれているか、ある価値観を不可能にする。

 彼はコードこそサイバー空間における見えない規制だと強調したわけだが、この図の「規範」の重要なものこそが倫理だと私は考えている。

 ところで、彼が1999年の段階でサイバー空間のあり方について記した危惧は、今の状況にもそのまま妥当する。それはハラリの危惧でもあるだろうし、私の危惧でもある。

「サイバー空間をなるべく実空間と同じにして、同じ価値観をそこに入れ込むか、あるいはサイバー空間に現実空間とは根本的にちがう価値や性質を与えるか。どちらの選択をすべきかについて、一般的な答えは出せない。でももし実空間の価値観を保存すべきだと決めるなら、その手続きを考えなければならない。そしてもし実空間とは価値観を変えることに決めたら、じゃあどういう価値観に変えるのか?」、「何もしないというのは、最低でもそれを受け入れるということだ」、「サイバー空間がどうなるかについて、いちばん大事な決断をしなきゃいけない時期にいるのに、それをするための機関も仕組みもないし、決断するという実践力もない」。

 サイバー空間のあり方よりも、いまや人間の将来そのものが問題である。そしてかつてもいまも共通するのは、その大問題に対処する方法が私たちにはわかっていないということである。

 以下のハラリの記述は興味深い。「インターネットの台頭からは、将来の世界がうかがえる。今ではサイバースペースは私たちの日常生活や経済やセキュリティにとってきわめて重要だ。それなのに、いくつかのウエブの設計から一つを選ぶという重大な選択は、それが主権や国境、プライバシー、セキュリティのような従来の政治的問題に関連しているにもかかわらず、民主的な政治プロセスを通して行われなかった。あなたはサイバースペースの形態について投票などしただろうか?」。

 もっともインターネットが一部の科学者、技術者、若者などのボランティアで営々と築き上げられていったころ、ほとんどだれもインターネットに興味を示さなかった。インターネットを支えるWWW(World Wide Web)の略称はWild Wide Westだと冗談に言われていた時代が懐かしいが、それにしてもわずか100年にも満たない間の出来事である。

 ところで林紘一郎さんによると、レッシグはすでにサイバー法の世界から足を洗ったらしい。

 まさに万物流転。あるいは、逝く者は斯くの如きか昼夜を舎かず。

・ホモ・デウス5原則

 私はインターネットをうまく利用しつつ、その危険から身を守り、あわせて他人を傷つけないために、主として若い人や子ども向けに、具体的な行動指針(サイバー倫理Dos&Don’tsべからず集)を作ってきた。

 生命倫理4原則というものがある。「自律的な患者の意思決定を尊重せよ」という自律尊重原則、「患者に危害を及ぼすのを避けよ」という無危害原則、「患者に利益をもたらせ」という善行原則、「利益と負担を公平に配分せよ」という正義原則からなるという。(http://www.c-mei.jp/BackNum/076r.htm)

 サイバー倫理Dos&Don’tsも中途半端な現状でこんなことを言うのは気が引けるが、ふとホモ・デウス5原則みたいなものを考えてみるのはどうだろうかと思った。単なるスローガンに終わりがちなのは認めざるを得ないけれど……。

ジョージ・オーウェル『一九八四年』(早川書房、原著1949)
一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

 旅先で書いた<ホモ・デウス>シリーズを一応終える。『ホモ・デウス』『サピエンス全史』に対する遅まきながらの応戦と言えば大げさだが、<新サイバー閑話>を2018年末に開設したのをきっかけに、サイバーリテラシーを下敷きに両書を読み解き、提起された問題を私なりに整理してみた。ご意見、ご感想をお寄せいただければ幸いである。

 

新サイバー閑話(22) ホモ・デウス⑬

あらためてサイバーリテラシーについて

『ホモ・デウス』が提起した問題はサピエンス全体の運命に関わっている。何よりもまずこのことを認識すべきだと思う。

 先にも触れたように、いまやGAFA支配の時代である。日本ではようやく昨年になって、これらのIT企業を「プラットホーマー」(「社会経済に不可欠な基盤を提供」し「多数の消費者や事業者が参加する市場そのものを設計・運営・管理する」存在)と位置づけ、経済産業省が設置した有識者会議が中小企業などに与える影響への対策を検討し始めた(しかし、IT企業のサービスを利用する過程で「一方的に利用料を値上げされる」とか「手数料の負担が重い」などの対策を検討するという程度に過ぎない)。

 国際的にもいろんな対策が講じられつつある。サイバー空間を経由して収益を上げているIT企業の税金をどう適正に徴収するかに関して、イギリス政府は2020年4月から、海外大手の英国内での売り上げに課税する「デジタル税」を導入する。グローバル企業の国境を越えた収入は、従来のように工場や営業拠点などを通して収益を計算し課税するやり方はではうまく把握できないからである。

 それぞれ対応を迫られる具体的問題であることは間違いないが、そんな〝ささやかな〟問題ではなく、もっと大きく、深刻な問題が前途には横たわっているとハラリは警告しているのである。

 国内外の『ホモ・デウス』をめぐる反響についてはよく調べていないので何とも言えないが、ハラリのこの問いかけへの「応戦」はどの程度なされているのだろうか。

・あぶり出される「個」の解体

 私は2000年来、IT社会を生きる基本素養として「サイバーリテラシー」を提唱してきた。このことについては本サイバー燈台の「サイバーリテラシーについて」を参照していただきたいが、要はIT社会を現実世界とインターネット上に成立するサイバー空間の相互交流する姿と捉え、この社会を快適で豊かなものにする実践的知恵を探ろうとするものである。

 ここではインターネット誕生以来のサイバー空間と現実世界の交流史を図示している。

 細かい説明はウエブにまかせるとして、今は図6の状態で、サイバー空間と現実世界は渾然一体となっている。データ至上主義はインターネット上のサイバー空間でこそ猛威を振るうのであり、私はこの新しい情報空間に注目してきたわけである。

 ただ「個」の外部に焦点を当てており、「個」内部に外部が否応なく浸透してきていることを今回、ハラリの本で教えられた。「21世紀には、個人は外から情け容赦なく打ち砕かれるのではなくむしろ、内から徐々に崩れていく可能性の方が高い」。

