新サイバー閑話(97)<折々メール閑話>㊴

ジャニーズ事件と「自浄能力」を喪失した日本

 A 今週号の『週刊文春』を購入して、隅から隅まで目を凝らしても、木原官房副長官の木の字もない! 文春が政権に忖度したとは思いたくないけれど、ネットでこの件に関して検索しても、さしたる記事はありません。一方で、岸田首相が木原を留任させるという記事は随所に見られます。政権の中枢にいる人物によって、木原問題の進展が押さえ込まれたの間違いないのでは。

B かつて山本太郎が国会で岸田首相に「あなたはなぜ政治家を志望したのですか」とズバリと質問したことがありました。多くの人が感じている、もっともな質問ですね。中学生の作文のような、まるで熱意の感じられない答弁をしていましたが、この人は何がやりたいのか、まったくわからない。政治家を家業とする2世、3世議員の喜劇と言うか悲劇と言うか。こういう議員が跋扈している今の政治がどうしようもないのは当然という気もしますね(<折々メール閑話>⑫「世襲議員の跋扈が日本政治をダメにする」参照、『山本太郎が日本を救う』所収)。

A 一方で、木原問題に関して勇気ある証言をした警視庁のレジェンド捜査官、佐藤誠さんに地方公務員の守秘義務違反として逮捕の手が伸びているとか。もうこの国はめちゃくちゃです(怒)。

B この国のダメさ加減は、いまテレビ、新聞などで大々的に取り上げられているジャニーズ問題でも言えますね。芸能事務所オーナーによる所属タレント(未成年男性)に対する性加害を長年にわたって黙認、そのことで被害を拡大してきたわけだけれど、問題は社会的不正義に対するこの国の自浄能力のなさです。同じように、殺人の疑いがある事件を木原官房副長官が政治の力で闇に葬ったのではないかという疑惑がかなりはっきりと存在するのに、それがきちんと議論もされず、それこそ「闇に葬られ」そうなわけです。
 ジャニーズ事件の経過を整理すると、ジャニーズ事務所のオーナー、ジャニー喜多川氏が半世紀におよんで、数百人の少年たちに性被害を加えてきた。このことに対して親族をはじめ多くの所属タレント、タレントを使ってきたテレビ局、スポンサー企業、ジャーナリズムを担うとされるマスメディアも、自分たちの利益だけを考え、あるいは「長いものには巻かれろ」と口をつぐんできたわけです。

A 実はこの事実も1999年に『週刊文春』が告発していました。しかしテレビも新聞も、多くの人気タレントを抱えている事務所に忖度して、ほとんど後追いもしなかった。事務所側が週刊文春を相手に起こした訴訟では、2審の東京高裁がセクハラ行為があったことを認め、最高裁もそれを認定していましたが、ジャニー喜多川氏の行為が止まらなかったのは、この忖度のせいでしょう。

B 今年2023年3月に、外国である英国BBC放送が大々的に報じました。それに支えられて勇気を出して告発する被害者も現れ、ようやく国内でも話題になった。7月には国連の「ビジネスと人権の作業部会」のメンバーが来日し、被害を訴える当事者らから聞き取り調査をした結果、「タレント数百人が性的搾取と虐待に巻き込まれる疑惑が明らかになった」とする声明を発表します。この作業部会は他の人権問題の調査もしており、ジャニーズ事件はその一部だったわけですが、事態はこれをきっかけに大きく動きます。同事務所が設置した「外部専門家による再発防止特別チーム」が9月29日、ジャニー喜多川氏の性加害の事実とそれを関係者が組織的に隠ぺいしていたことを認め、藤島ジュリー景子社長の辞任を提言しました。

A その結果が9月8日の会見となり、藤島社長は辞任、東山紀之新社長誕生となりました。正式に性被害を認めて謝罪、被害者の補償にあたると認めました。
 新社長になった東山さんは、事務所最古参の「長男」的存在らしく、これまでのしがらみも多く、抜本改革ができるのか危ぶむ声もあるようです。彼自身は俳優としての今後の「夢」をすっぱりと諦め、この問題に取り組むと言っており、これはこれで大きな決断ではありますね。

