古藤「自然農10年」(9)

空が輝き、壱岐が見えた元日の「奇跡」

 穏やかな快晴で明けた2020年、元日はゆっくり起きて屠蘇と雑煮。賀状を買ってもいなかったのでお昼過ぎ、窓口が開いているはずの前原郵便局へ出かけた。妻の運転で唐津街道へ。その国道202号を20分余走った糸島市の中心部に本局がある。しばらく走ると妻が大声を出し始めた。空の色がとんでもなく青く澄み渡っているという。

 屠蘇酔い気分で頭を上げると、フロントガラス越しに異次元の様に透明感のある景色が広がった。遠い山の木一本一本がくっきりと見え、畑の麦、野菜、草原の緑色はしたたるように光っていた。

 糸島は西に唐津湾、東に博多湾を抱いて玄界灘に突き出た半島である。2013文字の漢字で記録された魏志倭人伝は古代から壱岐、対馬と島伝いに中国と行き来した伊都国を最多数の113文字で特筆している(森浩一『倭人伝を読みなおす』)。むかし大陸文化の玄関口だった糸島半島はいま、中国の大気汚染が海を越えていち早く流れ着く所となった。

 山は年中、霞がかかったようにぼやけ、人家も電線もない自然に囲まれた私の棚田も、年中、靄の中にある。ところが元日、その空のベールがとれ、すべてが澄み渡って間近に見えた。飛来するPM2.5は正月休みになったのか。

 郵便局は開いていなかった。興奮気味の妻は海へドライブしようという。玄界灘が見渡せる海岸へはさらに20分近くかかる。新年の北岸道路はサーフィンに興じる人や若いカップル、グループでにぎわっていた。車を止めて美しい海と水平線に目をやると、視界の西側に横たわる島影がはっきりと見え、それが壱岐であるとすぐに分かった。糸島に住み始めて10年余、こんな近さで壱岐が見えるのかと初めて知った。

 後日、福岡管区気象台に聞くと、元日の視程は30キロ、雲ほぼゼロ。糸島から35キロ以上離れた壱岐が見えた話をすると、職員は「視程は福岡市中央区からの視認です。海ではもっと見えたかもしれません」という。福岡のふだんの視程は良くて20キロ、10から15キロが多い。翌2日朝はその20キロに戻り、午後には15キロに下がったと教えてくれた。

 同じ正月、地球温暖化論はうそ、化石燃料の消費やCO2の影響というのは間違いで、地球は寒冷化に向かっているという主張に2度出会う。どちらも生真面目でよく勉強する人のメールと話だったから驚いた。県立図書館まで出かけて地球温暖化をキーワードに検索すると、国内の専門家を名乗る人たちが「騙されるな」「暴走」「狂騒曲」といったタイトルの著書で、地球温暖化のCO2原因論をさかんに非難していた。

 産業革命の前、大気中の二酸化炭素の濃度は275PPMだったが、化石燃料の使用で急カーブに上昇し、現在は400PPMを超えている。その結果、過去に例を見ない気温上昇が起こり、地球規模の異常な気候変動を引き起こしていると警告するのが地球温暖化論だ。

 しかし反対論者は、地球の大気の99%は窒素と酸素が占め、CO2の占める体積はわずか0.04%、毎年増えているといってもCO2が1~1.4PPM程度増えるに過ぎず、慌てふためく必要はないと主張している。太陽光線の強さなど他に原因がある、小氷期から回復している過程、近いうちに寒冷化する説まである。

 今年は、気候変動を抑制するため、京都議定書(1997年)を発展させたパリ協定で、参加各国が自ら定めた温室効果ガスの削減対策に取り組み始める最初の年である。しかし、トランプ米大統領は就任早々、協定の不公平を理由に離脱を表明、協定上それが可能になった昨年11月、正式に離脱を宣言した。彼も寒冷化説に乗っている。

 パリ協定は、国連の気象機関につながるIPCC(気候変動に関する政府間パネル)が科学的知見を集約した現状と予測報告書を根拠としている。その知見の一つを発表した米国の気象科学者レイモンド・ブラッドレー(マサチューセッツ大学特別教授)は、米国議会の族議員から届けられた詰問状をきっかけに激しい攻撃にさらされた。

 2012年に翻訳出版された同教授の『地球温暖化バッシング―懐疑論を焚きつける正体』によれば、標的になったのは「最近数十年の気温上昇は過去1000年の歴史にない」という結論だった。共和党の政治家が学者の科学知見を攻撃する異様さは、経済的痛みを伴う温室効果ガスの排出規制に対する抵抗がいかに大きいかを物語る。

 私はこの10年余、田畑で温暖化が確実に進んでいると体で感じ、増え続ける化石燃料の消費と大気汚染を心から心配もしている。棚田は世界経済や地球温暖化と否応なくつながっているのだ。しかし、温暖化対策をめぐるこうした論争の真偽や攻防に切り込んだ新聞、テレビの報道に接したことは一度もない。