 私はサイバーリテラシーの課題を以下の3つだと考えてきた(『サイバーリテラシー概論』参照)。

①デジタル技術でつくられたサイバー空間の特質を理解する。
②現実世界がサイバー空間との接触を通じてどのように変容しているかを探る。
③サイバー空間の再構築と現実世界の復権。

 ③がハラリの言う、いま検討すべき課題だと言っていいだろう。ついでだが、サイバー空間のアーキテクチャーとしてのサイバーリテラシー3原則は以下の通りである。

<サイバー空間には制約がない>
<サイバー空間は忘れない>
<サイバー空間は「個」をあぶり出す> 

 問題は「個」のあり方である。私の念頭にあったのは、個人が家族、地域、組織などのくびきから離れてバラバラになるということにすぎなかったけれど、今や「個」そのものが解体されて、個人のアイデンティティが喪失しかねないということである。文面を変える必要はないと思うが、より大きな含意を持つものになった。

・サイバーリテラシー協会

 『サピエンス全史』で日本にふれて、「日本が例外的に19世紀末にはすでに西洋に首尾よく追いついていたのは、日本の軍事力や、特有のテクノロジーのおかげではない。むしろそれは、明治時代に日本が並外れた努力を重ね、西洋の機械や装置を採用するだけにとどまらず、社会と政治の多くの面を西洋を手本として作り直した事実を反映しているのだ」というくだりがある。

 これもずいぶん前に書いたことだけれど(IT技術は日本人にとって「パンドラの箱」?讀賣新聞2006年2月7日夕刊文化欄)、日本人のITへの取り組みはきわめて甘い。こんなことでは、今度こそホモ・デウスの嵐にあっという間に呑み込まれてしまうだろう。

 昨年暮れ、ある会合で高齢の婦人からこう言われてショックを受けた。彼女は「矢野さんはサイバーリテラシーをずいぶん昔から提唱しており、おっしゃることはよくわかる。ひと昔前はそれでよかったけれど、書いているようなことはすでに現実になっているのだから、これからどう行動すればいいかの対策が必要ではないのか」と。

 まことに図星である。サイバーリテラシーを提唱してすでに20年近い。この間、警鐘を鳴らし続けたと個人的には思っているが、笛吹けども踊らず、世間的には微々たる関心しか呼ばなかったし、その間、私としても前にほとんど進めなかった。

 一人の力で簡単に進める問題でないことも確かである。

 だから私はITで潤っている企業、ITの行く末を案じている人びと、日々その恩恵を受けている人などが集まり、基金を作り、IT社会をまさに「快適で豊かなものにする」ための知恵を出し合うべきだと提唱してきた。エコロジーのようなグローバルな運動に育てたかったわけである。

 これが「サイバーリテラシー協会」設立の呼びかけだが、この機会にあらためてその種の団体を立ち上げ、世界の関連団体と提携して、歴史の転換点における知恵を探る必要性を強調したいと思う。

 そのときにはハラリを顧問に迎えたいものである(^o^)。

新サイバー閑話(21) ホモ・デウス⑫

ロボットと瞑想

 読後感よもやま話の続きである。

 カーツワイルによれば、今後はナノナノテクノロジーに基づく小型ロボットが大活躍する。それがサイボーグに結びつくのだが、そこでのロボットは、従来の西洋的なロボットの捉え方とだいぶ変わってきているように思われる。

 ロボットというのは、チェコの作家、カレル・チャペックが「R.U.R.(Rossum’s Universal Robots)」という戯曲で作り上げた造語で、R.U.R社長のドミンは、今後は「何もかも生きた機械がやってくれます。人間は好きなことだけをするのです。自分を完成させるためにのみ生きるのです」などと豪語していたが、結果はロボットの反乱で人類は滅びる。

 SF作家、アイザック・アシモフの有名な「ロボット工学の3原則」(①ロボットは人間に危害を加えてはならない。また何も手を下さずに人間が危害を受けるのを黙視してはならない。 ②ロボットは人間の命令に従わなくてはならない。ただし第1原則に反する命令はその限りではない。 ③ロボットは自らの存在を護らなくてはならない。ただしそれは、第1、第2原則に違反しない場合に限る)もそうだが、西欧におけるロボットはあくまでも人間に奉仕する下等な存在、言わば奴隷に変わる存在と考えられていた。

 ホモ・デウスは小さなロボットや人工知能で増強されるが、体内に埋め込まれたロボットなら、機能も限定されており、うまく人間と共生できるということかもしれない。しかし、これらのロボットがネットワークを組んで当の人間に反乱するとは考えないのだろうか。そこでは、過去のロボット観はどう修正されるのだろうか。

 日本のロボットは当初からヒューマノイド・ロボットと呼ばれ、アニメの鉄腕アトムやドラえもんに象徴されるように、人間と共存する存在と意識されてきた。西洋流の人間中心主義や闘争主義、二者択一主義と、山川草木悉皆成仏的な「生きとし生けるものみな兄弟」ふうの東洋流。自然を支配しようとする西洋と自然と一体化しようとする東洋。ホモ・デウス出現前夜に、あらためて考えていいテーマだと思われる。

『サピエンス全史』には以下の記述もある。「アニミズムとは、ほぼあらゆる場所や動植物、自然現象には意識と感情があり、人間と直接思いを通わせられるという信念だ」、「アニミズムの信奉者は人間と他の存在との間には壁はないと信じている」。

 サピエンス全史からすれば、狩猟採集時代の方がはるかに長い。その感性がサピエンスに残っていないわけがなく、日本にはアニメズム的な考え方もなお根強い。

・1日2時間の瞑想

 ハラリは『ホモ・デウス』をヴィバッサーナ瞑想の導師、サティア・ナラヤン・ゴエンカに捧げている。最後の謝辞でも故人を恩師として第一に上げている。

「(ヴィパッサナー瞑想の)技法はこれまでずっと、私が現実をあるがままに見て取り、心とこの世界を前よりよく知るのに役立ってきた。過去15年にわたってヴィパッサナー瞑想を実践することから得られた集中力と心の平安と洞察なしには、本書は書けなかっただろう」。

