古藤「自然農10年」(13)

政治家の質もあぶりだす?新型コロナウイルス

 父子3人会が新型コロナウイルスでお流れになって私ひとりが札幌へ出かけた3月6日(2020年)、まさか世界中がこんな様相を呈するとは爪の先ほども想像していなかった。地球規模の感染拡大は経済への打撃にとどまらず国際政治、社会生活にまで激変をもたらし人類史の転換点、これは戦争だとする評論さえ出る事態である。

 首相による全国小中高の休校要請や北海道知事による緊急事態宣言が出される中、これが原因で一人旅になったと恨みがましく書いたが、不明を恥じて反省している。鈴木直道知事の素早い政治判断で2月末から週末の外出を控えるよう全道民に発したメッセージが感染抑制にいかに絶大な力を発揮したか、経過を見れば明らかだ。安倍首相が遅まきながら法に基づく緊急事態宣言を出した4月7日、感染者数1位だった北海道が8都府県より少ない感染者数に落ち着いていた。感染者が急増して首相から緊急事態の対象とされた首都圏、大阪、福岡の7都府県に比べ鎮静化ぶりは際立っている。

 埼玉出身で東京都の職員だった鈴木知事は、都の猪瀬直樹副知事(当時)の声がかりで炭鉱の火が消えて赤字財政に苦しむ夕張市に派遣された。これが北海道との初めての縁だったそうだ。その後、都を退職して2011年4月、自公推薦の候補を破って夕張市長になり、その2期8年の実績で2019年4月、参院議員へくら替えした高橋前知事の後継をめざして自公の推薦を希望、野党統一候補を破って北海道知事となった。

 母子家庭、高卒で都庁入りした後、夜学で法政大を卒業、平明な物言いも合わさって道民の信頼感は厚いという。都の衛生研究所(後の健康安全研究センター)など保健政策、疾病対策が仕事だったそうだから、新型コロナウイルスに襲われた北海道にとっては知識と決断力を持った頼もしいリーダーといえる。

 安倍首相は小中高の休校要請こそ指導力を見せたものの、これも北海道がいち早く公立1665校で1週間の臨時休校に踏み切ったのを受けての決断。その後は、感染対策や窮状の医療支援に照準を合わせた有効な政策は出せないまま経済対策、休業補償で腰が定まらぬ迷走。各方面からの不満が溜まって、その付け払いを迫られた様な国民1人10万円という究極のばらまき政策だ。税金を使って有効な手を打ってこそ政治ではないか。これでは政権が役割を果たせず、ばんざい状態に等しい。

 北海道が感染者数39人で果敢に動き出した時、イタリアの感染者数は300人を超え死者は12人だった。3月10日に全土で外出禁止とされたが対応の遅れから感染者は4月16日現在、16万5155人で死者2万1645人(米ジョンズ・ホプキンス大集計)。アメリカは同じ2月末、死者はゼロ、カリフォルニア州では感染経路の不明な患者が初めて確認されたが、トランプ大統領はただ漫然と楽観論のツイート続けワシントン・ポスト紙が「脅威を小さく見せようとしている」とかみついた。

 アメリカの感染者数はいま63万9664人、死者は3万人を超え(同集計)ともに世界最大である。そんな中、トランプ大統領は自らの責任を棚上げしてもっぱらWHO(世界保健機関)が中国寄りだと攻撃し拠出金を止めると脅している。

 新型コロナウイルスは現代生活が抱える様々な弱点を攻撃する一方で政治家の質まであぶりだしている。治療法はなくウイルスの振る舞いさえ掴めないのだから対策が手探りになるのは仕方がないが、各国が発表する数字でさえ実態を正確に反映しているのか疑念も拭えない。

 騒ぎが収まったかに見える中国だが昨年末から何が起き、どんな対策が取られたのか情報はなお限られている。日本でも肺炎で死亡する高齢者がコロナ判定をしないまま感染を防ぐ名目で家族の対面も許されず火葬されている。今後数年にわたって死因別の統計を見ないと感染死の実態は分からない可能性もあるのだ。

・ウイルスは生命にとって不可避

 生物学者の福岡伸一さんが新型コロナウイルスの振る舞いについて4月3日付けの朝日新聞に興味深い寄稿をしている。見えないテロリストの様に恐れられているが、ウイルス表面にあるたんぱく質が人の細胞膜のたんぱく質とまるで呼び合うように融合する。それは宿主である人の細胞が極めて積極的にウイルスを招き入れているかのような挙動で、双方のたんぱく質がもともと友だち関係にあったと解釈できるという。

 構造は原始的だが、進化の過程からいえばウイルスは高等生物の一部がいわば家出をしてどこかさ迷った後、また宿主へ帰りやさしく迎えられている。それは親から子への垂直的な遺伝だけでなく、場合によっては種を超えて遺伝情報を水平方向へ伝達することが動的平衡を揺らして、免疫システムを改善するなど生物進化に有用だから温存されたプロセスではないかというのだ。

 また文化人類学者の上田紀行さんは中屋敷均著『ウイルスは生きている』を取り上げ(3月17日付の毎日夕刊)、哺乳類の誕生に欠かせない胎盤は、母親と胎児の血液型が異なっても共存できるという特殊な膜のおかげで、その膜で重要な役割を果たすシンシチンというたんぱく質はウイルス由来の遺伝子によることを紹介している。ウイルスに感染していなければ哺乳類も人類も生まれなかった、そう解釈できるというのだ。

 ウイルスは病気や死をもたらすけれども、私たち生命の不可避的な一部であるから根絶したり絶滅したりすることは出来ないと、福岡さんは結論づけている。

 自然をありのままに受け入れる自然農は虫や草と同じようにウイルスも敵とせず共存する相手と考える。家と田畑を往復する日常だからマスクは要らないし、奈良の漢方学習会は外出の自粛要請の中で開かれている。

 ただ、スーパーなど買い物へ出かける時はマスクをする。しないと白い目でにらまれるからだ。

 奈良漢方学習会の帰りの3月31日早朝、伊勢神宮に参拝したが、参道はほとんど人気がなく、私たち4人で広い参道を独り占め状態だった(写真)。

林「情報法」(59)

オークションは世界を変えるか?