マスメディアの沈黙と人権意識の希薄さ

B この件に関しては、外部チームも言うように、「マスメディアの沈黙」が大きい。国連作業部会は「日本のメディア企業が数十年にわたりハラスメントのもみ消しに加担した」と糾弾しています。「人権意識の希薄化」も指摘されました。ジャニーズ事件は過去の話だけれど、木原事件は現在の問題です。共通しているのが「マスメディアの沈黙」という、なんとも情けない事実です。

A いちおう決着のついた事件を、今になって大きく報道するメディアには「恥を知れ」と言いたいですね。それより、なぜ木原事件を報道しないのか。

B これまで忖度を繰り返してきたテレビ局やメディアは、自己の行動への真摯な反省は置き去りに、今度は「地に落ちた権威」というか、「水に落ちた犬」を、これ幸いと叩こうとするでしょうね。一部企業はさっそく、ジャニーズ事務所のタレントを使わないことを明らかにしていますが、テレビ局もそうだけれど、極端な「手のひら返し」を繰り返すだけでは、事態はあまり変わらないと思います。ネットも同じで、「いまこそ告発のチャンス」とばかり、真偽とりまぜて、いろんな声が出てくるでしょう。

A オリンピックや各種スポーツの世界大会になるたびにジャニーズなどの若手タレントを起用して特別番組を作るという風潮もありました。集団でにぎやかに登場する彼らは、当該スポーツに通じているわけでもなく、まともな解説などできるわけがない。すべてをお祭りモードではやし立てるだけです。視聴者も視聴者で、そういう空っぽな話題に一喜一憂、タレントの出番がなくなると、テレビも見ないという状態だったとも言います。テレビ局はそういう情けない番組作りに狂奔してきたわけで、安易な番組制作態度こそ反省してほしいです。

B この「手の平を返す」ような対応は、いまさら驚くことではないとも言えますね。そのいい例が敗戦後の日本です。「鬼畜米英」、「大東亜共栄圏」と叫んでいた人びとが、急に「アメリカさん(マッカーサー)ありがとう」、「民主主義万歳」と叫ぶようになった。いまはまた逆転し、先祖返りのように民主主義を否定しようとしています。自分の考えや行動を律する基準が自己の内にないから、その場を支配する「空気」に流される。戦後、政治学者の丸山真男が「超国家主義の論理と心理」、「軍国支配者の精神形態」などで、天皇制ファシズムを支えた精神構造を鋭く分析しましたが、その日本的構造は、基本において今も変わっていないようです。

A これからの被害救済は大事だけれど、むしろ外圧に弱く、自分では問題を解決できない、というか自浄作用の働かないない状況をどうすれば変えられるかですね。
 折りしも7日、国連ユネスコの諮問機関、イコモス(国際記念物遺跡会議)が、東京・明治神宮外苑の再開発事業をめぐり、「文化的資産が危機に直面している」として、事業者や認可した東京都に計画の撤回を求めたというニュースがありました。

B 8日になって小池東京都知事が「適切な手続きを経て進めている」と反論したようですが、問題の本質にはふれていない。外苑地区は元国有地で、これがいくつかの条件をつけて明治神宮に払い下げられたものです。再開発計画では1000本近い樹木が伐採されるほか、市民が気軽に参加できる施設を大幅に削り、プロスポーツを優遇するなどの基本計画にも批判が出ています。

A そもそも樹齢百年を超える樹木を何百本も伐採して、高層マンションを建てるという発想が信じられない。樹々も生きているという当たり前の事実に全く気がついていないですね。その目的は一にも二にも金。ジャニーズ問題以上に醜悪だと思います。

B これを図式化すると、国有地の格安払い下げ→企業による「より儲けるための」再開発→市民の公有財産ともいうべき「憩いの場(コモン)」の縮小、となります。前々回にふれた花火大会で有料席を設けて、そのために市民を締め出すような話です。
 この外圧が計画変更へと結びつくのはもちろん歓迎だけれど、今の日本の政治状況を「外圧」で変えようとするのは無理ですね。なんといってもアメリカ追随だから。事態はむしろ逆に動いており、放射能汚染水放出で反対派を説得するために、政府の方がIAEA(国際原子力機関)のお墨付きを仰ぐ形で「外圧」を利用しようとしている。そういう意味では、これからは一層、自律した精神が大事になってきますね。
 われわれが山本太郎とれいわ新選組に期待するのは、日本政治にようやく自浄能力をもった政党が登場してきたのではないかと思うからです。政治を永田町の論理で考えるのではなく、市民の立場で変えていくという重要な戦いを山本太郎とれいわ新選組はしているのだと思います。だからこそ、その支持はまだ思うように広がっていないけれど、これからの日本を救うのはれいわ新選組しかない。れいわとともに、我々も変わっていかないといけないわけです。
 れいわの考えは、櫛渕万里議員が国会で懲罰委員会に抗弁した「櫛渕万里の弁明」によく表れています(<折々メール閑話>㉞「れいわによって守られた国会の品位)」、『山本太郎が日本を救う』第2集所収)。それを全文活字に掘り起こしたところに、我々の思いをくみ取っていただけるとありがたいですね(^o^)。