 著者が2018年に出版したエッセイ集とも言うべき“21 Lessons for the 21st Century”の最終章はMeditationである。彼は「自分の心を観察する方法」としての瞑想との出会いで救われたと書いており、1日2時間の瞑想を欠かさないらしい。ゴエンカは、「ヒンドゥー教徒のインド系移民としてミャンマーの裕福な家庭に育った」(ウィキペディア)人といい、ヴィパッサナーは仏教系の瞑想法である。日本にも道場がある。

 私も、いささかの気功修行をしており、その静功は瞑想そのものである。気功の要諦は外気と内気の交流にあり、めざすのはまさに自然との共生である。大木の前に立ち、その気を取り入れるための功法もある。気感の強い女性仲間には、堤中納言物語の「蟲愛ずる姫君」ではないけれど、森の中で木々と対話できる(時がある)という人もいる。

 バリ島東北部、ヒンドゥー教の総本山、ブサキ寺院の近くにアンラプラという美しい街がある。もとはバリ随一の勢力を誇ったガランカスム王国の都だった。19世紀末のオランダ植民地時代に王がオランダに留学するなど融和政策をとり、街並みにもオランダ風の様式を取り入れている。

 清い水(聖水)がふんだんに流れる「水の離宮」、宮殿、王族の別邸などを見て回ったが、別邸のややシンメトリックな配置はオランダの影響を感じさせ、バリでは異色の風景となっている。その美しい展望台で北欧から来たと思われる若いグループがヨーガをしていた。

 バリと言えばヨーガのメッカでもあり、観光客目当ての大々的なヨーガセンターばかりでなく、たとえばウブドの街中にも、1回500円程度で自由に参加できる教室があり、ここにもオーストラリア人などがたくさん来ていた(バリ・ヒンドゥー教はアニミズムの影響が強いとも言われている)。

 ヨーガ、坐禅、気功、マインドフルネスなどの心身健康法は洋の東西を問わず、いま大きなブームになっている。ハラリは人類(サピエンス)がいまのままのあり方を続けていると、いずれはホモ・デウス出現に至るだろうと〝幻視〟したわけだが、彼自身はその流れに掉さそうとしているのであり、船に乗ろうとしているわけでは決してない。

カレル・チャペック『R,U.R.』(岩波文庫、1920)
ロボット (岩波文庫)
アイザック・アシモフ『わたしはロボット』(創元推理文庫、原著1950)

わたしはロボット (創元SF文庫)

名和「後期高齢者」(25)

梅棹忠夫論によせて

 たまたま本ウェブの執筆者小林龍生さんと、編集者矢野直明さんが梅棹論をたたかわしており、そこに小生の梅棹論を引用してくださった。数10年前の拙文を覚えていただいたことに、私は嬉しさを感じる。お礼を申し上げるとともに、この機会にもうひと言。

 じつは私は梅棹氏とは面識はない。ただ、民博が完成したときに早速その資料室を訪問したことがある。それは民博が保有したと称していたデータベースの実物をみるためであった。

 ただし、その結果は予想外であった。当のデータベースが紙ベースであったから。ただし学ぶ点はあった。それはシソーラスが完備していたこと。そのデータベースの名称は”Human Relations Area Files”そのシソーラスの名称は“Outline of Cultural Materials”であった。対象が万物におよぶ民俗学だったので、私は後者をいまでも活用している。

 ただしこのデータベースを見て、私は「やっぱり」と受け止めたことがあった。そのデータの多くがヴェトナムに関係していたことであった。つまり、民俗学も今日いうところの”dual used technology”の特徴をもっていた、

 念のために“Outline of Cultural Materials”を覗いてみると、”dual- used”という用語はない。ただし、”dualism”が「神と悪魔」という文脈において定義されてはいる。

(編集者注:民族学博物館の開館は1977年、ヴェトナム戦争終結は1975年だった)

新サイバー閑話(20) ホモ・デウス⑪

文明の成長と衰退

 今回は読後感よもやま話である。 

 ハラリの大作に触れて、昔読んだ歴史家、アーノルド・トインビーの『歴史の研究』を思い出した。1934年から61年に書かれた超大作だが、私が読んだのは3巻本の縮刷版だった。トインビーは古代から現代(執筆時)に至る人類の歴史を、地域的に21の文明圏に分けた。5000年から6000年程度の歴史的差異は無視できる(それらの文明は共時性がある)との立場から、すべての文明に共通する原則として「成長」と「衰退」のあり方を考察した。

 文明は発生し、そして成長し、衰退し、最後に解体する。

 トインビーは個々の文明を横断的(空間的)に俯瞰して共通の原則を導きだしたが、ハラリはサピエンス史を縦に(時間的に)串裂きにして、動物→サピエンス→ホモ・デウスとして定式化した。

 サピエンス史をトインビー的に見ると、今ではひとくくりで考えられる人類文明は、すでに衰退期に向かっていることになるだろうか。興味深いのは、トインビーが成長と衰退、挑戦と応戦といった概念のほかに、「引退」と「復帰」にも言及していることである。たとえば、ルネッサンス期のフィレンツェの政治家、ニッコロ・マキュアベリは一時要職も務めた政界から放逐され、歴史からの引退を余儀なくされたが、蟄居して森の中で思索を積み、有名な『君主論』を書いて歴史に復帰したというふうな。

 だから、かじ取りを間違えなければ、サピエンスは引退することなく、うまく「おだやかな」ホモ・デウスへと変身して、歴史に復帰できる可能性もあるのではないだろうか。もちろんやり方を間違えて、いよいよ滅びていく危険を避けられればだが……。

 その点、ハラリが「振り返ってみると、ファラオの失墜や神の死は、どちらも好ましい展開だった。人間至上主義の破綻もまた、有益かもしれない。人がたいてい変化を怖がるのは、未知のものを恐れるからだ。だが、歴史には一定不変の大原則が一つある。そなわち、万物はうつろう、ということだ」と書いているのは興味深い。

