古藤「自然農10年」(18)命と死④

作家三島は、「なぜ死にたまいし」

「命の惜しくない人間がこの世の中にいるとは、ぼくは思いませんね。だけど、男にはそこをふりきって、あえて命を捨てる覚悟も必要なんです」。三島由紀夫が自決の1週間前に語った言葉である。場所は自宅、午後8時から2時間のインタビューに答えた。

 相手は、三島の著作をほぼすべて読む一方で、「戦後」を敵視する三島を批判し続ける文芸評論家の古林尚(ふるばやしたかし)。この夜も、「天皇制賛美や『盾の会』は軍国主義」と歯に衣着せず迫る古林に、三島は戦後観、文学論を笑いながら、心を開いて話した(「三島由紀夫最後の言葉」、初出は「図書新聞」)。

 海軍小学校から早稲田露文科へ進み戦争体験を持つ1年後輩のこの広島県人に三島がことのほか好意を持っていたことは間違いない。自決の計画を胸に秘め、まだ『豊饒の梅』第4巻を書き上げていない夜に、彼はなぜこの対談を受けたのか。マルクス主義、戦後民主主義を信奉するこの生真面目な高校の国語教師に向かって胸襟を開いた言葉は、現在の私たちに向かって遺言するための対談だったとすら思える。

「敗戦で僕も一時は非常に迷いました。でも政治はノンポリというか盲目でしたから一種の逃げ道として芸術至上主義を気どることにしたんです」「そのうちにだんだん、十代に受けた精神的な影響、一番感じやすい時期の感情教育が次第に芽を吹いてきて、いまじゃあ、もう、とにかく押さえようがなくなっちゃたんです」と笑いながら話している。

「ぼくの内面には美、エロティシズム、死というものが一本の線をなしている」「ぼくのやろうとしていることは、人には笑われるかもしれないけれども、正義の運動であって…吉田松陰の生き方ですよ」「芸術は生きて、生きて、生き延びなければ完成も、洗練もしない。もうトシをとっていくということは、苦痛そのもので、体が引き裂かれるように思えるんです。だから、ここらで決意を固めることが、芸術家である生きがいなんだと思うようになったんです」

 19歳にして天皇陛下バンザイという趣旨の遺書を書いたし、それが今も生きていると語って「遺書は何通もかけないから死ぬとき、もう遺書を書く必要はない」「戦後は余生」と語った。「チンドン屋ということになりませんか」と古林が盾の会を批判すると「あなたにはっきり言っておきます。いまにわかります。そうでないということが」と答えた。

 古林が退かず「悪用しようとする連中が心配」と重ねると、三島は「敵は政府、自民党、戦後体制の全部」「連中の手にはぜったい乗りません。いまに見ていてください。ぼくがどういうことをやるか」と大笑いした。古林が感覚のもっと鋭い人なら何か気づいたかもしれないが、彼はこともなげに美学や小説の話題に移った。

 狂おしい真夏の炎天と敗戦を境に、山本常朝の「葉隠」を心のよりどころにして戦後を歩み始めた三島由紀夫。日記風に描いた評論『小説家の休暇』の最後の日付、昭和30年(1955年)8月4日の時点では「混乱の極限的な坩堝の中から日本文化の未来、世界精神の試験的なモデルが作られつつある」とまだまだ期待をよせていた。

 この翌年に最高傑作とされる『金閣寺』の連載が開始され、小説、エッセー、評論、戯曲など超人的な作家活動を繰り広げながらボディービルを始め、剣道にも本格的に打ち込む。ギリシ旅行に出かけた4年前から日光浴を始め、戦前の入隊検査で誤診された青白い体は日焼けした逞しい体に変貌しつつあった。

 バーベルで筋肉を鍛え続けて14年、「盾の会」の軍服に身を固めた三島由紀夫は、昭和45年(1970年)11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に立てこもり、バルコニーから演説する衝撃の決起を起こす。

・縦の会会員とともに市ヶ谷駐屯地へ

 その日、三島、森田必勝(25歳)ら盾の会の一行5人は、東部方面総監部の益田兼利総監を表敬訪問することになっており、正午少し前、市ヶ谷駐屯地の正門をフリーパスで通過した。旧日本軍の大本営陸軍部だった東部方面総監部のバルコニーの下の玄関から総監室へ丁寧に案内された。

 話題が持参の日本刀になり、総監にそれを見てもらうのが行動開始の合図で、計画通り、総監を手拭いでさるぐつわし、ロープで後ろ手に縛った。間もなく自衛官らが異変に気付きバリケードのドアをこじ開け突入してきた。三島は太刀を振るい3人を押し返し、代わって突入してきた幕僚ら7人も乱闘の末、退散させた。剣道5段の三島は深手を負わせない太刀遣いだったという。

 総監の安全を考えて退散した幕僚らは窓を割って三島を説得しようとしたが、三島は「この要求をのめば総監の命はたすける」と、自衛官を集合させて演説させるとの要求書を投げた。

 こうして白手袋、日の丸の白鉢巻をした三島が、バルコニーで演説するあのニュース映像になる。荒唐無稽なクーデターは混乱の中で終わり、三島は益田総監に丁寧に詫びた後、45歳の生涯を閉じる。ヤアと気合を発し両手で短刀を左わき腹に突き立て右一文字に割腹。途中、「まだまだ」と介錯を待たせた後、「よし」と森田の介錯を受けた。

「武士道は死に狂いなり」とする行動哲学の葉隠は、「芸能」をお国を背負って生きる覚悟からほど遠い「何の益(やく)にも立たぬもの」と軽蔑する。その言葉のせいかどうか、三島は有り余る才能と芸術に挑戦する妥協なき精神力、驚くべき執筆量の作品を残しながら、その全てを排せつ物と一蹴するかのように血みどろの終末を選んだ。

・決起へ加速した5年の坂道

 一つはやはり19歳の遺書に遡る。昭和36年(1961年)、「二・二六事件」を題材に短編小説「憂国」を書き、4年後に自ら監督、主演して映画化した。反乱に加わった親友を勅命で討伐する立場になった中尉が悩んだ末に妻と心中する物語だ。三島が演じた中尉の切腹シーンは凄まじく、白無垢を血で染め、死に化粧へ歩む妻の妖艶さが世に衝撃を与えた。