 キラキラ輝いた元日から20日、亡くなった山仲間をしのぶ山登りに高校の同窓5人で出かけた。山といっても母校の校歌にでてくる福岡市東区の400メートル足らずの立花山。風もなく陽光が降りそそぐ頂上から福岡市の街並み、背振山系と博多湾が一望されたが、すべてはすっぽりともやに包まれている(写真)。わが棚田のある方向、糸島富士ともよばれる可也山もやっとわかる程度におぼろげだった。

林「情報法」(55)

『知財の理論』を読んで

 暮れも押し迫ったころ、田村善之さんから新著の『知財の理論』(有斐閣)を贈呈いただき、年末始の長い休みを使って、全巻を通読することができました。私が著作権の考察を足掛かりにして、「情報法」へと対象を広げてきたことはしばしば述べましたが、ここへきて「原点回帰」の機会をいただいたような気がして、感謝しています。という訳で今回は、私にとっての原点は何だったのか、を自問自答します。

・知的財産は、なぜ財産なのか?

 私は33年間という長いビジネス経験を経て、1997年に56歳にして学者に転じました。「少年老い易く、学成り難し」ですから、ピンポイントで焦点を定めなければ、学者らしい成果は出せそうにありません。そこで考えたのは、ビジネス経験の延長上に研究テーマを絞ることと、それを補う最適な学問分野を選定することでした。その結果、幸い情報産業はまだ成長の余地があり学問の対象になり得ること、コンテンツに縁が薄かった私にも、著作権を勉強すれば付加価値をつけることができそうだ、という理解に達しました。

 そこで、著作権を中心に知的財産の研究を始めたのですが、法学部出身ながら独学で経済学を学んだ私がまず違和感を持ったのは、概説書のほとんどが知的財産の定義はするものの、なぜそうなるのかを説明してくれなかったことです。これは現在でも残っている疑問で、例えば知的財産基本法2条1項の定義は、それに応えてくれません。

この法律で「知的財産」とは、発明、考案、植物の新品種、意匠、著作物その他の人間の創造的活動により生み出されるもの(発見又は解明がされた自然の法則又は現象であって、産業上の利用可能性があるものを含む。)、商標、商号その他事業活動に用いられる商品又は役務を表示するもの及び営業秘密その他の事業活動に有用な技術上又は営業上の情報をいう。

 このような中にあって、田村さんの『著作権法』(現在は第2版、2001年、有斐閣)は、唯一といえるほど、私と問題意識を共有するものでした。同書は、所有権と著作権の違いはもとより、「隅田川の花火を見る権利が成り立つか」、「成り立つとすれば所有権以外を根拠にできるか」といった問題設定で、知財の法的性格とその限界を描いています。要は、知的財産というものは、それがなければ「ただ乗り」が横行して創作や発明による文化や技術の発展に支障があるから、インセンティブとして政策的に付与する権利だというのです。

 このような発想は、一時代前の著作権研究者の理解(自然権論といい、人格の発露である知的生産物そのものが保護に値すると説く)とは対照的で、経済学を先に学んでおり米国在住の経験もあった私には、「しっくり」くるものでした。そのころ、偶々ローレンス・レッシグと知り合う機会があり、田村さんも私もクリエイティブ・コモンズの動きに少なからぬ貢献をし、影響も受けました。しかし法学のみを根拠に著作権を論ずる人たち(こちらの方が数も多く「主流派」と思われます)は、こうした「亜流」の発想を受け入れる気はなかったようです。

・情報法アプローチと知的財産法政策学アプローチ

 このような発想の差は、「知的財産として保護すべき情報はどこまでか」をめぐって先鋭化します。主流派からすれば、「知的財産を保護することが経済を活性化させる」と信じたいところでしょうが、経済分析の結果がそれを支持するとは限りません。そういう場合もあるでしょうが、ある情報に排他権を与えると、次の創作や発明を制約する面があるので、経済を停滞させるかもしれないからです。

 この点は、「言論の自由」を重んずる憲法論において、著作権がどのように扱われてきたかを知ると、より理解が深まるでしょう。2005年に出した拙著『情報メディア法』で私は、上記のような「著作権の二面性」を指摘しましたが、これは憲法学者にある種の刺激になったようです。長谷部恭男さんのような権威者が、その後「憲法学者も著作権を学ぶべし」と説いてくれたほどで、今日では「言論の自由と著作権の関係」は、憲法研究のサブ・テーマに昇格した(?)ように思われます。

 さて、ここまでは田村さんと私はかなり近い位置に居たのですが、その後私は「著作権をモデルに情報法を構想する」方向に進み、田村さんは「法解釈論よりも、その立法過程の歪みなどを研究する」方向を志向したので、やや疎遠になりました。田村さんは、その方法論を「知的財産法政策学」と称し、ジャーナル(『知的財産法政策学研究』)の発行等を通じて精力的に自ら論陣を張り、また多くの寄稿者に最新の研究成果発表の機会を提供したことは、わが国の知的財産研究史において特筆すべき貢献であったと言えるでしょう。

