東山「禅密気功な日々」(11)

老いは降り積る

 深夜、山や里、あるいはビルの谷間にしんしんと降る雪のように、老いは私たちの骨、筋肉、内臓に降り積る。それはまさに忍び寄る。

 最近、健康寿命ということが言われるが、これは「心身ともに自立し、健康的に生活できる期間」という意味である。平均寿命が長くなっても、健康に生活できなければ快適な老後というわけにはいかない。2016年のデータだと、平均寿命と健康寿命の差は、男性で約9年、女性で約12年である。女性の方が平均寿命が長いから差が長いのは当然として、健康寿命はだいたい男性で73歳、女性で75歳である。

 ロコモティブシンドローム(通称ロコモ、運動器機能低下症候群)という言葉を聞くことも多くなった。老化や骨折などのけが、骨粗しょう症、関節リウマチなどによって筋肉をはじめ関節、軟骨といった運動器が衰えて運動機能が低下してしまった状態を言う。

 だから高齢者ならではの筋肉トレーニングも大事だけれど、筋トレは積雪に耐える屋根や柱を補強する効果があるが、雪をかき出したり、溶かしたりしてくれるわけではない。老いを払いのけるために有効なのが築基功、とくに蠕動だと私は思っている。

 高齢者にとっての筋トレの心構えなども随時書いていくつもりだが、「老いを払う」点できわめて効果的な気功をより多くの人に知っていただくために、これから追々に禅密気功の指導者、朱剛先生に気功のすばらしさを聞くシリーズを掲載していく予定である。乞うご期待!!

名和「後期高齢者」(27)

「紙の本について;読書アンケート」『みすず』n.689,p.15(2020)

(1)エマニュエル・ヴィンターニッツ(編)、金沢正剛訳『音楽家レオナルド・ダ・ヴィンチ』、音楽の友社 (1985)

 論文集。だが挿入図面がきわめて多い。音楽家の肖像、解剖スケッチ、自動楽器の図面など。これならば、私のような老齢の非専門家であっても、「本を眺めつつ」楽しめる。これに気付くことがなければ、私は生涯を通じて本書にアクセスすることはなかったろう。(この楽しみを示唆してくれたのは知人の音楽学者であった。)

(2)MARK JONES(ed)“Fake:The Art of Deciption”, British museum Pubication “ (1990)

 ヴィンターニッツの編著の「本を眺める」という面白味をさらに深めるためには、展覧会のカタログがあろう。そうしたカタログのなかから手持ちの1冊を選ぶとすればこの冊子になる。

 ただし、重量というものがある。前者のそれは1.4㎏、後者のそれは1.2㎏。これは年寄にとってはつらい。冊子体が紙の製品であるかぎり、これは諦めなければなるまい。

林「情報法」(58)

市場を信頼しながら所有権は制限する

 この連載で繰り返し強調してきたように、私が情報法の論議で最も懸念しているのは、有体物の法の基礎にある「所有権」の概念を、無意識のうちに情報にも適用してしまうという弊害です。この傾向は、特に経済学者の間で根強いものがあります。ところが意外や意外、「法と経済学」の論者の中でも最も「市場」重視派と思われているエリック・ポズナーの新著は、「市場は重視するが、(従来はそれと表裏一体とされてきた)所有権の呪縛から脱皮しなければならない」と説くものです。この一見矛盾するロジックは、どのようにして可能になるのでしょうか?

・Radical Markets: Uprooting Capitalism and Democracy for Just Society

 『ラディカル・マーケッツ:脱・私有財産の世紀』という邦訳書(安田洋祐・監訳、遠藤真美・訳)のタイトルは、この謎を解く上で適切な訳語だと思われます。今年の初めに東洋経済新報社から出版された同書の共著者は、「法と経済学」の始祖の1人であるリチャード・ポズナーを父に持つエリック・ポズナーと、E グレン・ワイルというマイクロソフト社の主任研究員です。書きぶりから見て、ワイルのアイディアとシミュレーションを2人で検討し、理論づけとまとめはポズナーが担当したものと思われます。

 社会主義を否定し資本主義を是とする思想の背景には、「市場と所有権は一体不可分に結びついている(はず)」という前提があります。事実、2大政党制が定着している米国では、以下のような図式が一般的な理解になっています。

 右派≒共和党の主張:所有権は市場取引の前提で、これを制限するとインセンティブを削ぐから、原則として認めるべきではない。旧ソ連が崩壊したのは、統制経済が分散型意思決定システムである市場メカニズムに負けた、象徴的出来事である。
 左派≒民主党の主張:市場が有効に機能しない「市場の失敗」に対しては、政府の介入が不可欠で、時に所有権を制限すべき場合がある。累進課税や国民皆保険、公益のための土地の強制収容などは、資本主義国でも広く認められている。

 両者の争いは、ソ連が崩壊した直後は右派の圧勝のように見えました。「すべての財を共有すべき」という共産主義の主張は、「コモンズの悲劇」(所有権が不明確だと誰もがただ乗りしようとするので、資源が浪費され枯渇してしまう)に陥るか、逆に資源が活用されずに衰退する。それが歴史的に証明されただけだ、というのです。これに対して資本主義社会では私有財産(所有権)が明確にされており、所有者が必要な管理をすれば「資産の価値を高める」インセンティブが働くので、資源投資の効率性も資源配分の効率性も担保される。このような見方からすれば、ソ連の崩壊は逆説的だが「所有権と、それに連動する市場システムや政治的な民主主義の優位性」を証明したというのです。

 さて旧ソ連の崩壊直後には、例えばアパートの国有方式を改めて市場取引を可能にしても、統制に慣れた官僚が(例えば登記の)権限を手放さないため、時間がかかったり賄賂が必要になって、「権利の存在が証明できない」まま取引するという不完全な市場しか生まれませんでした。これは「反コモンズの悲劇」と呼ばれ、「完全な排他性のある所有権」でなければ市場が機能しないことが、旧東西両陣営の共通認識になりました。

 ところが勝利したはずの資本主義においても、右派共和党と左派民主党が競っている間に所得格差が徐々に拡大して、世界一豊かな国であったはずの米国でも、グローバリズム反対の声が上がるようになってきました。また、中国経済の急成長によって、「非資本主義的市場主義」が(少なくとも短期的には)成立し得ることが実感されるようになり、「所有権」と「市場原理」が、必ずしもセットではないことが明らかになってきました。