 翌昭和41年、高度成長が本格化する元日、日の丸を飾る家がまばらになった風景を嘆き、この年6月には二・二六事件で銃殺刑になった青年将校と特攻隊の兵士が霊媒師によって語る『英霊の声』を発表。神として兵に死を命じながら天皇はなぜ人間となってしまわれたのかと恨む様を能の表現で描いた。

 8月下旬には奈良・桜井の三輪山で滝に打たれ、その足で学習院時代の国語教師、清水文雄を広島に訪ねる。最初の小説『花ざかりの森』を読んですぐ天才を認めてくれたペンネームの名付け親である。恩師の案内で江田島へ向かい特攻隊員の遺書を読み、恩師に見送られて熊本へと旅を続ける。

 訪ねたのは蓮田善明(はすだぜんめい)の未亡人である。蓮田は、天才の出現を一緒に喜んでくれた清水の親友である。文武両道のこの詩人を三島は深く慕い、常朝に対するように私淑した。しかし、蓮田はマレー半島で終戦を迎えた直後、天皇を愚弄した連隊長を射殺して自決した。昭和18年の出征の間際に「日本のあとのことをおまえに託した」と言い遺した蓮田の言葉が三島の胸中深く刻まれていた。

 昭和42年から翌年にかけては自衛隊へ体験入隊したり、祖国防衛隊として「盾の会」を結成したりした。昭和44年(1969年)2月11日には、佐賀の乱で斬首された江藤新平のひ孫(23歳)が工事現場でひっそり焼身自殺した。建国記念日の国会議事堂前に置かれた遺書には、混沌の世に覚醒を促す「大自然に沿う無心」「神命により不生不滅の生を得む」とあった。三島の胸を揺さぶったと思われる死であった。

 もう一つは、『太陽と鉄』である。バーベルの鍛錬だけでなく、自衛隊の訓練と駈足で体を鍛え続けた。その逞しい肉体が彼の思考、精神にどのような作用を及ぼしたかが、その長いエッセーで著されている。その文章は極めて難解で、自我を家屋とするなら肉体はそれをとりまく果樹園のようなもので「たえざる日光と、鉄の鋤鍬が、私の農耕のもっとも大切な二つの要素になった」と書き始めている。

「書物によっても、知的分析によっても、つかまえようのないこの力の純粋感覚に、私が言葉の真の反対物を見出したのは当然であろう。すなわちそれは徐々に私の思想の核になった」「肉体的勇気とは、死を理解して味わおうとする嗜欲の源」「文武両道とは散る花と散らぬ花を兼ねること…死の原理の最終的な破綻と、生の原理の最終的な破綻とを、一身に擁して自若としていなくてはならぬ」

 夭逝を夢見ていた若き三島に死はまだ浪漫であったが、無縁であった強靭な肉体を持つに至った三島は、つまり生から死へ跳躍する力を備えたということなのだろうか。「あれ(著作の文章)を本当にわかってくれた人は、僕がやることを全部わかってくれると信じます」「僕が死んで50年か100年たつと、ああ、分かったという人がいるかもしれない。それで構わない」と『太陽と鉄』の英訳をしたジョン・ベスター氏に対談で語っている。

 死の1週間前、三島は論敵を相手に楽しそうに会話をしたが、絶対者の秩序を欠く自由主義の弊害、とくにフリー・セックスの世になって、近いうちに一夫一婦制が崩壊するだろうと心配した。『宴のあと』裁判で体験した裁判、司法については「実にマヤカシモノ」と大きな失望を隠さなかった。

 黒船や敗戦がなければ維新や農地改革ができなかったという改革への内発性を持てない国情を憂え、天照大神まで遡る日本の伝統や歌舞伎の行く末を心配し「やっぱりどこも出口がないなァ」と慨嘆した。「そんな意気地のないことでは困りますね」と思わずいった古林が「あれッ、おかしいな。あなたを激励するつもりなんか全然なかったのに…」という言葉をもらして深夜の対談は終わっている。

 コロナウイルスが国の在り方や人の生活の仕方を根底から問い直している今、壮絶な三島の死は、国家とは、人生とは、人の命と死とは、と同じように鋭く問い続ける。三島が愛した「源氏物語」と同じように三島文学とその死は長く命脈を保ち、人々を魅了し続けるだろう。扇を撃ち落とした場面だけで那須与一は千年、生き続けている、と三島が書いたことも合わせて想起させられる(写真は、自然農の初夏、命の一コマ。撮影・西松宏)。

 

 

 

古藤「自然農10年」(17) 命と死③

死ぬことは、生きることと見つけたり

田植えは畔の手入れから

 レイテ島で日本の将兵たちが累々たる屍となって折り重なっていたころ、それらの戦場に赴くため平岡公威、後の三島由紀夫は学徒出陣を前に遺書をしたためていた。美学とも称される文学を打ち立てる才能は幼少期、暗い書斎に幽閉されて感性のみを研ぎ澄ましていた。後年、その三島が強靭な肉体を持つ兵士としてついに斬り死にして果てる「奇怪な文豪」の生涯へ私を誘ったのは『葉隠』であった。

 私が住む福岡の隣県、佐賀の旧鍋島藩士、山本常朝が言い残した言葉を後輩藩士が集録した本である。『レイテ戦記』を読み死の恐怖がまだ胸に震えているころふと買ったのが三島由紀夫の『葉隠入門』だった。そして常朝の言葉よりもその言葉を生涯の友とした三島由紀夫という精神が次第に私を捉えていった。何より命を大事にする自然農と最も対極にあるようでいて、そのひたむきで命を燃やし尽くす人生は、どこか自然農が求める生き方に通じるものがある様に思われてならなかったからである。