 その方法論の基礎にある考えを私流に要約すれば、「法を、妥協の産物である法文の解釈論で語るだけでは、不十分である」「法制定の過程で、権利者は団体を作ってロビーイングするので、その声は反映されやすいが、利用者は多数であるが分散しているので、その利害はまとまらず反映されにくい」「しかしインターネットが開いた道は、誰もが利用者でもあり創作者にもなれる世界なので、上記のバイアスは修正されるべきである」といった視点になると思われます。

 このような新しいアプローチには、新しい方法論が必要になりますが、田村さんは私のように苦労し挫折する(実は、私が経済学を諦めて法学に回帰したのは、トランプの出現まで預言することはできませんでしたが、経済学の「効率性第一主義」の危うさを直感的に感じたからです)ことなく、各種方法論の「良いとこ取り」を楽々と達成しているようです。つまり、もともと知的財産法学者としての研鑽と実績を基礎に、「法と経済学」とわざわざ銘打たなくても、そのエクスを十分吸収し、更には行動経済学や経済心理学の知見を自在に活用しているのは、羨ましい限りです。わが国で「法政策学」を最初に掲げた平井宜夫氏と、これを批判する星野英一氏の間で、激しい論争が繰り広げられたことが嘘のように思われます。

 米国の有名ロー・スクールでは、これらの知識が会計や金融の知識などとともに、裁判でも有用とされているようですから(ハウエル・ジャクソン他著、神田秀樹・草野耕三訳『数理法学概論』有斐閣、2014年)、当然のこととも思われますが、私自身は上述の挫折の経験から、「若い人はいいな」という羨望を拭えません。

・客体としての知財+関係的権利?

 さて全体的な評価よりも、実質的に私が今後の研究のためのヒントを得た具体的ポイントを紹介しましょう。まず田村さんが、従来から拠って立つインセンティブ論を維持しつつ、自然権論にも補足的役割を付与して両者を統合したことが印象的でした。両説の対立があまりに先鋭であったためか、田村さんは従来インセンティブ論だけを強く支持してきました。しかし本書では、インセンティブ論だけでは説明できない部分に、自然権論による説明が有効な場合があることを示しています。この点は、私も異論ありません。

 第2点は、法学における伝統的な発想は、「主体と客体」二分論でした。知的財産を「客体」とし、それに対して権利を有する者(主体)を想定し、その「権利の内容」を考えるというアプローチです。この点に関して彼は、従来から「機能的知的財産法」を志向し、「知的財産という客体がまず存在する」という発想を排除してきました。私が見る限り「権利の内容」が先に決まるべきだ、という発想に近かったと思われます。

 本書において、その発想はいよいよ洗練され、「知的財産は客体に関する権利ではなく、人々の行動の自由を制約する仕組みである」という「自由統制型知的財産法」の考えが前面に出ています。実は私も、情報法の基礎には「情報は本来自由に流通すべきものであり、それに規律を加えるのは、知的財産・秘密情報・違法(有害)情報の3つのパターンに該当する場合に限る」という着想を得て、同様の議論を展開しています(『情報法のリーガル・マインド』特に、第2章)。

 しかし私は、なおそのような「法的規律の対象としての情報」という概念から抜けきれないでいます。これは「客体論」を払拭できないことと同じです。ただし、客体の存在を認めることと、その権利内容が一意に決まることとは同義ではないとして、「主体と客体の関係性」の中に、その解を求めようとしているのですが、まだまだ模索中です。

 これに対して田村さんは、法律は文字情報による人々の行動の規律ですから、私流の「規律の手段としての情報」、特にメタファーによる影響を受けやすいとして、「知的創作物」(「物とは有体物をいう」という民法85条の規定に引きずられて、自然に有体物アナロジーになる)といった定義には、注意が必要だとしています。そうすると、本来の知的財産法は「知的創作に伴う利用行為の規律に関する法律」とすべきことになるのでしょうか? そして、そうした「純粋の行為規律」としての制定法は、「主体・客体」を中心に形成されてきた、わが国の法制の中に「座り心地良く」定着するのでしょうか?

 私は田村さんの主張に共感する点が多く、「わが意を得たり」という感触もある中で、なお検討すべき点が多いようにも感ぜざるを得ません。それは、本連載第21回「主体と客体に関する情報法の特異性」や第25回「馬の法か、サイバー法か、情報法か」で述べたような分析を続けていけば、「関係性の法」として同じ目的を達成できるのではないか、という淡い期待があるからです。私が10歳若ければ、田村さんと競い合うのですが、残念です。

 と言いつつも第3点として、田村さん自身がmuddling through(田村さんは「漸進的試行錯誤」と訳していますが、私は「難局を何とか切り抜ける」ではどうかと思っています)が不可避としていることに、学者としての良心を感じました。この分野はまだまだ「未開の荒野」であり、多くの参入者を得て開拓を進める余地があると信じています。

