新サイバー閑話(93)平成とITと私⑭

『DOORS』突然の強制終了

 先にも書いたが、『DOORS』は1997年5月号で突然休刊になった。有無を言わせずの強制終了である。最終号の目次が「休刊」のお知らせで、表紙には「ゼロから始めるウエブサーバー作り」の記事紹介もある。牧野さんの「今月の怒る弁護士」は「社会は変動する。かつての経済先進国日本は今急速に凋落する。未来を展望できない国家は、大きく衰退するのが歴史的必然だ」と書いている。私には『DOORS』休刊決定そのものが朝日新聞凋落の予告のようにも思われた。今は亡き三浦賢一君が「矢野さんにはいつも僕がついているから」と言ってくれたのは、突然の休刊を告げられた夜のことである。

 敗軍の将、兵を語らずと言う。『DOORS』休刊の責任は編集長にあり、それを認めるにやぶさかではない。しかし、その背後にあった社のメディア政策との確執、突然、降って湧いたような花田問題の波紋についてはきちんと記録しておきたい。

 『DOORS』は私が小世帯の出版局でインターネットに取り組んだ最初のプロジェクトだったが、その直後に社が電子電波メディア局という新たな組織をつくり、インターネットに向けて全社的な取り組みを始めたのが『DOORS』にとっての不運だった。先行プロジェクト『DOORS』は邪魔者として排除されたのである。電子電波メディア局を立ち上げる前に、デジタル出版部をその一部に取り込もうとする考えがあったのはたしかで、実際に私は社幹部からその打診も受けていた。幹部の某氏は「君のやりたいことは所帯の小さい出版局では無理だから」とも言ってくれた。だが私には電子電波メディア局がやろうとしているasahi.comの事業がどうしてもうまく行くとは思えなかった。先にもふれたが、小さな組織でいろんな実験に挑みながら、成功しそうなプロジェクトを伸ばしていくのがいいと思っていたのである。

 今にして思えば、あのとき電子電波メディア局に編入されたうえでasahi.comとOPENDOORSを併存させつつ『DOORS』プロジェクトを遂行する方法もあったかもしれない。大組織に抗って潰されるよりは良かったとも言えるが、成否は私の政治的手腕次第で、その点で自信がなかっということでもある(当時、社のメディア政策に関与していた友人の話では、そういう併存の目はもともとなかったらしい)。山本博出版局次長の考えもあり、出版局独自の路線を選ぶことになったのである。

 ここは微妙なところで、当時の出版局は桑島久男担当、山本局次長という体制で、局長は担当兼務だった。後に担当の意向でK局長が着任したが、桑島、K、山本いずれも編集局社会部の出身で、だから団結力があったわけではなく、むしろ個性の強い社会部記者の三すくみに近い状態だった(出版局の植民地支配の典型と言ってもいい)。

 私は雑誌づくりに憧れ、自ら希望して編集局から出版局にやってきた。出版局は編集局に比べて辺境だと思われていたから、「デスクになって天下りするまで辛抱しろ」などと言われたりもしたが、そういう考えが私には理解できなかった。皮肉なことに、そのことで出版局側からは奇妙な人事と思われたりもした。最初は新聞とは違う雑誌というメディアになじめず苦労したが、平池芳和、木下秀男、大崎紀夫など個性的で魅力的な編集者がたくさんいた。最先端技術特集をしながら、周りの仲間にいろいろ教わり、『ASAHIパソコン』創刊までこぎつけたのである。だからレイトカマーではありながら、出版局への愛着はひときわ強かった。『アサヒグラフ』時代には、ローテーションとして朝日新聞労組書記長に担ぎ出されたりもしている(労組時代の1年は、それこそすばらしい仲間に恵まれ、貴重な経験をし、同窓会は今でも健在である)。

 ここで山本博氏について少し説明しておこう。彼は北海道新聞からスカウトされた途中入社組ながら、横浜支局デスク時代のリクルート報道で名をはせた朝日新聞社会部きっての特ダネ記者だった(平和相互銀行事件、KDD事件、談合キャンペーンなどの調査報道に携わり、新聞協会賞も2度受賞している。『朝日新聞の調査報道』=小学館=の著書がある)。柴田鉄治さんは朝日新聞改革案として「山本博君をリーダーとする調査報道部門を作るべきだ」と常々言っていたが、ともに編集局中枢から外されていた。朝日新聞という会社は、特ダネ記者を名古屋社会部長、販売局次長と適当に処遇しながら、次いで出版局次長にしたのである。

 私が接した山本さんは、特ダネ記者とは別の進取の気性に富む良き管理者で、インターネットにも興味をもち、よく「矢野さん、いまメールしたから」とわざわざ局長室から伝言しに来たりした。彼とはウマが合い、いろいろ相談しながら対応していたが、後に聞くところによると、局内からはYY路線と揶揄されていたらしい。

 DOORSとasahi.comとの路線対立が、結局、『DOORS』廃刊に結びつく。彼らにとって『DOORS』は目の上のたんこぶだったのである。

 1つのエピソードがある。

 OPENDOORSが日本のマスメディア最初のホームページとして新聞協会のパンフレット『1997日本の新聞』に記されていることはすでに述べた。時代は突然、現在に飛ぶが、主宰しているOnline塾DOORSで友人、森治郎さんのミニコミ誌『探見』との共催で阿部裕行・多摩市長の話を聞いたことがある。

 阿部さんは当時たまたま新聞協会事務局に勤務しておられたが、OPENDOORSの認定に関しては、asahi.comの関係者から「あれは出版局がやっているもので朝日新聞の正式のものではない」と異論が出たらしい。小さな手柄を誇示するようだが、この出来事に当時の電子電波メディア局の『DOORS』を〝敵視〟する様子がうかがえるので、記しておく。

 『DOORS』廃刊にはもう1つ、伏線があった。先にふれた『ウノ』創刊(花田問題)である。新雑誌を創刊するのはいい、外部から編集長を招くのは、局員としては不満だが、これもあっていいだろう。しかし、なぜ花田氏なのか、というのが問題だった。

 社内でも、私の組合時代の畏友、社会部出身の鈴木規雄氏などは公然と批判していたが、当の出版局部長会ではっきりと抗議の意思を表示したのは私だけだった。部長会が終わったあと、某氏がそっと近づいてきて「いい発言だった」とつぶやいたが、当の本人は部長会の席ではだまっていたわけである。

 『ウノ』問題を機に着任してきたK局長が私の総合研究センター送りを画策したのである(K氏と山本氏は社会部以来の犬猿の仲で有名だった。山本氏は当時、私にこんなことを言った。「Kと私はふだん顔をあわせても挨拶しないが、桑島さんの前だと、Kは私に百年の知己のように話しかけてくる。私はそれに対して1000年の知己のように答える」)。もちろん私は異動を拒否した。と言うより、総研センター自体はかつて論説委員並みの待遇で、優秀な記者が処遇されて行くところでもあったから、行くにあたっては「自分は何をやりたいか」の提案書が前提だと聞かされ、私はそれを書かないことで抵抗していたのである。