 「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」。常朝の言葉は、死地で迷わず死ぬ覚悟を示した象徴的なフレーズだが、それは逆説的な表現でしかない。三島はその裏にある「人間一生誠にわずかの事なり。好いた事をして暮らすべきなり」という理念こそ「葉隠」の真の哲学だと説いていた。好きに暮らすといっても「常住死身(しにみ)」の境地で得る自由な生き方は、生やさしいものではない。葉隠の真髄を一つひとつ汲み取る『葉隠入門』の克明な解釈が、そのまま人間三島が何を善悪とし、何を文学思想の原点としたか、彼の生き方と精神へ案内する入門書にもなっていた。

 三島由紀夫は、剣道とボディービル、そして俳優、異常な人生の終わり方など私には余りに遠い存在だったが、『葉隠入門』 から思いもしない天才作家の心の真奥部へ導かれていったのである。

 三島が本書(文庫本)を上梓したのは死の3年前である。彼は山本常朝の心得を常に人生の手本とし、その書を唯一の友として机近くに置いていたと告白している。「わたしの文学の母体、永遠の活力の供給源だった」とまで書いている。

・三島由紀夫と『葉隠』

 大正14年生まれの三島は昭和の年数がそのまま満年齢になる。レイテ戦の時は19歳、学習院高等科を首席で卒業、天皇隣席の卒業式で総代として銀時計をもらい、父の希望で心ならず東大法科へ進む。徴兵検査は虚弱な体ながら乙種合格。戦況が激化する昭和20年2月、学徒動員で赤紙が届き死を覚悟した。遺髪を添えた遺書を残し入隊地へ向かうが、髪振り乱して泣く母から風邪をもらい気管支炎で高熱を発した。入隊検査でそれが結核による肺浸潤と誤診され、即日帰郷となった。

 彼の入るはずだった部隊はフィリピンに派遣され、ほぼ全滅した。レイテ島では島の北西海岸部へ追い詰められ日本兵が1万人近くが残っていたが、米軍も去った後にとどめを刺したのは島民のゲリラ部隊であった。生き残り兵たちは終戦まで密林の中をさまよい、段々と消耗し消えていった。

 母の愛か、神のわざか、三島を死地から救い、彼に膨大な文学作品を生ませることになった誤診。その時、父親はその幸運に歓喜し逃げ帰るように息子の手を引いたが、息子三島には、彼が死に場所を選ぶ伏線の一つとして長く残り続けたように思う。

 そして敗戦、三島が愛してやまなかった日本の伝統と文化は一夜にして全否定され、復興し泰平ムードになる新日本が彼には荒廃する闇の様に見えた。マッカーサーに会った天皇がなぜ衣冠束帯でなかったかと三島は心から憤った。天皇はなぜ人間になったかと嘆いたのである。戦争中にもてはやされた「葉隠」も同様な本として「荒縄でひっくくられて、ごみためへ捨てられた」。しかし、逆説の書は闇の中でかえって光を放ちだし、三島は行動の指針としてますます大事にした。

 恋愛では「忍ぶ恋の一語に尽く」と教える。一生打ち明けないなら最も気高いとして恋愛自由の世とはまさに反対の極地であるが、「葉隠」を鏡とするとき爽やかな青空を見るようにその言葉が光りだして力を与えると三島は言う。「葉隠は永遠の活力の供給源」とまで言ったが、その言葉に続いて「すなわちその容赦ない鞭により、氷のような美しさによって」と続けている。

・今を透視していた三島由紀夫

 自然農は時に自分より他を先にする思いやりを大切にするが、常朝の人への配慮は驚くべき繊細さだ。意見を相手が受け入れねば恥をかかせる悪口、自分のうっぷん晴らしと切り捨てる。その気配りは自然農の師、川口由一さんも真っ青になると思わせるほどである。

 相手が聞き入れてくれそうかを探り、まずはじっこんになって平素から信用されるようにし、趣味で誘うなど様々に工夫し、時節を考え文通や雑談の終わりに自分の欠点、悪事を言いながら、直接言わずとも相手が思い当たるようにするか、相手の長所を誉めあげてその気に乗せるか、要は「渇く時水を飲む様に請合わせて、疵を治すが意見なり」なのである。

 「葉隠」が嘆く世相は元禄の世だが、若侍が寄れば「金銀の噂、損得の考え、内証事の話、衣装の吟味、色欲の雑談ばかり」と例をあげ「是非なき風俗になり行き候」と侍の社用族化や「すりの目遣い」になって理想のかげが薄れる青年のひとみを嘆く常朝が描かれる。

 三島はその文化や歴史、伝統を最も大事なものとした。マルクスの「共産党宣言」は一切の社会秩序を強制的に転覆して目的を達成するとした点において、日本の文化と歴史、伝統の破壊者、生涯の敵としたのである。同時にマッカーサー進駐軍の強制が去った後も自己保身と偽善の政治が続き、経済的な繁栄のかげで根本を失った国民精神への憂いを深めた。そして、国の根幹となるはずの憲法が現実に違背することを嘘とごまかしですり抜けた日本国家の欺瞞を何よりも憎んだ。

「今に日本はとんでもない国になるよ、って言ってたんですね」。26歳の三島に出会って長く親交があった三輪明宏さんの記憶がサイトに紹介されている。「親が子を殺し、子が親を殺し、行きずりの人を刺し殺したり、そういう時代になるよって、いってたわけじゃないですか。そのとおりになりましたよね。」

 私には奇怪としか思えなかったあの「決起」の前に三島が三輪さんに残した言葉だった。それは50年たった今を悲しいほど正確に言い当てている。

 

 

 

古藤「自然農10年」(16)命と死②

忘れられつつある「レイテ島」の悲劇

 大岡昇平の『レイテ戦記』では、太平洋戦争の末期、フィリピン南部のレイテ島で日米両軍が激しく戦った戦場におけるおびただしい死が克明に描かれている。小説とされるが、大岡は日米両国に残された戦争の記録や軍人の日誌など膨大な資料を渉猟し、生還した元兵士の聞き取りもした。執念とも思える緻密さで資料を突き合わせ、戦争を生きた日本人の真実に迫った他に類を見ない記録だ。