 なお最後に、一言だけお詫びを。実は田村さんのこの論文集は、過去に単独論文として発表済みのものをまとめたもので、多くは前述の『知的財産法政策学研究』が初出です。このジャーナルをいただいていながら、初出時に読み飛ばすか、積読したおいた怠惰をお許しください。なお田村さんご本人には、お礼とともに怠惰を直接お詫びしました。

古藤「自然農10年」(8)

川口さんの軌跡②今もすそ野を広げる川口自然農

 夜ひそかに乗船し国禁のアメリカ密航を願う侍にペリーは幕府との手前すげなくノーと断ったが、身なり貧しい青年の気迫と品格にこの国の未来は明るいと書き残した。その人、吉田松陰は5年後に獄死したが、彼の遺言が維新を動かしたとも言えるだろう。その彼が至高の精神としたのが千万人にひるまぬ「浩然の気」、そしてその反対の最もダメな精神が獄中の「講孟箚記(さっき)」にある「耘(くさぎ)らざる者」、田植え後に草取りをしない者である。

 田畑の草を放置するのはそれほど恥、怠惰の象徴であり、今も農業者の心に深く残る。耕さないだけでも白い目で見られるのに農薬、肥料を使わず、農業機械をも捨てる自然農、まして草まみれに見える田畑が周囲からいかに異様な目で見られたかは想像を超える。

 妻の病を治すため現代医学と手を切り、現代農業とも決別、自然の道を歩み始めた川口さんだったが、ことはそうすんなりとは運ばなかった。暗中模索しながら福岡方式を手掛かりに7反の田畑をすべて自然農に切り替えたのは、「谷底」の翌年1978年(昭和53年)の暮れ近く、すでに39歳になっていた。

 翌年の稲作からすべて自然農。しかし最初の年、米の実りを手にすることはまったく出来なかった。翌年も、また翌年も米は育たない。最初の1年は保存米で食いつないだが、それからは乏しい資産、田畑を売るしかない。集落農家からの容赦ない苦情がさらに追い打ちをかけた。

 田んぼが畑と異なるのは、それが水利権とセットになっているからである。田んぼは村共同体の要でもある。1軒だけが一斉散布の農薬を断り、草を生やして虫を増やせば文句を言われるのは避けられない。

 川口さんが今も貫く鉄則は異なる意見と絶対に論争しないことである。正しいと思う道を自ら歩むことに徹する。集落の人たちにもひたすら頭を下げて謝り通した。そんな彼にとって最もつらかったのは老母の哀願だったのではないか。米が実らぬことより周囲からまったく孤立することに耐えられない母親の涙にも黙って耐えた。種類も多く、育て方も様々に異なる野菜すべてが普通に育つまでには10年の歳月が必要だった。

 その間の苦労を彼が語ることはほとんどない。自然農を集大成した2014年(平成24年)の著作『自然農にいのち宿りて』(創森社)には4ページにわたる詳細な年表が添えられているが、自然農に切り替えてからの10年間は空白である。

・息づく漢方を学ぶまなざし

 その田畑は次第に世間の注目を集めるようになり、増え続ける見学者に日にちを決めた見学会、さらに熱心な人のための宿泊勉強会を開く「自然農学びの場」も誕生した。川口さんが自然農の取り組みすべてを語り、教え始める1988年(昭和63年)からやっと年表の記載が再開される。

 そんな見学者の一人が県境のすぐ外にある広い休耕田を提供してくれることになり、1991年(平成3年)、川口自然農の中心拠点ともいえる赤目自然農塾が開かれ、自然農の実践者が全国から集まる1泊2日の集会も毎年開かれるようになった。赤目自然農塾はその後、周辺の休耕地を借り増ししてさらに広がったが、田畑を分け合って自然農を学ぶ参加者はスタート時で約200人、スタッフは50人だった。

糸島で自然農を教え始めた川口さん
(後列左から4人目、その右隣りが松尾靖子さん)

 地元だけでなく請われれば全国どこへでも出かけ、集まる人に自然農の考え方と実技を惜しみなく教える川口さん。松尾靖子さんたちの頼みで春と秋の年2回、糸島に出かけ、私にもつながる福岡自然農塾が始められたのは赤目が開かれた翌年である。そのころ、現代医療に見放され川口さんの元へやって来る人が年々増え、数十人になっていた。

 川口さんは妻の病気、自分の体や子どもの病いを治すために漢方の処方をするようになったが、その彼を頼って人びとが次々と相談を求めてやって来る。医者ではないから治療は出来ない。しかし、「それならともに漢方を学びいっしょに体を治す勉強をしましょう」と漢方勉強会が始まった。

 普通の医療でも医師と患者の信頼は欠かせない。人はそれぞれ異なる命の強さや体質を持つ。その日々変化する脈や形、色、におい、人が発するすべての状態を判断して薬草を調合する漢方処方は、相談であっても病を持つ人との信頼、協力が格別に大事である。川口さんが相談を受ける人は多い時には同時に60人から70人にものぼった。自然農の話の休憩時間に公衆電話で患者さんと会話を交わす川口さんの姿もしばしば見られたという。