 前回に続いて、ポズナーとワイルの論議を紹介します。共著者は、オークションについて一般人が「最高価格を付けた人が、その入札価格で財貨を手に入れることができる」という誤った理解をしていると指摘します。正しくは「私的財の標準的なオークションでは、私が落札すると、この『外部性』によって、別の入札者が財を手に入れられないため、落札した最高額入札者は、落札できなかった第2位の入札者の入札額を支払わなくてはいけない」(邦訳書、p. 59)。こう考えると、「この原理は、私的財の経済的市場だけでなく、公共財を創出する集合的決定を組織する方法も示唆している」というのです(邦訳書 p.59)。果たして本当にそうか、以下の事例を見ていきましょう。

・2次の投票(Quadratic Voting)というRadical Democracy

  資本主義国で生活していると、経済における市場原理と政治における民主主義は、一体不離のものと考えがちですが、「資本主義でも民主主義でもない市場主義」を目指す国が出てきました。また、資本主義がポピュリズムに陥りがちなことは、多くの論者の指摘する通りです。そもそも「多数決原理」で物事を決めること自体が、ある種の「不可能を強いている」ことは、アローの「不可能性定理」の指摘以来通説になっています(単純な例として、3種の提案に対してA > B > C 、B>C>A、C>A>Bという選好順位を持つ3者が、2者択一の投票をすると3すくみとなり、投票順で結果が変わってしまう)。

 しかし多くの人々は、チャーチルが言ったとされる「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」という言葉に、なんとなく納得してきたようです。民主主義に代わる有効な代替案を、提示した人がいないからです。ところがポズナーとワイルは、このテーマに果敢に挑戦しました。彼らの案は、監訳者の安田准教授によれば、以下のようなものです。

具体的には、ボイスクレジットという(仮想的な)予算を各有権者に与えた上で、それを使って票を買うことを許すという提案だ。これによって、有権者は自分にとってより重要な問題により多くの票を投票することができるようになる。その際に、1票なら1クレジット、2票なら4クレジット、3票なら9クレジット——という具合に、票数の2乗分のボイスクレジットを支払う仕組みを提唱し、「2次の投票」(QV)と名付けている。ここで登場する「2乗する」というルールは、単なる著者たちの思い付き、というわけではもちろんない。現在までに購入した票数と追加的に買い足すために必要なボイスクレジットが比例的な関係になる、という二次関数の性質がカギを握っているのだ。その上で著者たちは、一定の条件の下で、QVによって公共財の最適供給が実現できることを示している。

 このような仕組みも、一種のオークションという理解でしょうか。ポズナーとワイルは、2016年の米国大統領選挙でQVを使ったらどうなっていたかのシミュレーションを行なっています。「有力とされていた候補者の中では、穏健派とされていた共和党の候補が勝っていた可能性が一番高い。最終的に勝利したドナルド・トランプは全候補者の中で最下位になっていた。」(邦訳書p.186)と聞けば、QVがどんな効果をもたらすのか、もっと知りたくなります。

・VIP(Visas between Individuals Program)により移民労働者の市場を創設する

 米国でも(不法)移民問題は、論争を招きがち(controversial)な政治テーマです。しかし移民の国だけあって、H1-Bというvisaによって、IT企業を支えるエンジニアなどの技術者を外国から呼び寄せることに成功しています。雇用主が移民労働者の「身元引受人」になることで、米国内に3年間(更新すれば6年間)滞在でき、家族の呼び寄せも可能です。

 ポズナーとワイルは、この制度を拡張し、企業ではなく一般市民が「身元引受人」になれるようにすべきだ、期限もなくて良い、という大胆な提案をしています。ただし、2つの調整が必要であるとします。1つは、移民労働者が最低賃金未満の賃金で働くことを認めること。2つ目は、移民法の執行強化で、既存の不法移民に対しても、市民権を取得する道を開く1回限りの恩赦・身元引受人の選定・強制送還といった措置を組み合わせて、新しいシステムに適合させなければならない、としています。

 米国民の大多数が反対しそうですが、彼らは反対も織り込み済みのようで、2つの反論を用意しています。モデルとしたH1-Bプログラムそのものに反対がないことと、類似のオペア(Au Pair Care、ビザの種類はJ-1。1~2年間、住み込みで育児や家事を手伝いながら現地の言葉や文化を学ぶプログラムで、ほとんど若い女性が対象)の成果を見ると、一般国民でも外国人労働者を身元引受人として管理できるはず、というのです。

 このような提案は、新制度で移民としてやってくる非常に貧しい移民労働者が「新しい下層階級」になる(新しい搾取)という反対に会うことでしょう。それでも共著者は、以下のような反論を準備しています(邦訳書、pp.221~222)。

 

いま、OECD諸国が十分な量の移民を受け入れて、人口が3分の1増えたとしよう。また、平均的な移民のビザの入札額は年間6,000ドルだとする。(中略)OECD諸国の1人当たりの平均GDPは3万5千ドルなので、この提案が受け入れられれば、典型的なOECD加盟国の一般市民の国民所得はおよそ6%押し上げられる。これは過去5年間の1人当たり実質所得の伸び率に匹敵する水準だ。(中略)
移民にもたらされる利益は、それ以上に劇的なものになる。大半の移民は典型的な年間所得が数千ドル以下の国から来ることを考えると、移民によっては所得が5千ドル増えれば(1万1千ドルの利益から6千ドルの入札額を差し引いた額)、所得が何倍にも増える可能性がある。このシナリオの下では、1ドルの利益のうち、約半分がOECD諸国のところに回り、約半分が移民と移民が送金する相手のところに回る。OECD諸国は世界所得の半分を占めるため、グローバル経済もおよそ6~7%成長する。

 それでもなお、反対論は消えないでしょうが、彼らは ① 移住が格差を生み出すのではなく「格差を見える化」するだけで、② ほとんどが恒久的な移住ではなく短期循環型になる、③ 米国内の格差は広まるかもしれないが、米国民間の格差も、世界全体の格差も縮小する、④ 不法移民による地下経済を地上に引き上げ、規制と監視が可能になる、と強気です。

・機関投資家による支配を解く

 初期の資本主義は、文字通り創業者でもある資本家が経営するものでした。しかし次第に資本家は経営から手を引き、20世紀以降の会社運営は「経営者」という専門家に委ねられました(資本と経営の分離)。ここで発生したのが、資本家と経営者の間の利害が一致するとは限らないことから、principalである資本家が、agentである経営者をどうモニターし、意に沿った経営をさせるかという、エイジェンシー問題でした。

 しかも、20世紀前半の資本家は彼自身も事業者でしたが、20世紀後半には大規模な資産運用会社や年金基金などの機関投資家が優勢になってきました。彼らは、ポートフォリオ理論に基づく分散投資をすると同時に、配当や会社価値の最大化(株価値上がり)を期待して、「モノ言う株主」として企業を実質的に支配しています。つまり「所有と経営の分離」が「経営者の時代」を経て反転し、再び「機関投資家(=所有)支配」の時代になったのです。

 機関投資家支配の害として、共著者は「価格の引き上げ」と「賃金の引き下げ」の2つをあげ、それぞれについて実証分析を紹介しています。特に後者は、伝統的な「売り手独占(monopoly)」とは違う「買い手独占(monopsony)」と呼ばれ、賃金の停滞と密接な関連があるとされています。わが国の状況も、この分析の正しさを証明しているように思えますが、わが国には強力な機関投資家もいないので、賃金抑制の結果生じた余剰は企業にため込まれ、マクロ経済の停滞を加速しているように思えます。

 どうしたら良いのでしょうか。共著者は「機関投資家が同じ業界内で多くの企業の株式を保有することを禁止すると同時に、業界が異なる多くの企業の株式を保有することを認める」(邦訳書、pp.275~276)のが決め手だとします。しかし、わが国よりも厳格な運用で知られる独禁法を有する米国では、既にそのような方向性は確保されているのではないでしょうか?