 太平洋戦争の帰趨を決めたレイテ島の戦いは、昭和19年(1944年)10月20日、水平線を黒く埋め尽くした米艦からの絨毯爆撃で始まる。それから5か月余、静岡県より少し大きい島で日本軍8万4千人が、最終的には20万人を超えたアメリカ軍と戦い、極限の恐怖と過酷な肉薄戦の果てに悲惨な死を重ねた。生還できたのは2500人、実に97%が死を強制され、武器、食糧も尽きる飢えの中で命を落とした。

 戦艦「武蔵」が沈没し、日本海軍の命運が尽きる海戦もレイテ湾周辺で始まり、若者が爆弾を抱えて敵艦に体当たりした特攻もこの戦いから開始された。最後の「武蔵」艦上では人の四肢が飛び鉄板に肉片と血が張り付いた。子供っぽい少年兵が裂けた腹から出た腸をふるえる両手で戻そうともがく姿も紹介されている。20本の魚雷と17個の爆弾を受けた不沈戦艦は多くの命を船底に抱いて艦首から沈んだ。千人余の死であった。

 この惨状がなぜレイテ島周辺に集中したか。ここを日本国家が敗色を挽回する決戦と決めたからだ。南方軍の山下奉文司令官が反対するのも押し切って大本営が命令を下した。そのレイテ島に上陸したアメリカ軍は初日で6万人の兵と10万7千トンの武器、弾薬、物資を揚陸したが、待ち構えた日本軍は2万人余りでしかなかった。島の裏側で泥縄式の補給が続いたが、補給船のほとんどは潜水艦と空からの攻撃にさらされ、上陸できたのは6万人余、大事な武器、糧食はわずかだけに終わる。

 敵の自動小銃は1分間に400発発射でき、日本兵の三八銃は15発だった。目を覆いたくなる圧倒的な戦力、物量の差で苦戦と後退を続けながらも、将兵は地形と雨期の雨も味方にしてよく戦う。しかし、日が経つにつれ10人、20人、200、300と死体の数は増える。首を飛ばされ、手足を失う、あっけない死の連続。『レイテ戦記』では、その死が1兵卒の知りえない日米両国の戦略と政治、そこに軍人の思惑もからむ大きな構図として描かれている。

・私を突然襲った死の恐怖

 読み進んで人の死にほとんど無感覚になっている時に、突然、その死の恐怖が襲ってきた。圧倒的な力で迫ってくるM8戦車を阻止するため、自分一人が入る蛸壺を掘って、作動後4秒で爆発する手榴弾を手に敵兵の接近を待つ兵士。それは後退した仲間のために一人死を待つ姿であった。多くは戦闘にも慣れていない若い兵士に命じられた。その絶対的孤独の心情を思い、身を貫く恐怖にしばらく本を置いたまま動くことが出来なかった。

 その死によって戦果を上げることもあったが、ほとんどが蛸壺に入ったまま火炎放射器で焼かれたり、銃弾を浴びたりして死んだ。彼らの死は仲間のため祖国のためであったが、これは、人であれ何であれ、命が自由に生きることを至上のものとする自然農とは究極的に相いれない姿である。大岡昇平は戦後20年以上たった民主主義の日本でこの戦場の有様を1,000ページ、百万字に及ぶ言葉で世に出した。

 大岡昇平もまた「大本営」の目詰まりを克明に描いている。当時、海軍は台湾沖航空戦のあやふやな視認から戦果を誤認して誇大妄想の大戦果を天皇に奏上、発表した。その大戦果が実は微々たるもので味方航空機の損害は甚大と気付いた大本営海軍部は驚くべきことにその事実を陸軍に伝達しなかった。虚報の戦果に勢い込んだ陸軍指導部はルソン島決戦の既定方針を覆し、それに反対する現地判断を押し切ってレイテ決戦へ舵を切ったのである。

 この泥縄の作戦変更は輸送、護衛、情報を軽視してきた日本軍の弱点をさらけ出すことになった。兵員はぎりぎり送り込んだものの丸腰同然で、しかも飢える兵士たちに投降、撤退を許さなかった。白兵戦と突撃を繰り返す明治以来の無反省で非理性的な戦略、戦術――。そのつけは一線の兵士たちに情け容赦なく降りかかった。私を恐怖させた蛸壺のあの兵士は肉弾となって戦車に立ち向かい、傷病兵は自爆するほかなくただ放置された。

 こうした犯罪的な不都合、作戦の失敗が記載されたはずの軍事記録は、敗戦直前にことごとく焼却され、仲が悪かった陸海軍が戦後は一転協力して多くの事実をひた隠しにした。死線を超えた軍隊仲間の親睦とされる戦友会も、上官の威圧で兵卒による真相の暴露を封じるのが真の目的だったといわれる。不合理を最も知る戦死者は何も語れず、生還した多くの軍人、将官の話には保身や自慢による粉飾、虚偽が多く、このことを知った大岡の戦記取材はますます執念がこもった。

 彼自身はレイテ島より北、ルソン島の西南に接するミンドロ島にわずか数十人の部隊で駐屯する35歳の補充兵だった。アメリカ軍が上陸してきたときマラリアの発熱で動けず敵前に一人放置されたために俘虜となって生き残り、彼を残して山へ退却した仲間は誰も生還できなかった。彼は俘虜収容所のあるレイテ島へ送られ、レイテの激戦がマッカーサーの予定を狂わせ、ミンドロ島は素通り同然となって、結果的に彼が救われたことを知った。

 鎮魂の戦記は、敗戦も遠くなった昭和42年(1967年)1月から2年半、『中央公論』で連載された。連載中に戦跡慰問をした大岡は「もうだれも戦争なんてやる気はないだろうと思ってきたが、甘かった。おれたちを戦争に駆り出した奴と、同じひと握りの悪党どもが、うそとペテンでおれたちの子どもに(戦争を)やらせようとしている」と地下に眠る戦友に語りかけた。第2次安保闘争で騒然となった時期、BC級戦犯の靖国合祀と政治家の参拝など戦前回帰の動きが目立ち始めたころで、執筆の動機には怒りが込められていた。