新サイバー閑話(96)<折々メール閑話>㊳

原発汚染水放出と鎌倉市庁舎移転

 A 岸田政権が福島原発汚染水の海中放出を決め、8月24日から実際に放出を始めました。これに関連して野村哲郎農水相が記者団に説明するとき、「処理水」というべきところを〝誤って〟「汚染水」と言ったことが話題になっています。岸田首相は農水相を厳しく叱責、発言の撤回と謝罪を求め、農水相は大いに恐縮したようだけれど、放射能汚染水を「汚染水」と言って何が悪いのか。海外報道では、ふつうにcontaminated water(汚染水)と呼んでいるわけですね。ジャーナリストの青木理氏も「欧米のメディアの書き方が一番正確で、『処理水』なんて生ぬるく書いてるメディアはない」と語っていました。
 微妙な問題に対する配慮を失した政治家のセンスに疑問を投げかけるのはわからないでもないが、局地戦での敗戦を「転戦」と言いくるめた戦前の政府発表を思い出させる話です。福島原発の放射能汚染水をALPSという多核種除去設備で「浄化」、それを薄めて海に放出するわけで、専門家によれば、話題になっているトリチウムはもちろん、他の放射性物質も完全に除去できるわけではない。漁民の反対の声を「聞き置いた」だけで、実際には無視して放出を決めたというのが実情です。
 それを知ってか知らずか、立憲民主党の泉健太代表を始め多くの政治家が「放出に反対している中国側をいたずらに刺激する発言で、農水省は自覚が足りない」と批判、テレビのバラエティ番組でもタレントが訳知り顔に「風評被害を心配している福島の人びとに失礼」などと言っているのは、さらに奇妙なことです。「汚染水」と言うと現地の人に迷惑がかかるということのようだけれど、海洋放出には地元漁民は反対しているわけですよ。「汚染水」などという刺激の強い表現を使うべきでないという「配慮」自体がおかしい。放射能汚染水をなぜいま海に流してしまうのかという基本的な議論が忘れられていることが、この国の政治のレベル、さらに言えば、知的レベルを疑わざるを得ない。そのことをそっくり同じ論調の中で報道しているメディアもどうかと思いますね。

B トリチウムの毒性は比較的弱いようだけれど、ALPS処理水には他の放射能もかなり含まれているわけですね。ALPS処理水=トリチウム水=薄めれば無害、といういい加減な方程式で海水放出を正当化していますが、いくら薄めても大量に放出すれば、その影響は無視できないでしょう。その辺の説明もおざなりです。原子力専門家の小出裕章さんはユーチューブの動画で、日本が進めている原子力基本計画ではトリチウムを大量に海水に放出することになっており、その前提からしても放水せざるをえない、要するに日本が現在の原子力政策を続けている以上、放射能汚染水を「処理水」と強弁してでも放出せざるを得ない、と言っていました。
 日本が長年取り組んできた核燃料再処理とか、取り出したプルトリウムを再利用して夢の原子炉をつくろうという動力炉開発計画は、東日本大震災での東電福島第一発電事故を経て頓挫しています。また動力炉「もんじゅ」はたびたびの事故の末に廃炉になるなど、日本の原子力政策は暗礁に乗り上げていると言ってもいい。
 岸田政権は、そういう全体状況はいっさい枠外において、福島原発事故の教訓をほとんど忘れたように、原発推進、再稼働に舵を切っているわけですね。最近、山口県上関町長が原発の使用済み燃料の中間貯蔵施設設置のための調査を受け入れる見解を表明しましたが、これなど過疎県が補助金(原発マネー)という飴に釣られた結果です。たとえ中間貯蔵施設がもう1つ増えたとしても、最終的な処分への道は示されていない。こういう全体計画があいまいなままにことが進む状況が、無謀な戦争にあれよあれよと突き進んだ戦前にいよいよ似て来ています。