 ところが私のあずかり知らぬところで私の研究レポートが出されたために、人事が発令されてしまった。K局長になってから局次長が増員され、雑誌編集の実績がほとんどなく業務関係の部長だったN氏が出版局懐柔策として局次長に一本釣りされたが、そのN氏が私に無断で代作したのだった。後に私が詰問したところ、彼はこれを認め、「K局長には局次長にしてもらった恩義がある」と言った。

 実は、私の総研センター行きはM社長や当時のH総研担当役員から「一時的だから、しばらく好きなようにしていればいい」と言われていた。しかし、しかし。私も含めて出版局再生のためにポスト桑島として着任を要請して実現した、これもN新担当は、思惑に反して、私を出版局に戻さなかった。彼は「君を戻せば自分の身が危ういと、上層部の先輩から言われている」と言った。出版局プロパーに裏切られたという苦々しさが残った。

 総研センター時代、私はときどき、中島敦の小説『李陵』を思い出した。

 まだ紀元前の中国、漢の武帝の時代。匈奴征伐の際に、善戦およばず捕虜となった李陵は、匈奴単于(ぜんう)に厚遇される。李陵は自己弁護をせず、漢民族の誇りも失わず、匈奴の軍事指南は拒否した。ところが不運なことに、同じ李を名乗る別の人物が匈奴に迎合、それが武帝の耳に達する。怒った武帝は李陵の家族、一族をことごとく殺した。李陵は匈奴と一定の友好を保ちつつも、悲運のうちに異郷の地に没する。一方、匈奴に順うのを潔しとせず僻地に放逐されていた蘇武は、苦節19年の末、祖国に戻った。

 高校の教科書で読んだとき、「襤褸をまとうた蘓武の目の中に、時として浮かぶかすかな憐憫の色を、豪華な貂裘(ちょうきゅう)をまとうた右校王李陵は何よりも恐れた」という簡潔で凛とし、しかも深い憂愁をかかえたこの名文が妙に記憶に残った。

 ちなみに、武帝の前で李陵の行動をただひとり弁護、そのために宮刑(去勢)という恥ずべき刑を受けたのが有名な『史記』の作者、司馬遷だった。中島敦は司馬遷に関して、「彼は、今度程好人物というものへの腹立を感じたことは無い。これは姦臣や酷吏よりも始末が悪い。少なくとも側から見ていて腹が立つ。良心的に安っぽく安心しており、他にも安心させるだけ、一層けしからぬのだ。弁護もしなければ反駁もせぬ。心中、反省もなければ自責もない」。

 すでに社を離れていたと思うが、柴田さんが何かの折に、「戦国時代なら戦いに敗れれば、首をはねられてもしょうがないところだ」と妙に慰めてくれたことを思い出す。

 総研センターは、さすがに往年の面影が残り、気心の知れた友人もいて、台頭するインターネットの現場を取材したり、共同レポートを書いたり、それはそれで楽しく過ごした。同時に、ここでもインターネットに翻弄される新聞社の混乱ぶりを見ることになった。朝日新聞社は2008年、出版局を朝日新聞出版として分社化したが、それは2023年6月の『週刊朝日』廃刊へと結びつく。私が総研センターで見たのは出版局が滅びに向かうみじめな姿でもあった。

 それはともかく、私が総研センターに行った1997年は平成9年で、平成という時代は3分の1を経たところだった。インターネット史で言えば、まだWeb2.0以前である。

新サイバー閑話(92)平成とITと私⑬

『DOORS』短命の中の豊穣

 『DOORS』のタイトルについても思い出がある。雑誌『アエラ』の命名者、コピーライターの真木準さんに知恵を借りに出かけた時、真木さんはこう話してくれた。

 タイトルの要諦は、明・短・強である。

 明るく、短く、強い。これが条件なのだという。コピーライターたちはタイトルを考えるとき、英語、ドイツ語、フランス語、ラテン語など、あらゆる辞書を最初から1ページずつ丁寧に読んでいき、ふさわしい言葉を探すらしい。私も休暇を利用して南の島に国語辞典、漢和辞典、英語辞典、ことわざ事典などを携帯、それを読破しつつ、DOORSのタイトルを考えついた。

 それを商標登録しようと、刊行部で調べてもらったら、すでに登録されていた。ソニー・ミュージックエンタテインメントがロックバンドの「ドアーズ」関連書籍を出そうとしたことがあるらしく、10年近く前に商標登録していたのである。私は、『DOORS』という誌名をどうしても諦めきれず、ソニー・ミュージックエンタテインメントに出かけて趣旨を説明したら、先方でもインターネットやマルチメディア関連の雑誌を出す可能性はいくらもあるのに、気持ちよく譲ってくださった。学生時代の寮の先輩がその会社の幹部をしていた幸運もあったが、先方の関係者の実に爽やかな対応は、今でもありがたく、また嬉しく思っている。

 創刊当初、「なぜDOORSなんですか」とよく聞かれた。「ロックバンドの名にあやかった音楽雑誌かと思ったら、インターネットの雑誌なんでびっくりしました」と言ってきた若い女性もいる。実際、『DOORS』が音楽ジャンルの書棚に置かれたこともある。私は「オルダス・ハックスリの『知覚の扉』からとったんですよ」と答えたり、Windows95にからめてDOORS are bigger than Windowsと笑ったりしていたが、その『DOORS』をきちんと育てられなかったのは、まことに心苦しい。

・伊藤穣一・村井純・浜野保樹

 さて、本題である。わが社にとっても、また私たちにしてもまだインターネットをよく知らなかったわけで、社外の何人かに助言を頼んだ。それは相当たる顔ぶれだった。

 すでにインターネットの寵児と目されていた伊藤穣一さんは当時まだ30歳になっていなかったと思うが、『DOORS』創刊前にデジタルガレージという会社も立ち上げ、林郁社長とともに、インターネット・ビジネスを牽引しつつあった。

 彼は両親とともに幼少時代に渡米、米国タフツ大学でコンピュータ・サイエンス、シカゴ大学で物理学を専攻、インターネット関係の事業をいくつか立ち上げると同時にインターネット関連のイベントなどをプロデュースしていた。日本語よりも英語が得意の、どちらかというとアメリカ人で、日本のインターネット爆発と同時に、一躍、時の人となった。エレクトロニック・コマースやデジタル・キャッシュの将来を熱っぽく、しかも理論的に説く彼自身の存在が、インターネットの体現者と思われた面もある。各方面から執筆や講演依頼と引っ張りだこだったが、創刊号からChaos(混沌)とOrder(秩序)を組み合わせた造語「ChaOrdix(ヒエラルキーからネットワークへ)」というタイトルで連載してもらった(後年、彼はMITメディアラボ所長になった)。