 ポズナーとワイルの本は、まさにこのような「世界理解の揺らぎ」の時期に登場したもので、「市場原理は守りつつも所有権の絶対性は弾力的に捉える」という理解が可能かどうかを試す、思考実験だと思われます。英文タイトルのradicalやuprootは、いずれも「根源的に考え直す」ことを意図する語で、それらは必然的に「過激」な内容を含むものにならざるを得ません。

 ・繰り返し準リアルタイム・オークションが可能にしたもの

  共著者が、リスクを取っても過激な議論を展開しようとした背景には、序文で明らかにしているように、ノーベル経済学賞受賞の知らせを受けた3日後に急死したウィリアム・ヴィックリー(1914~1996)による、オークション理論への信頼があります。オークションは、希少な財貨の競売や公共工事の入札などでは古くから利用されてきましたが、ICT(情報通信技術)の驚くべき発展とともに、その応用分野を拡大しています。

 米国では、私がニューヨークに滞在した1990年代前半に、従来は「専門家による審査」(俗称「美人投票」)というプロセスで政治的に決定されていた周波数の割り当てに、オークションが導入され威力を示しました。今日では、インターネットの発展とともに中古品の売買などに広く適用され、広告市場ではリアルタイムに近いオークションが当たり前になっています(そのため、広告市場と広告による無料情報市場という「両面市場」が成立し、後者の倫理が広告市場に支配されるといった問題も生じています)。

 オークションの仕組みは、インターネット上では「繰り返し、リアルタイムに近い形」で行なうことが可能になるので、以下のようなことができるといいます(邦訳書、pp. 26~28)。① 従来は相対で取引するしかなかった私有財産を公開し広く取引の対象にできる、② 常時開設されているので頻繁に取引できる、③ 買い占めの意味がなくなり貧富の格差が縮小する、④ 取引過程が透明化され政治的介入を排除できる。

・COST(Common Ownership Self-assessed Tax)

 共著者は、オークションの仕組みを財貨の取引という伝統的市場に応用するだけでなく、選挙システムや移民労働者の市場、企業ガバナンスの市場、現在無料サービスになっているデータ取引の市場など、およそあらゆる価値の交換に利用できる(あるいは新しい市場を開設できる)はずだ、というradical な議論を展開しています。

 しかし、その基本になるのは伝統的な財貨の取引ですので、まずはそこで提案されているCOST(共同所有自己申告税)に限って、説明しましょう。監訳者の安田准教授の簡潔な要約によれば、COSTは以下のような仕組みです(邦訳 p. 419の表現を一部修正)。

①現在保有している財産の価値を自ら決める、
②その価値に対して政府が一定の税率分を課税する、
③ ①の価値より高い価格の買い手が現れた場合には、
 1)①の金額が現在の所有者に対して支払われ、
 2)その買い手に所有権が自動的に移転する。

 この仕組みに従えば、「財産を所有して他人の利用を排除する」所有権に拘ることは、趣味や希少財の世界では引き続き有効です(誰にも「これを持っているのは世界で私一人だけ」と誇りにしたい品物があるでしょう)が、財貨一般に関して所有権に拘泥することは合理的ではなくなります。なぜなら、税金を安くしようとして価値を低位に設定した人は、常にオークションで買い取られるリスクを覚悟しなければならないし、逆に見せびらかせたいだけで高値の申告をすれば、それに連動して高額の税を負担しなければならないからです。

 つまり旧来の所有権の経済的機能のうち、利用価値は生き残りますが交換価値は減退し、権利としても「所有権」ではなく「利用権」があれば良い、という状況に変化します。これまでの所有権中心の発想では、「物を持つ」ことがなければ「物を利用する」ことができないか、極めて不便な状況でした。しかしCOSTの世界では状況は改善され、「いつでも利用できる」ことを前提に権利のあり方を考え直すべきだ、と主張したいのでしょう。

 こうした主張は理論的に可能なだけでなく、一般にシェアリング・エコノミーと呼ばれているUber やAirbnb という「所有しないで利用するだけ」サービスの形で既に実現されているので、説得力があります。法律的に見れば所有権の機能は、① 自分で利用する(使用)、② 他者に利用させて収益を得る(収益)、③ 売却して換金する(処分)の3つですが、従来利用度が低かった ② の機能が、ICTの発展で重要度が増したと考えれば、当然のことともいえます。

 しかも、こうした利用形態はインターネットを前提にしているので、市場原理は後退するどころか、ますます使い勝手を広めていきます。「市場は所有権と表裏一体のはずなのに、所有権を制限しつつ市場原理は守る」という一見矛盾しそうな論理が、実は最も現実に即したものであるのは、まさにこのためです。「結論を言ってしまえば、大規模な経済を組織するアプローチとして、市場に対抗する選択肢はない」(p. 56)というのが、共著者の揺るがない理解です。

 ・所有権の排他性をゼロ・イチから解き放つ

  ただし共著者は、現在の市場は期待通りには機能していないとして、大胆な改革を求めてもいます。市場原理の良さは、「自由」「競争」「開放性」にあるのに、「富める者がますます富む」「IT市場を支配した企業が経済全体を支配する」度合いが高まったため、理想は裏切られています。それどころか、「新自由主義経済は、格差と引き換えに経済の活力が高まると約束した。結果として、格差は広がったが、活力はかえって低下している。これを『スタグネクオリティ』(stagnequality)と呼ぶ」(p.46)として、厳しく批判しています。スタグネクオリティとは、stagnation(停滞)とinflation(インフレ)の合成語である「スタグフレーション」に倣って、前者とinequality(格差)を結び付けたものです。

 上記の記述を法学的に翻訳し、私流の情報法的解釈を施せば、以下のようになるでしょう。a) 所有権は財の市場取引を可能にする機能を持つ優れた仕組みではあるが、b) 同時に所有者に「他者を排除する権利」を付与することになるので、独占を誘発しやすい欠点がある。また、c) 本来コモンズ的性質を持つ情報に所有権アナロジーで対処したところ、d) GAFA独占のような19世紀末の独占を上回る集中が起きた。結局、解決法としては、d) 所有権をアンバンドルして「他者の利用」が可能になるよう排他性を弱める必要がある、となるでしょう。

