古藤「自然農10年」(10)

2家族にドラマチックな暮らしを聞く

 天文学的数字とはもっぱら宇宙の数字と思っていたが、足元にもそのような数字の世界があるそうだ。地球に住む微生物の総数は10の30乗とされ1の後に0が30個つく。1京が10の16乗だから想像を絶する数字だ。その種類は、森林土壌1g中の存在数から控えめに見積もっても地球に10億種が存在し、そのうち人類が正確に把握している種は0.0005%に過ぎないという。(札幌・産業技術研究所 鎌形洋一氏)

 中国の武漢で始まった肺炎の集団感染が新型コロナウイルスによるものと分かった日(2020年1月9日 新華社通信)から大騒動が続いているのも未知への恐怖心がベースにあるからだろう。細菌、ウイルスなどこれらの微生物に含まれる炭素量は地球上の全植物が取り込み固定している炭素量にほぼ匹敵しているそうだから、地球の気候環境にも深くつながっている。

 川口由一さんが耕さない農業へ転換したのは、耕さない田畑の方が豊かなことに気づいたからである。彼が微生物の天文学的数字に言及したことはないし、多分そこまでは知らなかっただろう。慧眼というほかはない。気候変動を防ぐという点でも自然農は最も進んだ農法といえる。

 この1月、糸島で開かれた福岡自然農塾で自然農を実践する2家族に「その暮らしと生き方」を聞く機会があった。ともにドラマチックな人生の軌跡だった。

石黒夫妻(右側のふたり)と中村夫妻

・電気、ガス、水道のない30年

 風の盆で知られる富山市八尾の棚田と山林に囲まれた一軒家で暮らす石黒完二さん(63)は、その師を超える自然農に徹した暮らしをしている。石黒家は電気、ガス、電話も水道もない。自然農だけの暮らしを30年続ける。本やウエッブでも紹介されることの多い自然農の有名人だ。

 ランプの灯りと薪ストーブだけの調理、シャワーがない五右衛門風呂にたらいを持ち込んで洗濯する生活を妻の文子さん(61)が紹介した。息子4人と娘1人の義務教育も自給自足で、両親が先生になった。小中学校はそれを認めて無償の教材と卒業証書を届けている。

 長男は漁師、次男は大工、今年20歳の末っ子はゴルフ場勤務とみんな大好きな道に進み、自分たちより上手な社会人ぶりに両親は安心している。厳冬は雪に埋まる暮らしだったが、家族が力を合わせて自給自足を分担、いっしょに学び遊んだ日常は苦労より楽しい記憶ばかりが残ると話した。

 完二さんは長身で筋肉質、自信満々に響く声は大きく、口元には黒いひげ。妻の倍の1時間余を費やして彼が語ったのは30年たっても師から諭された「絶対界に立つ大安心の境地」になかなか立てきれないという内省の言葉ばかり、自慢話は一つもなかった。

 狭い庭の虫や自然だけを眺めて命と宇宙を描ききったとされる画家、熊谷守一のように、川口さんも自然農で野菜や人の命を見つめ続け、そこで得た宇宙観から自然の営みに寄り添って暮らす自然農の生き方を説いた。

 私たちが認識する宇宙、森羅万象は自然の力によって生じた現象であり、大事なのはその奥にあるすべての現象と命を存在させ巡らせている力、その宇宙本体、本源を体感する絶対界の境地に立つことである。そうすれば、個々別々でありながらすべての命が一体でつながり、自分がいかに大事な存在であるかを確信する安心の境地に立てる。それが川口自然農の教える生き方と宇宙観、「絶対界に立つ境地」である。

 石黒さんは大阪のサラリーマン暮しに飽き足らず、有機農業を目指して愛知に住む文子さんに巡り合い、川口さんの田畑に感動して今に至るが、川口さんの宇宙観は完二さんにとって最初は外国語の様に聞こえた。頭では分かっているが、まだまだ体で納得できているわけではないと、会場でも話した。

・阪神淡路大震災が転機

 同じ学びの会に招かれた中村康博さん(61)も元はごく普通の会社員暮らし。妻の洋子さん(53)と西宮のマンション5階に住んでいた25年前、阪神淡路大震災に遭った。もろくも一瞬に崩れた都会暮らしに2人とも環境や生き方に関心を向けるようになった。震災から4年後、洋子さんに連れられて初めて赤目を訪れた康博さんだったが、川口さんの田畑に感動して熱中したのは彼の方だった。

 黙々と取り組む姿が信頼を得たのか2年でスタッフに加えられた。体調を崩して歩けない川口さんを車で運んでいたある日、赤目自然農塾の代表を自分に代わってほしいと突然に告げられて頭が真っ白になった。7年前のことである。

 「あのー」、「ええっと」、「自然農に出会って生き方に納得と安心感を得ました」。石黒さんより時間がかかる話し方で、毎月開く1泊2日の見学会を一人で主宰する大役を何とか頑張って自分も成長したい、そのために相手の話を聞くことに心をくだいていると語った。

 長女が生まれたのを機会に会社勤めもやめ、川口さんの田畑から遠くない棚田に移住して自給自足の暮らしである。だから石黒さん同様ほとんど無収入だが、中学生になった娘も加わって昨年は家族3人の稲刈りだったと喜ぶ。

 中村さんと石黒さんの周辺には彼らを慕って自然農の仲間たちが集まってくる。地上の命と同じように地中の微生物にも寄り添う2人だが、たとえ新型ウイルスに寄りつかれたとしても、うまく共存するだけで、絶対負けることがない人たちだ、と私は妙に確信している。

 なお福岡自然農塾にはウエブもある。興味のある方はのぞいてみてください。

 

 

新サイバー閑話(42)<よろずやっかい>⑧

日本社会特有のやっかい

 インターネットは世界同時に進行する情報革命だから、その影響もグローバルに現れるわけだが、やはりその国の従来の社会構造によって変化の態様は異なってくる。私はかつて「IT技術は日本人にとって『パンドラの箱』?」というタイトルで、インターネットが与える日本特有の影響について考えたことがある。そのとき念頭にあったのは、日本人とインターネットの相性は必ずしもよくないということだった。

 日本社会はインターネットによってどのように変化しつつあるのかを、日本社会をめぐる典型的な2つの見解、社会人類学者、中根千枝の「タテ社会」と、歴史学者、阿部謹也の「世間」を手がかりに考えてみよう。

 中根千枝は1967年に『タテ社会の人間関係:単一社会の理論』(講談社現代新書、初出は「日本的社会構造の発見」雑誌『中央公論』1964年5月号所収)を発表し、日本社会は欧米などとは違うタテ型の人間関係によって成り立っていると述べた。「世間」は古くからある言葉だが、阿部謹也は『「世間」とは何か』(1995、講談社現代新書)、『「世間」論序説』(1999、朝日選書)、『日本人の歴史意識』(2004、岩波新書)などの著作で「世間」がいかに日本人の行動を規定してきたかを論じた。

 本稿のテーマは、その後のインターネット発達によって日本社会はタテ型からヨコ型(ネットワーク型)にシフトしつつあるのか。「世間」はインターネットによってどのように変わったのか、あるいは変わらなかったのか。そして、それらの事情が日本社会にどのような影響を与えているのか、ということである。