 林さんも30代半ば、穣一君の言わば兄貴分で、もともとの専門である広告やイベントの分野で協力してもらった。彼らはインターネットには詳しいがメディア(雑誌)には不慣れ、私たちは雑誌のプロだがインターネットには不慣れ、というわけで、デジタルガレージと〝二人三脚〟で、インターネットの荒波に漕ぎ出したのである。編集部員も彼らの会社を訪問、新しい息吹に直接ふれる経験をした。林さんには創刊イベントなどで協力していただいたころが懐かしい。デジタルガレージにはサーバー管理をお願いしたし(当時はエコシスとも名乗っていた)、OPENDOORSやCOOLDOORSの中味(コンテンツ)を、ともに試行錯誤しながら作った。若い人たちとの共同作業は、教えられたり、教えたり、楽しい思い出である。

 日本でのインターネットの父とも言われる村井純さんには、当然のことながら、さまざまにお世話になった(伊藤、村井両氏の写真は1996年のインターロップで)。

 彼については、説明の必要もないだろう。日本のインターネットを牽引してきた人であり、『インターネット』、『インターネットⅡ』、『インターネット新時代』(いずれも岩波新書、1995、1998、2010)などの著書もある。彼はインタビュー(1996年6月号)で「これからは技術者ではなく、社会の第一線で活躍している実務のプロがインターネットを始めるときである」と、インターネットの伝道師らしく、熱っぽく語っている(当時は慶応義塾大学助教授だったが、その後教授になり、現在は内閣官房参与、デジタル庁顧問なども努めている)。

 浜野保樹さんはメディア論を専攻している研究者(国立放送教育開発センター助教授)だったが、象牙の塔の人と言うより、マルチメディア関係のイベントにコーディネーターとして関わったり、各種の研究会に引っ張り出されたり、この業界ではすっかり「顔」だった。にもかかわらず、利害渦巻く業界の垢にまみれぬ、毅然としたと身の処し方が、きわめてさわやかな印象だった。オーソン・ウエルズとスタンリー・キューブリックを敬愛する元映画青年は、時代の最先端で忙しく動き回りながら、メガネの奥に光る柔和な目で、メディア社会の行く末を見つめ、すでに『ハイパーメディア・ギャラクシー』(福武書店、1988年)などを世に問うていた。

   浜野さんには、創刊号からインターネットの歴史に関する連載をしていただいたし(後に『極端に短いインターネットの歴史』=晶文社、1997年=として出版された)、折々の特集などでも知恵をお借りした。彼はその後、東大教授になったが、2014年に62歳で夭折したのはまことに残念である(写真は『ASAHIパソコン』インタビュー時のもの)。

 そのほか、「ゼロから始める入門講座」担当の吉村信さん、創刊号以来、「オープン&クローズ」を連載していただいた哲学者の中村雄二郎さん、インターネットの現状に対する不満を投稿してくれたのを機に「今月の怒る弁護士」というコラム連載をお願いすることになった弁護士の牧野二郎さんなど、多くの人が懐かしく思い出される。牧野さんは当時、インターネット弁護士協議会設立に奮闘していた。

・メディアとしてのCD-ROM

 情報のデジタル化で大部の本1冊分の情報が1枚のロッピーディスクにまるまる入り、そのためにムック制作中に遭遇した思わぬトラブルについてはすでに述べた。フロッピーディスクの容量は約1MB(メガバイト)だが、CD-ROM1枚にその500倍、500MB以上の情報が入る。そのCD-ROMを雑誌の付録につけることで、より多くの情報を読者に提供しようというのが『DOORS』プロジェクトのねらいでもあった。

 当時、パソコンの処理能力だけでなく、回線速度も、記憶容量も猛烈な勢いで進化していた。これはひとえにパソコンを構成している半導体の集積度の高まりにより、1枚のチップに組み込まれる回路もIC(Integrated Circuit,集積回路)、LSI(Large Scale Integration,大規模集積回路)、超LSIという具合に稠密になり、コンピュータパワーは増強,逆に価格は安くなっていた。

 ICの進化については、半導体メーカーのインテル社社長,ゴードン・ムーアが1965年の時点で,「一定のシリコン上にエッチングできるトランジスタの数は18カ月ごとに倍になる」という予測をし、ムーアの法則と言われている。一般に「コンピュータパワーは1年半で2倍になる」というふうに言われていたが、物理的制約はやはりあり、最近ではムーアの法則の限界もささやかれている。もっとも、2006年4月の段階でインテルは「ムーアの法則は生きている」と発表した。1995年時点はまさにすべてが高機能化、低価格化するという激変の時代だった(ちなみに今、小さなUSBでもMBの1000倍の㎇、さらにその1000倍のTBの情報が入るが、主流は記憶媒体を離れてネットワークに移っている)。

 そういう中でメディアとしてのCD-ROMが脚光を浴びていたのである。『DOORS』1997年4月号では浜野さんに選考委員長をお願いし、「CD-ROMベスト100」を選んでいる。

内訳は、

①ゲーム(25) MYST日本版、GADGET、Dの食卓、The Tower、DOOM、ジャングルパーク、Sim Cityなど。
②エンターテイメント(25) Alice、L-ZONE、世界の車窓から、笑説・大名古屋語事典、Sesame Street、The Manholeなど。
③アート・文藝(15) YELLOWS、A Hard Day’s Night、南伸坊の顔遊びなど。
④教養(13) ヒロシマ・ナガサキのまえに、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ハイパー京都ガイド、書を捨てよ町へ出ようなど。
⑤実用(22) キネマの世紀、The Complete OZU、デジタル歌舞伎、Microsoft Encarta、世界大百科事典、理科年表、マルチメディア人体、新潮文庫の100冊、朝日新聞記事データベースなど。

 草創期以来の膨大なタイトルの中から厳選したものだが、各種プロダクションや出版社、新聞社まで、CD-ROMを使って何ができるか、さまざまに実験していた熱気が感じられるラインアップである。「笑説・大名古屋語事典」は名古屋出身の作家、清水義範が名古屋弁普及に取り組んだもの、「The Complete OZU」は映画監督、小津安二郎紹介。

 だいたい1万円未満だが、1万円以上のものもある。岩波書店の『広辞苑』は第4版で1万4420円、平凡社の『世界大百科事典』は31巻の大百科事典が検索ソフトを含めて数枚のCD-ROMに収められ、14万5000円だった(私は1998年に発売された『広辞苑第5版』1万1100円と、同年発売の『世界大百科事典』第2版、5枚組で5万9000円を買った。『世界大百科事典』まさに高機能化、低価格化していたが、結局、あまり使わず、紙の『世界大百科事典』と同じ運命をたどった)。

 CD-ROM製作の仕掛け人として、青空文庫で有名なボイジャーの萩野正昭さん、シナジー幾何学の粟田政憲さんが登場しているのも懐かしい。粟田さんは後に述べる「GADGET」をプロデュースした人である。

・インタビュー「ポスト日本人」

 私は『DOORS』でも毎号、インタビューを続けた。伊藤穣一、村井純さんにもご登場いただいているから当然、インターネットの将来、およびそれが社会に与えるインパクトが最大の関心事だったが、そのほかに2つ、私の興味を引いていたテーマがあった。1つはメディアとしてのCD-ROMの威力と効能であり、もう1つはコンピュータが新しいタイプの若者を生み出しているという発見だった。両者は微妙に重なり合い、「ポスト日本人」の人選にも影響していた。