・バリでつらつら考える

宿の外に広がる田園風景

 私はこの「ホモ・デウス」に関する連載を避寒と療養のために長期滞在しているバリで書いている。大きな繁華街以外には高層ビルは皆無で、伝統的な割れ門の中に平屋の住宅がひっそりとたたずむ姿は美しい。門の両脇にはさまざまなヒンドゥー教の守護神が祀られている。

 街は緑に覆われ、道路は車というよりバイクであふれている。人々はほとんどスマートフォンを持っている。定期的に通うジムへの往復はタクシーではなくバイクを利用する。インターネットを使ったバイク便サービスが発達しており、アプリを使って探せば、5分以内に門前まで迎えに来てくれる。ヘルメットをかぶって後ろにしがみつくように乗る。いくら交通渋滞でも車の左右かまわずどんどん先に進むから、タクシーなら30分もかかる渋滞でも5分で着く。料金は日本円で100円しない。

 信心深いヒンドゥー教徒は3月7日、バリ歴による正月(ニュピ)を迎えた。当日は煮炊きの火も使わず、外出は禁止。ラジオもテレビもWIFIも強制的に切断される。空港も閉鎖する。前日は神輿や山車が道路を練り歩きにぎやかだが、当日はみんな静かに自宅で祈りを捧げる。朝、試みにテレビをつけてみたら、ニュピのお知らせ休業の画面が出た。インターネットも同じである。

 この日は珍しいほどの悪天候で、日本の梅雨を思わせるどんよりとした雲に覆われ、ときおり激しい雨も降ったが、車やバイクの騒音はなく、隣家のざわめきも聞えず、ニワトリや犬もおとなしい。人の気配はまるでなく、ときおり雨や風の音、小鳥のさえずりが聞こえるばかりである。夜は島内のあらゆる灯が消された。昨年がそうだったが、天気が良ければ静まり返った空に無数の星が、まるで深山か離島にいるように美しく輝く。

 窓からあたりの景色を眺めていると、バリの人びとののどかな生活と「ホモ・デウス誕生」がどう関係してくるのかなどと考える。

 思い浮かぶのは、西洋人が15世紀から19世紀にかけて率先して行った「地理上の発見」とその後の世界制覇(植民地支配)である。

 ハラリはこの点を『サピエンス全史』で詳述しているが、西洋人だけが世界征服に乗り出し、アジアを始め他の諸国がその流れに逆らえなかったのは何故なのか。西洋人はいち早く科学革命や資本主義革命を推進すると同時に、「世界地図に空白がある」ことに気づき、それを征服することに強い意欲をもった。

 他文明の中には15世紀においてヨーロッパよりはるかに強大な統治力を持ち、技術力もあった国が存在したが、彼らは陸続きの隣国を征服し領土を拡大することに専念はしたが、海を隔てた遠い場所に他の人種が住んでいることも、世界地図に空白があることも真剣には考えなかった。「特異なのは近代前期のヨーロッパ人が熱に浮かされ、異質な文化があふれている遠方のまったく未知の土地へ航海し、その海岸へ一歩足を踏み下ろすが早いか、『これらの土地はすべて我々の王のものだ』と宣言したいという意欲に駆られたことだった」。

 他の文明は、そもそも外部世界への関心も知識もなく、その結果、手痛い仕打ちを受けることになったわけである。

ホモ・デウスによる第2の世界制覇?

 2015年にメキシコを旅したことがある。主にユカタン半島のリゾート地、カンクンに滞在、マヤ文明の遺跡、チチェンイッツァなどを訪ねたが、帰りにメキシコシティでアステカ帝国の遺跡も見た。

 現在のメキシコの首都はテスココという大きな湖を埋め立ててつくられた。この湖の中にアステカ帝国の牙城があったのだが、1519年、都を見下ろす山の上にスペインのエルナン・コルテスがわずかな軍勢だけで現れたとき、アステカの王はこれを「神の使者」と勘違いし、丁重な礼を持って迎えている。自分たちを征服するなど夢想もしなかったわけである。その結果、内部対立、隣国との抗争などもあって、当時最盛期にあったアステカ帝国はあっけなく滅んだ。

 アメリカ大陸の他の文明もよく似た運命をたどり、徹底的な虐待と持ち込まれた伝染病の蔓延により、本書によれば、「20年のうちに、カリブ海先住民のほぼ全員が命を落とした。スペイン人入植者はその穴を埋めるために、アフリカの奴隷を輸入し始めた」という経過をとった。

 メキシコシティの壮大なカトリック寺院はアステカ帝国の宮殿を潰した上に立てられており、埋もれた遺跡の一部をいま見学できるが、恐れ入った蛮行である(もっともスペイン自体、十字軍遠征の攻防でカトリック教会がイスラムのモスクになったり、イスラム施設に覆いかぶさるようにカトリック施設が建築されたりしている。アルハンブラ宮殿に象徴されるように、それがいまアンダルシア地方の観光資源である)。

 いずれホモ・デウスによる「第2の世界制覇」が行われるとして、それはどういうものなのだろうか。そこでも、「進歩意欲」、「改造意欲」、「征服欲」の強い西洋人が時代をリードするだろうか(ヒューマニズムが白人至上主義的傾向をもったことは否定できない)。たしかにいまIT社会をリードしているのはGAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾンの頭文字)をはじめとするアメリカIT企業だが、そのメッカ、シリコンバレーには各国から優秀なエリートが集まっている。

 国で言えば、デジタル・レーニン主義を標榜する中国が一党支配をテコにIT業界でも覇権を築きつつあるし、名うてのロシアもいる。既存のカースト制がなお厳しいインドでは、脱カーストをIT産業に求める若者も多いと聞く。ホモ・デウスは西洋人を中心に地域や国、人種を離れた新しいエリートとして誕生するのだろうか。

 抗争は地上よりもサイバー空間を通して展開されるだろうが、今はのどかなバリでさえ静観していられないことは確かである。

 本コラムで環境問題に触れて社会学者、ウルリッヒベックの「海面上昇は、不平等の新たな景観を生み出しつつある。従来の国家間に引かれた境界線ではなく、海抜何メートルかを示す線が重要になる新たな世界地図を描き出しつつあるのだ。それによって、世界を概念化する方法も、その中で私たちが生き残る可能性も、これまでとはまったく異なるものになる」という言を紹介したことがあるが、いずれもう一つ、新たな世界地図が作り上げられる可能性があるということだろうか。