 確かに、米国独禁法の重要部分である「企業結合」を律するクレイトン法7条では、「競争を実質的に減殺し,又は独占を形成するおそれがある株式その他の持分(Stock or OtherShare Capital)又は資産(Assets)の取得は禁止され」ています(邦訳書の訳は厳密さに欠けるので、公正取引委員会のホームページによる)。しかし、これは事業会社が他の事業会社を吸収・合併する(具体例として、DuPontによるGM株の買い占め)など、従来型の「企業結合」に関する規定で、機関投資家に対する規制ではありません。

 そこで共著者は、以下の新ルールを提案します。「寡占状態で1社以上の実質支配企業の株式を保有し、コーポレートガバナンスにかかわっている投資家は、市場の1%以上を保有することはできない。」果たしてこれは有効か、また十分か、議論は尽きないと思われますが、共著者が「独占を嫌う」市場主義の信奉者であることだけは、痛いほど伝わってきます。また、企業もM&A市場という場で取引される状況では、オークションの発想が一定の有効性を持つことも、理解できます。

・データの提供者に適正な対価を払う

 さて最後の提案は、デジタル経済における「データ」の重要性に着目して、「データを生み出している人にしかるべき対価が支払われるべきだ」というものです。「ユーザーがデータの生産者と販売者として情報経済で重要な役割の担っている」(邦訳書p.298)にもかかわらす、「データ生産者として人々が果たしている役割は、公正に扱われているわけでも、適正に報酬が与えられているわけでもない」(p.299)からです。

  どうしてこのような事態になったかといえば、情報は「囲い込み」できないから個々の情報の生産者にはバーゲニング・パワーがない反面、ビッグ・データになれば価値が高まることを知ったIT企業は、あの手この手で情報を安価あるいは無料で手に入れているからです。その一例がURLと呼ばれる作戦で、これは「usage, revenues later」(まずは客集めに集中し、収益モデルは後で考える)の略だといいます。

 この原理は情報経済の初期から指摘されてきた「ネットワーク効果」(富める者がますます富む)、「独り勝ち(winner-take-all)現象」「収穫逓増(increasing returns)」など、情報財の取引が有体物の取引とは違った特性を持つことを、ビジネスモデルに転換した工夫です。そして、URLを上回る最大の発明は、情報財の取引市場と広告の市場とを背中合わせ(両面市場)にすることで、「タダ」というエサでサービスを提供する代わりに、利用者をデータ生産者に変えてしまうことです。

 しかし、これは発明と呼ぶよりも、結果論にすぎないのかもしれません。「収益モデルを模索する中でやむを得ず無料サービスの提供者としてスタートし、その後、広告プラットフォームになった会社は、今度はデータ収集会社へと姿をかえつつあり」(p.313)と見るのが当たっているかもしれないからです。いずれにしても、こうして巨大企業になったGAFA(Google、Amazon、Facebook、Apple)に対する風当たりが強くなるのは当然と言えるでしょう。

 市場を信奉し、独占や既得権益を嫌う共著者も、その姿勢に変わりはありません。それどころか、昔懐かしいマルクスまで持ち出して、「万国のデータ労働者よ、団結せよ」と叫ばんばかりの記述には驚きました。上記の3つの提言では、冷徹な分析を披露したポズナーとワイルも、このテーマには有効な提言が難しかったようです。私としては最も期待したテーマだったので残念ですが、それだけ「情報財」の扱いに関する分析が未開拓であることをも示しているともいえ、ほっとした面もあります。

東山「禅密気功な日々」(16)先生に聞く④

瞑想は緊張感をほぐしていく過程

杭州・西湖の夕陽(中国合宿の際に撮影)

 瞑想・意識・気感についての基本をお聞きします。

――瞑想という訓練法には、色々な呼び方がありますが、坐禅という名前が一番知られています。坐禅は、その訓練法の足を組んで動かないという形から、その名がつきました。

 坐禅は日本でも盛んに行われています。私も鎌倉の建長寺や報国寺の日曜坐禅会に何度か参加したことがありますが、報国寺の坐禅会は本格的で、朝7時から始まりますが、みんな6時ごろには集まり、境内の清掃から始めます。報国寺は竹寺としても有名な美しい寺です。本堂での修行のあとにおかゆが出され、初心者は和尚さんから法話を聞きます。「健康を守り、老化を遅らせ、若返りもめざす」で紹介した「いいと思うことを心を込めてくりかえす」という言葉もそのとき聞いたものです。坐禅歴何十年という〝猛者〟もたくさんいて、「最近になってやっと坐るということがわかってきた」なんて言っていました。

――瞑想では、訓練の時の体内の微妙な状態を強調します。この微妙な状態というのは、体内外の感覚が薄くなり続けて、他の微妙な感覚が浮かんできます。
 その状態には5つのポイントがあります。

①一つの物事に集中することにより、外部からの刺激を受け取らないようにします。
②体内の眠気と雑念の刺激が相次いで浮かんできます。瞑想の状態ではなるべくその刺激も受けないように努力します。
③顕在意識を活発にしないようにしていると、徐々に、空あるいは無というような感覚が浮かんできます。
④そのうち「喜ぶ、楽しい、良いなあ」という気持ちが浮かんできます。
⑤その時、寝ているようで、寝ていない状態になって、「夢うつつ」、「まどろむ」、「半分眠っている」、「半分スッキリしている」と言う状態になります。

 瞑想は緊張感がほぐれると同時に、気が活発になり、新陳代謝が良くなり、免疫力が高まる効果があります。

 坐禅は只管打坐(しかんたざ)、ただひたすら無念無想をめざすけれど、瞑想はある一つの事柄に意識を集中することで、やはり雑念から解放されるという理解でよろしいか。

――本来ならば坐禅は瞑想と同じで、名前が違うだけです。坐禅は形の方を強調し、瞑想は意識を訓練することを強調しています。いまの坐禅は形を細かく強調して、中身の訓練はあまりないように思います。私達の瞑想法は伝統の法を継承して、これを重視します。それが5つのポイントです。

 ストレスを抱えることで、体の生理機能である免疫力や新陳代謝の働きをかえって阻害しているような気がします。「カエサルの物はカエサルに」、生理機能に介入しないように努力していますが、これがなかなか難しいですね。
 瞑想と意識の関係は?