 結論的に言えば、日本社会はインターネットがもたらす変革の波に真正面から向き合ってこなかったために根底から揺るがされ、①その過程で社会の長所は失われ、逆に短所は増幅されている、②しかも変革の時代に対応する新しい社会システムはいまだ生み出されておらず、日本社会はいよいよ混迷の度を深めている、ということである。<よろずやっかい>⑥の最後に「古い秩序が持っていた長所もまた消えていく」と書いたけれど、その根はきわめて深い。ここに「日本社会特有のやっかい」がある。

・「タテ型」はだらしなくゆるんでいる

 欧米では(アジアのインドなどでも)「資格」が問題とされるのに対して、日本では「場」が問題とされる――これがタテ社会論の骨子である。タテにつながる序列が重視される結果、日本企業の終身雇用制、年功序列賃金、家族ぐるみの労務政策、企業内組合などの特徴が生まれた。

 『タテ社会の人間関係』には「一体感によって養成される枠の強固さ、集団の孤立性は、同時に、枠の外にある同一資格者の間に溝をつくり、一方、枠の中にある資格の異なる者の間の距離をちぢめ、資格による同類集団の機能を麻痺させる役割をなす」、(年功序列制に関係して)「個人の集団成員との実際の接触の長さ自体が個人の社会的資本となっている……、その資本は他の集団に転用できないものであるから、集団をAからBに変わるということは、個人にとって非常な損失となる」という、ある程度年配の人なら(とくにタテ社会をヨコに生きようとした私の場合)身につまされる記述もある。

 この辺の事情は、当然のことながら、インターネットによって劇的とも言えるほどに変わった。いまや終身雇用制は崩れつつあり、転職する人は増え、ヘッドハンティングもめずらしくない。資格が重視されるようになった面もあり(資格取得が一種の流行ともなっている)、「枠」集団としての一族郎党、あるいは家の求心力は減退している。つい最近まで「社畜」だと揶揄されていた企業従業員も、いまでは非正規雇用が4割を占め、家族ぐるみの雇用形態はほとんど消えつつある。

 日本人を縛る「場」の力は明らかに弱まっている。転職すれば必ず給料が下がることもないし、上司が仕事帰りに部下を赤ちょうちんに誘う行為もときにパワハラであると非難される。会社主催の忘年会、新年会もだいぶ様子が変わってきた。

 日本社会がヨコ型にシフトしているのはたしかだが、問題は、タテ社会の絆が緩んだ割にはヨコ型の連携、あるいは競合が密になったようには思えないことである。タテ社会という基本構造(骨組みとしての枠)は残っているが、だらしなくゆるんで形骸化しつつある。その結果、組織のタガは緩み、働く人びとのアイデンティティは薄れがちである。

 内部はシロアリに食い尽くされながら外見は保っているマホガニーのドアのようで、一蹴りすれば一挙に崩れそうで、しかもなかなか崩れない。その間に食品の不当表示、製品の検査結果改竄などの企業不祥事が多発している。

 中根は、連帯性のない無数の大小の孤立集団を束ねるものとして中央集権的政治組織、いわゆる官僚機構に着目し、「日本社会における社会組織の貧困が政治組織の発達をもたらした」と述べているが、それを支える官僚たちの使命感はすっかり薄れ、省益と天下りと政権への忖度だけが幅を利かせている。タテ社会空洞化の象徴とも言えよう。

・「世間」という身の回りの世界

 日本社会の宙ぶらりんな現状は「世間」を通して、よりはっきり見えてくる。

 世間という言葉はもともと、移り変わる世をさす仏教用語だが、私たちの回りを取り囲むぼんやりとした集団として、万葉の昔から意識されていた。阿部謹也は「仕事や趣味や出身地や出身校などを通して関わっている、互いに顔見知りの人間関係」だと述べている。

 ひと昔風に言えば、地域の青年団だったり、学校共同体だったり、会社組織だったり、あるいは作家などの文壇だったり、企業内組合だったり、弁護士団体だったり……、私たちはいくつもの世間に取り囲まれて生活してきた。この世間という場がタテ社会を形づくってきたとも言えよう。

 個人(individual)も社会(society)も明治初年に外来語として輸入され、社会科(公民)教科書などでは、個人が集まって社会を構成するという西欧的な考えが教えられたけれど、それを教える教師も、教えられる生徒も、彼らの家族も、地域の人びとも、自分たちは世間を生きていると感じてきた。世間は学問の対象にならず、それゆえにかえって強い力を発揮した。

 世間の特徴の最たるものは、個人が存在しないこと、内と外を区別することである。身内にはやさしく、他人には冷たい(あるいはよそ者として無視する)。内と外に対しては異なった道徳が適用され、欧米流の個人は社会を作り、社会はどこまでも広がっていくという発想は育たなかった。世間は「差別の道徳」、内と外のダブルスタンダードである。また世間は生まれ落ちた時から身の回りにあり、したがってそれを変えるという発想も育たず、「長いものには巻かれろ」式の事大主義的発想が強かった。

 阿部は「日本人は一般的にいって、個人として自己の中に自分の行動について絶対的な基準や尺度をもっているわけではなく、他の人間との関係の中に基準をおいている。それが世間である」と言っている。

 中根の本に、日本の学者が海外で同僚研究者に言及されたとき「彼は私の後輩である」と言ったとかいうエピソードが紹介されているが、彼もまた世間の住人だったわけである。

 世間論が話題になった二十数年前、阿部謹也や佐藤直樹のような人が強調していたのは、戦後日本においても世間は衰えるどころかかえって強固になって、高度経済成長を支えてきたということだった。

 さて、インターネットと世間はどう関係しているのだろうか。

 若い人が世間を意識することはあまりないと思うが、それでも「世間の目」とか、「世間体が悪い」とか、「世間に対して申し訳ない」というような言い方は聞いているだろう。ここに世間が残っている。

・「世間」が「社会」への目を曇らす

 1対多の関係で個人が社会と向き合わざるを得ないIT社会は、日本人が個としての主体性を確立できるチャンスかもしれないと私は思ってきたが、期待は裏切られたようである。ここに世間が強い影を落としている。

 問題は、グローバルに開かれているはずのインターネット上にも世間は存在するということである。むしろ、しぶとく生き残っていると言った方がいい。世間は主として顔見知りの人びとからなる比較的小さな集団だから、「サイバー空間における世間」というのは理屈の上でも、規模から見ても矛盾だが、サイバー空間上でいびつに変容した「世間」がその良さを失うととともに、日本人の「社会」への関心を曇らせている、というのが私の見方である。<よろずやっかい>➆でふれた「サイバー空間の行動様式が現実世界に逆流する」傾向のために、これが現実世界にも無視できない影響を及ぼしている。