 そういうことを考えながら過ごしたニュピの一日だった。8日午前6時に灯火規制は解除され、インターネットもつながった。結局、今年は星空は見えなかった。

アーノルド・トインビー『歴史の研究』(縮刷版、社会思想社、1975)
歴史の研究 1

新サイバー閑話(19) ホモ・デウス⑩

岐路に立ちながら気づかぬサピエンス

 ハラリの『ホモ・デウス』『サピエンス全史』両著は、私にとっても衝撃だった。

 私たちは人間こそかけがえのない存在だと思い、その驕りのために、自然や動物を虐待してきたし、そのふるまいのつけで地球温暖化の危機も招いているけれども、にもかかわらず「われ思うゆえに我あり」、人間としてのアイデンティティが失われる日が来るとは考えてもみなかった。そこへ、ハラリはサピエンス→ホモ・デウスという座標軸を突きつけた。間違いなく私たちは歴史の大きな曲がり角に立っている。

『サピエンス全史』でハラリは、フランケンシュタイン神話に言及しつつ、私たちは将来、自分と同じような人間が恒星や宇宙を飛び交う夢を見がちだが、そのとき宇宙船に乗っているのは、私たちのような感情とアイデンティティを持った生き物ではない、まるで別の生命体になっている可能性が強いと言っている。

 そして肝心なのは、私たちがその未来を直視できていないことである。『サピエンス全史』の最後はこういう言葉で終わる。「私たちが自分の欲望を操作できるようになる日は近いかもしれないので、ひょっとすると、私たちが直面している真の疑問は、『私たちは何になりたいのか?』ではなく、『私たちは何を望みたいのか?』かもしれない。この疑問に思わず頭を抱えない人は、おそらくまだ、それについて十分考えていないのだろう」。

・電子書籍と「注文の多い料理店」

 身近なところでも、ハラリの主張を裏付けるような出来事はいくらもある。人工臓器としては、すでに心臓ペースメーカーや人工膀胱を使っている人は多い。豊胸手術や頬へのヒアルロン酸注入などは珍しくもない。アンジェリーナ・ジョリーの場合、まだ予防治療だと考えることが可能だが、現代医学の最先端は患者を治療する段階から部分的な人間改造へ徐々に向かいつつある。米軍の経頭蓋直流刺激装置はまだ脳に直接電極を埋め込んでいないようだが、カーツワイルなどのテクノ人間至上主義者は、むしろ積極的に機械と人間を合体させようとしている。本連載①でゲームを通して見たように、バーチャル・リアリティの昨今の進歩は驚異的である。

 またインターネットの発達は、「かけがえのない個人」をミクロなデータに分割し、マクロな消費動向を占うようになっている。フェイスブックの「いいね!」から私たちの消費傾向、政治的思考まで分析されるし、フェイスブックを舞台にロシアがアメリカ大統領選挙に干渉した疑惑も浮上した。人びとはインターネット上の記事を容易に信じるし、そもそも自分好みの記事しか見えないように仕向けられている。アマゾンのサイトが購読商品から女性が妊娠していることを突き止め,お祝いメッセージを送ったとき、夫を含めた家族や友人のだれもそのことを知らなかったという話もある。ネット上にはフェイクや露骨な誹謗中傷が飛び交い、自ら「人間性」を貶めている。

 巨大IT企業はすでに私たち以上に私たちのことを知っている。

 最近、スマートフォンを使う時間が増えたからなのか、先日、立ち上げたとき「あなたが画面を見る時間が先月より8%減っています」というお知らせが現れた。「ほっといてくれ」と思いつつ、なるほどスマートフォンは1カ月の間、私がどのウエブを見たり書いたりしたとか、メールの送受信にどのくらいの時間を使ったかなどをすべて知っているのだと思った。メール内容もグーグルのサーバーに保管されている。私はGPS機能をオフにしているが、そうでない妻の場合、「あなたがこの店に来るのは一昨年に続き2度目です」といったことまで教えてくれるそうである。

 本書にアマゾンの電子書籍を読むときの話が紹介されている。

 アメリカでは印刷された本よりも電子書籍を読む人の方が多いそうだが、「キンドルのような機器は、ユーザーが読んでいる間にデータを収集できる」、「あなたがどの部分を素早く読み、どの部分をゆっくり読むかや、どのページで読むのを中断して一休みし、どの文で読むのをやめて二度と戻ってこなかったかをモニターしている」、「キンドルがアップグレードされ、顔認識とバイオメトリックセンサーの機能を備えれば、あなたが読んでいる一つひとつの文が、心拍数や血圧にどのような影響を与えたかを読み取れるようになる。……。あなたが本を読んでいる間に本があなたを読むようになる。そして、あなたは自分が読んだことをすぐに忘れるのに対して、アマゾンは何一つけっして忘れない」。

 山里の料理店に入ったら、服を脱ぎシャワーを浴びろ、体に塩をかけろ、などと指示され、すんでのところで自分が料理される羽目になる宮沢賢治の童話「注文の多い料理店」を思い出させる現代の〝怪談〟だが、時代はここまで来ているということである。

 ちなみに、私が連載していた雑誌記事で「新年は『ビッグデータ』という言葉が流行語になるかもしれない」と書いたのは2013年1月号(「ミクロなデータからマクロな傾向を探る」だった。わずか5年前のことである。

・ハラリの「歴史家の目」

 しかし、問題はもっと先にある。

 私たちの人間としてのアイデンティティが危機に瀕しているということである。「危機に瀕している」という捉え方が間違いかもしれない。ハラリは「18世紀には、人間至上主義が世界観を神中心から人間中心に変えることで、神を主役から外した。21世紀には、データ至上主義が世界観を人間中心からデータ中心に変えることで、人間を主役から外すかもしれない」と書いている(人間至上主義と訳されているのはヒューマニズムhumanismのことである)。