――瞑想という訓練法は意識を使って行います。人間の意識もまたエネルギーであり、このエネルギーは他のエネルギーをコントロールできるという大きな特徴があります。それで、意識を「気の中の気」とも言います。意識が分散された状態が雑念、意識の集中した状態が意念または念力です。意念は内部に、念力は外部に向けられます。

 意識には顕在意識と潜在意識がありますね。顕在意識が潜在意識に突き動かされることもありますし、顕在意識が潜在意識を不当に圧迫することもあります。閉じ込められた潜在意識はときに爆発する。夢として現れることはフロイトが〝発見〟しました。瞑想は顕在意識を鎮めることによって潜在意識を解き放つ、そのことで心身の健康を回復するということでしょうか。

――そうです。そのときは雑念を抑え込もうとするのではなく、むしろ解き放つ。無為夢想というのはそういう状態です。

 先生は「気感」という言葉もお使いになりますね。これは気とは違うわけですね。

――気感とは、瞑想中の微妙な気の感覚のことです。瞑想する時、身体がリラックスしてきますが、この変化を感じるのが気感です。私は練習の間に緊張感がほぐれる時の変化だと考えています。瞑想は緊張感をほぐしていく過程です。その時の「ほぐす」はイコール変化で、この変化を気感というわけです。例えば、痙攣を感じたり、身体が大きくなったり小さくなったり、身体が無くなるような感覚がでてきます。光や物体が見えるような感覚もそうですね。

 坐禅・瞑想中に上半身、とくに胸部に強い膨張感を感じることがあり、密処のうずきや胸の膨張感を感じると身体全体がほぐれ、気分もよくなります。

――この気感は、流派により、幾つかに分かれます。
 道家系では、気が任脈、督脈という小周天(しょうしゅうてん)に沿って回ります。密家系には、気を身体の真ん中、中脈に沿って流していきます。
 禅密気功では、功法によりさまざまな気感が生じます。背骨を動かすという基礎功法では背骨に絡んで気を蛇のように流しています。陰陽合気法・天地部では涼しい気と暖かい気が流れます。吐納気法では、外部の大自然の気を呼吸と合わせて体内に入れたり、流したりします。慧功法では内、外の気と一体になる、といったように、いろいろな練習法があります。
 禅密気功の瞑想では八触(はっしょく)という気感を強調しています。この辺はのちに詳しく述べますが、「動」「痒」「軽」「重」「涼」「暖」「粗」「滑」があります。

 そのいくつかは実際に感じているように思いますが……。

――意念と気感(微妙な気の感覚)の関係は以下のようになります。

意守気動:意念を置いて動かさない(雑念を起こさない)と様々な感覚が現れてきます。
意随気行:現れた気を動かすと、意念がついていきます。
意領気行:意念を先に動かして、意念で気を導引します。
意気合一:これは意と気が一体になることです。

 この辺は実践なしに感じることは難しいですね。そのために禅密気功では本部道場で各種の功法を練習したり、瞑想会を開いたりしています。

 江戸川橋は禅密気功のメッカですね(^o^)。

――本部道場では各種功法の専門コースの教室を開いていますが、春秋に行う「気の瞑想会」は全4日間の日程です。朝10時から午後7時まで、昼食や昼寝の時間以外は瞑想三昧です。何事もそうですが、一定期間、特定の練習に打ち込む時間をもつということが大事なんですね。必ずしも4日全部参加する必要はなく、1日でもいいのですが、やはり4日間の練習を受けた後は効果が違います。

 日本禅密気功研究所の本部道場は地下鉄・有楽町線の江戸川橋駅近くです。第1回で先生に神田川沿いの桜を撮影していただきました。地蔵通り商店街は昔懐かしい雰囲気を漂わせています。
 専門コースや瞑想会のほかにも、秋には合宿をしていますね。私も湯河原や山中湖の合宿に参加したことがあります。またときどき中国合宿も行われています。2007年の黄山、2009年の蘇州・上海合宿に参加しましたが、黄山合宿には名うての気功士が多数参加し、たいへん貴重な経験をしました。

――今年(2020年)4月にも中国気功研修旅行を企画していましたが、残念ながらコロナ禍で中止しました。

・光の瞑想、色の瞑想

 先生は光の瞑想、色の瞑想ということを言われています。実際、瞑想しながら彗中を通して無限の空を見るようにしていると、全体が明るくなったり、青、黄、赤、白などいろんな色が見えたりしますね。銀河のようだったり、線香花火のようだったり、オーロラのようだったり、色のあざやかさにはびっくりします。

――瞑想のポイントとプロセスを整理すると、身、気、光、意、心になります。

身の練習:動功で、主には有酸素運動です。これは体質改善に良いです。
気の練習:肉体の身体を変えて気の身体になる感覚です。これは身体の病気を抑えるのにいいです。
光の練習:瞑想中の光や光景を整えることです。これは心の病などを治すのに良いです。
意の練習:スッキリした意識の状態になることです。人生観を高めます。
心の練習:愉快な穏やかな気持になることです。人生がより楽しくなります。

 これで気とは何か、禅密気功とは何か、体を揺らすことや瞑想の功徳などについて、ひと通り初歩的なことをお聞きしました。しばらく間をおいて、次回シリーズでは動功について、その基本である築基功をはじめとして、各種功法についてお聞きする予定です。コメント欄や私へのメールで、ご感想や今後、先生に聞いてほしいことなどをご連絡いただければ幸甚です。

東山「禅密気功な日々」(15)先生に聞く・番外編

瞑想と免疫力とコロナウイルス

 折しも4月8日から、東京、神奈川、埼玉、千葉、大阪、兵庫、福岡の7都府県を対象に新型コロナ特別措置法に基づく緊急事態宣言が発令され、対象地域ではいよいよ外出自粛や運動施設などの休業要請が強くなっています。すでに禅密気功の本部教室や鎌倉教室に通い、ある程度、気功がどういうものかわかっている方は、この期間も自宅などで練功に励んでください。

 またせっかく禅密気功に関心を持っていただいたのに、しばらくは教室に通えない方のために(鎌倉教室も4月いっぱいお休みです)、それまでの準備として、以下の動画を見ながら、禅密気功の概要を知っていただければ、と思います。コロナ禍が落ち着いたら、お会いしましょう(^o^)。

 疑問点などありましたらakira☐cyber-literacy.comまで。また朱剛先生のご承諾を得て、先生が「会報105号(2020.3)」に書かれた「瞑想と免疫とコロナウイルス」という原稿をここに転載しておきます(一部字句修正)。冒頭の一文には重い意味があると思います。