 種もみを直播する福岡方式ではうまくいかず、苗床で苗を育てて1本ずつ植える田植え方式にたどり着くのに3年かかった。川口自然農は、習った年から初心者もコメの豊作が可能だし、野菜もすぐにうまく育てられるようになる。それが、今なお全国に広がり続ける理由である。同時にコインの両面の様に、漢方を勉強するまなざしで命の営みを深く観察するから、今も深化を続けている。

 他の自然農とまったく異なる川口自然農がここにある。

 

新サイバー閑話(39)謹賀新年

あけましておめでとうございます。

 正月5日に「男はつらいよ お帰り寅さん」を見てきました。平日とはいえ、劇場は高齢者でほぼ満席、パンフレットを買おうとしたら、売り切れでした。

 記念の50作目は寅さんの甥の満男とかつての恋人、泉が再開する3日間の出来事からなっており、その間にかつてのマドンナたちやいくつかの名シーンが織り込まれ、懐かしくもあり、楽しくもありました。マドンナではリリーを演じた浅丘ルリ子だけが登場しています。

 私は公開された49作は全部見ています。昨年夏、本サイバー閑話<平成とITと私>で『ASAHIパソコン』創刊をめぐる思い出を記録するため古い書類を整理していたら、まだ新聞社の整理部時代(1970年代中ごろ)に書いた、忘年会用寸劇のシナリオが出てきました。地元の大学の女子大生に助演を頼み、参加者に寅さん役を演じてもらったのですが、セピア色した用紙の手書き文字を見ていると、「当時、こんなことをしていたのか」と懐かしくなりました(登役は幹事がつとめた)。

 新年のご挨拶代わりに、そのシナリオを仮名遣いもそのままに復刻して、ここに紹介しておきます。まさにご笑覧ください。

男はつらいよ

西部整理部忘年会脚本復刻

 物のはじまりが一ならば、国のはじまりが大和の国、島のはじまりが淡路島。泥棒のはじまりが五右衛門なら、博奕打ちのはじまりが熊坂長範。ねえ兄さんは、寄ってらっしゃいの吉原のカブ。産で死んだか三島のおせん。四谷からこうじ町、ちゃらちゃら流れるお茶の水、粋な姐さん立ち小便……

寅次郎 どうぞ近くによって見てやって下さい。結構毛だらけ猫灰だらけ、これまた結構な××新聞だよ。

女学生A トラさん、いつから新聞売りはじめたの。

寅次郎 今は情報化社会。地道に勉強しないと時勢に遅れるからね。(観衆に向って)やあ、××新聞の労働者諸君、ごくろうさん。あぶらと汗とインクにまみれて、一生懸命働いているかい。そう、赤えんぴつ握って、めしも食わずに訂正出して……。考えてみれば君たちも貧しい人たちだなあ。

女学生B そんなこと言うもんじゃないわ、トラさん。ではあなたは一体何階級の人なの。

寅次郎 そうだなあ、まあ中流じゃないの。

女学生B 中流ってのは、カラーテレビとか、ステレオとか持っていないとだめなの。あなたが持ってるのは四角いトランクだけじゃないの。

女学生A 物を持っているから偉いという考えはちょっとおかしいわ。大きな屋敷で鯉飼っててもくだらない人はいるのよ。財産がない人にこそ本当に立派な人がいるものよ。

寅次郎 いいこというねえ、学生さん。たいしたもんだよ、カエルのションベン。今のこと、何という本に出てるの?

女学生A トラさんはカラーテレビやステレオは持ってないけど、そのかわり、誰にも負けない、すばらしいものを持ってるわ。

寅次郎 えっ、何だって。俺のカバンあけて見たのか。

女学生A 形のあるものじゃないわ。

寅次郎 屁みたいなものか。

女学生A 違うわよ。つまり愛よ。人を愛する気持ちよ。

女学生B そんな高級なものを持っているとしたら、トラさん、さしずめ上流階級ね。

寅次郎 上流階級? 俺が? 気がつかなかったなあ。上流階級ねえ、この僕が……。では、今夜はこの辺でお開きにするか。

<カネの音>

寅次郎 鐘の音か。貧しい人びとがやすらかに眠りにつくんだろうなあ。

(おしまい)

 

 

 

林「情報法」(54)

A型企業とJ型企業(その2)

 前回に続いて、日本企業の特質を「現場で即応すべき情報に対して自律的権限を認める一方、人事管理を集中処理する」点に求める、故青木昌彦の理論を紹介します。これは西欧諸国特に米国に典型的な企業運営方法である「人事は分散処理だが、情報は集中処理」というタイプ(A型企業)とは違った、日本企業(J型企業)の特徴であるというのが、青木の主張ですが、それは今日でも有効でしょうか?

