林「情報法」(37)

行動経済学と嘘

 前回は、伝統的な経済学が「嘘」について、どのような知見を与えてくれるかを説明しました。それはそれで有益な示唆を含んでいましたが、現代の行動経済学から見ると、一面的との批判が出るでしょう。なぜなら伝統的な経済学は、「常に自己の経済的利益を最大化することしか考えない」架空の人間を想定しているのに対して、行動経済学は「人間は合理的な点も多いが非合理なこともする」という、より「生身の人間」に近い見方をするからです。それでは、後者から得られる「嘘」に関する教訓は何でしょうか?

・「合理性」と「利己性」を疑う

  従来の経済学の人間観と、行動経済学以降のそれとの差を単純化すると、「合理性」と「利己性」を貫くか、「非合理」あるいは「不合理」(ここでは両者は互換的で、ともに「利他性」を含むとしておきます)を容認するか、という点になりそうです。

 伝統的な経済学に登場するのは、いついかなる場合にも「経済以外の要素は考えない」し、「常に自分の利益(期待効用)を最大化する」ことを目指す「経済人」(ラテン語ではhomo economicus、英語ではRational Person)です。これは経済学の登場人物と行動基準を限定し、単純な仮説に基づいて分析を進めるためには有効な設定でした。この単純化のために経済学が発展した、という側面もあったと思われます。

 しかし、あまりに単純化したモデルでは、現実の一面しか表すことができません。そのことは過去の経済学者も暗々裏に知っていたと思われますが、「非合理」な事象を把握することが出来ないし、仮に把握できたとしても分析する手段を持ち合わせていませんでした。ところが、経済学にゲーム理論や心理学の知見が生かされるようになり、信頼度の高い実験が可能になったことから、「非合理」を実証する事例が続出しました。行動経済学者の一部は、伝統的な「経済人」を「エコン」と略称(蔑称?)し、自分たちのモデルを「ヒューマン」と呼んで区別しています。

・Prospect Theoryと利他性の証明

 行動経済学の初期の発見として、心理学者のカーネマンが、故人となったトベルスキーとともに提唱した「プロスペクト理論」(Prospect Theory)があり、期待効用理論(Expected Utility Theory)を補うものとなっています。元となった実験は、カーネマンが「1つだけの質問による心理学(psychology of single questions)」と呼ぶ手法によるもので、例えば被験者に以下の2つの質問をします。

質問1: 以下の2つの選択肢のうち、どちらを好みますか?
A: 100万円が無条件で手に入る。
B: コインを投げ、表が出たら200万円が手に入るが、裏が出たら何も手に入らない。

質問2: あなたが200万円の負債を抱えている場合、以下の2つの選択肢のうち、どちらを好みますか?
A: 無条件で負債が100万円減額され、負債総額が100万円となる。
B: コインを投げ、表が出たら支払いが全額免除されるが、裏が出たら負債総額は変わらない。

 質問1は、どちらの選択肢でも手に入る金額の期待値は100万円ですが、一般的には、堅実性の高い「選択肢A」を選ぶ人が、圧倒的に多いとされています。質問2も両者の期待値は △100万円と同額です。質問1で「選択肢A」を選んだ人ならば、質問2でも堅実的な「選択肢A」を選ぶだろうと推測されますが、質問1で「選択肢A」を選んだほぼすべての人が、質問2ではギャンブル性の高い「選択肢B」を選ぶことが実証されています。

 上記の結果から「プロスペクト理論」は、「期待効用理論」に反する、以下のような含意を含んだものとされています。

・利得と損失の大きさが同じ場合、人間は得した喜びより、損した悲しみを避けるという「損失回避」(risk-averse)の行動をとる傾向がある。
・しかし損失額があまりに大きいと、大きな反応を示さなくなる。

 またゲーム理論の発展に伴って、「人は利己的に行動する」という仮説を覆す実験も行なわれるようになりました。今、被験者が1万円を手渡されて、見ず知らずの相手と好きなように分配しなさいと言われたら、どう行動するでしょうか。相手に分配額の拒否権がある時(ゲーム理論では「最後通牒ゲーム」)、理論的な答えは「1円あげれば十分」になります。なぜなら相手にとっては、拒否するより1円でも受け取る方が「合理的」だからです。