 Web2.0でブログが話題になったころ、日本の多くのブログは必ずしも社会に向かって何かを発言し、それについて意見を交換するという構えをとらず、むしろ仲間うちのおしゃべり道具として使われた。「眞鍋かをりのココだけの話」というタイトルが象徴的だが、井戸端会議の延長のように考えられたのである。また、はてなとかニフティとかいったIT企業が日本人のために用意したブログサイトには、ネット上に「共同住宅(世間)の心地よさ」を保証する工夫もほどこされていた。人びとは原則的には開かれた場所で情報発信しながら、ある程度隔離された仲間内の空間にいる幻想を与えられたと言っていい。

 若い人の場合、ブログが社会に開かれているという意識すら希薄だった。文章も第三者が読んでもチンプンカンプンの場合が多く、仲間(身内)に伝わりさえすればいいので、もともと第三者(他人、よそ者)に読んでもらおうと思っていない。

 それは、インターネットというメディアに対する無知、あるいは無関心に基づいていたが、当の本人たちはそれでいっこう差し支えなかった。もちろんブログの性格はさまざまで、堂々たる論陣を張ったり、自分の知見を惜しげもなく公開したりして、多くの人に読まれている質の高いブログもある。また、仲間うちのおしゃべりがいけないわけでもない。<よろずやっかい>⑤で紹介した梅田望夫の「日本のWebは残念」という感想は、「サイバー空間における世間」によってもたらされたと言えるだろう。

 この「開かれたインターネット」上の「閉ざされた空間」という矛盾(というか幻想)は、日本社会に何をもたらしたか。

 第1は、世間がいびつに変容する過程で、身内だけに限られていたとはいえ、それなりに機能を果たしていた内なる道徳も失われたことである。外からの闖入者に対してまともに対応しない。あるいは外から傍若無人に侵入する。そこでは「炎上」は起こっても対話は行われない(村八分的ないじめはなお猛威をふるっている)。

 世間の内と外を区別するダブルスタンダードはなし崩し的に溶融し、スタンダードなしという無法状態が出現している。タテ型の仲間内の道徳は消え、しかもヨコ型の普遍的倫理は生まれない。そこでは、道徳的な身のこなしそのものが消えている。

 そして第2が、より重要だと思われるが、サイバー空間上に居座る「世間」が、日本人から「社会」に向かう視点をますます奪っていることである。そのため、グローバルな社会を生きていくための行動基準が生まれない。かくして「何をやってもよい、何も禁止されていない」という「何でもあり」社会が出現し、「禁止事項が破られ、事実上無法状態」に陥っている。

 社会心理学者の山岸俊夫は1998年の時点で『信頼の構造』(東京大学出版会)を書き、日本人は世間の中で「安心」を調達するのではなく、グローバル化する社会を生き抜くための「信頼」を勝ち取る生き方に踏み出すべきだと説いた。彼は「世間」という言葉は使っていないが、論旨は、世間という集団主義的な社会に生きる日本人に世間からの脱却を促したものと言っていい。そのブースター(推進力)として彼が力説したのが「信頼」という行為である。

 その主張はこうである。

集団主義社会は安心を生み出すが信頼を破壊する。日本人は内部の人間関係に安心を見出しているが、外部の人間は他者として排除する(信頼しない)。
流動性が高まるこれからの社会においては、安心という消極的な態度ではなく、信頼(する)というより積極的な態度をとることが賢明な生き方になる。このような社会の変化に直面して、どうしたら集団の枠にとどまらない広い一般的信頼を人々の間に醸成することができるかを考えることは、現在の社会科学あるいは人間科学に与えられた重要な課題の1つである。

 彼は、他人を信頼するという行為が所属する集団を離れた新しい人間関係を築くのに役立つという「信頼の解き放ち理論」も提唱した。日本人らしさは日本社会を生き抜くための戦略だったに過ぎず(「日本人は集団主義的な心の持ち主であるというのは「神話」である」)、だから社会システムを変えれば日本人の行動スタイルも変えられるとも主張した。

 その社会システムを変えようとする発想が日本社会からなかなか生まれない。世間はしぶとく生き残っているとも、すでに溶融しつつありながら、残滓(残骸)がなお威力を発揮しているとも言えるだろう。

 なぜ安倍首相は身内(世間)本位の政治を強行しながら、その異常さをたしなめる声が周辺(家族、派閥、支持者など)から上がらないのか、国民はなぜそのような政権をいまだに支持しているのか。ここに「世間」をめぐる日本社会の宙ぶらりんな状況が反映している。

 これは<よろずやっかい>④で取り上げた「人間フィルタリングの解体」とも関係するが、昨今の政治状況の混乱は、「変容する世間の悪影響」を通して考えないと、説明がつきににくい。

 ひと昔前まで不祥事を起こした企業経営者や政治家は記者会見で口をそろえて「世間を騒がせて申し訳ない」と謝った。自分の罪を認めるのではないが、新聞紙上で取り上げられたり、逮捕者が出たりして、世間(会社、派閥、役所など)に迷惑をかけた責任を取るという論法だった。ところが森友・加計問題、桜を見る会などの疑惑に関して、安倍首相から「世間を騒がせる」という表現すら聞いたことがない(「安倍首相」&「世間」で検索したかぎりでは、本人の発言と世間を結びつけるものはなかった)。「世間」にどっぷりつかった政治をしながら、頭の中では「世間」が消えているようなのだ。

 日本人論の古典、ルース・ベネディクトの『菊と刀』は、日本文化の型を「恥の文化」と規定した。欧米型の罪の文化は内面的な規範に従おうとするが、恥の文化は外面を保つことを優先すると言ったわけで、恥の文化を生んだのも世間だったと言える。しかしいま、一部の日本人から恥の文化も消えつつあるのは確かである。

 阿部謹也は世間の意義をそれなりに認め、世間を個人と社会の媒介項にできないかと提言したことがある。「現在、私たちは『世間』という観念を相対化しなければいけない状況にあります。『世間』のなかに個が縛られている状況を脱却しなければいけないと私は考えていますが、しかしそれと同時に『世間』が持っていたかつての公共性的機能を失うことなく保持することができるかどうかも大問題です」。残念ながら、世間は個人と社会の媒介項にはなりえなかったのではないだろうか。

 また、山岸は後に書いた『日本の「安心」はなぜ、消えたのか』(2008、集英社)で、「戦後日本で長らく続いてきた集団主義の『安心社会』はもはや時代遅れのものとなり、日本もまたアメリカのような開放的な『信頼社会』へと変化しつつあるという印象を受けます」と述べる一方で、「残念ながら、今の日本人は信頼社会にうまく適応できているとはとうてい言いがたい状況であると考えます」、「本来ならば、安心社会の崩壊は既得権益を持った大人たちの危機であり、信頼社会の成立は未来ある若者たちにとっての福音であるはずです。それなのに、その若者たちが信頼社会への変化を嫌い、身の回りにある友人関係という小さな安心社会にしがみつき、その中での『平安』を求めているとしたら―これは日本の将来にとっても、また若者たち自身の未来にとってもゆゆしいことと言わざるを得ません」とも述懐している。

 まことに悩ましい日本の現状がここにある。

・「社会」に目を向けない政治

 世間も一つの社会資本(ソーシャルキャピタル)だと考えると、現下の政治や経済の動きは、従来世間が持っていた長所を積極的に解体しながら、それに代わる新たな社会資本は築こうとしない、というより深刻な問題が浮かび上がる。