A 岸田首相には、まともな政治を行おうという気構えがまるでない。しかも全漁連との話し合いで、「漁業者が安心してなりわいを継続できるよう、たとえ数十年にわたろうとも全責任をもって対応することを約束する」などと歯の浮くようなことを平気で言う。安倍元首相の「アンダーコントロール」発言と同じで、無責任この上ないですね。

B 岸田首相は就任時に「聞く力」を強調したけれど、それは「反対意見も含めて、他人の話を真剣に聞いて、よく考えたうえで、自らの責任で決断する」というような力ではない。仲間の政治家、官僚、さらにはバイデン米大統領などごく一部の人間の言うことを「そのままうのみにして従う」わけで、そういうことを「聞く力」とはふつうには言わないですね。

A しかも、今回の汚染水放出にあたっては、原子力推進のための国際機関、IAEA(国際原子力機関)のお墨付きまで仰いだ。訪米前の岸田首相にインタビューした米誌『タイム』の記事(折々メール閑話㉜『山本太郎が日本を救う』第2集、アマゾンにて販売中)がまさに正鵠を得ていたと思うけれど、日本のメディアにはその役割を期待することはもはや無理ですね。

B 福島原発事故を経験した日本は、あらためて原子力政策について考えなおすべきなのに、そういう空気が日本全体に希薄なのが情けない。国会審議で言えば、やはり頼りになるのはれいわ新選組の山本太郎で、6月の参議院環境委員会では、汚染水放出に反対しつつ、プランクトンから小魚、そして大魚へと放射能が体内濃縮されながら、最終的に人間の口に入る危険性を考え、それに対応する検査体制が出来るまでは、「海洋放出しない選択肢がもっとも賢明な、リスクを減らす環境政策」ではないかと厳しく追及していました。西村明宏環境長官の紋切り型の答弁に対しては、「まったく話がかみ合ってない。ゼロ回答っていうんですね。そりゃそうですよ。心から、というか大臣のお立場で答えてないから。それも作られた作文を読んでるだけなんですね」と大いに落胆していました。

A 最近の与党協議で、他国と共同開発した武器を日本から直接第三国に輸出できるように見直すことなども決めています。岸田政権になって、戦後日本が大切にしてきた平和主義の精神はかなぐり捨てられたと言っていい。一方で、岸田首相は広島出身であることを強調して「核なき世界を実現するのが悲願」などと平気で言うわけです。知的レベルというか、人間としての誠実性を疑われてもしょうがないと思いますね。
 後藤田正晴いま在りせば!と思う気持ちがいよいよ強まります。中曽根首相のイラン・イラク戦争への自衛隊派遣の閣議決定署名を拒否した。こういう骨のある政治家は見当たらなくなりました。後藤田氏はたしか戦争経験者が国会からいなくなる日の事を危惧されていたと記憶します。それが現実になった。
 自公は多数を頼んでやりたい放題、確実に戦争する国になろうとしている。しかも、それは強固な信念に基づくものでもなんでもなく、ただただ対米従属。情けないの一言です。

・成熟した人間がいなくなったのにはワケがある

B 岸田政権の支持率はいろんな不祥事で最近は低迷気味とは言え、それでも世論調査をすると、30%程度の人びとは支持するわけですね。このところ選挙もないということで、岸田首相は汚染水問題だけでなく、国民無視のやりたい放題です。安倍、菅、岸田と続く自民党政権はもっての外として、野党も、メディアも、そして政権を支持する国民も含めて、成熟した政治のあり方とはとても思えない現実です。しかもこういう状況は国レベルだけでなく、地方自治体でも、まったく小型化した形で起こっており、いよいよ絶望的な気持ちにさせられます。