 タイトルを「ポスト日本人」としたことについて雑誌でこういうことを書いている(福井コンピュータ『cyber Architect』 1996年秋号)。

 最初にインタビューしたのがフューチャー・パイレーツの高城剛さんで、彼がそのとき「ポスト日本人」という言葉を使った。「パスポートの色で識別される、世界が見る日本人ではなく、自分のアイデンティティを持った新しい日本人」という意味で、この言葉を使い、「僕もそういうポスト日本人でありたい」と言ったのである。
  パソコンの発達が新しい創造活動を可能にしたことで、グローバルな活躍を始めた若者が続々誕生しつつある、という問題意識でスタートした連載にぴったりの登場者を得て、私は「ポスト日本人」をタイトルに借用し、以来、独占的に使用している。
 「ポスト日本人」の特徴は、偏差値教育と無縁なことである。村井純・慶応大学環境情報学部助教授、石井裕・MIT准教授などの学者・研究者や服部裕之・BUG社長など実業家の一部を除くと、ほとんどの人がいわゆる有名大学を出ていない。受験勉強などしたことがないという人が多いし、大学もきわめていいかげんに受けている。
 高城氏にしてからが、高校時代にロサンゼルスに出かけて2年ほどブラブラした後、ふらりと日大に入ったのだし、今、東大教養学部で「国際おたく大学」なるゼミを持っている元ガイナックス代表の岡田斗史夫氏は小学生の頃からSFに凝って、SF研究会のある大学を選び、授業には一切出ないまま退学している。25歳にしてゲーム『Dの食卓』を世に問うた飯野賢治氏は、高校時代にすでに落ちこぼれた。
 音楽好きというのも共通で、独自の画像圧縮技術開発で脚光を浴びるゲン・テック代表の宮沢丈夫氏は、一時はプロのドラマーをめざした人である。飯野氏、格闘技ソフト「バーチャファイター」で有名なセガ・エンタープライゼズ取締役の鈴木裕氏など、皆、バンド活動をやっている。「ガジェット」で世界的にCD-ROM作家として有名になった庄野晴彦氏はメカ少年だった。
 皆、お仕着せの受験教育から自然にはみ出て、好きなことを好きなようにやってきた。ひと昔前なら確実に社会から落ちこぼれてよさそうなのに、そうならなかったのはパーソナル・コンピュータのおかげである。
 20万円も出せば一式がそろう今のパソコンが、つい最近までは何億円もした大型コンピュータ並みの機能を持ち、その中に独自の世界を作り上げられるようになった。こういった分野で活躍する若者たちが、大会社に入り出世階段を登っていくことを前提に作り上げられた偏差値教育とはまるで違う社会の片隅から誕生しつつあるのは、きわめておもしろい現象といえるだろう。「ポスト日本人」の”冒険”とその意味を、近く一冊の本にまとめたいと考えているところである。

 残念ながら本にするチャンスは逸した。ここではその中の庄野晴彦、飯野賢治のご両人のみ紹介しておく。庄野晴彦さんは『ガジェット(GADGET)』、飯野賢治さんは『Dの食卓』と、それぞれの代表作を世に問うた直後に話を聞いている。

  『ガジェット』は、日本よりも海外で高い評価を受けた。ユーザーがマウスを操作しながら、インタラクティブな物語の中に入っていく点では、たしかにゲームだが、より深い一つの世界を築き上げている。ゲームは、7人の科学者が発明した洗脳装置センソラマをめぐって、帝国と共和国、その双方のスパイが暗闘を繰り広げる形で展開する。プレーヤーは、帝国のスパイの役割を与えられ、科学者たちの身辺を探りながら、いつしか不思議な狂気の世界へ迷い込む。最後にどんでん返しも仕組まれており、海外で6万枚、日本で5万枚を売るヒットとなった。この作品は93年度のマルチメディアグランプリ通産大臣賞を受賞した。アメリカの各メディアで激賞され、95年2月27日号の『ニューズウィーク』誌は、彼を「未来を動かす50人」の1人に選んだ。
 『ガジェット』はCD-ROM作品にとどまらない広がりを持ち、物語の全貌を記したビジュアルブック(すなわち紙の本)『Inside Out with GADGET』、物語の中核をなす装置センソラマの体験を映像化したビデオ&レーザーディスク『GADGET Trips』を合わせた3部作が、全体としての『ガジェット』の世界である。1997年4月にはアメリカのSF作家による小説『GADGET THIRD FORCE』も発刊されている。CD-ROMから小説が生まれたのである。
  1960年、長崎県生まれ。九州産業大学芸術学部デザイン科を卒業したあと、筑波大学大学院へ。「映画ではスタンリー・キューブリックやリドリー・スコットなどが好きです。子どもの頃はハリウッドの分かりやすいエンターテインメント映画を見ていましたが、学生になると、興味はヨーロッパ映画に移り、タルコフスキーや実験映画にのめり込んでいきました。コミックでは大友克洋のような絵のうまい人が好きで、かなりコミックの影響を受けているかもしれません」、「テクノロジーがあって、僕の表現が成り立っているのは確かですね。コンピュータがなかったら、グラフィック・デザインのような分野に進んでいたかもしれません。僕たちはコンピュータを使って作品を作り始めた最初の世代で、いわばビデオとコンピュータの中間に位置しています。音楽にも映画にもビデオにも興味があって、それをテクノロジーやコンピュータが埋めてくれる。だからいろいろなことができるんです」。