瞑想と免疫力とコロナウイルス

 コロナウイルスについては、人類がこれから反省して大自然との関係をもう少し調和しなくてはならない機会なのだと思います。

 それよりも目の前のコロナウイルスについて我々はどうやって乗り越えていけばよいのでしょう。これから禅密瞑想とコロナウイルスとの関わりを述べたいと思います。

 中国ではコロナウイルスが爆発的に感染拡大すると同時に、自分達の功法を練習すると感染しない、あるいは治癒するという一部の流派がでてきました。ある漢方を飲むと治癒するという人もいます。でも現時点ではその効果については確実な医学的データはありません。このウイルスについて現在分かっているのは、特定の人間がかからないということはないですし、反対に誰でも感染する可能性があります。ですが、一般的には若年層、基礎疾患のない元気な人たちは、感染しても軽症で、風邪と同程度の軽い症状で収まっています。

 私たちが練習している禅密瞑想は、体質を改善するので抵抗力と免疫力のアップにつながります。禅密瞑想は動功と静功の両方を大事にしています。この動功は背骨を通して全身を動かす運動です。この運動は内臓をマッサージして内臓の新陳代謝を活性化しますし、有酸素運動ですから体質を改善することができて抵抗力と免疫力をアップします。瞑想すればこのコロナウイルスをどこまで減らせるかというデータはありません。人道的にもこの実験は許せないでしょう。

 しかしある実験では睡眠を7時間以上とる人と5時間以下の人では、風邪の罹患率が異なるという結果が得られました。7時間以上睡眠をとる人の方が罹患率が低いです。瞑想は睡眠よりも体に良い影響を与えます。

 背骨の運動はできれば30分以上続けましょう。そうすると全身の細胞まで活性化されます。瞑想の時は、内在の気、光、心を大事にして練習しましょう。

 コロナウイルスに特効薬はまだありませんが、このウイルスと戦う時に、様々な症状がでてきても、健康で丈夫な人は軽症で乗り越えられます。そうなるためにも私達も禅密瞑想(動功と静功)をもつと頑張つて練習していきましょう。

東山「禅密気功な日々」(14)先生に聞く③

気をなめらかに動かす

朱剛先生の気功三部作

 気功には動功と静功があり、動功の基本功法が築基功ですね。その具体的練習法はのちに詳しくお聞きしますが、その基本中の基本、体内の気を「なめらかに動かす」ことについてお聞きします。

――気は体内の総合的なエネルギーです。このエネルギーを活性化するための練習が気の練習、気功になります。中国では気功イコール瞑想です。80年代は気功という言葉が多く使われましたが、現在では禅修(瞑想)という言葉の方が多く使われています。この瞑想に動功と静功があるわけです。
 動功の流派はたくさんありますが、各流派には秘密の動き方(動功)があって、この動功に従って練習すれば、秘密のエネルギーを動かすことができると言っています。しかしながら各流派の動功をみると、それらの共通点は秘密の神秘的な動きではなくて、有酸素運動です。
 有酸素運動は血液中の酸素濃度を高め、全身の組織、細胞、内臓器官に、より多くの酸素濃度の高い血液を送ることができます。有酸素運動をすると、運動中の酸素の消費と供給のバランスが良くなり、同時に体内の新陳代謝も良い状態になります。有酸素運動の特徴は、運動の強度は強くないけれど、長時間継続して行えることです。これは健康にとって非常に優れた方法と言われています。

 日本でふつうに有酸素運動というと、歩いたり、泳いだり、エアロビクスをしたり、という感じですが、動功もまた効果的な有酸素運動ということですね。

――禅密気功の動功は背骨の運動法で、名前は築基功といいます。築基功は背骨を通して全身を動かす動功です。この運動の特徴は、普段こりやすいところ、例えば首、肩、背筋、腰を動かすことです。

 背骨を前後、左右に動かし、あるいはひねる――、ただこれだけの運動だけれど、その効果はすばらしいと日々、実感しています。身軽に動ける服装だけしていれば、何の道具もいらないのが大いなる利点です。屋内でも戸外でも、さして場所も取りませんし……。外出自粛が叫ばれる今日このごろ、自宅で築基功に励みましょう(^o^)。

――背骨運動法の他のメリットは脳髄液の循環に刺激を与え、内臓をあんまして、新陳代謝が良くなることです。背骨の前に動脈があり、背骨を動かすことによって、動脈が動くので、循環器に良い刺激を与えることができます。

 背骨がポイントですね。動かし方にはコツがあり、激しく、力を入れるのではなく、ゆっくり、なめらかに動かすと。

――築基功という背骨運動法は背骨をゆっくり柔らかく、大きく持続して繰り返し動かします。この運動法により気持ちを落ち着かせることができて、より愉快でリラックスした気持ちになります。

 教室では「円緩軽柔」と教わりました。全身を蛇のように動かす、あるいは波のように動かすとも言われますが、リラックスのためには気持ちをゆったり持つことが大事ですね。先生は「彗中を開いて無限の空を見る」ことを勧めておられます。私は与謝蕪村の俳句を思い出したりしています。

春の海ひねもすのたりのたりかな
菜の花や月は東に日は西に

――築基功には、肉体的な運動だけではなく、気を流す方法も含まれています。体を動かすことで体内の気も動かすわけです。背骨を動かす時に、単に背骨を動かすだけではなく、気を動かすように意識して練習すると、身体の重力が無くなって、気の世界にふわふわと浮かんでいるような気持になります。そういう訓練をすると、心を整える効果がより高くなります。

 先生はよく、「白く、ねばっこい気を動かす」ともおっしゃいますが、たしかに気には粘りがあるようですね。

――一方、静功は狭い意味での瞑想のことで、基本的に大事なポイントは外部の刺激を受けないようにして、微妙な感覚を追求して見守ることです。静功を練習していくと、心身の奥、芯までリラックスさせることができます。
 現代社会は生活リズムがすべて早く、イライラして病気になることが多いです。「病は気から」という言葉がありますが、気持ちから病気になることも多いですね。静功では瞑想を通して、心の緊張感、傷をほぐして、病を治し、元気になることができます。皆さん忙しいので、瞑想の時間を取るのはいよいよ難しくなっていますが、こういう時代こそ瞑想は重要です。瞑想は農業時代から伝わってきた素晴らしい養生法です。これからも続けて伝えられていくと思います。

 これは「禅密気功な日々」で書いたことですが、『ホモ・デウス』、『サピエンス全史』という世界的ベストセラーを書いたイスラエルの歴史家、ユヴァル・ノア・ ハラリはヴィバッサーナ瞑想の修行を十数年続けており、1日2時間の瞑想をしていると言います(『21 Lessons』、河出書房新社)。『ホモ・デウス』の謝辞では「(ヴィパッサナー瞑想の)技法はこれまでずっと、私が現実をあるがままに見て取り、心とこの世界を前よりよく知るのに役立ってきた。過去15年にわたってヴィパッサナー瞑想を実践することから得られた集中力と心の平安と洞察なしには、本書は書けなかっただろう」と書いています。