 これは、著作権に関して私の ⓓ マークやレッシグが考案したcreative commonsのように「弱い排他性」あるいは「共同利用が可能な排他性」を工夫するという発想の延長線上にあります(拙著p. 248 以下と、本連載の第49回を参照してください)。しかも、レッシグや私が考えることができなかった「所有権そのものの情報法的代替案」を提示したという意味で、画期的なものです。この提案を知ったからには、拙著の大部分を書き換えたくなるようなradical(根源的で過激)なもので、大いに刺激を受けました。

 しかし法学者として唯一の不満を言えば、邦訳書のサブ・タイトルを「脱・私有財産の世紀」ではなく、「脱・所有権の世紀」としてもらいたかったところです。しかしこれは、経済学から学問に入って、法学に回帰した私の「繰り言」にすぎないかもしれません。

古藤「自然農10年」(12)

不公平ただす頂門の一針か 続ウイルス考

3月7日の札幌市中心市街の道

 世界の富豪2153人が2019年に独占した資産は、最貧困層46億人の持つ資産を上回った(国際非政府組織「オックスファム」)。これほどの不公平が史上あったのかどうか私は知らない。しかし、新型コロナウイルスはその不遜な不公平を刺す頂門の一針の様に世界経済と株価に冷水を浴びせている。北海道の一人旅から無事帰宅できた私は、なお周囲を死に至らしめる可能性を持つ保菌容疑者として自宅に閉塞させられている。そこから見る混乱の世界風景は、ヒトや生き物が住む地球を、より生きやすい環境にするための自浄作用の一つのようにも思える。広がり続ける新型ウイルス騒ぎを棚田からながめ、不遜を恐れず再び考えてみたい。

 自然農は自然への負荷を少なくしようとつとめる。肥料、農薬を使わず、耕さず虫や草を敵とせず、機械、ガソリンの使用を最小にする。鍬と手鎌で育てる米や野菜は大量生産など望むべくもないが、世の人たちがほとんど手に出来ない豊かさを得ている。それが収穫する米や野菜の健康な生命力である。

・「普通の田んぼとは違うとたい」

 私に自然農を教えてくれた故松尾靖子さんの実父、家宇治守さんは私が広い棚田で自然農を始めるとき畝づくり、水深を一定にする土の均し方、水路づくり、水のため方まで親身に教えてくれた。戦前、戦後を小作農で苦労したお百姓は最初、娘の自然農を小馬鹿にした。しかし、娘の後を追うように亡くなったころは自然農を誰より信奉する人に変わっていた。「もっと早う知っとけば良かった」、「(自然農するのに)忙しゅうして死ぬる暇がなか」と周囲を笑わせていた。ある時、私の棚田をしげしげとながめ「美しか。葉が光っとるやろうが。普通の田んぼとは違うとたい」と感に堪えたように言った。

 その時はよく分からなかった。味や香りの違いは認識できても、姿や色の違いが分かるには少し時間がかかった。人は栄養で命をつなぐといわれるが、何より重要なのはその元気な命。放射能の様に何も見えない力だが、その命の力でしか免疫力、病気を治す抵抗力を体に取り込むことは出来ないと、いま信じて疑わない。

 利益、効率一辺倒に経済発展をひたすら目指す現代社会は決して人類を幸せにしてくれないとも思う。そのように説く川口自然農は欲望の社会の「むさぼる心」を強く否定する。いま新型コロナウイルスは、あたかもその自然農の方向を世界に強要するかのように働き、利益の追求や物、人の自由な動きにストップをかけ国際経済に激しく待ったをかける。

 また、川口自然農は、たとえ正しいと信じても、自然農に興味を持って近づいてこない人に説得、強要してはならないと戒める。自分の生き方を変えるだけでよい。後は自然に任せ、その結果を甘んじて受け入れる。自然に添い従う自然農の哲学である。

・激しく人を責めるコロナウィルス

 とはいえ、この経済、科学の急膨張と現在の繁栄はすべて人類が懸命に命をつなぎ、家族や仲間の豊かな暮らしを求めて歩いた結果でもある。サイトを主宰する矢野氏が時々とりあげるユヴァル・ノア・ハラリの人類史によれば、38億年前に生まれた細菌のような生命が気が遠くなる長い年月をかけて7万年前に噂話と陰口ができるヒトへと認知革命を成し遂げ、約1万2千年前の農業革命で豊かさへの流れを加速させた。そして500年前、それまで神の教えによって真理のすべてを知っているとした認識をなげ捨てて、ヒトがいかに無知であるかを悟った科学革命が大飛躍の原動力になったとする。

 1784年、ジェームス・ワットが蒸気機関を発明して産業革命が始まって以来、それまでとはまるで異なる速さで経済が発展し人口増は爆発した。その中で大変貌を遂げたのが人類の命を支える農業である。大量で多種多様な薬剤を使い、肥料と大型機械の導入によって農業者の数は激減したのに生産力は増大し続けた。この200年間で世界の人口が10億人から73億人に増えたそうだから、農業生産もざっと7倍に増えてたことになる。その陰で家畜は機械化、工場式生産方式で毎年、500億頭が最小のスペースの囲いと最小の生存期間で殺される。膨大に生産される食べ物は大事な生命力をしっかり持っているのか。

 ヒトにとってさらに切実なのが⑨回目で書いた大気汚染である。地球大気の99.9%以上が地球温暖化に影響しない窒素、酸素、アルゴンである事実が、ごく微量の二酸化炭素ガスが原因であるはずがないとする反対派の大きな根拠になり、トランプ米大統領もその尻馬に乗る。しかし、そのわずかな二酸化炭素ガスこそ地球の温暖化と密接につながっていることが南極の深い氷床コアに閉じ込められた気泡の分析で明らかにされたのである。

 気象学者のレイモンド・ブラッドレーが温暖化を虚偽とする勢力から非難の矢面に立たされたことは⑨回に紹介したが、彼の著書によれば、アメリカの研究チームが掘り出した南極の氷床コアで85万年間の気温の変化と二酸化炭素の変化がたどられた。その全期間を通じて二酸化炭素ガスの濃度は180ppmを下回ることがなく280ppmを超えることがなかった。地球の大気は何らかのバランス作用で平衡を保ったと考えられる。その二酸化炭酸ガスが現在、400ppmを超えている。