 飯野賢治さんは、インタビュー当時、まだ25歳だった。処女作のアドベンチャーゲーム『Dの食卓』で脚光を浴びていたころで、大きな体、いかつい風貌、それに似合わぬやさしい笑顔、同じ25歳で映画『市民ケーン』を作ったオーソン・ウエルズを彷彿させるところがあった。
『Dの食卓』は、95年に家庭用ゲーム機のソフトとして発売され、たちまち評判を呼んだ。セガのサターン版、ソニーのプレイステーション版などがあり、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツでも発売され、合計80万本は売れたとか。
 95年度のマルチメディアグランプリ通産大臣賞を受賞している。その後、発表した『エネミーゼロ』、絵のないゲーム『リアルサウンド』は、いずれも評判を呼んだ。最近『ゲーム Super 27years Life』(講談社)という本を書いた。
 『Dの食卓』の舞台はロサンゼルス。名医として知られたリクター・ハリスが突然、殺人鬼と化し、自らが院長を務める病院内で大量殺人を引き起こす。入院患者を人質に院内に立てこもるリクターの謎を解明するために、一人娘のローラが単身、病院に乗り込んでいく。ローラを待っていたのは父親の想念が作り出した異世界。プレーヤーは、ローラとともに、中世ヨーロッパふうの屋敷を徘徊しながら、暖炉の隅などに隠されている扉の鍵や、必要な道具を見つけ出して、謎解きを進めていく。プレーは2時間の制限つきで、その間にすべての謎が解けなければ、プレーヤーの負けだ。高品質のグラフィックスが不思議な雰囲気をかもし出しており、ポリゴン(三次元CGを描くための微少な多角形の画素)で作られた主人公ローラが、プレーヤーの指示通りに行動して、さまざまな表情を見せる。
 1970年、東京生まれ。ゲーム制作会社で働いたり、ソフト受注会社を経営したりしたあと、94年にソフト開発会社ワープを設立した。『Dの食卓』では企画、シナリオ、監督、作曲と、ほとんどすべてを担当した。  「物語の舞台はロサンゼルスですが、裏側に流れる悪魔の血の物語はヨーロッパが舞台です。イタリア、ルーマニア、フランス、ドイツなどを取材しましたが、そこでの最大の収穫は『空気』です。僕らがイメージする中世の城・屋敷と現実は違うということを思い知らされました。例えば、本物の屋敷にはすべての部屋に暖炉があります。暖炉がなければ冬場は使えないですから。何も知らないと、CGで暖炉なしの部屋を描いてしまう。煉瓦の積み方一つとっても、ドイツとフランスでは違います。ドアのノブや開き方、天井の高さなど、実際に見なければ分かりませんね。映画でも絵画でも現場を取材するのだから、ゲームでもディテールにこだわるのは当然です」、 「デジタル世代は人生にリセット・スイッチがあると思い込んでますから、ゼロからスタートして自分たちが格好いいと思うソフトを作り、自分たちで発売まで手がけてしまおうと、ワープを設立したのです」、「コンピュータの世界は年齢も、身分も関係ないということです」、「僕の中には国境はまるでありません。社員たちも、次の作品が売れなかったら、会社がつぶれることは分かっている。会社の全員14人がバンドの構成員だと思うんです。それぞれが曲を持ち寄って、音を合わせて、手直ししていく。お互いのいいところを取り込んで曲を作り上げていくんです。バンドなんだから、次の曲が売れなければ解散という気持ちは、みなが自然に持っていると思いますよ」

 映画制作は、多くの人と、大きな設備と、莫大な費用を投じて初めて可能で、監督になるまでには、それなりの修行時代も必要だった。それと同じような世界を、いまは、才能さえあれば、パソコンと向かい合うだけで、一人でも作り上げることができる。すべてがコンピュータ・グラフィックスだから、俳優も自前である。パーソナル・コンピュータの発達が、個人に強力なメディアを与えたのである。

 もはやゲームは、ただのゲームではない。庄野晴彦さんにとっては、一つの壮大な作品世界だし、斎藤由多加さん(プレーヤーがオーナーになってビルを建設、運営管理し、最終的に百階建ての超高層ビルをつくりあげる、The Towersの作者)にとっては、世の中のしくみを明かす装置でもある。

 CD-ROMというメディアは、私たちの創造活動のあり方を大きく変えた。音と映像を取り込み、双方向性を活用した新しいメディアが誕生したともいえる。それはまた、いまは回線容量などの制約で、画像や音を十全には扱えないウエブがいずれ行きつく姿でもあった。

  東京大学社会情報研究所の水越伸助教授(当時、後に教授)は、「新しいメディア表現者の登場と日本のジャーナリズム」という論考の中で、「虚実入り交じったメディアの星雲の中で、私が、唯一といってよいほどリアリティを持つことができるのは、新しいメディアとの関係において立ち上がりつつある人間の存在である。マス・メディアのオーディエンスでしかなかったこれまでの自らのあり方から踏み出て、コンパクトな高度情報機器を携え、メディア・リテラシーを身につけ、自らの意見や思想、感覚を表現することの意義や効用に覚醒した人々が、社会のさまざまな領域から現れはじめている。ここでは、彼らのことをメディア表現者と呼ぶことにしたい。メディア表現者は、情報を享受もする。しかしこれまでほとんどの市民が端からあきらめていた表現活動に自らのアイデンティティをかけ、受容と表現の循環性を回復する中で、結果としてコミュニケーション活動をめぐる全体性を再獲得するような営みを行っている」と期待を込めて語っていた。

新サイバー閑話(91)平成とITと私⑫

『DOORS』は3Dメディア

 1995年3月10日、朝日新聞出版局のホームページ、OPENDOORSが店開きした。日本の大手マスコミが開設した初めてのホームページだった。私は編集長挨拶として、ホームページの冒頭で以下のように述べた。

 ギリシャ神話に題材をとったジャン・コクトーの映画『オルフェ』では、鏡がこの世と黄泉の国を結ぶ扉でした。詩人である主人公オルフェは、死んだ妻を取り戻すために、不思議な手袋の助けを借りて鏡を通り抜け、黄泉の宮殿にたどりつきます。
 いまパソコンのディスプレイは、私たちを未知の世界へと誘ってくれる鏡、新しい扉です。マウスやプログラムの力を借りて、インターネットで結ばれた多くの扉を次々に開けば、瞬時に世界中を飛び回ることができます。いずれは個人個人が自分たちの扉を作って相互に情報を交換することができるでしょう。「生きとし生けるもの、いずれか歌をよまざりける」とわが国の歌人はうたいました。「おぼしき事いはぬははらふくるるわざなり」と書いた人もいます。みなが自分のメディアを持って、自由に歌をうたい、ものをいうためのツール、それがインターネットです。新しいメディアの実験『OPENDOORS』の扉を開いてみてください。

 その少し前、OPENDOORS開設を知らせる社告が朝日新聞本紙の一面に大きく載った。初めての横組み社告だったはずである。全体が3段組みで、「OPENDOORS10日開設」の横カットがあり、縦に「初の本格的『ネットワーク・マガジン』」のカット、真ん中に「DOORS」のロゴが入った。骨子はこんな内容だった。

 新しい情報インフラとしてのインターネットの普及を受けて、朝日新聞社は今秋9月、インターネットとマルチメディアを対象とする月刊誌『DOORS』を創刊します。また、それに先立ち3月10日からインターネット上にホームページOPENDOORSを立ち上げます。
 雑誌のコンセプトは「情報社会の賢いナビゲータ」。OPENDOORSはそのネット版で、「わが国初の本格的ネットワーク・マガジン」として、ホームページの標準スタイルを築き上げたいと思っています。http://www.asahi-np.co.jp/経由で、どうぞアクセスしてみてください。

  お分かりのように、OPENDOORSは秋に発売される雑誌DOORSと連動したホームページだった。これから進展するマルチメディア化に対応するために、祇の雑誌、インターネット上のホームページ、雑誌の付録CD-ROM、の3つのDOORSのメディアミックスこそが、当プロジェクトのねらいだったが、それについては後述する。紙のメディアより先にホームページを開設する、それも日本マスコミ業界の先陣を切って、というのが私のねらいだった。

加速する時間に悪戦苦闘

  『DOORS』は『ASAHIパソコン』の土台の上に築き上げられるべきメディアだったが、実際にはふたたび「ガレージからの出発」となった。

 今度の相棒は、MITへの留学経験もある服部桂君と社外から来てもらった京塚貢君、後に林智彦、角田暢夫、久保田裕君などが加わった。多くは例によって社外協力者に頼った(『ASAHIパソコン』以来の知己、西田雅昭さんの紹介で加藤泰子さんが、今でいえば、契約社員として編集部に常駐してくれた。学生アルバイトの諸君にはたいへん助けられた)。とくに今回は大日本印刷に制作をお願いするにあたって、大日本印刷の社員2人(K、S君)が編集部に常駐するという破格の対応をしてくれた。