 ところが、生身の人間は4,000円程度を相手に分配することが多いという実験結果が、世界各国で報告されています。相手に拒否権がない(「独裁者ゲーム」と呼ばれる)時でさえ、相手に2,000円程度を分配するようで、人間は「思ったよりも利他的で、他人を思いやる存在だ」という理解が広まっています。

・Predictably IrrationalからNudgeへ

 カーネマンは第1世代の行動経済学者で、現代の主流は第2世代に移っているとされます。第2世代の特徴は、「実験から○○が分かった」という地点に立ち止まらず、「実験結果を生かせば社会的に望ましい方向に誘導できる」という実践を厭わないことです。特に経済学者のセーラーと法学者のサンスティンのペアは、nudge(居眠りしている人を肘でつついて気づかせる)ことに関心が強いようです(前者はオバマ政権で、それを主任務とするポストについていました)が、詳しい説明は以下の文献を参照してください。リチャード・セイラー、キャス・サンスティーン、遠藤真美(訳)[2009]『実践 行動経済学』(日経 BP社。原題はNudgeですが、邦訳のタイトルも共著者の意図をうまく伝えています)。

 著者の2人は、政府の介入を嫌う「リバタリアン」を自認しつつ、「リバタリアン・パターナリズム」、つまり「政府の介入を嫌いながらnudgeが必要だと主張する自己撞着」という非難を気にしないようです。ついでながら、ダン・アリエリー、熊谷淳子(訳)[2008]『予想どおりに不合理: 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』(早川書房)は、非合理でも予測可能な範囲(predictably irrational)であれば、nudge出来るという理解では共通の基盤に立っています。

 という訳で、行動経済学はかつての傍流から、今や主流の1つになりつつあります。共にノーベル経済学賞受賞者が書いた、ジョージ・A・アカロフ、ロバート・J・シラー、山形浩生(訳)[2017]『不道徳な見えざる手』(東洋経済新報社)まで現れて、アダム・スミスの「見えざる手」が合理的とは限らないことを、認める時代になっています。

 この書物の原題は Phishing for Phoolsですが、インターネット愛好者の間ではphはfの代用なので、Fishing for Fools と読み替えてください。すると、木村剛久氏の次の書評(https://webronza.asahi.com/culture/articles/2017070600003.html)が指摘するように、nudgeは「見えざる手」を補う「思慮深い政府の手」として合理化されるのでしょうか。

市場はそれ自体が諸刃の剣だ。市場が不健全な状態になるのは、けっして外部要因によるわけではなく、市場がほんらいもつ性格によるのだ、と著者はいう。人びとがほんとうに求めているものと、人びとが買おうとするものとは異なる。消費者はいわばカモとみなされている。イメージづけされた商品を買わされているのだ。著者がフィッシングはいたるところにあるというのは、そのことを指している。

・不正対策への応用と限界

 また本稿の文脈に戻れば、非合理或いは不合理の代表格である「嘘」という不正行為の防止にも、行動経済学が役立つのでしょうか? 上記の諸著作のうちで、このテーマに最も近いのはアリエリで、ずばり次のような著作を著しています。ダン・アリエリー、櫻井祐子(訳)[2014]『ずる――噓とごまかしの行動経済学』(早川書房)。

 彼が取りあげたのは「不正」よりも「ずる」と呼ぶにふさわしい、信号を無視したり、税の申告で経費を水増ししたりといった、誰にも心当たりのある (実際、皆がやっている) 些細な行為のことです。どういう状況で「ずる」が起こりがちなのかを検証し、「仕組み作り」をすることで、より深刻な不正事態につながるのを回避しようというのです。

「いつもトイレを綺麗にお使い頂きありがとうございます」の貼り紙があるだけで、清潔度が高まる反面、身につけているものが偽ブランド品だと「ずる」をしやすくなるという面白い研究結果も出てきます。ごまかしや不正は「感染」しやすいとも言います。「朱に交われば赤くなる」でしょうか。つきあう相手も、よく考えなければいけません。

 このような分析は、これまでの経済学には無かったもので、心理学や経営学の分野から参入した学者が活躍しています。しかし、今日までの考察結果は主として「個人」が対象です。「個人の不正を防止できなければ、法人の不正は防ぐことが出来ない」という命題は正しいように思えますが、「法人の不正は別の動機で起きる」のであれば、別の防ぎ方が必要かもしれません。この分野は、まだまだ発展途上の領域と言うべきでしょう。

林「情報法」(36)