・練習は一つの生き方、一つの生活

 ――瞑想という練習をより効果的にするには、日々の生活、生き方も大事です。例えば暴飲暴食を避け、早寝早起きを心掛け、社会の誘惑はたくさんありますが、自分の意志でそれを避け、規則的でシンプルな生活を守ることが大切です。なるべく無意味なトラブルを避けましょう。
 瞑想をすると、どうやって人生をより良く過ごすかということを考えます。もちろん、生活の経済的な安定は必要です。ですがそれだけはなく、その上に穏やかな気持ちを持っていれば、一番良い人生になるのではないかという考え方が出てきます。
 瞑想すると良い気持ちが浮かんできて、それを見守ると非常に幸せになります。だから練習の体験と日々の生き方をあわせると、練習していない時も練習と同じ気持ちになります。人生は総て練習です。

 修行ですね。私もすでに禅密気功十数年、練習には限りがないというか、日々の練習がすなわち新しい発見でもあります。江戸幕府の基礎を作った徳川家康は「人の一生は、重き荷を負うて遠き道をゆくがごとし」と言いましたが、まさに人生は死ぬまで永遠に続く道を歩み続ける修行で、気功は取り組むに不足のない(?)、それにふさわしい功法だと思っています。

――練習は一つの生き方、一つの生活です。

 気には、「外気」と「内気」があり、それは常に交流していると言われますが、体のどこを通して往来しているのでしょうか。

――気はエネルギーのことで、外と内の区別は実はありません。一般的には皮膚の外は外気、内は内気と言っていますが、気はそんなふうに分かれているわけではありません。
 しかしながら練習する時は、たしかに基礎としては、先ず体の中の気を養う、充実させて、そのあと外の気を取り入れて一体感をめざします。内気と外気の交流の仕方は、流派によりそれぞれ功法があります。私達の功法では5つの入り口を通して、気を交流させています。

 5つの入口とは?

――密処、天頂、彗中、手のひら、足のうらです。

  密処は身体の真ん中の一番下、肛門と生殖器の真ん中。
  天頂は頭の真ん中の一番上のところ。
  慧中はひたいの、第三の目と言われるところ。
  手のひらは中央やや上、指の付け根の労宮(ろうきゅう)と言うツボの辺り。
  足のうらは土踏まずの前の方、湧泉(ゆうせん)と言うツボの辺り。

 とくに手のひらと彗中を通して交流させることが大事です。もっと練習すると気が身体全体を通して、入ったり出たりして、しだいに外と内、関係なく一体になります。

 たしかに手のひらは大事なようですね。日本語には「手当て」という表現もありますし、患部に手をかざして傷をいやすといったことは日常的に行われています。鍼灸で言うツボも交流のポイントみたいですね。先生は教室で両手を近づけて指の間を往来する気を見る〝実験〟を披露してくれたこともあります。「天然の気」という言葉を聞いたことがありますが、これはどういう意味ですか。

――一番自然なエネルギーという道家の考え方です。例えば、大自然のエネルギー、生まれたままの赤ん坊のエネルギーのことです。

 先生は外気治療(外治療)もおやりになりますね。会報などを読むと、外気治療のおかげで胸椎骨折の痛みが消えたとか、手術の前後に治療を受けたら痛みも少なかったし予後もよかったとか、いう報告があります。
 体内の気を活性化し、それを外気と交流させながら、まさに自然とともに生きていくのが気功ですね。

 

東山「禅密気功な日々」(13)朱剛先生に聞く ②

伝統文化に息づく気

鎌倉教室の練習風景

 中国の道教、仏教、儒教にも気と関係する教えがあるということは、気が伝統文化の中に息づいていることを示しています。そこで重視されるのが瞑想ということですか。

――中国の三大伝統文化としての仏教、道教、儒教について、私はこれをそれぞれ仏家、道家、儒家というふうに呼んでいます。仏教は宗教で教祖、礼拝、偶像、人を集めるための宣伝がありますが、仏家は宗教と関係なく、仏法を実践する流派という意味です。道家、儒家も同じで、宗教と関係なく、本質を実践する流派と言っていいでしょう。
 もちろん仏教と仏家は時として重なっています。と言うのは宗教家であっても同時に実践していたり、実践しながら宗教の活動も行っていたりするからです。道教、儒教も同じです。私が言いたいのは、気や瞑想は宗教と関係なく、実践する仏家、道家、儒家のほうに密接に繋がっていることです。

 私たちが習う気功は禅密気功、すなわち仏教の禅宗、密教に深く関係しているわけですね。

――仏家で大事なことは仏になるように実践することです。仏についてはいろいろな説明がありますが、一番基本で大事なことは、悩みが無い、あるいはいは執着しない気持ちの状態にいることです。これが瞑想の基本です。
 基本的には、まず気持ちを落ち着かせ、穏やかな気持ちを追求し、それを見守るようにします。それが習慣になると、生活、性格にまで影響が出てきます。
 イライラして物事に対する感覚と、穏やかな気持ちで物事に対する感覚は違います。仏法を通して練習する人はその違いが分かります。これからの人生をどう生きていくかが分かるということですね。あるいは世界観、人生観が変わってきます。
 これをまとめると

 ①実践すると気持ちが愉快に(絶対ではなくて根本的に)なる。 
 ②物事に対する考え方、認識が異なってくる。

 ①を「明心(みょうしん)」といい、②を「見性(けんしょう)」といいます。あわせて「明心見性」(仏教用語)です。
 ②の観点からすると、気持ちの持ち方により、万事万物に対する感覚も異なってきます。良い気持ちになるということが第一で、その時、万事万物に対して感じた感覚は根本的な感覚です。自分の認識している宇宙はその感覚(感情)から始まってその感覚(感情)に戻ります。これは瞑想につながっています。

 瞑想については、後に詳しく聞いていきますが、簡単に説明するとどういうものですか。

――瞑想すると、微妙な感覚が浮かんできて、体内のエネルギーが活発に、元気になるだけでなく、気持ちも落ち着いてきます。これは仏法の基本の大事な功法です。瞑想を外れると愉快な気持ちが浮かんできません。もちろん、仏家の思想と合わせて瞑想すると仏になるというか、愉快な気持ち、悩みがないという状態に達します。

 日本では一般に仏教と仏家、道教と道家というふうな区別はしないので、以下、仏教、道教というふうにお聞きしていきますが、道教の道(タオ)と気の関係は深いように思います。

――道家の道も同じで、見ても見えないし、聞いても聞こえないし、触っても感じませんが、どこにでも存在すると考えられています。
 現在の言葉で言えば、道はエネルギーです。もう一つの意味は大自然の規則です。道家の修行者の目標は「得道(とくどう)」です。その意味は大自然のエネルギーを十分に利用して、大自然の規則に従って生きることです。それも瞑想と繋がっています。瞑想する時、普段の生活にない微妙な感覚が浮かんできて、身体が元気になります。その現象は道のエネルギーという性質と繋がっています。瞑想すると気持ちが穏やかになって物事に対して柔軟になります。生き方として無理なく、自然に従っていくことを追求するようになります。