 ブラッドレーのさらに怖い警告は、地球大気の自然な状態では二酸化炭素ガス量が長い年月をかけ緩やかにしか変化しないという所見である。たとえ今、膨大になった化石燃料の使用をすべて止めたとしても二酸化炭素ガス量が100ppm減るのには1000年かかると彼は警告している。

 いかに猛威を振るおうと新型コロナウイルスは所詮、宿主である人間がいなくなれば自らの存続も保てない。今後も新たなウイルスがヒトを攻撃し、そのたびに人類は危機に立たされるが、緩やかに時間をかけてヒトとウイルスが共存する道しか双方の安泰はない。それが学者、専門家の一致した見解だ。進化と文明発展の速度を上げ続ける人類、その歩みを緩めるのか緩めないのか。自然農とは異なって激しくヒトを責める新型コロナウイルスはヒトにそう問いかけているように思えてならない。

 

新サイバー閑話(43)<よろずやっかい>⑨

加速する時間のやっかい

 今回のやっかいは、高速で動くコンピュータおよびインターネットの恩恵を受けながら、そのスピードがあまりに速いために私たちの日常的なリズムが追いつけないことに起因する。コンピュータを使いこなすというより、むしろそのスピードに振り回される「やっかい」である。

 その1つの例が、<よろずやっかい>⑥でふれた「等身大精神の危機」だろう。一瞬のケアレスミスが何百億円に上る被害をもたらしたわけで、軽い「引き金」が重大な「結果」を引き起こす高速コンピュータの〝暴走〟。これにどう対すればいいのか。

 個人的にはコンピュータの扱いにもっと慎重になる、画面の警告音を見逃さないという心構えが大事であり、社会工学的には、1つのアクションをより肉体感覚と連動するものにするといったシステム設計が必要になるだろう。

 コンピュータの誤作動を引き起こすバグはなくしてもらわないと困るが、そうでなくても、スマートフォンで住所録の他の宛名にひょっとふれて間違い電話をしてしまったり、翌日になれば怒りがおさまるほどの些細なことがらを感情の赴くままに書きつけ、そのまま送信して炎上という事態を招いたり……、電子の文化のスピードにはついていけないとつぶやく人(とくに高齢者)も多いはずである。やっかいと言えば、まことにやっかいである。

 サイバーリテラシーに引き寄せて言えば、コンピュータをどう使いこなすかという知識(スキル)だけでなく、コンピュータとはどういうものか、それを扱うにはどのような心構えが必要か、コンピュータにまかせない方がいい領域は何か、というリテラシー(基本素養)教育が必要ということにもなる。

 私は林紘一郎さんに誘われて、横浜の情報セキュリティ大学院大学の経壇に立ったことがあるが、当時、こういうことをすると危険である、それは法に違反するという「脅しのセキュリティ」だけでなく、こうすれば快適なIT生活が送れるという「明るいセキュリティ」も大事ではないか、という話をしたことを思い出す。

 このシリーズは「インターネット徒然草」と自認するエッセイ集みたいなものである。「つれづれなるまゝに、ひぐらしパソコンにむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」。そして、前回の⑧は「おぼしきこと言はぬは腹ふくるるわざ」という思いが強かったけれど、今回、念頭に浮かんだのは、芥川龍之介の『侏儒の言葉』の一節である。

人生を幸福にする為には、日常の瑣事を愛さなければならぬ。雲の光り、竹の戦ぎ、群雀の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に無上の甘露味を感じなければならぬ。

 対象が自然と技術の違いはあるけれども。インターネットを無視して生きていくことはできない。もっとも後段でこうも言っている。

人生を幸福にする為には、日常の瑣事に苦しまなければならぬ。雲の光り、竹の戦ぎ、群雀の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に堕地獄の苦痛を感じなければならぬ。

・『ネットスケープタイム』

 以下、コンピュータおよびインターネットがもたらした時間の変化、加速するスピードについて考えてみる。 

 インターネット初期に「ドッグイヤー」ということが言われた。IT企業1年の成長発展は従来の企業の7年分に相当するという意味である。今はもっと速くなっているかもしれない。

 1995年はインターネットが社会に普及したという意味で「インターネット元年」と呼ばれるが、そのころ活躍したジム・クラークという一起業家が書いた自伝的書物は、ITがもたらしたスピードの変化の生々しい記録である。

 インターネットで扱える情報を活字(テキスト)だけの世界から絵や動画まで拡大した閲覧ソフト、ブラウザーの発明こそインターネット飛躍の原動力だったが、最初のブラウザーはイリノイ大学の学生、マーク・アンドリーセンによって開発され、モザイクと名づけられた。

 クラークは、自分が創業したシリコングラフィックス社を退任に追い込まれた1994年、アンドリーセンの名を聞き、直ちにこの若者に電子メールを出して、2人で新会社を作る。モザイクという名は使えなくないので、同じようなブラウザーを開発してネットスケープと名づけた。マイクロソフトのビル・ゲイツもモザイクをもとにしたブラウザー、インターネット・エクスプローラーを開発して追撃、1995年は2つのブラウザーの機能拡張競争が繰り広げられた年でもあった。

 同年、私はインターネット情報誌『DOORS』を創刊し、付録CD-ROMに両ブラウザーのプラグインソフトを収録していたが、毎月、新たな機能追加が行われ、その対応にてんてこ舞いしたものである。最終的にネットスケープはエクスプローラーに負けてしまうが、クラークの本のタイトルはNetcapeTimeだった(邦題は『起業家 ジム・クラーク』水野誠一監訳、2000、日経BP社)。

 ネットスケープタイム。加速する時間こそが勝負だったわけで、彼は「我々のビジネスでは、安定性や安全は、スピードから生まれる。つまり、競争相手より早く製品を市場に出せということである」、「私の頭の中を占領していたのは、スピードそれ自体ではなく、加速のスピード、特に企業のライフサイクルのペースが加速していることであった」と書いている。

 彼によれば、創業から株主公開までの期間は以下のように短縮した。

ヒューレットパッカード 創業1939 株式公開1957(18年後)
マイクロソフト 創業1975 株式公開1986(11年後)
アップル 創業1976 株式公開(4年半後)
ネットスケープ 創業1994 株式公開1995(1年4ヶ月後)

