花火を「商品化」して地元民を締め出す倒錯
A 国会休会中も、相変わらず腹立たしい出来事が続きますね。木原誠二官房副長官の2018年における捜査介入疑惑に関しては、『週刊文春』のスクープが続きます。僕は9週連続で文春を買いしましたよ(^o^)。他のメディアはほとんど報道していませんが、2006年段階における木原副長官の妻の元夫変死事件に関して、露木康浩警察庁長官が改めて「事件性なし」と表明したのに対し、2018年段階で捜査にあたった現場の刑事が実名で反論、後には記者会見までしました。根の深い問題だと思いますね。他の自民党大物政治家も登場して、松本清張の推理小説を読んでいるようです。
B 自民党女性局長の松川るい参院議員や局長代理の今井絵理子参院議員が、7月下旬に研修旅行としてフランス・パリを訪問した際に、はしゃいでエッフェル塔前でポーズ写真を撮り、それを自分のSNSにアップしたことも非難されました。実態はほとんど観光で、松川議員は〝研修中〟、娘を大使館に預けていたようです。昨今の政治家の「公私」混同は岸田首相を筆頭に目を覆いたくなる惨状です。こういう議員を選んで恥じない国民にも問題があるけれど、半数近くは棄権しているわけですね。政治を選挙だけで考えるのはもはや無理ではあるとしても、やはり「有権者」としての権利行使はきちんとしないと、こういう高学歴ながら人間的には非常識な政治家が誕生するわけです。木原副長官、松川議員ともに東大法学部卒、その後も、財務省や外務省の主流を歩いてきた人です。そうであるからこそ、日本の現状に対するみじめな感じが強まります。
A マイナカードの混乱も目に余ります。デジタル化の利便性、と言ってももっぱら政府にとっての話だけれど、それだけを強調して、何のために個人情報をデジタル化するのか、その危険性を最小化するにはどうすればいいのか、ということがまったく議論もされていない。河野太郎デジタル相が政治家として失格であることがわかったのはよかったかもしれないけれど、それに代わる人材が自民党にも、主だった野党にも見当たらないところが大いに問題です。もちろん、山本太郎を別にして(^o^)。
B 腐敗は国レベルにとどまらないですね。それを強烈に見せつけたのが花火大会の高額有料席設置です。花火は地元のお祭りであり、みんなで楽しむものなのに、有料席を多数用意して、金を稼ぐことが優先された。そのために金を払わない一般人には見えないように2キロにわたって幕まで張った。
この滋賀の「びわ湖大花火大会」はコロナ禍で中止されていたのが今年4年ぶりに開催されたようですが、有料の観覧席が設置された会場の周辺約2キロにわたって目隠しとなるフェンスが張られ、地元民はその隙間から覗くという情けないことになりました(写真)。さすがに地元の自治連合会が開催反対を求める決議文を提出するなどしたようですが、これは「公私」混同というより、本来「公」のものである花火大会を自治体が「私」的に囲い込み、金を払わない地元民を「排除した」ものです。
地元民が反乱を起こして幕などはがしてしまってもいいくらいですが、こういう騒ぎも起こっていない。もっとも騒ぎを起こせば、今度は警察の出番となって、逮捕者が出る恐れもある。祭りが「商売の手段」となり下がり、本来の姿を失っています。フェンスはコロナ以前にも張られていたというのも不思議です。
A 琵琶湖花火の異常さには暗然たる気持ちになります。やはり4年ぶりに開催された地元、宮川の伊勢神宮奉納花火大会と大淀花火大会を見てきました。みんな、思い思いの場所で楽しんでおり、同行の友人が「花火は平和でいいですね~」と言った言葉が耳に残っています。聞くところによると、青森のねぶた祭りも京都の祇園祭りも、四国の阿波踊りも有料観覧席が設けられ、あっと言う間に売り切れたとか。世も末ですねーっ!
