相棒にして畏友、三浦賢一君の思い出
やっと故三浦賢一君について話す時がきた。これまでも折々に彼のこと記してきたけれど、私がプロジェクト室でパソコン誌の準備を始めたとき、局長室がパソコンに詳しい三浦君を相棒としてつけてくれたのがまさに天の配剤で、『ASAHIパソコン』の成功はそのときに約束されたと言っていい。彼と過ごした3年半は、朝日新聞に入社以来最も忙しい日々だったけれど、一方でそれは、大袈裟に言えば、至福の期間でもあった。彼は頼りがいのある相棒であり、すぐれた科学ジャーナリストであり、たぐいまれな編集者だった(写真は仕事中の三浦君。創刊2年目を迎える前)。
私のコンセプトを肉付けして誌面化するにあたって、三浦君はその編集マインドをいかんなく発揮して、彼の個性をうまくまぶしつつ、すばらしい形にしてくれた。三浦君は私より7歳、熊沢さんは5歳年少だったが、その2人とも今はこの世にない。そういうこともあって、この記録を書く気にもなったのである。
三浦君は東北大学大学院理学研究科の出身である。本来なら学者の道をめざすはずだったのだろうが、途中で方針転換、朝日新聞に入社した。ごく普通に支局勤務を2つ経て、1979年に科学朝日編集部員に。その後、週刊朝日編集部を経て1986年秋に出版プロジェクト室に配属となった。
・すぐれた科学ジャーナリストにして卓越した編集者
ムック5冊を出し終えてほっと一息ついたころ、出版されたばかりのロジャー・レウィン著、三浦賢一訳『ヒトの進化 新しい考え』(岩波書店)という本の献呈を受けた。サインの日付が1988.1.18となっている。三浦君の専門は生物学であり、めざしたのは科学ジャーナリストだったのである。
『科学朝日』時代には世界のノーベル賞学者20余人にインタビューした『ノーベル賞の発想』(朝日選書、1985)を世に問い、科学ジャーナリストとしての高い評価を受けていた。この本のあとがきで彼は「ノーベル賞を受賞するような飛躍は、守備範囲を狭く限定したような研究からは、なかなか生まれにくいようにみえる。守備範囲を限定しているようにみえても、広い範囲の知識を吸収し、広い視野を持っていた人が飛躍を成し遂げたというパターンがありそうに思われる」と、いかにも彼らしい控えめな表現ながら、意味深長な「真理」を語っている。
彼自身にもそのような広い視野への関心が強く、だから学者よりジャーナリストを選んだのだろうと、私は推測していた。すぐれた編集者、小宮山量平(理論社社長)は、編集者の心得として以下の3点を上げている(『編集者とは何か―危機の時代の創造―』日本エディタースクール出版部)
第1は、つねに総合的認識者という立場を持続できること。森羅万象にすなおに驚き感動する心をもち、しかも1つの専門にかたよらない、むしろ専門自体になることを拒否することで総合的認識の持続をつらぬく気概をもつこと。
第2は、知的創造の立会人という役割に徹すること。それはアシスタントであり、ときにアドバイザーでもある。そのためには、あらゆるものの存在理由について無限の寛容性をもつ「惚れやすさ」、著者の創造過程に同化しつつ、著者を励ます「聞き上手」、そして相対的批判者の立場から誉め批評ができる「ほめ上手」の3つの役割を、うまく果たさなければならない。
第3は、自分が制作する出版物を広く普及するため、特有の見識をそなえ、力倆を発揮しうること。
編集という職業に惚れぬいた人の、思わず襟を正してしまう指摘だが、三浦君はまさに小宮山量平の望む編集者の資質をよく具えていた。初対面からウマがあった理由ではないかと思う。彼はあるとき、千葉支局時代に支局長から「簡単に出来ることではなく、むしろ出来そうもないことを考えろ」と言われた、と話したことがあった。困難に挑戦する気概が名著『ノーベル賞の発想』を生んだと言っていい。新聞記者にとって最初の4~5年、ほとんどの人が配属される支局勤務は、かつては「記者の学校」だった。私自身も新米時代に横浜支局や佐世保支局で新聞記者の原点とも言うべき多くのことを学んだ。