 製品のバージョンアップについて、こんなことも書いている。「ソフトウェアに問題があっても、ちょっと改良したバージョンとして発表し、後はこれを繰り返せばいい。車が衝突すれば、人が死ぬが、ソフトがクラッシュしてもリスタート・ボタンを押せばよいだけなのだから」、「いつも火を噴くようなトースターを製造している家電メーカーは長く生き残ることはできない。だが、バグだらけで有名な製品を市場に送り出すことでマイクロソフト社は大成功を収めている。発展初期の段階にあるテクノロジーでは、その技術の新しさ故に不完全さの苦労が許される猶予期間があるものだ」。

 ビル・ゲイツには散々煮え湯を飲まされたらしく、「私は、個人的に、ビル・ゲイツは、その一見陽気なオタク的外見の下に、殺人的な本能と、飽くことのない攻撃性を抱いていると確信している。彼の反応は、常に凶暴性を帯びているからだ」、「他社より優れた製品をつくることで競争に勝つというやり方でマイクロソフト社がトップに立ったことは一度もない。なぜなら同社は他社より優れた製品を他に先駆けて世に出したことがほとんどないからである」などと非難している。「今日では、世界を変えようとするのでもなく、何か新しいエキサイティングなことを起こそうというのでもなく、マイクロソフト社に一日も早く買収されるという目的のみを持つスタートアップ企業が増えている」とも。

 このネットスケープタイムがIT企業のみならず、多くの企業のものになった。企業経営ばかりでなく、コンピュータシステムがそれこそ急速に社会に広まるにつれ、私たちの日々の生活もスピード化の波に呑み込まれた。実際、コンマ0秒をはるかに上回る電子の速度で金融取引が行われ、そこでは人間の判断が介入する余地さえない。時間がどんどんスピードアップするのはもはや止めようがない状況である。

・自然農と経頭蓋直流刺激装置

 現代IT社会における時間はいかにあり得るのか。一端に自然のリズムのままに生きる時間があり、他端にコンピュータのスピードと共生する生き方がある。

 本サイバー燈台で古藤宗治氏に「自然農10年」という連載を続けてもらっているが、自然農というのは土地を耕さず、肥料をやらず、ほとんど機械も使わず、土地が持っている本来のエネルギーのおすそ分けで作物を収穫する。生産量は限られているし、1年のサイクルに縛られる。それ以上のことを求めない生き方の典型が第10回で紹介されている。

 私もある初夏、畑を見せてもらったが、むんむんとする草いきれと、農作物のまわりを飛び交うチョウの群舞に懐かしい思いがした。弥生式農業以前の農業と言ってもいい。ここには現代においても経験できるのどかな時間がある。

 その対極にあるのが、コンピュータの力を借りたスピードの世界である。ハラリの『ホモ・デウス』に、米軍が訓練と実践の両方で兵士の集中力を研ぎ澄まし、任務遂行能力を高めるためにやっている実験が出ている。経頭蓋直流刺激装置という、いくつもの電極がついたヘルメットをかぶると、微弱な電磁場が生じ、脳の活動を盛んにさせたり抑制したりするのだという。

 某誌の記者がその実験を体験した話が出ている。

 最初はヘルメットをかぶらずに戦場シミュレーターに入ったら、自爆爆弾を装着し、ライフル銃で武装した覆面男性20人がまっしぐらに向かってきて、「なんとか1人撃ち殺すたびに、新たに3人の狙撃者がどこからともなく現れる。私の撃ち方では間に合わないのは明らかで、パニックと手際の悪さのために、銃を詰まらせてばかりだった」。そのあとヘルメットをつけると、「20人の襲撃者が武器を誇示しながらこちらに駆けてくるなか、私は落ち着き払って自分のライフル銃を向け、間を取って深呼吸し、最寄りの敵を狙い撃ちにしたかと思うと、そのときにはもう、静かに次の標的を見極めていた」、ほんの一瞬の出来事のように思われたが、すでに20分が過ぎ、彼女は敵20人全員を倒していた。

 コンピュータを使えば、通常の頭の回転スピードを上回る速度を獲得できるということだろう。こういう装置はどんどん開発が進み、私たちはそれらで武装し、いよいよ「ホモ・デウス(神の人)」になっていく、というのがハラリの予想だった(博学の発明家、レイ・カーツワイルの「ポスト・ヒューマン」が典型的である)。

 コンピュータに限らず、文明の発展にともなって私たちの時間が加速しているのは間違いない。足で歩く→自転車に乗る→鉄道を利用する→車→飛行機と、交通手段の発達はまさにスピードアップの歴史であり、電信、電話などの通信手段もまた時間の克服に大きく貢献した。

 スティーヴン・カーンはTHE CULTURE OF TIME AND SPACE(1880-1918)(1983、翻訳は『時間の文化史』『空間の文化史』の2分冊、浅野敏夫他訳、法政大学出版局)で、「1881年頃から第1次大戦が始まる時期において、科学技術と文化に根本的な変化が見られた。これによって時間と空間についての認識と経験にかかわる、それまでにない新しい様態(モード)が生まれる。電話、無線、X線、映画、自転車、飛行機などの新しい科学技術が、この新しい方向づけの物的基盤となった。一方で、意識の流れの文学、精神分析、キュビズム、相対性理論といった文化の展開がそれぞれに、人の意識を直接形成することになった」と述べている。

 私は常々、サイバー空間の登場は人類史を2分できるほどの出来事である(BC=Before CyberspaceとAC=After Cyberspace)と述べてきたが、その最大の特徴は飛躍的スピードの増大にこそ求められるかもしれない。

・快適な時間とはどのようなものか

 IT社会を快適(幸福)に生きるためには、結局、高速化する社会(サイバー空間)との距離をうまく取る才覚が必要だということになりそうである。

 個人にとって快適な時間とはどのようなものか。

 のんびり屋、せっかちなどの性格にもよるし、年齢にもよる。年齢にはその人が生きてきた時代の時間が大きく影響しているだろう。若いころ感激し、あるいは血沸き肉躍る経験をしたハリウッド映画を見直してみると、やはりかったるい思いをする。私自身、学生時代に感激した『ウエストサイド物語』にそれを強く感じた。一方で、ゲームをしている孫の手の動きを見ていると、驚くほど速い。