 個人の視点で考えると、世間に包まれていた安心は無残に奪われ、IT社会に剥き出しで放り出されるようなものだが、皮肉なことに、こういう政治状況を私たちがむしろ支えているわけである。

 今春闘を前に経団連(経済団体連合会)が発表した「2020年版 経営労働政策特別委員会報告」は「新卒一括採用や終身雇用、年功型賃金を特徴とする日本型の雇用システムは転換期を迎えている。専門的な資格や能力を持つ人材を通年採用するジョブ型採用など、経済のグローバル化やデジタル化に対応できる新しい人事・賃金制度への転換が必要」と述べている。 

 日本型雇用システムの見直しという提言自体、すでに新味がないとも言えるが、従来の企業経営が引き受けてきた従業員丸抱え雇用のくびきから解放されたいという思いが前面に出ている。メンバーシップ型(新卒者を定期採用して社内教育によって一人前に育てる)からジョブ型(すでにスキルを持っている人材を採用する)に変えようというのは、一見、時代の波に適合しているように見える。しかし会社ぐるみの教育や福祉政策は重荷なのでやめたいと言っているに等しく、それに代わる社会的な教育方法、労働市場、あるいは福祉政策をどう進めるかについては言及がほとんどない。

 国内労働力が不足なら安い外国人労働者を雇えばいいとか、かけ声だけの「一億総活用社会」とか「働き方改革」などみな同工異曲である。日本の古いしがらみ(社会資本)は捨てるけれど、IT社会の今後にどう取り組めばいいのか、新しい社会資本をどう築き上げるべきなのか、日本はグローバル時代をどう生きてくのか、といったことへの真摯な取り組みは見られない。

 自分の仲間だけが、あるいは自分の任期中(生きている間)さえよければいいという、まさに阿部の言う「歴史意識の欠如」がいよいよ如実である(「政治家達も日本の将来などと口にするが、決して日本の将来を自分の今日の行動の中で考えているわけではない。彼らが考えているのは彼らの『世間』の中で今日をどう生きるかということだけである)。

 冒頭でも述べたが、日本人はインターネットの波にうまく乗ろうとするだけで、それが日本社会にもたらす影響に真剣に対応してこなかった。私は「IT技術は日本人にとって『パンドラの箱』?」の最後を、「社会システム全体が『組織』から『個』へと大きくシフトするとき、この新しい道具(インターネットのこと:引用時注)は日本人の『個』を育てないのみならず、かえって全体の『空気』を一方的に拡大する奇妙な装置として働きかねない。ITを金儲けの道具や便利さ追求の観点のみで使っていると、そこに出現するのは、『オープンな道具を使った不寛容な日本』という悪夢である」と書いたけれど、日本社会はいよいよ混迷の度を深めていると言っていい。

 ハラリの言うデータ至上主義によって、私たちの「個」そのものがばらばらに解体され、西欧的な個人主義の考え方そのものが試練に立たされている今、私たち日本人は待ったなしの状況に追い込まれている。

         混迷の度をいよいよ深める、やっかい

林「情報法」(56)

AI時代の法≒情報法か?

 小塚荘一郎さんの新著、『AIの時代と法』(岩波新書)に関する書評を読んで、いずれ拙著との対比を試みようと思っていたところ、親しい人から「情報法の研究者を名乗るなら、すぐにも読むべし」とのメールがあったので、急いで読んでみました。多くの論点が要領よくまとめられていて、いろいろな視角から対比可能な良書ですが、今回は拙著とどこが同じで、どこが違うかを中心に紹介します。

・AI時代の法の3つの変化

 小塚さんの本は、以下の3つの主要な論点を第2章から第4章に配置し、その前後にイントロダクションや、分析とまとめの章を加えて構成されています。

  (1) モノからサービスへ(MaaS、Air B&B、スマートフォンのアプリなどが好例)
  (2) 財物からデータへ(データ中心社会、深層学習によるAIの高度化など)
  (3) 法・契約からコードへ(アーキテクチャ、Privacy-by-Designなど)

 この3つのトレンドが、現代法の変化をもたらしている原動力である点については、私も異論ありません。加えて小塚さんの本は、「新書」という制約をプラスに変えて、簡潔で読みやすい仕上がりになっています。これに対して拙著の方は、分量が多い点がむしろ弱点になっているようで、専門家向けという印象は否めません。私ももう少し「ストーリー・テラー」としての修業を積む必要があると、反省しきりです。

 両者とも、法の客体に「サービス」「情報」「データ」などが否応なく入ってくる点を認め、「有体物が中心の法を、そのまま現代社会に適用するには限界がある」との認識は共有しています。しかし問題の捉え方が違うため、私は「情報法を考えるための発想の原点」を極めるべく、法学の領域を超えて他の学問的知見も総動員して、「情報の特性」をパラダイム・シフト的に追及しています。これに対して小塚さんは、あくまでも法学に立脚しつつ「AIが活躍する時代になると法はどうなるのか」を逐次改善的(incremental)に考察している、という差が生じています。

・データの前に、プログラムの法的扱いから

 上記のような私の問題意識からすれば、「AI時代の法」の3つの変化のうち「財物からデータへ」を議論する前に、「プログラム」という最初に登場した「非有体財」を、現行法がどう扱ってきたかを見ておく必要があります。コンピュータ時代の到来と同時に、ソフトウェアあるいはプログラムという従来にない「法の客体」が登場し、1980年代前半にその扱いをめぐって激しい議論が展開されたからです。

 わが国の現行法では、プログラムは以下のように保護されています。まず著作物に対する創作者の権利の一種として、著作権法2条十の二号において「プログラム」が、保護の対象になっています。このような扱いで決着するまでには、「プログラム権法」という特別法による保護を目指す動きがありましたが、著作権法における「無方式主義」(著作権法17条2項)と権利保護期間(同53条、公表後70年=法人著作の場合)のいずれも権利者に有利であり、権利保護に熱心な米国の強い意向が反映されて著作権法が使われることになった、と言われています。

 なお、プログラムはまた、特許法2条「自然法則を利用した技術的な思想の創作のうち高度のもの」の要件を満たせば、特許として保護されます。この場合に、「物の発明」と「方法の発明」のうち、どちらになるのかという問題があります。現在の法制では、オンライン実施に関する特許法2条3項一号が、「この法律で発明について『実施』とは、次に掲げる行為をいう」として、「物(プログラム等を含む。以下同じ。)の発明にあっては、云々」と規定しているため、ソフトウェアは「物の発明」とされていることは明白です。

 保護の根拠が著作権であれ特許権であれ、いずれも「物」(著作物あるいは「物の発明」)として保護されているので、ここに所有権アナロジーの強さが反映されています(ついでながら、法的なモノには「物」「者」「もの」の3種があります)。しかし、プログラムはバグを内包しているため、他の著作物のようには「同一性保持権」を主張できないなどの例外もあります。(第20条第2項第3号)。