「真偽不明」と「情報の非対称性」

 これまで数回にわたって、偽装やフェイク・ニュースといった故意の嘘、方便や無意識でつく(過失的な)嘘の両面を紹介し、情報はグレイで真偽不明の場合が多いため、故意に誤った情報を流したいと思っている人にとっては、「ヤリ得」の状況になっていることを指摘しました。このような事態が望ましくないことは、読者の皆さんも認めるところかと思いますが、事象を科学として分析し、その対策を曲がりなりにも考えたのは、経済学が最初だったと思います。そこで事例の説明は一旦止めて、「情報の経済学」が見出した理論的な知見について、考えてみましょう。

・「レモン」の市場

 市場における取引は、当事者双方が十分な情報を持ち、また合理的な判断ができるという暗黙の前提に基づいています。しかし、世の中にはそれらの条件が満たされないものも多く、このような疑似市場は、やがて機能しなくなる運命にあります(市場の失敗)。

 その代表例である「レモンの」市場について最初に取り上げたのは、ジョージ・アカロフです。彼は中古車市場で購入した車は故障しやすいといわれる現象のメカニズムを分析して、「情報の非対称性」という概念を経済学に根付かせました(Akerlof, George [1970] “The Market for Lemons: Quality Uncertainty and the Market Mechanism”, Quarterly Journal of Economics, Vol. 84  No.3)。

 Lemonとは「欠陥品」を指し、俗語では質の悪い中古車を意味しています。中古車のように、実際に購入してみなければ真の品質を知ることができない財が取引されている「レモンの市場」では、売り手は取引する財の品質をよく知っているのに、買い手は財を購入するまでその品質を知ることが難しい状況にあります(情報の非対称性)。そこで、売り手は買い手の無知につけ込んで、悪質な財(レモン)を良質な財と称して販売する傾向があるため、買い手は良質な財を購入したがらなくなり、結果的に市場に出回る財はレモンばかりになってしまうという問題が発生します。

 そのメカニズムを単純な数値で説明すると、以下のようになります。いま市場には、高品質と低品質の2種の財しかなく、それぞれ半々の割合で存在しているとしましょう。売られている財の品質を熟知している売り手は、高品質の財は30,000ドル以上、低品質の財は10,000ドル以上ならば販売してもよいと考えているとします。

 しかし買い手にとっては、売られている財の正しい品質を判断することが困難なため、半分の確率で財が低品質であると推測することになります。この場合、買い手にとっての財の価値は、高品質な場合の30,000ドルと低品質な場合の10,000ドルの平均である20,000ドルとなり、買い手はそれ以上支払いたくありません。このことを予想する売り手は、20,000ドルより高い財を市場に出すことを諦め、それ以下の財だけが取引されるようになります。

 この結果、今度は買い手が支払ってもよいとする平均価格も15,000ドルまで低下し、売り手は15,000ドル以上の財を市場に出すことを諦めます。このような連鎖の結果、売り手は高品質の財を売ることができず、低品質の財ばかりが市場に出回る結果となり、社会全体の厚生が低下してしまいます。このような現象は、通常は良いものが選ばれ生き残るという選抜や淘汰の逆であるという意味で、「逆選抜」、「逆淘汰」と呼ばれます。

・逆選択とモラル・ハザード

 情報の非対称性が存在する状況では、情報優位者(保有している情報量が多い取引主体)は情報劣位者(保有している情報量が少ない取引主体)の無知につけ込み、粗悪な財やサービス(レモン財)を良質な財やサービスと称して提供したり、都合の悪い情報を隠して保険サービスなどの提供を受けようとしたりするインセンティブが働きます。その結果、一般的に期待される市場機能が歪んでしまいます。

 歪みの1つである「逆選抜」は元々保険市場で使われる用語で、保険加入者が幅広い層に行き渡らずに特定の層(多くの場合、保険金支払いの確率が高い層)に偏ってしまう現象を指します。医療保険を例にとると、保険会社としては自身の健康や安全を心掛け、病気や事故と無縁の人物と契約するのが望ましいでしょう。しかし保険会社が、ある人物が健康に気を配っているのか、それとも全く気にしていないのかを判別できるとは限りませんので、こうした事情を考慮しない一般的な提供条件を示す以外にありません。