 これは一部のSFファンの間では有名な話のようだが、『銀河ヒッチハイク・ガイド』などの作者が提唱した「ダグラス・アダムスの法則」というのがある。

人は、自分が生まれた時に既に存在したテクノロジーを、自然な世界の一部と感じる。15歳から35歳の間に発明されたテクノロジーは、新しくエキサイティングなものと感じられる。35歳以降になって発明されたテクノロジーは、自然に反するものと感じられる。

 年代区分はともかく、マーシャル・マクルーハン的な警句として興味深い。たしかに、インターネットはもはや大半の人には技術というより所与の環境になっている。この説に言及した「いまIT社会で」は異論も紹介しているが、これも時代とともに快適な時間が変わっていくことと関係しているだろう。

 個人差はあるけれど、個々の人間にとってそれぞれの快適な時間、速度(スピード)があるというのも確かだと思われる。

 たとえば、バイオレゾナンスというドイツ発祥の治療法では、病気の原因となる体内の気(エネルギー)には固有の周波数の波動があり、同じ周波数の波動で共鳴を起こすと、気の滞りが解消、病気が治ると言っている。「滞りと同じ周波数の波動による共鳴現象によって滞りが消えて再び気が活発に流れるようになる、これが健康を取り戻すということだ」(ヴィンフリート・ジモン『「気と波動」健康法』2019、イースト・プレス)。

 個人差もあり、それは日によっても異なるけれど、その人固有のリズムというものを大事にすることが、目まぐるしく変化するIT社会においてはとくに重要である。それが才覚である。そのためには、四六時中、つまりひぐらしパソコンやスマートフォンにかじりついて、サイバー空間の影響を受け続けるのではなく、一定の距離を置く。つまり、日々の生活の軸足を現実世界に置く意識を忘れない。そうすれば、インターネットの影響を少しは対象化して考えることもできよう。ファーストフードに対してスローフードの運動もあるように、人それぞれに自分にあうスピードを大事にするしかない。

 <よろずやっかい>➆の最後にふれたように、技術がもたらした問題の多くは技術によって解決できるはずである。サイバー空間と現実世界の接点における快適な時間の確保ということに関しても、秀逸な<よろずやっかい解決アイデア>が求められるとも言えよう。ノーベル賞級か、あるいはイグノーベル賞級の。

 ちょっと話がそれるが、この稿を書き上げたころ、友人が「最近の政治の動きは腹立たしいばかりで、ときどき藤沢周平の小説や小津安二郎の映画を見るようにしている」と言っていた。たしかに小津安二郎の映画にはゆっくりした時間が流れている。「君、どうなの?」、「どうってこともありませんわ」、「そうかねえ」、「そうですよ」なんていうセリフも懐かしい。

 当面は才覚で切り抜けるしかない、やっかい

 

古藤「自然農10年」(11)

新型コロナウイルスの札幌へ一人旅

 新型コロナウイルスが「フリーズ!」の警告を発したように日本中の自由な動きを止めている。そんな3月6日(2020年)、感染者が群を抜いて増える北海道へ3泊の旅へ出た。幸い異状なく帰宅したが、妻からみれば要警戒の保菌容疑者。当分は家でもマスク、仲間の集まりにも出席がはばかられる身になった。

 何故そんな旅になったか、1年前、元上司の偲ぶ会に出席して上京したことに始まる。折角の機会だと東京の次男だけでなく山形の長男にも声をかけて都内で飲んだ。わが家の男だけで飲むは初めてだが意外に盛り上がった。

 気をよくして農閑期の行事にし、今年の会場は札幌に決めた。長男は札幌生まれだが、生後間もなくの私の転勤以来、再び北海道に戻る機会がなかった。それで、雪まつりの混雑を避けて3月最初の週末、すすきの集合にした。

 そこに、この新型コロナ騒ぎだ。直前の2月27日に全国の小中高はすべて休校せよと安倍首相が要請した。その翌日、道知事は緊急事態宣言を出して3人会を予定した週末は外出を控えよと全道民に要請したのである。

 長男は周りの主婦たちから何でこの時期に札幌へ、と迫られて楽しむ気分も萎えたのか、最初に降りた。保菌者で帰れば確かに迷惑をかける。次男も後に続いて、3人会は中止になった。

 札幌の人口は190万人、北海道の感染者数が国内で一番多いとはいえ、道内あちこちに66人の散在だ(当時)。行けば即感染というわけでもなかろう、キャンセルなしの早割航空券を捨てるのも勿体ないと、一人出かけることにした。

 福岡から新千歳に向かう飛行機はがらがら。とくに年寄りは私だけだった。前日までの寒波が去ったすすきの繁華街は、汚れた雪解け道を歩く人がまばら。小樽では観光客が9割減と人力車の脇で客待ちのお兄さんがあきらめ顔だった。

 有難くも昔の仲間が集まってくれて賑やかな5人会が開けたが、わが家の男だけ3人会はこうして消し飛んだ。

3月7日、人もまばらな小樽運河

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 前回、人類がウイルスなどの微生物の世界をいかに知らないか、を書いた。集団感染が新型コロナウイルスによるものと中国が1月9日に公表したことにもふれたが、中国の感染対策が本格化するのは、人から人への感染を正式に認めて、習近平国家主席が直接、陣頭指揮に乗り出した1月20日からのようだ。

 これ以降は、延べ20億人が動くといわれる春節(旧正月)の移動に大ブレーキが掛けられた。武漢は封鎖状態になり国内外への団体旅行が禁止された。中国の感染拡大はその後も続くが、日本の観光地に大打撃を与えたこの封じ込め強硬策が結果的に日本への飛び火を救ったと思われる。

 周辺国では陸続きの北朝鮮が真っ先に動き、1月22日から中国観光客の入国をすべて拒否、台湾も同日、武漢からの団体客を受け入れないと発表した。しかし、奈良の観光バス運転手と添乗員が国内での感染者となった1月29日、日本政府はまだ動かない。運転手らは出国が禁止される前の武漢からのツアー客を乗せていた。

 WHOが1月30日、新型肺炎は世界的拡大と緊急事態宣言を出した。その翌日、日本政府は湖北省滞在者に限定して入国を拒否すると発表、渡航は抑制というゆるい要請だった。アメリカは同じ日、中国全土への渡航禁止を勧告した。

 2月13日には神奈川の80歳女性が新型肺炎で死亡したが、中国への渡航歴はなく感染経路は全く不明だった。死亡の前日にウイルス検査を受け、陽性と確認されたのは死亡後だった。渡航歴がなく肺炎患者との接触も確認されない感染者が他にも3人見つかり、水際防疫がすり抜けになっていることは明らかになった。