 また、製造物責任法に基づく瑕疵担保責任を負うこともありません。法的には、ソフトウェアは「製造物」、つまり同法2条1項にいう「製造又は加工された動産」ではないからです。新しい事象にも、当面は「物」中心の発想(民法85条は「物とは有体物をいう」とする)で対処せざるを得ないことは分かりますが、出来の悪いソフトに日々悩まされている被害者からすれば「何とかならないのか」という声も出るでしょう。もっとも、論者がソフトウェアの制作者であれば、「瑕疵を問われては、やってられない」のが正直なところかもしれません。

 残念ながら、小塚さんの本は、AIの社会的影響に注目しているので、その技術的裏付けであるプログラムの話は出てきませんが、データの扱いについての検討を深めていけば、避けて通れない課題になるものと思われます。

・データの法的扱い

 以上のように「プログラム」という、いわばシャノン的なデータについての法的扱いさえ難しいので、これよりもさらに多様な「データ」一般について、正面から取り扱っている法律(制定法)はありません。この点は、福岡真之介・松村英寿 [2019]『データの法律と契約』(商事法務)が端的に述べています。

 データに関して一般の人がまず心配するのは、自分自身に関するデータでしょうが、個人情報保護法(2条各号)は、「個人情報」(「生存する個人に関する情報であって、特定の個人を識別することができるもの」、「個人識別符号が含まれるもの」)を中心に構成され、「個人データ」は「個人情報データベース等を構成する個人情報」としてのみ登場します。本来ならまず「個人データ」を定義し、その上位概念として「個人情報」を定義すべきかと思われますが、逆の方法になっています。

 その結果同法は、個人情報取扱事業者が「開示、内容の訂正、追加又は削除、利用の停止、消去及び第三者への提供の停止を行うことのできる権限を有する」個人データは規律の対象ですが、「データ」一般を保護する法ではないことが明白です。そこで、「AI時代の法」のうちでも特に「データに関する法」を考えるなら、何らかの形でデータを分類し、それぞれにふさわしい法のあり方を分析する必要が生じますが、これに成功した文献は未だないと思われます。

 その試みの1つが、上述の福岡・松村 [2019] による、以下の9分類です(p.35 以降)。

① 一般的なデータ(②~⑨ 以外のデータ)、② 契約によって規律されるデータ、③ 不正競争防止法により保護されるデータ、④ 知的財産権の対象となるデータ、⑤ 不法行為法(民法)により保護されるデータ、⑥ パーソナルデータ、⑦ 刑法・不正アクセス禁止法により保護されるデータ、⑧ 独占禁止法により規律されるデータ、⑨ その他法律により規律されるデータ。

 この分類は役に立ちますが、ソフト・ローの存在を明示していないことと、「秘密」という分類があり得ることを失念していることなど、なお改善の余地があります。特に、「秘密」という概念は私が常に強調している点ですが、わが国では「秘密はない方が良い」という倫理観が強いためか、知らず知らずのうちに避けている傾向があります。この点は、拙著p. 56の図と、p. 88以降の説明を読んでいただけると幸いです。

・ケース・スタディに多くの示唆

 小塚さんの本で見習いたいと思った最大のポイントは、法学者らしく多くのケースを取り上げて、読者の興味を惹き付けていることです。以下がすべてではありませんが、これらを見ただけでも、「AI時代の法」が如何に新規で難しい問題を提起しているかが分かります(カッコ内は、同書の該当ページです)。

・ヤフーはオークション詐欺の責任を負うべきか?(p.62)
・装着型 GPS による犯罪捜査には、裁判所による「新しいタイプの令状」が必要か?(p.76。なお日米ともに、最高裁の判例がある)
・EU の GDPR における「データ主体」は、当該データの排他的権利を持つのか?(p.94)
・イーサリアム(Ethereum)のデータ流出対策として、互換性のない新仕様を導入して旧仕様を廃棄すること(hard-fork)は、適法か?(法的には、新仕様を遡及して適用することにならないか?)(p.144)
・アシモフの「ロボット3原則」(① 人を傷つけてはならない、② ①に反しない限り人間の命令に従わねばならない、③ ①②に反しない限り自己の存在を守らねばならない)を成文法として具体化でき、それで十分か?(p.209)
・ロボットや AI などを「電子人」(electronic person)として、「自然人」(natural person)「法人」(legal person) に次ぐ「第3の権利主体」と扱うことはできるか?(p.211)

 なお最後のテーマだけは、拙著でも同様の問題提起をしていますが、私の場合はより懐疑的で、以下のような設問になっています。

・自然人を「自立し自律できる個人」とする原則そのものが妥当か?(人は常に rational で reasonable な判断ができるか?)

・神奈川工大先進AI研究所のシンポジウム

 ここまで書き進んでいたところ、神奈川工科大学が文部科学省の「平成30年度私立大学研究ブランディング事業」に採択されて設置した、「先進AI研究所」の研究会(3月9日)で発表の機会をいただきました。次回は、その模様をお伝えすることができそうです。その際には、今回タイトルに掲げた「AI時代の法≒情報法か?」に関して、もう少し突っ込んだ説明をしたいと思っています。

新サイバー閑話(41)<よろずやっかい>➆

ネットの行動様式が現実世界に逆流するやっかい

 私は、在特会(在日韓国人の特権を許さない市民の会) の参加者が、聞くに堪えないような激しく下品な言葉を投げつける心理がよくわからなかった。あんなことを面と向かってよく言えるものだと思っていたのである。

 その謎は、安田浩一『ネットと愛国 在特会の「闇」を追いかけて』(2012、講談社)というすぐれたドキュメンタリーを読んで解けた。在特会の参加者たちは、ネットを通して集まり、ネットで悪口雑言を書きつけると同じ感覚で、目の前の人びとに過激かつ下劣な発言を浴びせていた。目前の在日韓国人を「見て」いるわけではなく、自らの内なるルサンチマン(憤り・怨恨・憎悪などの感情)を見て、と言うか、それに駆り立てられて、ただ闇雲に叫んでいるようである。

 本書によれば、在特会のデモに参加するのは日ごろから自分の境遇に強い不満を持っている人が多く、「市民の会」と名乗っているけれど、現実世界における相互の連絡というか、つながりはほとんどない。ネットのみを介して広がった団体で、彼らは現実の集会でも、ネットと同じように仮名しか使わない。

 社会から取り残されて行き場のない不安や怒りを抱えた人びとが、その怒りの矛先を自分よりも恵まれない在日韓国人などにぶつけている。いや、自分たちより恵まれないはずなのに、特権を得てぬくぬく生きているという誤った情報をもとに、それを仲間内で拡散しながら、デモに参加、うっぷんを晴らしている。

 彼ら自体、生活基盤をほとんと喪失しているので、言動はネットの書き込み同様、激越なものになる。現実世界ではほとんど惰性で生き、在特会デモという特殊な空間でのみ過激に生きる、そしてデモが終わると、すっきりした気分になって、たとえば、淋しいアパートの一室に帰っていく。パソコンやスマートフォンの電源を切ればすべてが消えていくように、自分の行動も忘れていくように思われる。

 こんな参加者の感慨も記されている。「はっきり言えば……酔いました。自分は大きな敵と闘っているのだという正義に酔ったんですよ。いまとなってみれば、なぜに在日を憎んでいたのかは自分でもよくわかりません」、「在日が、なんとなく羨ましかった。……僕らが持っていないものを、あの連中は、すべて持っていたような気がするんです」。