・NTTアメリカ社長としての私の経験

 私は1992年にNTTの100%子会社であるNTTアメリカ(ニューヨーク州法人)の社長に任命され、ニューヨーク市に赴任しました。シリコン・バレーにもオフィスがあったし、その後重要性を増したのですが、当時の最大の任務は日米貿易摩擦解消の一環として、NTTの調達を「内外無差別」にすることでした。平たく言えば、米国政府から非関税障壁などの不公正取引の嫌疑で睨まれないことだったので、政府機関のあるワシントンD.C. に近い必要があったのです。

 当時はまだバブルの余韻も残っていて日本企業の鼻息は荒く、米国企業から学ぶものは吸収し尽くしたので、米国子会社であっても経営の面で特段変わるところはないだろうと高をくくっていました。しかし着任早々、その考えは甘いことを知りました。驚きは2つに分かれます。

 1つは、社員を現地採用する際にjob descriptionがいかに大切か、しかもそれはワーカー・クラスの採用にとどまらず、将来重要なポストを任せようとするオフィサー(執行役)候補者についても必要なことを、教えられたことです。当時の日本企業は(現在でもその傾向はかなり残されていますが)、可塑性に富んだ優秀な若手を終身雇用の前提で採用し、いろいろな仕事を任せながら能力と適性を見極めていく、という人事制度を採っていました。私もそのプロセスを経る、いわゆる「本社採用組」でしたので、準幹部候補生にもjob descriptionが必要という事態に戸惑ったものです。

 もう1つの驚きは更に大きく、「米国企業は70年代の最悪期を脱し、80年代に製造業の生産性を回復させた上、新分野であるIT産業を発展させている。しかも、それをすべての産業の生産性向上に活用しつつある」という現状認識に至りました。これは「米国から学ぶべきものはない」という甘い認識を一転させるもので、何としても日本側に伝える必要があると考え、それなりの努力をしたのですが(「ITS資本主義による米国の優位」『季刊アスティオン1995 Spring』TBSブリタニカ」、「情報エコノミーに適応した新しい米国方式」『世界』1998年7月号などの論稿を参照)、力及ばず、日本経済がその後の「失われた30年」に陥落していったのは、悔やんでも悔み切れません。

 当時の米国企業の経営者は、日本に負けた製造業の生産性競争で盛り返すだけでなく、インターネットなどITの活用によってホワイトカラーの生産性で日本を引き離すことができると、直感的に信じたものと思われます。彼らにとって追い風だったのは、日本バッシングの風潮があったことに加えて、従業員を解雇するのが制度的に容易であるばかりか、それで業績が上がれば経営者には「巨額の報酬と名声」が約束されていたことかと思われます。

・90年代前半に委員会設置会社の役員に

 という訳で、日米企業の発想の違いを実感したつもりでいたのですが、1994年にNTT本社がNextelという新興企業に出資したのを機に、同社(NASDAQ上場の委員会設置会社、デラウェア法人)の8人の取締役の1人に加わったところ、日米のガバナンス構造に決定的ともいえる差があることを改めて認識させられました。当時日本には委員会設置会社はなかったと思われるので、私が稀有の体験で戸惑ったのも無理はないでしょう。

 この会社は、全米各地でタクシー無線などを運営している小規模の無線会社を買収して、全国ネットワークを構築しようというユニークな作戦を採っていました。取締役は創業者が2人、最大の出資者だったComcast(現在では全米最大のCATV会社)から2人、買収された会社の社長経験者が2人、松下通信とNTTという出資者から各1人という構成で、全員が指名・監査・報酬の3委員会のいずれかに属します。私は報酬委員になり、同社のofficerかその候補者以上に対するストック・オプションの制度を作ったことを、懐かしく思い出します(私自身にもオプションの権利があったのですが、行使しませんでした。その裏話をするとおもしろいのですが、脇道に逸れるので別途にします)。

 委員会設置会社は、わが国にも2002年の商法改正で導入され、2005年の会社法に取り込まれましたが、採用しているのは日産やソニーなど、グローバル展開を積極的に実施している企業に限られるようです。その理由は、委員会設置会社とそうでない会社の間で、取締役の役割が180度違ってくるからです。委員会設置会社の取締役は先のNextelの例にあるように、業務執行をしない者がほとんどであり、仮に監査委員にならないにしても、主たる任務は業務執行の監督ですから、旧来の日本企業の常識からすれば監査役相当になります。

 一方、わが国には世界に稀な監査役の制度があり、その機能に期待して組織を設計すれば、取締役は自ら執行業務に携わるプレイイング・マネジャーになります。もちろん、一部取締役は外部から来る「独立取締役」の場合もありますが、それは例外と考えられます。最近は欧米流のcorporate governanceが優勢とはいえ、完全な欧米型には抵抗があり、2014年に導入された監査等委員会設置会社は、両者を折衷するものとして採用が増えています。もっとも、いずれの場合も外部取締役が必要で、候補者の奪い合いが顕著なようです。

 つまり、日本企業では取締役は経営者であり、大株主のご機嫌を損ねなければ大きな裁量権を持っている。一般株主の権利は弱く、株主総会での発言の機会は少なく、経営状況に不満なら株を売るのが手っ取り早い(Hirschman [1970] “Exit, Voice, and Loyalty” Harvard Univ. Pressの軽妙な譬えによれば、voiceではなくexitが優先)。M&A(Merger & Acquisition)により会社が売買の対象になることは稀で、その場合でさえ解雇は例外とされており、労働者保護が厚いといった特徴を持っていると考えられます。