 そこで、保険会社が嫌がるような不健康な、あるいはリスクの多い生活を送る者は、その条件でも自分にとって得になると考え、その保険に加入するインセンティブを感じます。しかしそうではない人物、保険会社が本来想定するはずであろう人物は、加入しないかもしれません。このため保険会社の元を訪れる加入希望者は、本来保険会社が望まないであろう属性を有する人物らに偏っている可能性があります。

 もう1つ、経済学が発見した重要なテーマとして、「モラル・ハザード」がありますが、そこには3つの問題が混在しています。1つは保険におけるモラル・ハザードで、保険に加入することにより、リスクをともなう行動が生じること(例えば、火災保険に入っていると、火の取り扱いに関して十分な注意を払わないなど)を言います。

 2つ目は、経済学の言う「プリンシパル=エージェント関係」(「使用者と被用者の関係」など)において、情報の非対称性によりエージェントの行動についてプリンシパルが知りえない情報や専門知識がある(片方の側のみ情報と専門知識を有する)ことから、エージェントの行動に歪みが生じ、効率的な資源配分が妨げられる現象を言います。これは情報の非対称性に起因するものですが、時として「モラル・ハザード」とも呼ばれ、企業の不祥事を経済学的に説明する際の定本になっています。

 なお第3の意味として、わが国では、より広い意味で「倫理観や道徳的節度がなくなり、社会的な責任を果たさないこと(「バレなければよい」という考えが醸成されるなど)」を指す場合がありますが、米国を中心に発展した経済学では、この意味で用いることは稀で、わが国の理解はmoralという英語を正しく理解していないことから生じたものと思われます。

 因みに、著作者人格権の英語はmoral right ですが、ここでのmoralには倫理的な意味はありません。

・レモンの市場の是正策

 レモンの市場が、望ましい経済効果をもたらさないとすれば、それを是正する方法はあるのでしょうか。保険サービスを例に取ると、逆選択に関して、売手の方が情報量が多い場合は、第三者機関が審査・検定を行ない、買い手に対して財やサービスの品質を保証する方法が考えられます。保険業界に伝統的に適用されてきた約款規制は、このような視点からは支持されるでしょうが、近代の規制緩和の流れには逆行することになります。

 他方、買手の情報量が多い場合には、個人ではなく、企業やサークルなどの団体単位で保険への加入を促す方法があります。個人を中心に加入者を募集すると、早死にする確率の高い人が申請する可能性が高くなりますが、ある程度以上の規模を持つ企業やサークルに、病気がちな人ばかりが集まっているケースは極めて特殊です。全体の危険度は平均的な水準に落ち着くと予想されるので、保険会社は団体加入を優遇することによって、逆選抜の問題を回避できます。

 これを更に発展させて、法律で加入を義務づけ、選抜そのものを双方に不可能にする「強制保険」も考えられます。医療保険や社会保障制度はその代表例ですし、自動車損害賠償保障法に基づく自賠責保険(共済)制度が、モータリゼーションに果たした役割は無視できないでしょう。

 これらの動きを経済学では、シグナリングとスクリーニングと呼んでいます。 signalingとは、前者のように、私的情報を保有している者が情報を持たない側に情報を開示するような行動をとることを言い、情報を持たない者が情報を持つ者に情報を開示させるように選別を行うことをscreeningと言います。

 これらの概念は、経済的な取引の対象となる情報、つまり「財貨としての情報」を分析する上ではある程度の有効性を示してきました。しかし、それ以外の情報、例えばフェイク・ニュースにも適用できるかとなると悲観的です。思想も市場で取引可能ではないかという「思想の自由市場論」は、日本の憲法学者の間でも人気がありますが、それを支えたいのであれば、「言論の自由を保ちつつ、フェイク・ニュースは排除する」新しい仕組みを考える必要がありそうです。

・品質表示の重要性と情報の経済学の限界

 実は、今回紹介した記述は、本連載第12回「品質保証と『情報の経済学』」(2018年1月9日投稿)と第13回「品質保証の制度的枠組み」(2018年1月26日投稿)で述べたことと一部重複しています。重複を厭わず記述したのは、情報法における「品質表示の重要性」がそれだけ高い、と理解していただければ幸いです。

 なお、この点に世間の関心を引き付けたという限りでは、経済学の貢献は高く評価されるべきですが、少なくとも今日現在での「情報の経済学」は、より広義の「取引費用」の経済学の一部ではあっても、「財としての情報」の経済学ではないように思えます。この点についても、上記2回分の記述をお読みください。