自然農 休憩のひととき

・愚劣さと非情を隠蔽する体質

 新型コロナで国民の外出がままならぬ生活を強いられている5月3日の憲法記念日、安倍首相が改憲派のインターネット集会にビデオメッセージを送り、「緊急事態で国家や国民がどんな役割を果たすかは極めて重く大切な課題であるか改めて認識した」と語り、憲法に緊急事態条項を創設する意欲を表明した。感染から国民を守る対策の稚拙さをアベノマスクと嘲笑されながら、彼の関心はもっぱら国家統治の容易さと、国民を従わせ協力させる権限に向いていたようである。

 2次にわたり在職8年を超す安倍内閣は「戦争ができる国にする」ことを標榜してはばからない。まず教育に国の関与を強める教育基本法を改定した。防衛、警察などの情報に強いガードをかける特定秘密保護法、歴代の自民党政権も認めてこなかった集団的自衛権の行使を容認する安全保障法案を、それも憲法を勝手に解釈する欺瞞で成立させた。情報の軽視どころか隠蔽、改竄の体質は戦前と少しも変わらない。これまで取材で自由に出入りできた中央官庁のオフィスも、いまカギがかけら記者は締め出された。

 その政権下で急速に進んだ格差社会。自己責任で切り捨てられる貧困層の若者を代弁するフリーライターの赤木智弘氏は、新型コロナに怯える「恐怖の平等」が社会の平等を実現するきっかけになるよう願うという一文を新聞に寄せた(2020年5月1日付毎日紙)。彼は「丸山眞男をひっぱたきたい 希望は戦争」という刺激的な記事(2007年「論座」1月号)で批判と注目を浴びた。絶望的な分断と閉塞を解消するのはもはや「国民が平等に苦しむ戦争しかない」と今でも考えている。

 しかし、それが如何に戦争の現実から遠い誤りであるか。大岡は国民の命が軍人、政治家の野心や思惑でもてあそばれるのを日米双方から描いている。上層司令官は、俘虜になっても、敵前逃亡同然の転身をしても、大目に見られてかばい合う日本軍の体質。米軍側でも、大統領選への出馬を胸に作戦スケジュールを進めるマッカーサーと最初の上陸用舟艇で日本兵の銃弾に倒れる黒人兵の対比として描かれている。

 ビンタを張った方も張られた方も特権階級とは無縁で、死の最前線を担わされたのは農民や庶民である。「軍隊とは愚劣で非情な行動が行われ、それを隠匿する組織である」ことを忘れてはならない、と大岡昇平は遺言の様に書き残している。

 戦争への道の大きな曲がり角になるかもしれない安保関連法が未明の国会で可決、成立した2015年9月19日、日本人と戦争を見つめてきた作家の半藤一利氏は、特攻を作戦化し命じた指揮官が戦後のうのうと生きた構造よりも、戦争が美談や物語にされる風潮の方をより憂え、戦争体験者がいなくなって戦争、軍隊の怖さを意識しなくなった危機感を新聞に語っている。

 未来の原因は未来にあるわけではなく、過去に積み重ねられた事実が原因となって未来が現れる。新型コロナウイルス騒ぎの今も日々過去になってその体験の積み重ねから新しい生活や社会の在り方が探られるのだろうが、死の恐怖だけでなく私たちは戦争の悲惨さを間近に覗くことができる『レイテ戦記』を大事な宝物として抱えてこの国を歩まなければならないのではないだろうか。

 

古藤「自然農10年」(15) 命と死①

コロナ的非日常に駆り立てられて

 自然農に親しみ、川口由一さんの生き方に深く共感してきた10年だったが、コロナ禍をきっかけにあらゆる生物の命と死について考えることが多くなった。

 自然農の暮らしは日ごろから命と向き合うことを大事にする。種が育ち死へ運ばれる米や野菜の成長をつぶさに見て、命がすべて同じであることを悟り、わが身もまたその一部であることを実感する。そのことこそ、収穫より大切な自然農の恵みだと私には思われる。

 私は無農薬で農業をしたいと願って自然農に巡り合ったのだが、死を恐れる想念から川口さんの自然農に吸い寄せられた人もいる。自然農の実践や漢方の教えを受けている糸島の「松国自然農学びの場」の代表、村山直通さんがその人。彼が人の死にとらわれたのは小学6年生のときだという。自分という存在が消えてなくなることが理解できずただただ恐ろしかった。大人になっても解消できず精神世界、座禅や気功、自然や命を説く様々な教えを学ぶある日、その世界で「黄金体験」といわれる感覚を体験した。

 それは降ってきたような突然の感覚で、思い返して表現するのも難しいという。周りの人も生き物も万物がみな一体で、そこに包まれるやすらぎ。光に包まれたと表現する人もいるが(宗教者に多い)、彼はただ涙があふれて自分も周りもすべての命をいとおしいと感じる感動に包まれたらしい。

 村山さんが川口さんに初めて会ったのは、そんな体験から間もないころ。聴きに行った講演会でゲスト講演者だった川口さんの言葉に接して、自分の不思議な体験が大自然の真の姿を体感したことだと悟った。死の恐怖がいつの間にか消え安心と安らぎの心を得た。

 以来約30年、村山さんは川口自然農の誠実な実践者となり、その人生を人のために尽くす。指導する学びの田畑は福岡、山口両県の5か所に広がり、漢方治療で多くの人の相談を受け、ことし床屋へ行ったのは4月の1回きりと笑う。

自然農の指導をする村山直通さん

・悲惨な戦争とつながる現代

 さて、私である。このところすっかり生と死の問題にとらわれてしまった。本原稿のちょっとしたエピソードにしようと、大岡昇平と三島由紀夫の本を開いたのがきっかけである。

 60代で読んだ大岡の『レイテ戦記』で血も凍る恐怖を感じた場面が記憶にあった。自分で掘った蛸壺に潜み、迫ってくる戦車に立ち向かう若い兵士の姿である。彼は手榴弾だけを武器に自分の小さな地点死守を命じられ、じっと死を待った。わずか1、2行と思った文章を引用しようと戦記をざっと読みを始めたが、どこを探しても見つからない。