 これに対して、米国企業での取締役は監査役に近く、Principalである株主(voice型の「モノ言う株主」が大部分)に代わってAgentである経営者のパフォーマンスをチェックし、結果が芳しくなければ交代させる。また株主価値最大化のためならM&Aも考える。従って執行役を兼務する取締役は稀で、ほとんどが外部取締役で占められる。取締役の採用には、独自の外部労働市場があり、人事委員会は市場からふさわしい経営者を選任するといった具合に、前回紹介したエージェンシー理論を教科書通りに運用しているように見えました。

・A型企業とJ型企業

 このような経験をした後に帰国して学者に転じた私は、自身が慣れ親しんできた「日本的経営」とは何だったのか、それに対してNextelで得た経験は何だったのか、学問的な説明はできるのか、に関心を持ち続けていました。以前から付き合いのあった伊丹敬之の、日本的経営を「資本主義」(資本を中心に組織化される)ではなく「人本主義」(従業員を中心に組織化される)だと捉える考え方は、ユニークさに惹かれつつも日米をあまりに対比的に見る点で、得心するには至りませんでした。

 そこへ青木昌彦の業績を知り、また当の著者とも面識を得る機会があったことから、日米の企業経営の差を「A型企業とJ型企業」と類型化する考えに、深い感銘を受けました。

 青木の考えは、なお若干の「ゆらぎ」を持っていたように見えますが、『日本企業の組織と情報』で見る限り、以下のように要約することが許されるかと思います。

 ますA型企業の特徴として、以下の3点を摘出します(p.29 の記述を私流に再編集)

① 組織は明確に定義された「専門的」機能のもとに結集している
② 組織内の構成単位は、報告を受けるべき唯一の上司を持ち、2以上の構成単位間の調整は、彼らに共通の上司を経由してのみなされる、
③ すべての構成単位に対する上司である唯一の中央機関が存在する。

 これは私が経験した米国企業(A型企業)の組織上の特徴を簡潔に説明したもので、J型企業の特徴は、正反対のものと考えれば間違いないでしょう。

 その上で、こうした基本構造が企業経営にどのように反映されるかを考えるため、人材(従業員 = P)と情報(経営全体ではなく、現場レベルの意思決定 = I)という2つの経営資源の活用方法に関して、それぞれ中央集権的な管理(C)と分散的な管理(D)を想定し、どの組み合わせがA型企業とJ型企業にフィットするかを考察します。すると理論的にはCP、DPとCI、DIをどのように組み合わせても良いはずで、4通りの組み合わせがあるにもかかわらず、「西洋、とくにアメリカの事業組織(A企業)は、どちらかというと組織モードのスペクトラムのCI-DP側の方向に傾斜しており、他方、DI-CPの組合せは日本の事業組織により顕著である」(同上書p.118)というのです。

 確かに経営の意思決定とは別に、現場で起きた事故対策のようなオペレーショナルな意思決定の場合、A型企業では「必ず上司の指示を仰げ」というマニュアルに従わないと叱られる(情報の集中管理)のに対して、J型企業ではライン全体を止めるという大決断さえ現場の判断に任されているといいますから、情報管理が自律・分権的です。

 それではJ型企業で、会社全体のヒエラルキーをどう保っているかといえば、人事管理を一元化していて、どの社員にどの程度の権限を任せられるかを、社内資格を基準に標準化しているからだとされます。つまり人材を全社的に集中管理しており、これは事業部単位で採用・昇進を決めるA型企業と対照的です。

 このように青木理論は私の現場感覚にぴったりだったのですが、実は理論的にも、効率的であるのは、この組み合わせだけで、他のCI-CPとDI-DPは非効率になるというのです。つまり「組織的に有効であるためには、雇用契約は情報側面とインセンティブの側面において、双対的に分散化と集中化を結合する必要がある。この要請を満たす2つのパターンがCI-DPのA型と、DI-CPのJ型である」(p.149の第1双対原理を私流に読み替え)というのが青木理論のエッセンスです。

・青木の分析のその後

 このような理論の含意は何でしょうか? 青木とともにスタンフォード大学と縁が深かった故林敏彦が、書評で次のように述べているのは、核心をついています(『経済研究』42巻1号、1991年)。

 企業組織にとって最も重要なことは、個別要素を組織化するによって要素価値の単純和を超えるレントを生み出すことであり、その組織レントの分配は、経営者が仲介する株主と従業員との間の協力ゲームの解として、利潤と従業員福利に加重された目的関数を最大化するように行われる。こうして著者は、株主利益(株価)の最大化を目指す新古典派的企業と労働者一人当たりの付加価値を最大化する労働者自主管理企業の中間的存在として日本企業を位置づけ、企業に参加する資本の提供者、経営者、従業員の3者の間の協力ゲームの安定的均衡としてその企業行動を理解しようとする。