 儒教はどうですか。

――2000年前に800年間続いた周朝が崩れ、幾つかの国に分かれ紛争が起きた時、儒家の思想が生まれました。儒家の思想は礼儀を重んじ、崩れた天下をよくするために貢献しました。外側の礼儀を正しくするには、まず内側の人格を高めることを大事にすることです。この人格を高める5つのポイントは「仁、義、礼、智、信」です。その中で一番基本になるのは「仁」で、この「仁」の基本的な意味の一つは善です。「仁」を求めるために気持ちを鍛えなくてはなりません。この鍛えることについて大事なことは瞑想することです。
「仁」を得るために「浩然(こうぜん)の気を養う」という孟子の言葉があります。この「浩然の気」は無限のエネルギーあるいは気という意味であると同時に、広い気持ちを持ちます。養うということには、心を整えて瞑想をすることも含まれています。

 ブリタニカ国際大百科事典によれば、浩然の気とは「人間の内部より発する気で、正しく養い育てていけば天地の間に満ちるものとされる。また、道義が伴わないとしぼむとされ,道徳的意味を強くもつ概念である」と説明されていますが、これが先生の言う「広い気持ち」ですね。

――三国時代の蜀の国の諸葛孔明は大儒(儒家の実践者)と認められています。孔明が息子に伝えた有名な言葉で「静以修身(心を落ち着かせた「平静」の状態で修身すること)」があります。これも瞑想と同じです(「君子の行うは、静以て身を修む、倹以て徳を養う」)。

・子どものころ十大形を学ぶ

  伝統武術も気を重視しますね。

――私は十大形(じゅうだいけい、「心意拳」の別称)という武術を学んだことがあります。この武術は三つある「内家拳」という流派の一つで、中国で最も有名です。後の二つは太極拳と八掛拳です。十大形の特徴は実際の格闘の際に強力だと言われています。私の体験では時代が変化して今の中国伝統の武術は他の格闘術と比べて実際に格闘することがあまりなく、弱まっている可能性があると思いますが、まだ魅力はあります。 
 というのは練習する時、力がどこから発生して流れているかという体内の感覚を追求しながら練習しているからです。意識を集中することが瞑想や伝統文化と繋がっています。
 武術の中に気の練習もあります。これは、気力の流れの練習です。瞑想の時の気の流れる感覚とは違いますが、意念を使って練習することは同じです。武術では、気は意念に沿って流れています。
 車の運転で、左折と思うのが先で、それにつれて操作が無意識的に行われるのと同じです。「意到気到」という中国語があります。意味は意念が到着すると、気力も自然に到着するということです。

 中医学については第1回でもふれました。

――中医学は伝統文化に基づいて行う治療法です。これは身体全体のエネルギーを整えることによって元気になる方法です。中医学のかなりの部分は現代科学ではまだ証明されていませんが、効果があることは2000年~3000年の中医学の歴史の中で認められています。大自然には未知の事柄がたくさんあります。中医学でも科学的に証明されていないことはたくさんあります。

 日本でも、古くは聖徳太子による仏教普及があり、平安時代には空海や最澄が密教を広め、禅宗では道元、栄西などが活躍しました。江戸時代の武士の子弟のための塾では、四書五経など多くの漢籍を学びましたし、朱子学は徳川幕府の政治の基本にもなりました。戦前の日本人は長い間、中国文化の影響を受けてきたわけですが、気や瞑想について体系的に教えることはしてこなかったように思います。これは私の勉強不足かもしれません。

――瞑想を通して伝統文化がより身近に理解できるのも面白いと思います。

 子どものころ、どういう環境でお過ごしになりましたか。

――自宅から20キロぐらい離れた祖父母のいる農村で夏や冬を過ごしました。平屋の北側に防風林、周りには林があり、井戸もありました。夏には、涼しい林の中で食事をすることも多く、林の中でも、風の通るところや、湿気が多く快適ではない場所があるなど、微妙な違いも分かりました。
 井戸で果物や飲み物を冷やし、楽しみましたが、祖母の止めるのも聞かずに冷たい井戸水で行水をし、体が冷えてお腹をこわしたこともありました(笑)。
 冬は天気がよければ布団や衣類を干し、大自然のエネルギーを取り込みました。排水設備はまだ整っていませんでしたが、雨が降れば、溝を掘って排水させ、家の下に湿気がたまらないようにしていました。湿気は体に良くない陰のエネルギーなので、取り込まないように工夫していたわけです。祖母は薬草も植えて、病気に対処していました。
 その祖母は50代の時に子宮がんにかかりましたが、手術もせずに、薬草を飲み、自己流の体操をして、91歳まで元気に過ごしていました。

 なんだか懐かしい話ですね。

――大自然のエネルギーを利用することは、気を利用することです。つい最近まで、私たちは気の中で生活していました。

 伝統文化の中にまさに気が息づいていたわけですね。古く縄文時代の人類は自然と豊かな交流をしていたようで、このアニミズム(生物・無生物を問わず、すべてのものの中に霊魂が宿っているという考え方)は民族によっては、いまでも強く残っていますね。霊魂がすなわち気であると言ってもいいですね。

――気は体内にあるだけでなく大自然にも充満しています。昔は現代のように科学が発達していなかったので、気を利用して、元気になったり、病気にならぬようにしたりしてきました。自然と共存している森との対話や、アニミズム文化のような流れは、気を重視して利用してきたということです。

東山「禅密気功な日々」(12)朱剛先生に聞く ①

 禅密気功のすばらしさ、ありがたさをより多くの方々、とくに、これまで気功に接したことがない方々に知ってもらうために、禅密気功研究所代表の朱剛先生に初歩的なことをお聞きするシリーズを始めることにしました。

 最初は、そもそも気とは何なのか、体内外の気を交流させるとはどういうことかなど、ごく一般的な話をお聞きし、回を重ねるにつれて、気功の具体的功法、動功と静功の違い、瞑想の極意といった具体的話題に入り、さらには武術と気功、朱剛先生の生い立ちとこれまでの活動、これからの目標などをお聞きするつもりです。

 日本滞在すでに30年、これまでの先生の研究と実践の成果を思う存分語っていただきたいと思います。テーマごとに何回か集中連載し、その後少し間をおいてまた再開することになるでしょう。その間も通常のコラムは続けます。

 気功の概略や朱剛先生の経歴、禅密気功研究所周辺の環境、さらに私が気功とどうかかわってきたかなどについては、本コラム「禅密気功な日々」冒頭3回の<会報から:「健康を守り、老化を遅らせ、若返りもめざす」>をご覧ください。

 折しも世界中でコロナウイルスが猛威をふるっています。スポーツジムは軒並み閉鎖、外出もままならない、こういうときに何の設備も、道具もいらず、ただ自宅や戸外で、あるいは異国にあっても、体を動かすだけで健康を維持できる気功のありがたさが再認識されるといいと思っています(2020.3.26記)。