・現実世界で孤立した人びと

 著者は「私が接した在特会の会員は、友人や家族には活動のことを隠していたり、または最初から理解させる努力を、なかばあきらめているケースがほとんどだった。この運動は、あくまでもネットを媒介として進められる。けっしてリアルな人間関係から生まれたものではない」、「事件当日の様子はすべて在特会側によってビデオに撮影され、動画投稿サイト『YouTube』『ニコニコ動画』に即日アップされている。それらを映した動画は大量にコピーされ、一時期はネット上を埋め尽くす」、「恐ろしいことに、このような『在特特権』のデマは、何の検証もなしにネットでどんどん拡散されていく。それを見て『真実を知った』と衝撃を受け、在日を憎む人々が増えている」などと記している。

 だから彼らは、ネットの中(サイバー空間)と同じように現実世界で過激にふるまう。現実世界の人的、地理的な制約がなく、周囲にブレーキ役もないネットの言動が、現実世界に流れ出て、大きな力になり、それが現実世界を動かしている。在日韓国人たちに肌で接触することも、直接の悩みを聞くことも、彼らの存在についてゆっくり考えることもない。

 著者は在特会の現、あるいは元活動家にも果敢にインタビューし、次のような興味深い発言を引き出している。

「ネット言論をそのまま現実世界に移行させただけなんですよ。要するにネットと現実との区別がついていないんです」、「在特会ってのは疑似家族みたいなもんだね」、「地域のなかでも浮いた人間、いや地域のなかで見向きもされていないタイプだからこそ、在特会に集まってくるんです。そして日の丸持っただけで認めてもらえる新しい〝世間〟に安住するんです。……。朝鮮人を叩き出せという叫びは、僕には『オレという存在を認めろ!』という叫びにも聞こえるんですね」、「連中は社会に復讐しているんと違いますか?私が知っている限り、みんな何らかの被害者意識を抱えている。その憤りを、とりあえず在日などにぶつけているように感じるんだな」。

・日本人の行為から消えた「佇まい」

 在特会に集う人びとは、現実世界のどちらかというと下層に住む「うまく行かない人」(一登場人物の表現)、屈折した信条をもつ人、社会にもやもやとした不満と憎悪を持つ人びとであり、それがネット内の書き込みを通じて在特会に引き寄せられた。彼らはスケープゴートとして在日韓国人とその「特権」を見つけたのである。

 著者は「在特会を透かして見れば、その背後には大量の〝一般市民〟が列をなしているのだ。私が感じる『怖さ』はそこにある」、「在特会は『生まれた』のではない。私たちが『産み落とした』のだ」とも述べている。

 2016年のアメリカ大統領選でトランプ大統領に投票したと言われる、東部から中西部に広がる「ラストベルト」(さびついた工業地帯)の白人労働者の心情ともダブるところがあるように思われる。

 ついでながら<よろずやっかい>⑤に関係することとして、「ネット言論では〝激しさ〟〝極論〟こそが支持を集める」と述べた後で、リベラル派の退場について、「彼らはそうした〝大衆的な〟舞台から降りることで、いわばネット言論をバカにした。いや、見下ろした。結果、大衆的、直情的な右派言論がネット空間の主流を形成していく」という興味深い指摘もあった。

 在特会はネット社会の落とし子である。現実世界で孤立していた人びとがネットで結びついて街頭に出てきた。その時にネットでの行動様式をそのまま現実世界に持ち込んだ。聞くに耐えないような罵詈雑言の温床はネットにあったというべきである。

 少し古いが、一時期、出版危機について精力的な発言を続けていた小田光雄(『出版社と書店はいかにして消えていくか』や『ブックオフと出版業界』)は日本人の行動がかつて持っていた「佇まい」について、以下のように記している。

昔でしたら、駅弁を買うとフタの裏側についている御飯を食べることからはじめるというのが当り前で、駅弁を食べる姿にもそれなりの佇まいがありました。それがひとつの食の文化ではなかったでしょうか。……。食べ物が捨ててある風景も日常茶飯事のものとなりました。食事なら捨てられませんが、エサだから捨てるんではないでしょうか。……読書が精神の営みではなく、単なる消費的行為になった。本が精神にかかわるものなら捨てられないが、消費財や単なる情報だったら簡単に捨てることができる。

「佇まい」という言葉はすでに死語になったようだが、昨今における国会論議(首相答弁)の殺伐とした光景を見ると、ここにもネットの行動様式が現実世界に逆流している影響を感じざるを得ない。

 かつて私はすべての人が情報発信できる時代には、万人が「情報編集の技術」を身につけ、ネットの環境を美しくすべきだと主張してきたが、ネットの情報環境がどこまで美しくなっているかはともかく、サイバー空間における悪しき行動様式が現実世界に逆流し、それが現実世界をいよいよとげとげしいものにしている。

 ここにもIT社会の深い闇がある。何もかもインターネットのせいにするのは技術決定論だと批判されるかもしれないが、インターネットという技術はそれほどの強い力を持っている。

 そして、在特会を力で押さえつけても、あるいは現実に彼らの行動を規制できたとしても、問題を根本的に解決するのは難しい。ここには政治の貧困が横たわっているが、在特会に集うかなりの人びとが、これら底辺の社会問題を正面から解決しようとしているとは思えない安倍政権に抗議せず、むしろ支持さえしているのは皮肉である。

 ネットの行動様式が現実世界に逆流し、それが現実世界を動かすパターンの変種としては、以下のようなケースもある。

 政権シンパがネットを使って、自分たちの気に入らないイベントを「税金を使って〝非中立的な〟政権批判するのは許されない」などと騒ぎ立て、それを一部の政治家や著名人が受け、あるいはそれを扇動して、イベントを主催する役所や管轄官庁に圧力をかける。それに役人が唯々諾々と従う。

 こういう風景は日常茶飯になっているようだが、その変種、と言うより亜種について、<令和と「新撰組」⑤>で取り上げているので参照してほしい。

見れども見ない、やっかい

 恒例となった冬の避寒旅行で、今年はマレーシアのペナン島に来ている。到着早々、インターネットの配車サービスを使ったら、近くでコールを受けてくれたドライバーが「耳が不自由だけれどいいですか」と聞いてきて、了解の返事を出すと、ほどなくやってきた。しゃべることもできないが、インターネットならそれでつとまるわけである。乗車地も降車地もスマートフォン上の地図に表示されるし、代金も自動決済、何の問題もない。ドライバーは実に気のいい若者だった。

 ちなみに宿はインターネットの宿泊施設斡旋サイトで探した。コンドミニアムには日本各局のテレビ番組も配信されているから、日本にいたときと同じように「カラオケバトル」や「ポツンと一軒家」などを見ている。インターネットの便利さを十分に堪能しているわけである。