 これは当時の日本企業の内部分析として出色と思われましたが、その後の変化で色あせてしまったのは、残念なことです。その原因は、どこにあるのでしょうか? 著者が亡くなったため、日本企業のパフォーマンスが落ちたため、インターネットが経済のルールを変えたため、あるいはソ連の崩壊によって純粋の「資本主義」が優位に立ったため? 学問には終わりがないようです。

古藤「自然農10年」(7)

川口さんの軌跡①漢方を独学し、妻子を救う

 父親が早く死に、長男として懸命に働いて婚期も遅れ、36歳で結婚できたとする。新妻はその年に身ごもったが、同時に子宮筋腫と診断され、子宮を摘出しなければ子どもどころか妻の命も危ないと医師に宣告されたら、あなたはどんな選択をするだろうか。

 いま自然農を世に広める川口由一さんも元は普通の農家。その彼がどうしようもない窮地に立たされたのは、農薬、化学肥料を多用する田畑を耕し続けて20年目。農薬で自分の体も壊れ、病院通いに希望を失った末にたどり着いた鍼灸治療に、腫れて水が溜まる体を預けているときだった。

 先ずは妻子を守らねばならない。いくつも病院を変えたが、摘出手術しない限り奥さんは死にますよと医者が口をそろえた。現代医学に見放されたような妻と自分。その「何とも言えない、谷底に落ちたような」絶望から、川口さんは普通の農業とも現代医学とも離れる人生を歩み始めことになったのである。

 川口家は代々の小作農で農地解放の戦後も7反の田畑で暮らしていた。年の瀬まぢかな寒いある晩、山仕事から帰った父親は風呂で心臓発作を起こしあっけなく死んだ。働き通しの体が限界を超えていたのだろう。由一少年はまだ小学6年生。祖母と彼を頭に子ども5人の暮らしが39歳の母親ひとりの肩にかかった。そして川口少年は中学校を卒業するとすぐ一家の柱として農業を継いだ。

 川口さんが唯一の楽しみにしたのが美術で、絵画教室の縁で結婚したのは1976年(昭和51年)。有吉佐和子の小説「複合汚染」が朝日新聞に連載され、福岡正信『自然農・わら一本の革命』が出版された翌年である。農薬の怖さと自然農を知った川口さんが、自然農こそ自分が進む道との思いを募らせていた時に「谷底」に突き落とされた。

 頼ったのは自分の体を預ける鍼灸師だった。何とか妻を治してほしいと懇願する川口さんに鍼灸師が返した言葉は「未熟な自分に治す力はありません。しかし、いま勉強を続けている漢方にはその病を治す力が間違いなくあります」という助言だった。

 そうか、それなら自分でやるしかない。愛媛県伊予市の自然農先駆者、福岡正信氏の方式を手掛かりに自然農を模索しながら、漢方の本を買い集めて独学する川口さんの猛烈な人生が始まった。

 といっても、漢方は卑弥呼の時代の少し前、中国後漢の官僚で医師であった張仲景がそれまでの医学書を集大成した医書を原典とする。元は漢字だけの白文だから素人に歯が立つものではない。江戸時代から現在に至る漢方医たちの解説書で何とかたどるのが精いっぱいだった。

・最善を尽くせば助けてもらえる

 その解説書を手あたり次第に読み進む中で川口さんの心に湧き起こったのが「子宮の摘出手術はしない。なんとかなる」という決意だった。妻の体とそのお腹の子、自然農の田畑で見守るいのち、それら全ては大いなる自然の巡りに生かされており、その力がすべてを助けてくれているという強い覚醒だったという。「どうしたら何とかなるかは分からない。しかし、何とかなる。最善を尽くせば助けてもらえる」。

 その結果、年老いた助産婦さんの老練の助けがあったにせよ、川口さんは医者が口をそろえて警告した大出血をまぬがれて母体を守り、無事に長女を得た。お産後、妻の筋腫はさらに大きくなったが、川口さんの懸命の漢方処方で3年目には子宮筋腫もきれいに消えた。

 その後、長男と次男も生まれ、3人の子どもはみな結婚、いまは孫が2人、あわせて10人の家族である。

 「なんの知識も技量もなく、根拠もまるでないのに何故そんな決断ができたか、不思議ですねえ…」。2か月ごとに開き65回目になった2019年11月の奈良漢方勉強会で川口さんは、人ごとのように語った。「奥さんも、そんな命にかかわる選択をどうして受け入れたのでしょうか」と尋ねられ、「妻は痛い手術を受けるのがいやだったのかなあ。私の決心の強さを信頼してくれたんですかねえ」と目を宙に浮かせながら答えた。

  こうして妻の窮地は脱したが、農薬で普通の農業には耐えられなくなった自分の体を治し、自然農を完成させるには、さらに険しい道が続く。「何とかなる」というより、「何とかする」という力強い思いに支えられてのことだった。(冒頭の写真は川口自然農を紹介する最新版の本)