 結局、中国からの入国者はウイルス潜伏期間の14日間、指定場所に待機させるという事実上の入国阻止を発表したのは、国賓として4月に迎える習主席の来日を五輪以降と正式に延期した同じ3月5日だった。

 こうして見てくると、安全保障の強化を旗印に憲法改正へ前のめりの安倍政権だが、国民の命と健康に直結する防疫、感染症対策では危機管理の体制や十分な備えを用意しているとはとても思えない。首相周辺の場当たり的な判断で迷走したように思う。

 自然農の農業者としては、食の安全や食糧自給率も心配だ。欧米に比べ無いに等しい農薬、添加物の使用基準。種子は国際企業に独占され、一朝ことあればどうなることか。国民の命と健康に直結する問題として新型ウイルスと同じくらい心配している。

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 上の原稿をサイトの主宰者、矢野直明さんへ送ったら「なぜ、こうまで北海道にこだわったのかを書き加えて」とメールをいただいた。

 私は1978年(昭和53年)夏、朝日新聞西部本社から北海道支社へ交流人事で転勤した。それまで西部整理部で4年間ご一緒だったのが矢野さんである。私はきれいに忘れていたが、フェリーで旅立つのを見送った思い出があると、同じ矢野さんのメールにあった。

 読みながらジーンと胸が熱くなった。ミスばかりする拙い部員だった私を先輩たちが温かく見守ってくれていたことが改めて思い出された。

 そうだった。車に妻と幼い長女を乗せ、小倉の港からフェリーを乗り継いで札幌へ向かった。今回、原稿につける写真を何気なく小樽運河の風景にしたが、敦賀から日本海を渡って最初に足を踏み入れたのが小樽港だったのだ。

 根っからの九州人にとって初めての北海道は毎日が楽しい別天地。その札幌で長男を授かったが、わずか2年で東京整理部に転勤、3年後にそこで次男が生まれた。ろくに子育てをしていない父親が息子との3人会を札幌で、とふっと思いついたのは、はるか昔の深いご縁につながっていた。頭が下がるばかりだ。

林「情報法」(57)

新型ウィルスとコンピュータ・ウィルス

 新型コロナ・ウィルスによる感染症が、世界中を不安にさせています。コンピュータ・ウィルスが主原因であるサイバーセキュリティ事案は、病原体としてのウィルスのアナロジーで語られることが多いのですが、果たして両者はどこが似ていて、どこが違うのでしょうか? 今回の騒動は未だ収束していませんが、渦中にあるからこそ自覚できる事柄もあるので、今後のための備忘録としてまとめておきましょう。

・メカニズムが分からず確率論の世界になる

 今回の2019新型コロナ・ウイルス(Covid-19)は、感染力がかなり強い反面、発症率はさほど高くないといえます。しかし、検査体制が整っていない中で発生し、潜伏期間が数日から2週間程度あるので、その間に感染が拡大したと思われます。加えて、検査陽性者の80%は自覚症状のないまま、あるいは軽症のまま治癒するものの、一部はその間にも感染源となっているようです。

 更に、死亡率は現在進行形で確定できませんが、約2%~3% 程度と言われ、2002年に発生した「重症急性呼吸器症候群(SARS)」(約10%)や2012年以降発生している「中東呼吸器症候群(MERS)」(約30%)に比べると1桁下で、一般的なインフルエンザ死亡率の1%未満に近いものですから、それほど心配すべきものではなさそうです(ただし、私のような高齢者は要注意です)。

 それにもかかわらず、世界中が不安に包まれている現象は、航空輸送の発達で商用・観光を問わず人的交流が活発になった結果、中国を発生源とする病気が瞬く間に世界中に拡散するので、「他人事」とはいえないためでしょう。しかし、より根本的には、ウィルスが人の健康に及ぼす害悪のメカニズム(いったん罹患すれば抗体ができて安全なのか、免疫力が低下すれば再発するのかなど)が解明されていないためと思われます。

 そのため、簡便な検査キットや安価で保険が適用される治療薬が未開発で、「医者にかかっても治るかどうか分からない」という不確実性が不安心理を助長しているのです。「予防手段はインフルエンザ対策と変わらない」と言われても、「人から移されるのは不運と諦めよ」という確率論的状況では、不安が募るばかりです。それがマスクの不足だけでなく、トイレット・ペーパー騒ぎなど一種の「パニック」に近い状況を生み出しています。

 しかも、経済も政治も「心理」で動く要素がある以上、パニックが現実を動かしてしまう危険があります。株価の乱高下はその象徴でしょうし、外出しない・買い物をしない・イベントや旅行は回避する、といった行動が広まれば、それこそ実体経済が悪循環に陥ってしまいます。公衆衛生やリスク管理の専門家は「正しく恐れる」ことを推奨しますし、それはそれで正しいのですが、忠告通り実践するのは「言うは易く行なうは難し」の落とし穴にはまってしまいます。

・ベスト・エフォートからベスト・プラクティスへ

 ここで大切なことは、「不可能を強いる」ことではなく、「出来ないことは認めて将来の改善に期待する」ことではないでしょうか? リスク管理の教科書で「後知恵」(hindsight)を戒めているのは、大事な点だと思います。「後知恵」は知恵として蓄積する必要がありますが、リスクに直面している現時点では「やるべき手を尽くす」ことと、その「正確かつ客観的な記録を取る」ことに、全力を集中すべきでしょう。

 「やるべきことをすべてやる」「正確で客観的な記録を残す」を両立させることは、簡単なようでいて、意外なことにわが国ではほとんど実績がありません。そこには2つの課題があり、まず1つは、今風に言えば「インスタ映え」するか否かです。医療現場で治療に携わることは使命感に訴えるものだし、テレビで報道されるかもしれません。つまり「インスタ映え」の要素があります。これに対して現場で記録係を命ぜられたら、意気消沈するかもしれませんし、少なくともテレビ報道には向かない地味な仕事ですが、これも医療行為と同等の重要性があるのです。