 私たちはサピエンスに見切りをつけてホモ・デウスへの道を歩みたいのか。あくまでも〝人間らしい〟サピエンスに止まりたいのか。だとすれば、ホモ・デウスによる支配を免れる方法は何か。一番いいのはホモ・デウスを誕生させないことではないのか。ホモ・デウスをめざす人には、アップグレードに向かうとしてかえってダウングレードしてしまったり、極端な場合、怪物になったり壊れてしまったりする危険も待ちかまえている(この点で、これもずいぶん昔に書かれたオルダス・ハックスリイ『すばらしい新世界』の先駆性に舌を巻く)。

 ハラリは、幾何学で言えば、鋭い補助線を一本引いて、歴史上の今を私たちに見せてくれたと言っていい。そして、私たちと言えば、未曽有の岐路に立たされていながら、それに気づきもせず、したがって真剣にも考えていない、というのがハラリのいらだちだと思われる。

 著者はサピエンス→ホモ・デウスへの動きにブレーキをかけるのは難しいと考えているようである。まずブレーキがどこにあるのか、誰も知らない(いろんな分野で起こっているシステムの変化を全体として見ている人はいない)、仮にだれかがブレーキを踏むことに成功したら、経済は崩壊し、社会も運命を共にするだろうと。

 しかし、手をこまねいているしかないと、言っているわけではない。ポーの「メルシュトリームの大渦」の話で言えば、渦に翻弄されながらも周囲を冷静に観察し、自らの生き方を決断すべきなのである。ハラリによれば、それこそが「歴史」を研究する意味である。

「歴史の研究は、私たちが通常なら考えない可能性に気づくように仕向けることを何にもまして目指している。歴史学者が過去を研究するのは、過去を繰り返すためではなく、過去から解放されるためなのだ」、「新しいテクノロジーの使用に関してある程度の選択肢があるからこそ、今何が起こっているのかを理解して、自ら決断を下し、今後の展開のなすがままになることを避けるべきなのだ」。

 彼の意図は以下に明確に示されている。

「本書で概説した筋書きはみな、予言ではなく可能性として捉えるべきだ。こうした可能性のなかに気に入らないものがあるなら、その可能性を実現させないように、ぜひ従来とは違う形で考えて行動してほしい」、「データ至上主義の教義を批判的に考察することは、21世紀最大の科学的課題であるだけでなく、最も火急の政治的・経済的プロジェクトになりそうだ。生命をデータ処理と意思決定として理解してしまうと、何かを見落とすことになるのではないか、と生命科学者や社会科学者は自問するべきだ。この世界にはデータに還元できないものがあるのではないだろうか?意識を持たないアルゴリズムが、既知のデータ処理課題のすべてにおいて、意識を持つ知能をいずれ凌ぐことができるとしよう。その場合、意識を持つ知能を、意識を持たない優れたアルゴリズムに取り替えることによって、失われるものがあるとしたらそれは何だろうか?」

 未来に、人種差別や性差別から解放され、動物をはじめとする自然と共生する、それこそ人間らしい生活を築き上げるためには、まさに待ったなしで英知を結集すべき時だということだろう。

オルダス・ハックスリイ『すばらしい新世界』(早川書房、原著1934)
すばらしい新世界〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫)

新サイバー閑話(18) ホモ・デウス⑨

ホモ・デウスはサピエンスを動物のように扱う

 ハラリは『サピエンス全史』および『ホモ・デウス』で人類(サピエンス)がもともとは仲間とも言える動物をいかに残酷に扱ってきたかを縷々述べているが、その実態をつぶさに観察すれば、来るべき時代でホモ・デウスがサピエンスをどう扱うかがはっきりするというのが著者の考えらしい。

「私たちも動物であることは動かしがたい事実だ。そして自らを神に変えようとしている今、自分の由来を思い出すことはなおさら重要になる。私たちが神になる未来を研究しようというのなら、動物としての自らの過去や、他の動物たちとの関係は無視しようがない。なぜなら、人間と動物の関係は、超人と人間の未来の関係にとって、私たちの手元にある最良のモデルだからだ。超人的な知能を持つサイボーグが普通の生身の人間をどう扱うか、みなさんは知りたいだろうか?それなら、人間が自分より知能の低い仲間の動物たちをどう扱うかを詳しく調べるところから始めるといい」。

 サピエンスが動物にしてきたことを、ホモ・デウスはサピエンスにするだろう、ということである。

 動物の虐待については立ち入らないが、麻酔なしに実験動物を切り刻んだり、豚や牛、ニワトリなどの家畜を狭いスペースに閉じ込め、自然環境から完全に隔離して、食肉や牛乳や卵の生産機械に落としめたりしている実態は、だれもが知って(黙認して)いることである。

 参考までに、両書に掲載されている豚と牛の写真に添付されている説明のみ紹介しておこう。少しは暗澹たる気分になるかもしれない。

「妊娠ブタ用クレートに閉じ込められたメスブタたち。この非常に社会的で知能の高い動物は、まるですでにソーセージででもあるかのように、このような境遇で一生のほとんどを過ごす」、「工場式食肉農場の現代の子牛。子牛は誕生直後に母親から引き離され、自分の身体とさほど変わらない小さな檻に閉じ込められる。そこで一生(平均でおよそ4カ月)を送る。檻を出ることも、他の子牛と遊ぶことも、歩くことさえ許されない。筋肉が強くならないようにするためだ。……。子牛が初めて歩き、筋肉を伸ばし、他の子牛たちに触れる機会を与えられるのは、食肉処理場へ向かうときだ。進化の視点に立つと、牛はこれまで登場した動植物のうちでも、屈指の成功を収めた。だが同時に、牛は地球上でも最も惨めな動物に入る」。

新サイバー閑話(17) ホモ・デウス⑧

人間至上主義の勃興と凋落

 サピエンスの進化を推進してきた「人間至上主義(humanism)」を突き進めることが皮肉にも人間至上主義そのものを突き崩し、ホモ・デウスの誕生、あるいはデータ至上主義の社会へ行き着くというのが本書の主題である。