作業はさっそく二人三脚で動き出した。意見が食い違うことはほとんどなく、忙しいけれども充実した、楽しくもあった数年だった。ムックのタイトルを「おもいっきり」にしようと提案したのも三浦君であり、ムック『おもいっきりPC-98』のところでも述べたが、実用情報誌の情報の扱い方についての基本フォーマットづくりにも貢献してくれた。
私はパソコンガイド誌ではあっても、新聞社から出す以上、ジャーナリズム性を失ってはいけないと考えていた。新聞社内にはまだ新聞記者は大所高所から世界国家を論ずべきで、パソコンのガイド誌などもってのほかとの空気が強かったが、それは大きな勘違いだと私は思っていたのである。
これはすでに述べたことだが、雑誌『日経ビジネス』の「産業構造―軽・薄・短・小の衝撃」という特集がその例である。当時ヒットしていた商品の特徴をつぶさに検討すると、それは軽い、薄い、短い、小さい。我が国の高度経済成長を支えてきた鉄鋼や石油化学などの重く、厚く、長く、大きい重厚長大商品の時代は終わりつつあるという鋭い洞察は、具体的な物を徹底的に分析することから生まれた。これぞジャーナリズムであり、編集マインドである。立花隆が1974年に文藝春秋で特集した「田中角栄の研究―その金脈と人脈」も同じである。メーカーの資料を丸写ししてただ並べるだけのガイドではなく、その並べ方や説明の仕方に工夫がほしい。記事の背後に記者の、編集者の目が光っているような実用情報を私は求めた。
・すべてはパロアルトから始まった
創刊から4カ月ほどたった2月15日号から3回にわたって「すべてはパロアルトから始まった」というルポが掲載された。筆者は三浦賢一君である。パソコンに向かいっぱなしのデスクワークから少し離れてのんびりしてもらいたいという気持ちもあって、パソコン発祥の地、アメリカ西海岸を訪ねてもらったのである。
息抜きになったかどうかはわからない。しかしパークとその周辺を訪ね、ロバート・テイラーやアラン・ケイ、ダグラス・エンゲルバートなど、パソコン黎明期の伝説的人物にインタビューする旅は、けっこう楽しかったのではないかと私は想像している。『ASAHIパソコン』としてはぜひとも紹介しておきたい話だったし、読者にとっても興味深い読み物にもなったのではないだろうか。
三浦君について今でも思い出すことが2つある。
私は三浦君を便利に使いすぎているのではないかと思うことがときどきあったが、ある時カメラマンの岡田明彦君から「三浦君と雑談していた時、彼が「『矢野さんは僕を利用したが、僕もまた矢野さんを利用した』と言っていた」という話を聞いた。彼は彼で『ASAHIパソコン』で自分のやりたいことをやっていたんだなあ、と心和む思いがした。
もう1つ、これは少し後の話だが、『DOORS』が廃刊になり、私が熊沢さんに愚痴とも怒りとも言えない感情をぶちまけていたとき、そばにいた三浦君がそっと寄ってきて、「矢野さんにはいつも僕がついているから」と言ってくれた。そのときは思わず目頭が熱くなった。
創刊2周年が近づいていたころ、三浦君は「そろそろ解放してほしい」との希望を示すようになった(前から言ってはいたけれど)。あれだけ働いてくれたのだから、それに応えない選択肢は、当時の私にはなく、局長室にかけあって彼の希望通り、当時動物シリーズを刊行していた週刊百科編集部への異動が実現した。しかし好事魔多し。異動直後に週刊百科が組合役員選出のローテーションにあたり、1年間、組合専従に出るめぐりあわせとなった。
その後、『科学朝日』副編集長、『ASAHIパソコン』編集長、『アエラ』編集長代理などを経て、2000年暮れに『ASAHIパソコン』から生まれた超初心者向けの『ぱそ』編集長になった。『ぱそ』立て直しの期待を担っての人事らしいが、『ASAHIパソコン』創業の功績にも報いない、何をいまさらと思わされる人事である。三浦君のやさしい性格が災いしたと言うか。そして、あろうことか、そこでの心労が重なり、2001年5月に発作的とでもいうように、自死するに至った。