 この点を敷衍すると、連載の第52回で紹介した「失敗学の失敗」という第2の課題が浮かび上がります。わが国においては、チェック・アンド・バランスの重要性に対する認識が薄く、「監査役」を「閑散役」として遊ばせています。しかし、西欧先進諸国のコーポレート・ガバナンスでは、監査役会が最高意思決定機関であるドイツ型や、取締役が執行役と分離されて監査役と変わらないアメリカ型、などが主流です。つまり、これらの国々では「業務の執行」には不正や不当事項が含まれる危険を認識し、その最小化の仕組みを組み込もうとしているのです(それでも不正・不当は無くなりませんが)。

 その際に大切なことは、何よりもまず「正確で客観的な記録を残す」ことです。そのような国々では、わが国で起きるような「記録係はやりたくない」といった風潮とは違った文化があると思われます。残念ながら、そのような文化的背景に欠けるわが国で、「失敗学」を導入しても、その証拠が集まらなかった、というのが連載52回の教えでした。

 この点は、次のように言い換えることもできそうです。インターネットが普及する過程で、標語の1つとしてbest effortが流行しました。それ以前のguarantee型ネットワークは、端から端まで(end-to-end)電話会社が接続を保証する一方で、コンピュータを接続して良いか否かなどを一方的に決めるシステムでした。インターネットはそうしたお仕着せを改めて、利用者がエンドにコンピュータを置いて、誰と接続するかも含めて自由に接続できる(同じエンド・ツー・エンドをe2eと書きます)システムに変更し、同時に接続保証もbest effortで良いとしたのです。

 しかし、ベスト・エフォートは、「保証システムではない」というだけで、それ自体から品質レベルが示されるものではありません。事実、「自律・分散・協調」を旨とするインターネットのアーキテクチャの脆弱性を突いて、次々とサイバー攻撃(ウィルスを含む)や有害情報の流布が繰り返されるようになってしまいました。そこで現在では、best effortという語は次第に使われなくなり、サイバー対策ではbest practiceという語が使われる頻度が高まっています。前者は静的ですが後者は動的な概念で、攻撃に対して良かれと思う施策をその都度実施し、その経験が有効ならマニュアルやガイドラインなどに収録して、その後の普及を図るというものです。

 新型コロナ・ウィルスに対する、一見対症療法に過ぎないと思われる施策も、このような文脈で見ると、将来に向けての経験の蓄積と評価できる面があるのではないでしょうか。そのためには、「正確で客観的な記録を残す」ことが不可欠です。

・専門特化した学問は総合し実践しないと役に立たない

 退職して「毎日が日曜日」になったので、暇に任せてテレビを見ていると、新型コロナ・ウィルスに関して専門家という肩書の人が多数登場し、興味を惹かれました。その数の多さにも驚きましたが、更にびっくりしたのは専門家の「専門」が細分化していることでした。研究者と臨床医の違いはもとより、同じ研究者でも疫学研究者とワクチン開発者の間、同じ臨床医でも呼吸器系の医師とその他の部門の医師との間、あるいは大病院の医師と診療所の医師の間、などの随所に「見えない壁」があるのを感じました。

 これは批判すべきことではなく、学問や治療体制が進歩した結果の必然で、それほど専門分化していればこそ、最先端の治療や予防が可能になっていると、ポジティブに捉えるべきでしょう。しかし、このことは逆に「専門家とは誰のことか」という疑問を生み、特に「専門家会議」に緊急対策策定のかなりの権限を委ねざるを得ない現状では、「有識者として誰を選任すべきか」がカギになることを暗示しています。私も有識者の一人として、サイバーセキュリティ戦略本部員を務めた経験から、他人事とは思えませんでした。

 今回の専門家会議の人選でも、政府はバランス論に十分配慮したことと思われますが、テレビの解説から垣間見た限りでは、上記の「見えない壁」がある種の支障になっていることは、否定できないように思われます。そして、この点は、アメリカの疾病対策センター(Center for Disease Control and prevention)のような常設機関がないと、克服できないように思われました。

 このような感慨を抱いたのは、サイバーセキュリティに特化した政府機関である内閣サイバーセキュリティセンター(NISC = National center of Incident readiness and Strategy for Cybersecurity)との長い付き合いがあるからかもしれません。わが国のサイバーセキュリティ対策は、先進諸国に比して遅れていることは否めませんが、NISCがその前身を含めて約20年間にわたってサイバーセキュリティに特化し、そこに専門は違うがセキュリティ対策という共通の目的を持った人材を結集してきた実績は、何物にも代えがたい財産(特に、内閣官房に置かれていながら、GSOC = Government Security Operation Centerという現業部門を内部に抱えていることは、実践の重要性を忘れない決め手)になっています。

 技術革新と学問の進歩に伴って、一人が決められる専門分野は次第に狭くなっていきます。それは「やむを得ない」とする一方で、タコつぼに陥らず、関連分野の専門家と広く交流を深め、総合的な判断ができる体制を整備することが如何に大切かを、新型コロナ・ウィルス事件が教えてくれたような気がしています。

・サイバーの世界も同じだが、自然現象と故意とは違う

 以上を要約すると、「メカニズムが分からず確率論の世界になる」「ベスト・エフォートからベスト・プラクティスへ」「専門特化した学問は総合し実践しないと役に立たない」の3点は、病原体としてのウィルス対策にも、コンピュータ・ウィルス対策にも共通の重要事項である、ということになりそうです。

 しかし、病原体としてのウィルス対策が、自然現象であり人の意思に無関係である(生物兵器としての利用は別ですが)のに対して、コンピュータ・ウィルス対策は、クラッカーという故意犯の行為に対するものである点で、大きな違いがあります。

 その限りで、刑法的・犯罪学的あるいは刑事政策的配慮が必要になるからです。前述の3つの共通項のうちでも、「ベスト・エフォートからベスト・プラクティスへ」をそのまま適用できず、刑事政策の視点からは「投資効果を無視してでも非違行為を抑止せよ」という強い要請が出るかもしれません。

 このように、ウィルス・アナロジーは十分に役に立つものですが、analogical = identicalではあり得ません。この連載の随所で「所有権アナロジーの限界」について述べたように、法学におけるアナロジーやメタファーには、効用と陥穽とがあります。効用はすぐにわかるのですが,陥穽の方は時として忘れやすいので、十分な注意が必要だと説く学者も多いのです。この連載の前々回(第55回)に紹介した田村さんが、松浦好治さんの『法と比喩』(1992年、弘文堂)を引きながら、その懸念を述べていることにも留意したいと思います。