「人間至上主義という宗教は、人間性を崇拝し、キリスト教とイスラム教で神が、仏教と道教で自然の摂理がそれぞれ演じた役割を、人間性が果たすものと考える」、「人間至上主義を実現する試みが、なぜその凋落につながりうるのか?不死と至福と神性の追求が、人類への私たちの信頼の基盤をどうして揺るがすことになるのか?この激動にはどのような前兆があり、私たちが日々下す決定に、それがどう反映しているのか?そして、もし人間至上主義が本当に危機に瀕しているのだとしたら、何がそれに取って代わられるのか?」

 議論の中心はアルゴリズムである。

 彼は「アルゴリズムとは、計算をし、問題を解決し、決定に至るために利用できる、一連の秩序だったステップ」と説明したうえで、「生物学者たちは過去数十年間に、ボタンを押して紅茶を飲む人もアルゴリズムであるという確固たる結論に至った」、「生命科学では、生命とはデータ処理に尽きる、生き物は計算を行って決定を下す機械である、と考えられている」と述べる。

 ひとことで言えば、生命とはデータ処理だとする生命科学の考え方が、コンピュータ科学と結びついて、そこに他の経済的、政治的要因も重なり、いまや「自由主義」や「個人主義」という人間至上主義の信念を突き崩しつつある。

「この流れ全体を勢いづかせているのはコンピュータ科学よりも生物学の見識であるのに気づくことがきわめて重要だ。生き物はアルゴリズムであると結論したのは生命科学だった」。

 本書によって、2つの例を上げよう。

 まず21世紀に自由主義の信念を時代遅れにしかねない3つの実際的な進展があった。

 ①人間は経済的有用性と軍事的有用性を失い、そのため経済と政治の制度は人間にあまり価値を付与しなくなる。
 ②経済と政治の制度は、集合的に見た場合の人間には依然として価値を見出すが、部類の個人としての人間には価値を認めなくなる。
 ③経済と政治の制度は、一部の人間にはそれぞれ無類の個人として価値を見出すが、彼らは人口の大半ではなくアップグレードされた超人という新たなエリート層を構成することになる。

 また「人間がアルゴリズムには手の届かない能力をいつまでも持ち続けられると思うのは希望的観測にすぎない」とする現在科学の考え方をこう説明している。

 ①生き物はアルゴリズムである。ホモ・サピエンスも含め、あらゆる動物は膨大な歳月をかけた進歩を通して自然選択によって形作られた有機的なアルゴリズムの集合である。
 ②アルゴリズムの計算は計算機の材料には影響されない。
 ③有機的なアルゴリズムにできることで、非有機的なアルゴリズムにはけっして再現したり優ったりできないことがあると考える理由はまったくない。

 というわけで、「人間をコンピュータアルゴリズムに置き換えることはますます簡単になっている」。そのあとで「それは、アルゴリズムが利口になっているからだけではなく、人間が専門化しているからでもある」と書いているが、専門化とは別に、私たちの回りにどんどんマニュアル人間が増えているのも確かである。「外部のアルゴリズムが人間の内部に侵入し、私よりも私自身についてはるかによく知ることが可能」になれば、「個人主義の信仰は崩れ、権威は個々の人間からネットワーク化されたアルゴリズムへ移る」。

 そして、個人主義に対する従来の信念、①私は分割不能の個人である。②私の本物の自己は完全に自由である。③私は自分自身に関して他人には発見しえないことを知りうる、という前提は、①生き物はアルゴリズムであり、人間は分割可能である。②人間を構成しているアルゴリズムは遺伝子と環境圧によって形づけられており、自由ではない。③外部のアルゴリズムは、私が自分を知りうるよりもはるかによく私を知りうる、という科学的知見によって駆逐されてしまうだろうと著者は言う。

・テクノ人間至上主義とデータ至上主義

 人間至上主義に代わって登場するのが、テクノ人間至上主義(techno-humanism)とデータ至上主義(dataism)である。

 前者は連載④でふれたカーツワイルの考え方に近いが、テクノ至上主義に関してこう書かれている。「この宗教は依然として、人間を森羅万象の頂点とみなし、人間至上主義の伝統的な価値観に固執する。テクノ人間至上主義は、私たちが知っているようなホモ・サピエンスはすでに歴史的役割を終え、将来はもう重要でなくなるという考え方には同意するが、だからこそ私たちは、はるかに優れた人間モデルであるホモ・デウスを生み出すために、テクノロジーを使うべきだと結論する」、「最初の認知革命による心の刷新で、ホモ・サピエンスは共同主観的な領域へのアクセスを得て、地球の支配者になった。第二の認知革命では、ホモ・デウスは想像もつかないような新領域へのアクセスを獲得し、銀河系の主になるかもしれない」。

 ここで著者は人間の心を改造しようとする試みの危険性について、さまざまな懸念を記している。

 人間の心のベクトルはまだよく解明されておらず、とんでもない方向に脱線する恐れが強く、「テクノ人間至上主義は人間をダウングレードすることになるかもしれない」。さらに著者が警告するのは、体制や権力(エリートであり、ホモ・デウスでもあろう)に順応的な人間が作られる可能性である。「私たちは何百万年にもわたって、能力を強化されたチンパンジーだった。だが、将来は、特大のアリになるかもしれない」。

 データ至上主義では、人間の心そのものが無視される。非有機的生物の誕生とも関係するが、「より大胆なテクノ宗教は、人間至上主義のへその緒をすぱっと切断しようとする。最も興味深い新興宗教はデータ至上主義で、この宗教は神も人間も崇めることはなく、データを崇拝する」、データ至上主義は「動物と機械を隔てる壁を取り払う。そして、ゆくゆくは電子工学的なアルゴリズムが生化学的なアルゴリズムを解読し、それを超える働きをすることを見込んでいる」、「つまり事実上、データ至上主義者は人間の知識や知恵に懐疑的で、ビッグデータとコンピュータアルゴリズムに信頼を置きたがるということだ」。

 いよいよ議論はクライマックスを迎えるが、このデータ至上主義こそ現在インターネットが推進しつつある巨大グローバルシステムの誕生であり、すでに身の回りで急速に進んでいる事態とも言える。