 どの断片でその映像を頭に焼き付けられたか分からず、二度三度と『レイテ戦記』を読み返すうちに、ずさんな作戦命令で死ぬ日本兵の無念さが私の中にマグマのように溜まってきた。

 三島由紀夫の文庫本『葉隠入門』もまた私を彼の死まで導いていった。三島は大岡の小説を微に入り細に入り賞賛、生涯の恩人とした川端康成を上回るほどの評価を与えている。時期的に考えて三島が『レイテ戦記』を読むことはなかったと思うが、2人は同じ時代を懸命に生きた同胞たちに強い哀惜の念を感じ、ともに豹変する戦後に対する激しい怒りを抱いていた。

 私の関心は、三島の人生と交錯しつつ、同じように自ら命を絶った太宰治と川端康成という2人の作家にも移っていった。幼少期における3者3様の不遇も知った。三島の父は、昭和の妖怪といわれた岸信介と東大法科から旧農商務省に入ったまさに同期である。三島の決起には遠因として岸の存在があり、その岸の孫が今、ウイルス禍で混乱する日本のかじを取る。

 まさに過去と現在はつながっている。

 旧日本軍は陸軍と海軍から成り(航空部隊は両軍それぞれに所属)、その両軍を戦時に統合し、その最高司令部として設置したのが大本営である。発せられる命令は天皇の意思であり絶対であったが、内実は陸、海軍の張り合いで情報や意思の疎通を欠き、大本営発表は、大戦末期には虚報発信の代名詞となった。

 ひるがえって現代の安倍政権は新型コロナ対応で混乱している。毎日新聞コラムニストは、民心はすでに政権を離れたと見て、「政府の『大本営発表』はいつからか」と皮肉り(2020年5月11日)、そこでも官僚の内輪もめによる目詰まりが指摘されている。

 以下に記そうとしているのは、ここ数十年の私の精神遍歴のようなものだが、自然農に取り組むかたわら、あらためていくつかの本を再度紐解いて、過去の記憶を思い起こし、整理しながら、この際、記録としてまとめておこうという気になった。これもやはり、コロナ禍という非日常のなせる業だろうか。

 最後は三島を哀惜する民衆と、父親の孤独な心情に涙しながら文章を書き終えた。何かが私を駆り立ててこの文章を書かせたようにも思われる。まるで戦前が続いているとも思える愚かで理不尽な現政権に対する怒りが後押ししたのも確かだろう。

 原稿を書き終えた翌々日、アベノマスクがわが家にも届いた。夫婦用セットの袋は貧弱な政治を象徴するように見えた。

新サイバー閑話(44)

林さんの「情報法」連載ピリオド 

 本サイバー燈台プロジェクト欄の長期連載、林紘一郎さんの「情報法のリーガル・マインド その日その日」が奇しくもこの6月4日、第64回をもって終了しました。私がウエブをサイバー燈台としてリニューアルしたのと、林さんが『情報法のリーガル・マインド』(勁草書房)を上梓したのが同じころで、その機をとらえて、サイバー燈台に寄稿をお願いしたのがきっかけです。原稿料なし、まったくのボランティアというまことに図々しい申し出を快諾してくれたころを懐かしく思い出します。たしかにお互い、歳をとりました(^o^)。

 タイトルに「情報法のリーガル・マインド その日その日」と付けたのは、新著にまつわるエピソードのようなものを気軽に書いていただければと思ったからですが、「闘魂の人」林さんは過去をのんびり振り返ることを潔しとせず、本では十分書けなかったことを敷衍したり、新たに起こった事態に題材を求めたりと、情報法研究の最先端をさらに究めるべく、毎回、大原稿を書いてくださいました。そういう意味では、まさに「情報法 その日その日」の記録ともなりました。まことにありがたく、厚く感謝しています。

 途中で著書が大川出版賞を受賞したときの挨拶や、「法と経済」などさまざまな学会にパネリストやコメンテーターとして参加した報告、さらには長らく学長を勤められた情報セキュリティ大学院大学の最終講義の様子なども挿入されていますから(後半では私の連載、「インターネット万やっかい」に関しても言及していただきました)、硬軟取り混ぜた内容になっていますが、ここには「情報法の現在」が詰まっていることは、ご愛読いただいた方にはご理解いただけると思います。

 林さんは情報法の今後を若い研究者に託したい意向を末尾に添えられていますが、サイバー燈台主宰者としては、アフターコロナの激動が林さんの知的好奇心をさらに刺激し、折に触れて投稿していただける機会もあるのではないかと、勝手に期待している次第です。

 長い間、精力的にご寄稿いただき、ほんとうにありがとうございました。ときどき打ち合わせと称して横浜北口の中華レストランで食べたランチも懐かしい思い出です。

林「情報法」(64)

COVID-19と情報法

 このブログも、2017年9月14日の最初の投稿以来、2年9か月目となりました。COVID-19で世の中が変わりそうな雰囲気ですので、この辺りでとりあえず連載を閉じようと思います。最終回は、情報法のまとめの意味を兼ねて、COVIDのような「目に見えない」現象に対処する際の、基本動作を考えます。結論的には、① 見えないものを可視化して不安を和らげる、② 「偽陽性と偽陰性は不可避」と覚悟する、③ 情報によって情報を制御する、④ 最後は決定者が責任を負う、の4点を挙げたいと思います。

①   見えないものを可視化して不安を和らげる

 私たちヒトが生きていく上で必要な情報の80%以上は、視覚から得られると言われています。「『視覚は人間の情報入力の80%』説の来し方と行方」という論文をネット上で見つけましたから、学問上は未だ議論の余地がありそうですが、「百聞は一見に如かず」に類する諺が各国にあることからも、私たちの常識に合うように思えます。

 事実、視覚を失くしたり視覚に障害を持つようになると、行動が著しく制限されたり判断力が鈍ったりするようです。私も白内障を患っていた数年間は何となく不調だったのが、手術(今や日帰りが一般的です)後は「モノがはっきり見える」だけでなく、思考もまとまりやすく、全身の調和が戻ったように感じました。