B この「公私逆転」と木原・松川議員の「公私混同」の根っこは同じです。資本主義が行きつくところまで行って、本来はみんなの公共財産(コモン)である祭りまでも商品化されているけれど、その資本主義のいびつな精神を内面化させられた(飼いならされた)人びとは、それを批判しない。「お金出しても、いいところで見られた方がラッキー」と思うわけです。お金を出せない人が締め出されることに痛痒を感じるという、ごく普通の倫理観もなくなっている。この倫理観の欠如は、木原、松川ご両人とほとんど同じです。恵まれた自分たち以外の人びとへの想像力が欠けた人びとが政治家をしているわけで、社会的格差はこういうところまで進んでいるとも言えますね。もっとも地元見物客のマナーの悪さという別の倫理観欠如の問題もあるようです。
観光立国という言葉自体が危うい側面を持っています。世界から観光客を呼んで金を落としてもらおうというわけだから、商品化できるものはすべて商品化し、そのためにコモン的なもの(祭りとか共同体とか自然環境とか)が失われても意に介さない。ブラジルのカーニバルも同じです。観光用の形骸化した祭りだけが残るというか、肥大化するというか。いまや貧しい人ばかりでなく、自然環境、地球そのものが破壊されるという危機的状況だと思います。
若いマルクス経済学者、斎藤幸平が力説しているように、私たちはもはや資本そのものから離れることを考えるしか将来の展望はないと思いますね。と言って、暴力革命だとか、前衛一党独裁とかいうような化石話を思い出す必要はない。祭りは地元の共有財産なのだから、みんなで管理運営して、みんなで楽しもうという当たり前のことでいいわけです。そのためには金にならないことでも奉仕するという相互扶助精神が大事だけれど、これって、昔はどこの地域でもやっていたことで、何も難しいことではないですね。
斎藤によれば、コモン主義(コミュニズム)は中国やロシアの「社会主義」=「国家資本主義」体制とは無縁です。新自由主義は、ショック・ドクトリン(災害便乗型資本主義)に象徴的なように、人間の不幸も含めて、あらゆるものを商品化するけれど、今や地球そのものが搾取されて疲弊化、適度のバランスを失い、各地で災害を起こしている現状です。
また彼は、物事を「構想する」人と「実行する」人の分離が資本主義を極端に推し進めたと言っています。本来、大工は家を構想し、同時にそれを作る人だったけれど、いまは設計する人、販売する人、作る人と分離され、大工はいまや「作る人」でもないですね。
最近、大手建設会社の請け負った新築工事を近くで見る機会がありましたが、外見は立派な大きな住宅が積み木細工のように、部品を張り合わされるようにして作られて行きます。建築現場には、大工がカンナで見事に木を削る姿も、乾燥した槌の音も、釘すらもない。棟上げの儀式はもちろん、大黒柱もありません。家を作る人としての大工職人は、とっくに死んでいます。
物質ばかりでなく、自然を、さらには私たちの精神までも「商品化」して狂い咲く末期の資本主義社会を抜本的に改革するためには、彼の言うように、「コモン」と「アソシエーション」の再興が不可欠だと思いますね。
A 最近、日本維新の会の馬場伸幸代表が「共産党は日本からなくなった方がいい」と発言して共産党から強い抗議を受けているけれど、馬場代表は古い共産主義のイメージに踊らされているんでしょうね。
B 不見識というより不勉強ですね。こんなことを言って平気な人がいまや日本の政治家で、メディアがこれをからかうということもない。この知的レベルの低さは、岸田首相、木原官房副長官、松川参議院議員、共通して言えるんじゃないでしょうか。日本共産党こそ、新しいコモン主義を敢然と打ち立てるべきだと思いますが、どうなんでしょうね。そういう意味でも、僕は「れいわ新世党」に賭けたいわけです。
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というわけで、ちょっとコマーシャル。<折々メール閑話>も少し期間があきましたが、この間のコラムを『山本太郎が日本を救う』第2集『みんなで実現 れいわの希望』としてまとめました。前著同様、1300円(税込み1450円)でアマゾンで購入できます。興味のある方はどうかご購入ください。見出しは以下の通りで、「櫛渕万里の弁明」全文書き起こしが目玉です。
PARTⅠ<山本太郎発言集>
<1>いっしょにやらなきゃ変えられない
<2>コロナ行政をめぐる質疑
<3>「闘わない野党」への檄
<4>広島サミットは残念な集まり
<5>入管法改正案に体を張った
PARTⅡ<折々メール閑話>
『山本太郎が日本を救う』新春発売!
れいわ新選組の新体制に期待㉒
新春を揺るがす奇策「議員連携の計」㉓
『山本太郎が日本を救う』への思い㉔
訪れた春を愛でつつ、つれづれ閑話㉕
なお安倍政権の腐臭漂う高市問題㉖
メディアの根底を突き崩した安倍政権㉗
小西議員の発言は「サルに失礼です」㉘
『通販生活』の特集に納得しました㉙
選挙が機能しない政治と新しい息吹㉚
76年目の憲法記念日に想う日本の針路㉛
タイムの「慧眼」とれいわの「本気」㉜
踏みにじられた「広島」 (核廃絶)の心㉝
れいわによって守られた国会の品位㉞
虐げられるれいわ新選組へのエール㉟
「連帯を求め孤立を恐れぬ」山本太郎㊱
PARTⅢ<補遺>
<1>生成型AI、ChatGPTとサイバー空間
<2>この際の憲法読書案内