火葬場で用務員の女性が「亡くなったのはどういう方だったんですか。骨がしっかりしていてどこも悪い所などなさそうですね」と言った。肉体的にはきわめて健康だったのである。
そのころ私は出版局を外されて調査研究室勤務となっており、彼の死はまったく寝耳に水だった。異変に気づき相談に乗ることもできなかった境遇をうらめしくも思った。出版局執行部への新たな怒り、それと同時に、デジタル時代の出版活動にまるで無知な人材を天下り的に出版局に送り続けた社執行部に対する憤懣も湧き起った。
メディア激変の時代における出版の可能性についての持論は、私の失敗も含めて後に『DOORS』の項で詳しくふれるが、ここにはデジタル時代に翻弄され本来のジャーナリズム性すら捨て去った社の歴史が凝縮されているだろう。まだまだやりたいことがあった私を出版局から外し、ほかにやりたいことがあった三浦君を無遠慮にデジタルに張り付けた。私が出版局に残っていれば、強引にでも阻止したものをと、まことに臍を噛む思いだった。
そんなことなら最初から私の後任を「押しつけて」おけば、『ASAHIパソコン』のためにも、本人のためにも、社のためにも良かったのではないだろうか。彼にはその後もいろいろ協力してもらいたかったし、朝日新聞としても、まことに惜しい人材を失った。すまじきものは宮仕えではないが、悔やんでも悔やみきれない痛恨事である。
・アサヒパソコン編集部を去る
少し話が先に進みすぎた。創刊1周年を迎える少し前、『ASAHIパソコン』とほぼ同じコンセプトで体裁も同じ、やはり月2回刊のパソコン初心者向け雑誌『EYE.COM(アイコン)がアスキーから発売された。またビジネス・ユース誌としては最大部数を誇る日本ソフトバンクの『Oh!PC』も月刊から月2回刊に切り替えた。パソコン誌の流れは「むつかしい専門用語が詰まった月刊のパソコン専門誌」から「だれもが読める月2回刊のやさしいパソコン情報誌」へと移り始めた。それこそ『ASAHIパソコン』が切り開いたパソコン誌の新しい流れで、私は「追随誌が現れてこそ本物」といささか鼻高々だったが、編集部の状態はあまり変わっていなかった。
創刊1周年を祝うパーティが1989年10月16日夕、新聞社内レストラン「アラスカ」で開かれ、社内外から130人が集まった。「出版局報」に、その年8月に配属されたばかりの勝又ひろし君がそのレポートを書いている。要するに相変わらず忙しかったのである。社内のパソコン編集部を見る目は「パソコンオタクがそろう特殊技能ハッカー集団と見られがち」で、知人に局内を案内している人が「ここは人間より機会が威張っている所だから、近づかないようにしている」という声を聞いて反発もしている(ちなみに勝又君は創刊から20年近くたった2006年、パソコンガイド誌としての役目を終えて休刊したときの最後の『ASAHIパソコン』編集長である)。
それから2周年を迎えるころにかけて鍛冶信太郎、藤井千聡、見沢康、福沢恵子といった人びとが編集部に参加している。見沢君は朝日広告社から出向してもらい後に正式部員となった。福沢さんは夫婦別姓の実践者かつ活動家で、激務をリゲインを飲んでしのいでいると「リゲイン福沢」を名乗っていた。出自も個性もさまざまな部員がとにもかくにも頑張ってくれていたのである。三浦君の後任として科学部から大塚隆君に来てもらった。彼にはちょっと回り道をさせてしまったが、後に科学部長に就任した報を聞いてほっとしたものである。
創刊2周年を終えるころから、私はやるべきことはやったという思いが強くなり、1991年7月、後事を週刊朝日副編集長から来てもらった森啓次郎君に託して『ASAHIパソコン』を去り『月刊Asahi』に移った。