 それでも書きつける<インターネット万やっかい>である。

 読者(がいるとして)の中には、インターネットの影ばかりでなく、光についても言及すべきであるという意見が、あるいはあるかもしれない。たしかに、やっかいな問題を解決することこそがサイバーリテラシーの使命だが、何がやっかいなのかを明らかにするのが先決である。だからこのシリーズはなお続けるつもりだが、その後で、あるいはそれと並行する形で<よろずやっかい解決アイデア集>のようなものも始めたいと考えている。

 技術がもたらした問題の多くは技術で解決することが可能だろう。法による規制も有効である。ローレンス・レッシグがかつて述べたように、コンピュータのプログラム(アーキテクチャー)で工夫することも試みるべきだし、市場が解決に一役買うチャンスもある。さらに言えば、IT社会を生きるための基本素養(リテラシーと処世訓)を教える教育の役割も大きいと思われる。 

 これこそ周知を集めるべきテーマである。知人や読者の皆さんからもアイデアを教えていただき、それを紹介できればと思っている。堂々たる論考をお寄せいただけると望外の幸せでもある。以上、今後の心づもりを述べつつ、ご協力をお願いする次第です。

 

新サイバー閑話(40)<よろずやっかい>⑥

既存秩序の崩壊とアイデンティティ喪失のやっかい

 トランプ米大統領の突然のイラン攻撃とかカルロス・ゴーン元日産自動車会長の劇的日本脱出などに比べると、話は一気に小さくなるが、新年20日の通常国会での安倍晋三首相の施政方針演説はひどかった。

 昨年後半の大きな政治問題となった首相主催の「桜を見る会」に関しては、年をまたいでも関連文書の廃棄をめぐり内閣府の歴代担当者が処分されるなど紛糾しているのに、これに関して一切ふれず、政権が成長戦略の柱に位置づけてきたカジノを含む統合型リゾート施設(IR)に関しても、元内閣府副大臣(衆院議員)らが汚職をめぐり逮捕、起訴されているのに、これにもいっさいふれなかった。

 多くの国民が桜を見る会の首相説明は不十分と考え、IR推進に関しては強い異論もあるのだから、まずこのことにふれ、真相究明への努力を約束するなり、混乱に対する責任に言及するなり、何らかの態度を表明するのが一国の首相としてやるべきことだと思われる。

 安倍首相は、それをしない。

 その代わりに、今夏開催される東京オリンピック、パラリンピックを成功させようと訴え、日米安全保障条約署名60年の節目にふれて、日米同盟の強いきずなを誇示した。あとは政権のスローガンを羅列しただけとも言えるが、最後に改憲にふれている。意外なほどのわずかな分量だが、意欲が減退したと言うよりも、大事なことをさりげなく、かつ電撃的に、あっさり強行する「衣の下の鎧」が透けていると見るべきだろう。しかもそこで、あろうことか「未来に向かってどのような国を目指すのか。その案を示すのは国会議員の責任ではないでしょうか」と、野党議員の〝奮起〟を促した。

 盗人猛々しいと言うべきだろう。

 国会を無視、とまで言わなくても、軽視してきた当の本人が、自らの「悲願」である改憲に関してのみ、国会議員の責任を果たせなどと言う神経は常人には理解できないことである。

 安倍政権は発足以来、既存制度に組み込まれていた、民主主義を健全に運営するためのチェック機能を解体し、多くの憲法学者が違憲とする集団的自衛権容認を閣議決定するなど、自らの政策を強引に推し進めてきた。一方で森友、加計問題などの不祥事に関しては、のらりくらりと他人ごとのような答弁を繰り返し、挙句の果ては、肝心の証拠書類を官僚に改竄させている(官僚が勝手にやったことになっているけれど、忖度の任を果たした彼らにはその後の処遇で応えた)。こういった政権のあり方を「『非立憲』政権によるクーデター」と批判した石川健治東大教授の論考については、本<新サイバー閑話>の別稿でふれたのでそちらを参照してほしい。

 盗人猛々しいと言えば、自民党が昨年暮れ税制改正大綱を提示したとき、三木義一・青山学院大学長は、桜を見る会で税金の使い方が問題にされているときだっただけに、「税を公正に使ったことを証明できない人たちが税制を『改正』する」ことの不条理を指摘していた(東京新聞2019.12.13)。

 問題はこういうことではあるまいか。

 平気で嘘をつき、国会での野党質問に誠実に答えないような人物がなぜ総理大臣なのか、さまざまな不祥事にもかかわらず、なぜいまだに独裁的な力を誇示できているのか、安倍政権の閣僚たる人びとはなぜ「安倍首相はポツダム宣言を当然読んでいる」「安倍首相の妻・昭恵氏は公人ではなく私人」などという奇妙な閣議決定を連発しているのか、官僚たちはなぜ唯々諾々と政権の意向を忖度し、それに従うのか。野党の反撃はなぜかくも手ぬるいのか、メディアはなぜ問題の所在を的確に報道しないのか。それより何より、なぜ今なお、かなり多くの人びとが安倍政権を支持し、これでいいのだと思い続けているのか。

 この現代日本の深い病根の背景にも「デジタルの影」がある、というのが今回の<よろずやっかい>のやっかいなテーマである。

 ここにはインターネット発達以来、現実世界と並行するように、あるいはこれと入り混じるように成立したサイバー空間が既存秩序を突き崩しつつある現状が反映されている。もちろんその崩壊には、改善されてしかるべきものも多かったが、一方で人びとが長い間の生活で守り育ててきた地道でまっとうな生き方もまた同時に失われた。安倍政権をめぐる政治状況はその象徴のように思える。

 これは必ずしも日本だけの話ではない。世界中で、倫理観など持ち合わせていないような指導者が権力を私物化し、政治の理念を語るより権力闘争に明け暮れている。大国の指導者の中には安倍首相のお手本になりそうな人もいる。

 前回にも引用したカナダのメディア研究家、マーシャル・マクルーハンは、ラジオというメディアがなかったら、ヒットラーは歴史の舞台に登場しなかっただろうと言った(「ヒットラーの統治下にテレビが大規模に普及していたら、彼はたちまち姿を消していたことだろう。テレビが先に登場していたら、そもそもヒットラーなぞは存在しなかったろう」『メディア論』、原著1964、栗原裕・河本仲聖訳、みすず書房)。そのひそみに倣えば、トランプ大統領も安倍首相もインターネットがなければ、現在のような〝活躍〟はできなかなかったように思われる。

 もちろん、彼らがインターネットをうまく利用して権力を握ったとだけ言っているわけではない(たしかにトランプ大統領はツイッターをよく使うけれど)。インターネットが人びとに与えた衝撃(驚きや歓喜だったり、逆に当惑と失望だったりしたけれど)がもたらしたかつて経験したことのない変化のうねりが私たちの足元を洗い、思わずふらついたその不意を突くような形で、現代の政治状況は成立しているのではないだろうか。

・「何でもあり」の風潮

 ここではその当惑と失望についてふれたい。パチンと割れる風船というよりも、音もなく消えてしまうシャボン玉に似て、ほんのかすかなものであろうと、それは全世界の片隅で、四六時中起こっている。そして塵も積もれば山となり、コロナウイルのように私たちを襲いつつあるのではないだろうか。以下はその塵の一部を素描したものである。