古人の知恵・気・現代科学

神田川の桜は今年も満開(3月29日、江戸川橋公園近くで 撮影・朱剛)

 日本語には「気」に関する言葉が多いです。元気、病気、弱気、短気、強気、勇気、意気、空気、天気、正気、邪気、無邪気、毒気、茶目気、平気、雰囲気、人気、大気、男気、女気、電気、気配、気合、気品、気転、気持ち、気分、気候、気質、気息、気体、気脈、気にする、気になる、気が滅入る、気にしない、気の抜けたビール、気が合う、気が重い、気が気でない、気に障る、気の毒、気を吐く、などなど。中国でも同じような感じですか。

――中国でも同様に気のつく言葉は多いです。元気、病気、邪気、毒気、気力、気場、心気、陰気、陽気、など、同じように書きます。それは昔から気が大事なものだと考えていたからだと思います。しかし、日本の方がよりこまやかですね。最近では「人気」というような日本語が、便利な言葉として、中国に逆輸入されて使われています。

 言葉の点でも、気は私たちのまわりに満ち満ちているわけですが、気は森羅万象、たとえば人間、人間以外の動物や植物、海や山にも流れていると考えていいですか。

――そうです。

 昨年(2019年)お亡くなりになった女優の樹木希林さんが主演した映画「あん」の後半に、朝方、主人公が倚りかかった大木の幹から湯気が立ち上るという感動的なシーンがありました。これは撮影当日、希林さんが湯気の出ている幹を見つけて、ここで自分を撮るように監督に助言したのだそうです。
 この湯気は樹皮にしみ込んだ雨水が太陽の熱で温められ、蒸発していたのだと思いますが、死をまじかにした希林さんが見つけたという経緯も含めて、これも気の一種かしらんと思わされました。

――気は昔の人びとの宇宙感でした。万事万物は気で組み合わさってできていて、それを分解すると気になる。気というものは眼に見えないし、耳にも聞こえないし、触れても感じない。しかし存在していると考えていました。

 身体も気で構成されており、身体を細かく分解すると気に返る、だから心身の健康は気と密接に繋がっていると考えました。さらに意識と健康、環境と健康、食事と健康などすべては気と繋がっており、気を整えることによって、健康になるだけでなく、良い人生を送れるとも考えていました。
 気については、何千年も研究しているうちに、解明された部分もありますが、まだまだ疑問も残っています。解明されているのは、「気の練習を通して心身ともに元気になる」ということです。それが気功です。
 道教系、仏教系、儒教系、中医(中国医学)系、武術系などを通して気の練習法が伝わり、気功は健康に良いという認識は受け入れられ、とくに80年代から急激に盛んになって、練習を通して元気になった人たちがたくさん出ました。私たち日本禅密気功研究所も多くの効果を見ることができました。

 気功の効果は認められてきたと。

――そうです。しかし、気についての疑問や謎はまだたくさん残っています。例えば、体内で気がどのように動いているかということについては、流派によって説明が異なっています。道教系には任脈と督脈という考え方があります。気が任脈と督脈の中でまわっていれば、元気になる。まわらないと病気になるか死ぬ。密教系は体の真ん中に気の流れる道として中脈があり、中脈に気が流れると元気になり、流れないと病気になるか死ぬと考えます。東洋医学では体内に大事な12本の経絡が通っていて、この経絡が開くと気がスムーズに流れて元気になり、閉じると病気になるか死ぬと言われます。
 たしかに各流派の考え方に従って練習すれば元気になりますが、各流派同士は互いを認め合っていませんし、自分たちの流派だけが正しいと考えています。

 いろんな考え方があるわけですね。

――昔は情報があまり入手できなかったので、それぞれの功法を守っていればよかったのですが、今は情報公開が進み、各流派を並べて比較できるようになりました。そうすると矛盾点が明らかになって、各流派の限界や不足しているところも分かってきました。

・気とはエネルギーである

 なるほど。そもそも気とは何でしょうか。

――現代の言葉で言うと、気とはエネルギーです。人間が生きていられるのはエネルギーがあるからです。いまは病気になったら様々な検査をして、医学的、科学的に原因を探ろうとしますが、昔はそのようなことができなかったので、全体的な体の状態を見て判断していました。
 元気があるか足りないか、艶があるかないか、病気が強くてもまだ元気がある、病気の反応が少なくても元気がなくなるなどなど、総合的に症状をみて判断し、整えてきました。この総合的な現象をまとめたものが気です。いわばエネルギーということです。

 西洋医学では気の存在が確認できていないわけですね。

――たしかにそうとも言えますが、実は気というエネルギーの測定は行ってきました。例えば、練功前後の体温の違い、微電流や脳波の違い、低周波の違いなど、多くの測定はなされています。変化も発見されました。
 ある科学者たちは体温の変化を通して気を認識していますし、別の科学者たちは微電流の変化を通して気を認識しています。また脳波の変化を通して気を認識している人たちもいます、などなど。これらの認識に従って電気療法、温熱療法、低周波療法、音声療法、赤外線療法、脳をリラックスさせる療法などが開発されましたが、それは気の一部分のみを認識しているだけです。これでは十分ではありません。
 たとえば1人の人の練習前後の体温、微電流、磁気などを同時に何回も測定し、1人でなく大勢の人のデータを揃えて分析すれば、気というエネルギーの性質の大部分を把握できるでしょう。それでもすべてと言えないのは、身体の研究はすればするほど未知の部分が出てくるからです。宇宙の中でも暗黒物質(dark matter、ダークマター)とか暗黒エネルギー(dark energy)という仮説の物質やエネルギーの占める割合の方がはるかに大きいと言われています(一説によれば、地球上で分かっている物質は全体の4%にしかすぎません)。

 そう言われると、気が西洋科学でとらえられていないとしても、恐るるに足らず(?)という気分になりますね。

――気については、未知のことがたくさんありますが、科学的に測定し、さまざまなデータを集めれば、総合的に気を把握することもできるようになると私は考えています。集めたデータを利用して健康状態を管理することは、気を整えて健康になる方法といえるでしょう。そのやり方は細かく見ると科学が介入していますから、伝統の気を整える方法とは異なりますが、全体のエネルギーを見て整えることは昔と同じでしょう。この管理方法が実現すれば、とても意味のあることと思います。

 古人が経験を通して開発した健康法が、いずれは科学的にも追認されることになるだろうと。

――1980年代に中国から気功が流行り日本でも1990年代にはブームとなりましたが、それ以降、徐々に人気がなくなりました。その原因の一つは中国本土で法輪功事件が発生して(法輪功は気功の一派。急速に拡大したなどのために共産党指導部により弾圧された)、急激に人々が気功を練習しなくなったことがあげられます。日本でもその影響は避けられませんでした。その大きな原因は、気というものがまだ科学的に解明されていないということだったわけです。