 5月には出版局の組織改革でデジタル出版部長が置かれることになり、私がデジタル出版部長兼ドアーズ編集長になった。したがって、私に才覚があれば、デジタル出版部全体を束ねるきちんとした組織にできたはずだが、新設された電子電波メディア局との対応や日々の誌面作りに忙殺され、『DOORS』さえ成功すれば道が開けるという思いも強く、当面の組織づくりはおろそかになった。最終的には『DOORS』廃刊、私自身の出版局更迭という事態に終わり、関係したすべての人びとにまことに申し訳ない結果になった。とくに加藤さんや大日本印刷の2人には、苦労ばかり強いて何の好結果も産めず、まことに慚愧に絶えない(桑島出版担当は『DOORS』創刊にあたって、私の要請を受けて、編集局科学部から服部桂君を引き抜く剛腕も発揮してくれた。その意味で当初の出版局の期待に応えられなかった非力は認めなくてはならない)。

 それはともかく、 私の構想は以下のようなものだった。

  これからはメディアミックスの時代である。紙のメディア、ホームページ、CD-ROM、そういった異なるメディアを組み合わせて新しいメディアを作り上げていかなければ、マスメディアの前途は多難である。最初は、紙のメディア「雑誌」で収支をとりながら、ホームページやCD-ROMを育て上げる準備をしたい。編集局とは違って小世帯で小回りがきく上に、印刷会社、取次、各種プロダクションなど外部組織とのつきあいも深い出版局は、これからのメディア開発のパイロットとして、勇猛果敢に新規プロジェクトに取り組んでいくべきである。

 その主力の紙のメディアがさっぱり売れなかったのが最初にして最大の躓きだった。

 『DOORS』創刊号(11月号)は、1995年9月29日に発売された。A4変形判、136ページ、今度は無線綴じで、CD-ROM付きで定価1480円だった。売りものは「3Dメディア」である。雑誌『DOORS』、CD-ROMのCOOLDOORS、ホームページOPENDOORSの三位一体であり、3つのDOORSという意味で、3Dメディアと呼んだ(3D=Three Dimensionでもあった)。創刊直後のある会合で、私は『DOORS』のコンセプトを敷衍して次のように話した。

 創刊号の特集は「デジタル・キャッシュの衝撃」。インターネットの普及につれてネットワーク上でのビジネスが盛んになりつつありますが、そこでの決済手段として電子のお金が使われます。欧米で進められているデジタル・キャッシュの先駆的実験を紹介しつつ、貨幣の本質にも迫ろうという企画ですが、DOORS創刊と同時に模様替えするOPENDOORSでも、この特集を全面展開します。
 雑誌に掲載した記事や写真をオンラインで流すのをはじめ、取材で撮影した8ミリビデオの映像も取り込みます。双方向メディアの特性を生かして、読者の意見を聞いたり、雑誌本体の定期購読の申し込みを受け付けたりもします。余力があれば、英語版も製作し、世界に向けて情報発信していきたいと思っています。
 インターネットは、回線容量やソフトウェアの関係で、実際には、映像や音を快適に受発信できるようになるのはまだ先の話です。その点をカバーすべく、映像などはむしろCOOLDOORSに収録することにしました。本誌の「ゼロから始める入門講座」で取り上げたソフトウェアの一部やWWWサーバーを見るためのブラウザー「ネットスケープ」日本版も期限付きながら収録することができました。入門講座につける用語解説もCOOLDOORSやOPENDOORSに収録し、これらは回を追うにしたがって増やしていく積み上げ方式で、いずれは立派な用語事典にするつもりです。 
 創刊号のCOOLDOORSには、週刊朝日編集部が製作した『’96大学ランキング』のデジタル・データも採録しました。検索できるので、紙のメディアとは一味違った利用ができるはずです。

 いま振り返っても、その意図や良し、というべきだが、小規模所帯である立場をわきまえず、あれもこれもに手を出して、いずれも中途半端だったと、正直に認めざるを得ない。それよりも私たちにとって誤算だったのは、冒頭でも述べたように、インターネットの普及ぶりがあまりに急激だったことである。

 ジム・クラークはインターネットの未来にかけて、ブラウザー開発者、マーク・アンドルーセンに接触し、短期間で新ブラウザー、ネットスケープを提供、脚光を浴びた人である。『DOORS』を創刊したころは、マイクロソフトのインターネット・エキスプローラと熾烈なシェア争いを続けていたころで、毎月、無料で提供される新しいアドインソフトを付録COOLDOORSに収録する作業だけでも大わらわだった。こうしてブラウザーは日に日に使いやすく便利なものになり、インターネットが拓く世界はそのたびに大きく姿を変えていった。

 そのクラークが前半生を振り返って書いた自伝がNETSCAPE TIME(邦題『起業家ジム・クラーク』(日経BP社、2000)である。彼は「わが社は全プロジェクトを3カ月で見直す」と言ったが、まさに「加速するスピード」こそがネットスケープタイム=インターネットタイムだったのである。このスピードは当時、「ドッグイヤー」とも呼ばれていた。

 私たちはそのスピードに負けたと言っていい。コンセプト上の混乱もあった。「デジタル・キャッシュの衝撃」という特集が象徴しているように、紙面作りの中心は、インターネットをめぐる欧米最先端事情の掘り下げた紹介・解説に置かれていた。「ゼロからはじめる入門講座」も用意していたから、これからインターネットを始めようとする初心者を対象にしていなかったわけではないが、日本でインターネットをやるのは、まだ一部の限られた人である、という認識が強く、当初の想定読者は、どちらかというと、一部専門家の方にシフトしていた。だから表紙も、専門誌的だったし、雑誌の価格も、他の雑誌と同じように、高かった。

 ここには、インターネットにはガイド誌より、メディアとしての本質を掘り下げた記事が求められるのではないかという私の思いが反映していた。だから、創刊前に発行したムックは『インターネットの理解(Understanding Internet)』だった。MIT時代にインターネット最先端を精力的に取材、人脈も築いていた編集委員、服部桂君が全身全霊を打ち込んだ、インターネットの解説本としては他に例を見ない傑作だったと今でも思っている。タイトルがマー シャル・マクルーハンの『メディア論』(Understanding Media)をもじっているように、インターネット黎明期のアメリカの最新事情を丁寧に紹介すると同時に、インターネットの預言者と呼んでもいいマクルーハンについても詳しく紹介した。巻頭ではジム・クラークやマーク・アンドルーセンなどにもインタビューし、アメリカでのインターネットの熱気について伝えている。