 この事実は、ヒトは「見えないもの」に対する反応には「見えるもの」に対するほどには自信を持ちにくいこと、従って余計な不安を抱いたり、逆に虚勢を張って無視したりといった「非合理的」な反応に走りがちなことを、暗示していると思われます。私はセキュリティの世界に入ってから、心理学などの先行研究に触れる機会が増えましたが、一般的なバイアスのうち「非合理」の代表とされる事例には、「見えない」ことから来るものが多いことに気づきました。 

 その中の1つに「可用性ヒューリスティック」(availability heuristic)があります。これは日常的な行為では「ついでの買い物の際、つい同じものを買ってしまう」というような例(この場合は、具体的な物が対象であることに注意してください)にも使われますが、災害のような場合(これは目に見えません)では「大災害としてメディアで報じられたものほど、被害が大きかったと誤認してしまう」といった傾向を指します。

 例えば、飛行機事故は自動車事故よりも一度に多くの死者が出て悲惨ですので、事故の報道記憶が鮮明なため、年間の死亡者数の実データを無視して「飛行機の方が危険」と思いがちです。そこで9.11の後では、飛行機を避けて自家用車を選ぶ人が増えて、当然のことながら自動車事故が増えたと言われています。今回のCOVID-19も、一定の終息を見た後で死亡率を計算すると、インフルエンザと大差ないか、ひょっとすると低いかもしれません(そう願っています)が、恐怖心には雲泥の差があります。

 ヒューリスティックは、視覚情報など脳の負担が多すぎることから、「最短で最も効果が高い (と思われる)対処法」として、「過去の経験や記憶から情報に優先度をつけて判断する」思考のショートカット機能のことで、進化的なものです。ショートカットが常に正しいとは限りませんが、結果的にヒトが今日まで生き延びてきたのですから、総じて有効な方法だったとは言えるでしょう。

 しかし、それが「見えない」ものにも適用可能かどうかは、未だ実証されていません。その際の最も安易ですが、実は最も効果的な方法は、「見えないものを見えるようにする」こと、つまり「可視化」です。これによって一定範囲までは「見えない=不確実=不安」という直感的回路への耐性を作ることができます。コンピュータ・システムの売り込みで、「(社員の)貢献の見える化」というコマーシャルが流れていますが、それは理に適った方法と言えるでしょう。

 しかし「見える化」ですべての問題が解消するならハッピーですが、世の中はそんなに甘くありません。Fake Newsで取り上げたように(連載第44回「公開と真実の間」)、「見えない」世界では、「何が正しくて何が間違っているのか」も、一筋縄ではいかないからです。その場合「見える化」で可能なのは、せいぜい「不安を和らげる」のが限界で、それ以上は王道に帰って、「見えないものに対するリテラシ―」を磨くしかないと思われます。

②   「偽陽性と偽陰性は不可避」と覚悟する

「あれか、これか」の二者択一の陥穽については、本連載で何回にもわたって取り上げました(第45回~47回)が、ここでは別の面から、偽陽性(false positive)と偽陰性(false negative)が避けられないことについて、注意を喚起したいと思います。新型コロナウィルスのPCR検査の少なさと遅さに疑問を感じたからでもありますが、それ以前に里見清一氏が「医の中の蛙:第123回 血液一滴の癌診断」(『週刊新潮』に連載中、2020年1月16日号)というエッセイで、次のような指摘をしていたことが直接の引き金です。

(前略)仮にあなたが「99%」の精度の検診を受けて、「陽性」つまり癌の疑いがある、と出たとしよう。これでもうほとんど癌と極まったかというと、そうとも言い切れない。検診は自分が健康と思う人が受けるもので、検査の前、あなたが癌である確率(事前確立)は高くない。仮に0.5%とする。そして検査が、癌の人の99%を正しく「陽性」と判定し(感度)、癌でない人の99%を正しく「陰性」と判定する(特異度)として、「陽性」と出たあなたが癌である確率(事後確率)は約33%である。計算の詳細は省くが、これは私が医学生の試験に出すくらいの、基礎レベルの問題である。(後略)

 読者の中には、この指摘は当然のことと思われる方もおられるでしょうが、念のため33%の証明をしておきましょう。まず、事前確率0.5%の意味は、被験者全体と1としたとき、「陽性」と判定されるべき集団が0.005、「陰性」と判定されるべき集団が0.995の構成であることを意味します。

 すると、「検査結果が陽性」(Tested Positive = TP)になるのは、前者の99%(真陽性 Genuine Positive = GP)と、後者の1% (偽陽性 False Positive = FP) ですから、

     TP= GP+FP = 0.005×0.99+0.995×(1-0.99)=0.00495+0.00995=0.0149

 上式からTPのうちGPである確率は、

    GP (%) = GP÷(GP+FP)×100 = 0.00495÷0.0149×100 ≒ 33%

となります。

 上式の政策的含意は、「事前確率がさほど高くない集団を検知する際には、GPよりもFPが入り込む可能性より高いので、注意が必要である」という点に尽きるでしょう。そこで注意には、2つの異なった側面があります。

①    例えば情報セキュリティに100%がないことは関係者の共通認識ですが、上記のような事例にぶつかると、ともすれば直感に反することがあることを自覚して、より慎重な判断が必要であること。
②    正確な判断を期すには、データの収集段階では「なるべく多く」集め、分析段階では「(多数の)偽陽性のものを正しく棄却する」という矛盾したプロセスが必要であること。

 ① はリスク管理において常に注意すべき点(直感との違い)を、② はビッグデータの必要性を教えてくれます。また後者に関連して、新型コロナウィルス蔓延の初期段階において、わが国がPCR検査を政策的に絞り込んだことの是非は、このディレンマを考える上で格好のモデルとなるでしょう。わが国は、とかく「完璧主義」に傾きやすいのですが、どんなに優れた検査法でも「誤差」つまり偽陽性や偽陰性が避けられないことは、常に頭の片隅に置いておかねばなりません。新型コロナ以前から、私たちはこのような「不確実性の世界」に住んでいるのです。