 私がまだ新聞社に在籍していたころの経験だが、1999年3月、広告会社・電通の発案で新聞の全国紙、ブロック紙、地方紙91紙を使って「意見広告キャンペーン」、題して「ニッポンをほめよう」キャンペーンが行われた。全国・ブロック紙では2ページ見開きで、左側に吉田茂元首相の顔写真が大きく載り、右側には「ニッポンをほめよう。」との大きな活字。本文は「『ニッポンをほめよう』は、わたしたち60の企業が発信する、共同声明です」で終わっており、59の企業名の最後に、朝日新聞には朝日新聞社、読売新聞には読売新聞社、日経新聞には日経新聞社というふうに、それぞれの掲載紙の会社名が載った。

 本文にはこう書いてあった。「政治が悪い、官僚が悪い、上司が悪い、教育が悪いと、戦犯さがしに明けくれるのは、もうよそう。ダメだダメだの大合唱からは、何も生まれはしないのだから」。

 まるでジャーナリズムを否定するかのような文言が含まれている意見広告に新聞社自らが名を列ねていることに対しては、当然、私の職場でも異論が出された。そのとき社員の1人から「今は何でもありだから」という発言を聞いた。折しも新聞産業はネットなどの新興メディアに押されて、部数も広告も減少しつつあった。発言の裏には「こんなうまい(おいしい)広告はめったにない」という気持ちが込められていただろう。今は何でもあり、できることは何でもして生き延びるしかないという諦観でもあったと思う。

 私は社外にも公表しているレポートで「現下のマスメディアに顕著に見られるのが『アイデンティティの喪失』である。多メディア化は、一方では新しいメディア企業による娯楽、スポーツ、生活情報など『売れる実用情報』提供を促進しつつ、他方では既存マスメディアにおけるジャーナリズム精神を衰退させているが、残念ながらその構図は、巨大資本の攻勢にたじたじとなり、あるいはそれに煽られて、マスメディアがジャーナリズム性を手放しつつある姿と捉えられるのかもしれない」と書いた(『表現の自由』の現代的危機について―インターネット規制と『サイバーリテラシー』」『朝日総研リポート』1999.6 NO.138)。

 インターネットが既存社会を破壊していくことに対しては、プラスマイナスの両面があるだろう。シュンペーターではないが、創造的破壊を通して経済(社会)は発展する。まず創造があって、ついで破壊が行われるのである。しかしインターネット(コンピュータ)という強力なイノベーションは、内部的な「創造」の契機が生ずるより先に、既存産業の「破壊」をもたらす。メディアに関して言えば、各企業はジャーナリズム機能を拡充するためのITを自ら開発するというよりも、シリコンバレー出来合いの技術を何とか利用して生きのびることしか考えるゆとりがなかった。

 外部からやってきた思わぬ破壊に直面した企業が、当の外部技術であるITを使って延命をはかろうとすれば、ITが持つ力にすがるのが精いっぱいで、自らのアイデンティティを保ちつつ、真の創造的発展を達成するのは難しい。そこではITの専門家、技術コンサルタントがもてはやされるばかりである。これは、多かれ少なかれ、他の産業の技術革新や異分野転出にも言えるのではないだろうか。

 ちなみに「何でもあり」という言葉は一般の辞書には載っていないようだが、オンラインで見つけた「実用日本語表現辞典」には「何をやってもよい、何も禁止されていない、といった状況を指す語。禁止事項が破られ、事実上無法状態に陥っているさまなどを指すことも多い」と説明されている。

・「等身大精神」の危機

 2005年に起きたみずほ証券の株誤発注事件も象徴的である。同証券の社員が人材派遣会社株の売り注文を「61万円で1株」とすべきところを「1円で61万株」と入力ミスしただけで、みずほ証券は約400億円の損害を受けた。

 ここで特筆すべきなのは、ほんのちょっとした、だれにでも起こりがちなコンピュータ入力ミスで、あっという間に会社に400億円の損害を与えてしまった社員はどう責任をとればいいのかということである。会社にかけた損害を賠償するという、ある意味でまっとうな考えはまったく意味をなさない。

 一方で誤発注を奇禍とした投資会社は多いところで120億円という大儲けをした。個人で20億円儲けた人もいた。20億円といえば、これまたサラリーマンが一生に稼ぐ額の十数倍である。

 かつてエコロジーの世界で、「等身大の技術」ということが言われた。過剰な技術によって自然を破壊するのではなく、ほどよい技術を使うことが大事だという考えで、たとえば、大型船でマグロを一網打尽にするのではなく、食べるに必要な分だけ一本釣りしながら自然のおすそわけにあずかるという共生の知恵だった。

 いまはコンピュータという精神機能拡張の道具が、私たちの知能の限界を打ち破る途方もない世界をもたらしている。こういうシステムに支えられていると、コツコツものを作り上げるといった仕事のありようが、どうにも馬鹿らしくなってくる。そこでは「等身大の精神」、別の表現を使えば、人間的なまっとうな生き方が危機に瀕していると言っていい。

 同じ年に起こったマンション耐震強度偽装事件は、設計の中核部分である「構造計画書」の数値が偽造され、震度5程度の地震がくれば倒壊の危険があるマンションやホテルが全国規模で建てられていたことが発覚したものだが、ここでも、一つの行為がもたらす結果があまりに膨大なために、建築士にしても、欠陥マンション量産業者にしても、犯した罪の責任をとりようがない状況が生まれている。

 逆に言うと、責任のとりようのないことを何の痛痒も感じずに行える状況に置かれている。両事件に共通するのは、「引き金の軽さ」と、それがもたらす「結果の重さ」である。

・盥の水といっしょに赤子を流す

 制度設計された当初の意図が空洞化し、恣意的に運営されがちな例は今に始まったことではない。問題はそのタガが完全に外れ、恣意的運営でどこが悪いというほどの野放図なものになっていることである。

 2つの事例を通して浮かび上がるやっかいな「塵」は、安倍政権、およびその周辺、さらには私たちにも大量に降りかかっている。

 先に上げた「何でもあり」の説明、「何をやってもよい、何も禁止されていない、といった状況を指す語。禁止事項が破られ、事実上無法状態に陥っているさまなどを指すことも多い」は、いかにも〝安倍〟的である。また「重大な結果」を熟議もせず、国民の声も聞かずに決めてしまう「引き金の軽さ」もまた安倍政権に特徴的である。

「サイバーリテラシーの提唱」で私は「毛虫がみずからの内部諸器官をいったんどろどろに溶かしてサナギとなり、一定期間をへたあとチョウへと変身するように、現代社会もまた時代の転換点にある」と書いた。既存秩序の崩壊は歴史が進むべきサナギ化の過程であるのは確かだが、問題はいま現代、どこにもチョウへと変身するきっかけが見えないことである。

 為政者、官僚、あるいは経営者、企業従業員、さらにはメディア企業、教育現場に至るまで、これまで営々と築いてきた価値を臆面もなくないがしろにする傾向が見られる。「決める政治」も、規制改革やイノベーションも、「盥の水といっしょに赤子を流す」結果になりがちで、古い秩序が持っていた長所もまた消えていく。

気が重い、我らが内なるやっかい