 ところが、このムックが予想に反してまったく売れなかったのである。

 アメリカではインターネットが切り拓く新しい社会や文化を紹介した雑誌『Wired』が評判になっていたが、日本の読者はそういう記事より、やはり初心者向けガイドを求めているのだろうか。しかし、ハードウェアとしてのパソコンにはガイド誌が成立しても、ソフトウェアとしてのインターネットにはガイド誌は成立しないのではないか。というわけで、インターネット事情とそのガイド情報という両天秤をうまく塩梅できないままに、『DOORS』は廃刊に追い込まれていったとも言えるだろう。インターネットというオンラインメディアと紙のメディアを共存させようとする試みそのものが、とくに日本においては、難しいということだったかもしれない。

 ムック刊行直後から、さまざまに軌道修正を試みたが、作り上げた仕掛けを直すのに戸惑うわ、釣り糸はこんがらがるわ、餌はなくなるわ――、初心者ガイドに力を入れると、今度は当初の最先端情報への目配りが足りなくなるといった悪循環で、日々のあまりの多忙さもあって、軌道修正はスムーズに進まなかった。一方、世の中は降って湧いたようなインターネット雑誌の創刊ブームで、1996年6月には、初心者向けガイドに撤した『日経ネットナビ』(日経BP社)も創刊された。老舗の『インターネット・マガジン』(インプレス)と新手の『ネットナビ』に挟まれて、『DOORS』はずっと苦戦を強いられたが、「3Dメディア」としての実績は、少しづつ築かれつつあったとも自負している。主なものを整理すると、以下のようになる(写真は1996年7月号の3DOORS案内)。

①出版業界の先陣を切っての出版案内開設(96.2)
  出版局発行の各種雑誌の案内や書籍の新館案内などをOPENDOORSで行い、ASA(朝日新聞販売店)、取次につぐ第3の販売ルート開拓をめざした。『週刊朝日』連載と連動した村上春樹の『村上朝日堂』ホームページはたいへんな人気だった。
②OPENDOORS及びCOOLDOORSでの「プロバイダー・パワーサーチ」の開始(96.9)
  全国で続々誕生しつつあったプロバイダーの紹介は、当初は本誌で行っていたが、その数が増えるにつれて、誌面の制約が生じ、それをCD-ROMやホームページ上に移し、かつサービス別、地区別などで検索できるようにした。
③「進学の広場」開設(97.4)
  出版局内の大学班と協力して、朝日新聞の強みを生かした教育ホームページのたち上げをめざした。
④イベントへの協力
  広告局の企画するイベント、「インターロップ」や事業開発本部の「朝日デジタル・エンターテインメント大賞」など、朝日新聞社主催のイベントにも協力して、マルチメディア部門への進出をめざした。

 めくら蛇に怖じずで、よくもまあ、いろんなことをやろうとしたものだと、列記しつつ、その〝蛮勇〟に我ながら恐れ入るが、 OPENDOORSは1ヵ月に200ヒット近く、出版業界のホームページとしては屈指のアクセス数を得た。そして、創刊1周年を迎えたころには、編集部態勢も整い、DOORSらしい誌面作りも軌道に乗り出した。部内にはシステムエンジニア、編集者、デザイナーなどからなるOPENDOORS作業班もできて、いよいよこれからという時、『DOORS』は突如として休刊を宣告され、1997年5月号という中途半端なタイミングで、短い命を終えた。

新サイバー閑話(90)平成とITと私⑪

インターネット誌『DOORS』創刊

 私は『月刊Asahi』の3代目編集長となり、総合月刊誌の新しいスタイルを確立したいと悪戦苦闘したが、結局はうまく行かず、A4変型判から従来の総合月刊誌のA5判、いわゆる「弁当箱」スタイルに移行するなどの経過を経たのち、その休刊に立ち会うことになった。『20世紀日本の異能・偉才100人』(1992.7号)など発売直後に完売する特集をしたなどの思い出もあるが、ITと直接関係がないので、ここではその後、取り組むことになったインターネット情報誌『DOORS』に話を移したい。

 『DOORS』は結論を言えば、失敗した。責任はひとえに私の非力にある。それは編集者としての力量にも関連するが、より多くは編集長としての部内統率力、および社内政治力の不足にあった。これから書き進めるにあたって、そのことをまず認めておきたい。

 『ASAHIパソコン』のように成功した雑誌を語るときは、関係者の懐かしい顔も浮かび、微笑ましくも楽しいけれど、失敗について語るのは辛い。その折々に浮かぶ関係者に対しては申し訳ない思いが先立つし、逆に今更ながらに怒りを噛みしめることもある。  

 また『DOORS』の経過には、インターネット時代に翻弄された朝日新聞社のネット戦略の混乱と、出版局を一貫して軽視した姿勢が大きく影を落としている。私自身は、小規模所帯でさまざまな実験が行える出版活動の方がむしろインターネットと相性があると考えて、その実験プロジェクトとして『DOORS』を創刊、その過程で折にふれて要路の人びとにそう提言もしてきた。しかし、インターネットの台頭に驚いて長期計画も見識もなく、新聞紙面をそのまま電子化すればいいと、asahi.comをあたふたと立ち上げた社幹部にとって、それに抗おうとする『DOORS』と私自身が気に入らなかったのだろう、『DOORS』はこれからというときにいきなり休刊となり、私は出版局を外され、総合研究センターに〝放逐〟された。それが当時の出版局の幹部連中の利益でもあったらしい。彼らは率先してその動きを〝支援〟、私はその後、出版局に戻ることなく退社した。

 それは、出版局が文藝春秋社から花田凱紀氏を招いて新女性誌『ウノ』を創刊した出来事とも複雑に絡んでいた。編集局から天下り的に送り込まれた桑島久男出版担当によって強行されたものだが、花田氏は文藝春秋社の月刊誌『マルコポーロ』でユダヤ人虐殺の「ガス室はなかった」という記事を掲載、その結果として同誌は廃刊、編集長を更迭された人物である。彼はその後、朝日新聞批判を続けると同時に、安倍政権応援とでも言うべき『Hanada』や『WiLL』などの編集長をしている。この「異例の決断」が朝日新聞にとって何の益もなかったことは歴史的に証明されている。

 折りしも2023年5月末日、創刊1922年で「日本最古の総合週刊誌」を誇った『週刊朝日』が6月9日号で休刊した。まことに象徴的な出来事である。『DOORS』創刊と休刊、asahi.comスタート、『ウノ』創刊、このころに朝日新聞出版局、それと同時に朝日新聞本体も滅びの道を歩み始めたと私は思っている。大きく見れば、インターネットの発達によってマスメディアが衰退していく過程のできごとだが、ときに「失敗の時代」ともいわれる平成という時代の苦難を背負っているとも言えよう。私はその激動の渦中にあり、その波に翻弄され、そして挫折した。この点については最後で振り返ることにして、まずは『DOORS』について述べておこう。

・1995年はインターネット元年

 最初に、私が『ASAHIパソコン』を去った1991年から『DOORS』を創刊した1995年までのインターネットの発達史を概観しておこう。

 インターネットは東西冷戦下のアメリカで構想され、そのアイデアは、核戦争によってネットワークがずたずたにされても、生き残ったコンピュータがいくつかのルートをたどりながらコミュニケーションできるように、ネットワークを管理する中枢を置かず、すべてのコンピュータを平等に結んでいくことだった。そのため、各コンピュータに固有のアドレスを割りふり、メッセージは小さな固まり(パケット)に分けて複数のルートで送り、到達した時点で組み立て直すという方式が採用された。