③   情報によって情報を制御する

 情報に関して、もう1つ注意が必要なことは、最初の情報(原情報)から「付随的情報」が数多く生まれることと、そのベクトルに「派生的情報」と「制御用情報」という全く方向性が違うものがあることです。派生的情報としては、著作権法における「二次的著作物」を、制御用情報としてはコンピュータ処理のための付加コード(事前に付与する場合)やログ(事後的に自動創出される場合)をイメージしていただければ良いでしょう。

 ここで前項との関連でまず問題が生ずるのは、原情報そのものが「絶対的に真」であることは保証できないことです。しかし問題はそれにとどまらず、付随的情報が何段階にもわたって生み出されるとすれば、その信頼度が「べき乗」で薄れていくことです。この現象の「派生的情報」における例としては、伝言ゲームを思い出していただくだけで十分かと思います。

 これに対して制御用情報における現象は、それが原情報と1対1で紐づけられていることから、2つの問題が考えられます。まず事前付与の付加コードに関しては特定の個人が推定できるのではないかという個人情報保護法上の問題があり、安全管理措置が必要です。事後創出型のログに関しても同様の問題がありますが、こちらの場合は安全管理措置という受け身の行為に加えて、ログを利用して原情報を制御するという積極的な行為も可能になります。

 具体例としてすぐに思いつくのは、バック・アップです。コンピュータ・システムは時々不具合を起こしますから、早期の原状回復を図るには「どのような操作をした結果ダウンしたのか」を逐一記録しているログに頼ることになります。また、仮に不正行為によって不具合が生じたのであれば、その原因を究明したり、行為者を特定するためにもログが使われます。いずれも場合も、ログという制御用情報によって原情報を復旧したり、証拠として役立てるという操作(制御の一種)をしているのです。

 これは、コンピュータ・システムの進歩とともに登場した「仮想化」の一種と見ることができます。仮想化とは、物理的な存在としてのコンピュータを離れて、ソフトウェアの工夫で「あたかも存在するかのように」コンピュータ機能を拡充することです。その際は、仮想化するのもソフトという「情報」ですが、仮想化されるコンピュータも、その実態面(有体物という属性)を離れて、「情報」という次元で扱われている、と言えるでしょう。

 だんだん説明が複雑になってしまったので、COVID-19に関連付けて説明し直しましょう。第1波の流行が一段落したので、現在の関心はワクチンがいつできるかに移っています。特定の病原体に対する攻撃準備を、感染前に免疫系にさせておくのがワクチンですが、従来は「生ワクチン」と「不活化ワクチン」の2種類しかありませんでした。

 生ワクチンは、弱毒化した病原体を使います。抗体に加えてキラーT細胞も誘導されるので、強い免疫反応が期待できますが、稀にうった人の体内で病原体が増えることがあります。一方、不活化ワクチンは増殖力を無くした病原体を使うため、体内で病原体は増えませんが、キラーT細胞が誘導されないことが多く、免疫反応は比較的弱いとされます。

 この2者に対して、最近開発されたDNAワクチンは、病原体のうちとくに免疫反応を強く起こす「抗原」と同じ配列のDNAを合成したもので、体内では生ワクチンとほぼ同じ反応が起きます。病原体DNAの一部だけを使うため、体内で病原体が増える恐れがなく、しかも理論的には強い免疫反応が起きると期待されています。これを本稿の文脈に直せば、DNAワクチンはワクチン作成方法の仮想化で、病原体そのものを操作するのではなく、その情報を制御する方法を考えている、ということになるでしょう。

 医学的な説明では、以下のようになっています。「病原体のDNAをワクチンとしたもので、注射後、DNAに従いたんぱく質が合成され、そのたんぱく質に対する免疫を獲得することで、疾患に対する免疫を得ます。DNAを投入するだけなので、抗原たんぱく質の生成が不要になります。そのため短期間で製造が可能となるのです。また弱毒化したものではないため、病原性がなく安全性が高い点も利点と言えます。ウイルスは使いませんから、製造工程の感染は起こりませんし、副作用も少ない。期間も非常に短い。」(ネット検索で見つけた表現を合成しています)。

 私が『情報法のリーガル・マインド』で、「情報によって情報を制御する」ことの説明に、かなりの紙幅を割いたのは、このような現象が一般化することを予見したからですが、具体例として取り上げたのは、品質表示情報(と、その偽造)でした。「情報によって情報を制御する」ことが、まさかワクチンにまで及ぶとは、執筆当時は想定していませんでした。

④    最後は決定者が責任を負う

 そして最後は、上記3点の不確実性にも拘わらず、対策を策定する必要が生じたら即応しなければならないし、その責任は最終的には決定者が負わなければならないことです。これは、今回のコロナ騒動で私たちが見聞し、実感したことでしょう。

 失敗例とされる国々(アメリカ・イギリス・イタリア・スペイン・ロシア・ブラジル)、一時的には成功したが現時点では第2波が心配される国々(韓国・シンガポール)、リスク管理の教科書には反するのに感染者も死者も少ない不思議の国(日本)など、世界はお互いを比較し、教訓を得ようとやっきになっています。未だワクチンも特効薬もない状況では、何が正解か分からないまま、責任だけは負わされるとすれば「これ以上の不条理はない」と言いたいところでしょうが、誰も許してくれません。

 考えてみれば近代法は、損害賠償という形での私的な責任を、a) 故意または過失によって、b) 他人の権利か法的利益を侵害し、c) 実際に損害を生じさせ、d) 行為と損害の発生の間に因果関係が認められる場合に限っていますが、「リスク社会」ではこの4要件を満たさない異例・重大な事故が、多数発生しています。また、判例で形成されてきた「予見可能性」「結果回避可能性」という尺度も、今後も有効であるかどうかが問われています。

 私たちは、このような不確実な社会に生きており、従来の発想では責任が蒸発して、誰に責任を負わせたらよいかが不確実な状況を、何とか辻褄を合わせて生き延びてきました。情報という見えないものの比重が増せば増すほど、このような状況は加速化し、拡大していくでしょう。私の拙い本が、状況の理解に若干でも貢献できたのなら、それだけで十分満足ですが、事態は私の想定を超えたスピードで進展を続けるようです。これからは、書き手を変えて、このテーマを追ってくれる若者に期待したいと思います。