「グーグルやフェイスブックなどのアルゴリズムは、いったん全知の巫女として信頼されれば、おそらく代理人へ、最終的には君主へと進化するだろう」、「自分しか読まない日記を書のはこれまでの世代の人間至上主義者にとっては普通のことだったが、多くの現代の若者にはまるで意味がないことのように思える。『すべてのモノのインターネット』がうまく軌道に乗った暁には、人間はその構築者からチップへ、さらにはデータへと落ちぶれ、ついには急流に呑み込まれた土塊のように、データの奔流に溶けて消えかねない」、「21世紀の新しいテクノロジーは、人間至上主義の革命を逆転され、人間から権威を剥ぎ取り、その代わり、人間ではないアルゴリズムに権限を与えるかもしれない」。

新サイバー閑話(16) ホモ・デウス➆

アンジェリーナ・ジョリーの決断

ウィキペディアから

 ハラリは本書で、実際には乳癌を発症していなかったが、母親が乳癌で早死にするなど家系的にがんになる恐れを抱いていた米女優、アンジェリーナ・ジョリーが、現段階では何の異常もない両乳房をあえて切除する決断をした事例を特筆している。

 彼女は2013年5月に米紙ニューヨーク・タイムズに「私の選択」と題する記事を投稿した。

 それによると、母親をはじめ親族で乳癌で死亡した人が多く、彼女自身もいつ乳癌になるのか心配する日々を送っていた。そこで遺伝子検査を受けたところ、遺伝子に危険な変異を抱えていることがわかった。この変異を持っている女性は乳癌になる確率が87%あるという。そこで彼女は、いまはなお健康な自分の両乳房をあえて切除する手術に踏み切った。その後に人工乳房整形を施している。

 以前なら、その危険を恐れながらも家系からくる「運命」と〝諦め〟、それがわが身に起こらないことを念じ、できるだけの養生をするしかなかった。ところが現代医学は彼女の遺伝子変異を計測することができる。乳癌になる確率87%。

 さて、そのときあなたならどうするだろうか。

 アンジェリーナ・ジョリーは医学的データを信じ、それに賭けた。すでに子育てをひととおり終えていたという事情もあっただろうが、ふつうの人にはなかなかできない「決断」である。

 しかも彼女は、同じような状況下の他の女性たちの参考のためだとして、そのことを公表した(ちなみに彼女は、最初の調査ですでに黄信号だった卵巣と卵管についても、複数の炎症マーカーの数値が上昇したとして、おそらく本書執筆後の2015年に切除手術を受けている)。

 この事例をハラリは、以下の2点において注目した。

 1つは、彼女が自分のDNAの声を聴いたということである。著者はこう書いている。「ジョリーは自分の人生にまつわるこれほど重要な決定を下さなければならなくなったとき、大海原を見下ろす山の頂上に登って、波間に沈む太陽を眺め、自分の心の奥底の気持ちと接触しようとはしなかった。その代わり、自分の遺伝子に耳を傾けた」。

 さらにこうも言っている。「人々が自分のDNAとしだいに緊密な関係を育むにつれて、単一の自己というものはなおいっそう曖昧になり、本物の内なる声は途絶え、やかましい遺伝子の群れが残るだけかもしれない」。

 医学が進歩すればするほど、人びとは運命に従うことをやめ、提示される医学的データを信じ、そのもとに自らの決断をするようになるだろう、というのが著者の予測である。

「あなたも自分の健康にかかわる重要な決定を、アンジェリーナ・ジョリーとまったく同じ形で下す可能性は、きわめて高い」。

 医学は長い間、ごくふつうの風邪から伝染病、手ごわいがんに至るまで、人びとの病気を治癒すること、あるいは通常人より劣った身体機能、いわゆるハンディキャップを克服する技術として発達してきた。それは人びとの福音でもあった。

 ところが治療のために開発された技術は、当然、通常以上の能力を求める身体機能増強にも利用されることになる。著者はバイアグラの効用や整形美容の普及などを例示しているが、治療と増強の間に明確な線を引くことは難しい。しかも医学はどんどん進歩し、人々は内心の声に従うことをやめつつある。

 これがいずれは「ホモ・デウス」が誕生するだろうという予測の底に横たわる著者の怜悧な認識である。

・新しい階級の誕生

 もう1つは、アンジェリーナ・ジョリーが受けた遺伝子検査および切除手術の費用である。遺伝子検査だけで3000ドル以上かかったという。切除手術や予後などの費用はさらに高額なものになったはずである。

 3000ドルは「1日当たりの稼ぎが1ドル未満の人が10億人、1ドルから2ドルの人がさらに15億人いる世界での話だ」。かくして先端医療の恩恵に預かれる層とそれがかなわない層では、格差がどんどん広がる。その結果として、サピエンスとホモ・デウスという新たな階級が成立するだろうと著者は言う。

「豊かな人々は、歴史を通して社会的優越や政治的優越の恩恵にあずかってきたが、彼らを貧しい人々と隔てるような巨大な生物学的格差はなかった。……。ところが将来は、アップグレードされた上流階級と、社会の残りの人々との間に、身体的能力と認知的能力の本物の格差が生じるかもしれない」、「もし誰かが(通常人の)基準を下回ったら、その人を『他の誰とも同じ』になるのを助けるのが医師の仕事だった。それに対して、健康な人をアップグレーとするのはエリート主義の仕事だ」、「21世紀初頭の今、進歩の列車は再び駅を出ようとしている。そしてこれはおそらく、ホモ・サピエンと呼ばれる駅を離れる最後の列車となるだろう。……。21世紀には進歩の列車に乗る人は神のような創造と破壊の力を獲得する一方、後に残される人は絶滅の憂き目に遭いそうだ」。

 アンジェリーナ・ジョリーの例を一つの試金石と考えているわけである。

「とはいえ、パニックを起こす必要はない。少なくとも、今すぐには。……。ホモ・サピエンスは一歩一歩自分をアップグレードし、その過程でロボットやコンピュータと一体化して行き、ついにある日、私たちの子孫が過去を振り返ると、……、(これまでの)種類の動物でなくなっていることに気づくということになるだろう」。そう言われて、安心していていいいのかどうか……。