 1968年、アメリカ国防総省の高等研究計画局(ARPA)が全米4大学にノード(拠点)を置いて、ホストコンピュータの接続実験を始めたのがインターネットの初めである。しだいに全米各地の大学、研究機関、さらには外国からもアーパネットへの接続が行われ、ノード間は高速回線で結ばれ、幹線のバックボーンが整備されていく。その後、運営は全米科学財団(NSF)に引き継がれ、TCP/IP(Transmission Control Protocol/Internet Protocol)がインターネット標準プロトコルに指定された。

 1993年に発足した米クリントン政権はインターネットを重視したNII(National Information Infrastructure 全米情報基盤)構想を発表、「情報スーパーハイウエイ」という言葉とともに、インターネットが広く流布されることになった。軍事用、学術用に発展したインターネットは、しだいに商用利用へと道を開き、1995にはつながれたホスト数で、学術関係よりもビジネス関係の方が多くなっている。同年にはNSFネットのバックボーンも民間ネットワーク・プロバイダーへ移された。日本で初期のインターネット普及に取り組んだのがJUNET(Japan University Network)であり、それが発展したWIDE(Widely Integrated Distributed Environments)プロジェクトで、その中心人物が村井純氏だった。

・WWWとブラウザーの発明

 私たちがネットワーク・マガジンOPENDOORSを立ち上げ、後に雑誌DOORSを創刊した1995年こそ、「インターネット爆発」の年だった。私は1994年夏ごろから、新しいネットワーク雑誌に取り組むことになった。当時はクリントン政権(とくにゴア副大統領)の音頭で「情報ハイウエイ」構想が喧伝されていたが、インターネットという言葉はまだほとんど知られていなかった。だから同年末に発足した編集部は「情報ハイウェイ編集部」を名乗った。最初は誌名も『情報ハイウエイ』にしようと商標登録もとったが、インターネットがまたたく間に普及すると、「情報ハイウエイ」という言葉はすっかり古びてしまい、結局は使わなかった。このとき私はインターネットの普及の激しさを実感したが、事態はそんな生易しいものではなかったのである。

 出版局を去った後の1998年に出した『マス・メディアの時代はどのように終わるか』(洋泉社)のデータをもとに、1995年の状況を再現してみよう(本書は絶版となっている。『ASAHIパソコン』および『DOORS』について丁寧に振り返っており、本<平成とITと私>前半の記述の多くは本書に寄っていることをお断りしておく)。

「インターネット」という言葉を含む記事が朝日新聞紙面に扱われた件数の推移を年別に見ると、以下のようになる(ASAHIネットの朝日新聞記事データベースから)。

1991          6 
1992          8
1993         10
1994       105
1995       676
1996     2381
1997     2487

 1996年から格段に増えているのが一目瞭然である。それより数年前に遡るが、技術専門家のためのものだったインターネットを飛躍的に普及させる原動力になった開発が2つあった。

 1つはWWW(World Wide Web、ワールドワイドウエブ、ダブリュ・ダブリュ・ダブリュとかスリーダブリュなどと呼ばれる)である。1992年、スイスのセルン(欧州合同原子核研究機関)に勤務していたティム・バーナース=リーが、ネットワークで結ばれたコンピュータ内の情報を相互に関連付け、参照できるソフトを開発した。これによって、いったんWWWに載せられた文書は、インターネットを通じてリンクを張ることで、世界中の文書やプログラムと連動できるようになった。ユーザーはまさに「クモの巣」内に取り込まれたさまざまなデータを、瞬時にしかも自由に利用できるようになった。『ASAHIパソコン』の項で述べたテッド・ネルソンの「ハイパーテキスト」構想はWWWによって実現されたともいえよう。WWW用に使われる言語がHTML(エッチティエムエル、Hyper Text Markup Lunguage)である。

 そして、もう1つの発明が、今もふつうに使われているブラウザー(閲覧ソフト)だった。1993年、イリノイ大学の学生だったマーク・アンドルーセンによって開発された。WWWにビジュアル要素を取り込み、テキストばかりでなく、音も映像も扱えるようにしたものだ。技術者の間に広まっていったインターネットを万人向けの道具に変えたキラー・アプリケーションだった。

・Windows95発売、インターネットが流行語となる

 アメリカを中心に世界的に進んだインターネットの急成長が、ほとんど同時に日本に押し寄せてきたというのが1995年の状況だった。この年に日本で何が起こったかを整理してみると、

①阪神淡路大震災で、災害に強い情報手段として注目される
 この年1月に起こった阪神大震災(写真は高石町会のウエブから)で、パソコン通信とともに、インターネットでの情報伝達が、被害速報、被災者の安否の確認、地域に密着した活動報告などで、大いに貢献したことが注目され、インターネットへの社会的関心が一挙に高まった。
②ネットスケープ・ナビゲータがインターネット商用化に拍車
 3月にブラウザーNetscape Navigatorの発売元ネットスケープ・コミュニケーションズ社の日本法人が設立され、日本のインターネット商用化に拍車がかかった。
③さまざまなレベルでのWWWサービスが始まる
 マスメディア、大手メーカー、商事会社、銀行、公共機関、経営団体、地方自治体、さらには個人まで、さまざまなレベルで、WWWを使った製品紹介、求人情報などの実験的サービスが始まった。
④関連雑誌の創刊ラッシュ
 インターネット関連雑誌で一番早かった『インターネット(INTERNET magazine)』(インプレス)の創刊は1994年だが、月刊化したのは1995年6月。日本版『ワイアード(WIRED)』、『DOORS』などみなこの年の創刊。雑誌ばかりでなく、インターネットをタイトルにつけた単行本も百冊以上刊行された。
⑤低価格の商用プロバイダーが続々誕生
 比較的簡単に開業できることから、個人経営や地方自治体経営など、雨後のタケノコのようにプロバイダーが誕生し、その紹介がインターネット雑誌の一つの柱になった。
⑥Windows95発売とパソコン狂騒
 マイクロソフトが開発したグラフィカル・インターフェースを備えたパソコン用基本ソフト、Windows95が、アメリカに続いて日本でも11月に発売され、パソコン・ブーム、インターネット・ブームに拍車がかかる。騒ぎに煽られてパソコンを買う人が増え、暮の東京・秋葉原はさながらお祭りの様相を呈した。「超初心者」目当てのガイドブックも多数発売された。
⑦インターネット、流行語になる
 年末恒例の「日本新語・流行語大賞」のトップテンに「無党派」「NOMO」「官官接待」などと並んで、「インターネット」が選ばれた。喫茶店に置いたパソコンでインターネットを体験できるインターネット・カフェも各地の流行現象となった。

    こうして見ると、これまで一部専門家のツールだと思われていたインターネットが突然、誰もが興味を持つ情報ツールに変貌した年だったことがよく分かる。