A 今だけ、金だけ、自分だけの新自由主義にどっぷりつかり、国民は分断されて格差は広がる一方です。

B 僕が住む鎌倉市ではいま市庁舎移転が大きな話題になっています。鎌倉駅のすぐ近く、昔から市の中心部だった御成町にある市庁舎が老朽化したのと、現在地が材木座海岸などから比較的近く、津波の危険性があるというような理由から、これを西部の深沢地区に建て替えようというものです。
 なぜいま市庁舎を他に移転、建て替える必要があるのか、現在地で震災などの補強工事をすることでいいのではないかという根強い反対があり、昨年暮れには鎌倉市議会でこの市庁舎移転に伴う位置条例が否決されました。賛成3分の2に足りなかったためです。これで移転問題は蹴りがついたかと思われましたが、松尾崇市長はいまだに市庁舎移転を諦めず、再度位置条例を議会に提出する意向です。
 その手法が福島原発の汚染水の海洋投棄を決めた岸田政権のやり方とまったく同じなんですね。議会で条例案が否決されても、「まだ考えの揺れている人がいるのでもう一度提出したい」と議員の決断を尊重しない傍若無人ぶりです。国でも地方自治体でも民主的な政治が機能していない。そして税金を使って自説を㏚する広報誌を出して、市民の考えを都合のいいように誘導しようとしています。それらの文書は、広告代理店が作成したような、それこそ歯の浮くような美辞麗句で埋められています。
 鎌倉の市庁舎移転は深沢地区の再開発という民間デベロッパーもからむ大プロジェクトの一環であり、その中には消防署や図書館、体育館などの統廃合も含まれています。これらの施設は統廃合するよりも分散している方が住民サービスの観点から言えば、むしろ合理的なわけです。
 僕は市庁舎近くにある中央図書館や鎌倉体育館に自転車で出かけてこのサービスを快適に受けていますが、これが廃止され、遠方に一本化されれば、もう行くことはないわけですね。だれのための統廃合なのかと考えると、それはその事業の建設や運営を請け負う一部企業の利益のためとしか考えられない。まさに逆転した地方自治です。これは、東京・明治神宮外苑地区の再開発計画とまったく同じ構造です。
 前回もふれたけれど、すべてを食いつぶす新自由主義が古都、鎌倉でも猛威を振るっている。先日、市長と市民の連絡会というのに出かけてみましたが、今の政治状況は地方から変えていく姿勢が大事なのだと痛感しました。
 松尾市長は岸田首相の真似をしているのか、一応、市民の意見を聞いているようで、ほとんど何も聞いていない。というか、岸田首相同様、基本的な「聞く力」を喪失しており、しかもそのことに無知だという印象でした。小池百合子都知事も含めて、これが現在の多くの為政者に共通する精神構造ということでしょう。

A 市民、あるいは国民の側がしっかりした批判精神を持たないといけないということでしょうが、首相、都知事、鎌倉市長、いずれも選挙で選ばれているわけですね。

B 連絡会には30人ほどの市民が集まり、なぜいま市庁舎を移転する必要があるのかについて多くの反対意見が出ていましたが、残念ながら、やはり若い人の姿がほとんど見えませんでした。
 以前、現代社会ではまっとうな大人が育ちにくくなっているとして、教育のあり方を話題にしましたが(<折々メール閑話>⑨「まともな人間を育てない教育」。『山本太郎が日本を救う』第1集、アマゾンで販売中)、すでに大人になった人もそうだが、とくに若者に危惧すべきことが多いように思います。
 社会学者の白井聡は「大学における『自治』の危機」(斎藤幸平+松本卓也『コモンの「自治」論』集英社、所収)で、「いまや大学は若年層の市民的成熟を実現する場として成立しえなくなっています。学園 紛争の反動であらゆるリスクを排除し、学生を保護した結果、逆説的に市民的成熟の機能が失われてしまつたのです」と嘆いています。
 ある私立大学のゼミでは、安倍政権を肯定する意見が7割を占め、学生からは「そもそも、総理大臣に反対意見を言うのは、どうなのか」、「(政権に批判的な学生に対しては)空気を読めていない。かき乱しているのが驚き、不愉快」などの発言があるといった〝悲惨〟な実情報告も紹介されています。
 大学自体、教授会の自治が失われ、文科省からの支配が強まっているけれど、大学教育において「まっとうな人間」がすでに育てられなくなっている、というか、そうして育てられた(育てられなかった)大人がいま社会の中枢を占めている。資本主義の価値観を完全に内面化して、自己というものを失った人間が続々と生まれているようなのです。こうなると問題の根はきわめて深いけれど、この現象は他国に比べて、とくに日本で顕著であることを示す同書添付のは、大いに考えさせられますね。

A れいわ新選組の次期衆院選公認候補に決まった辻恵氏が記者会見で「今の日本は、国破れて山河あり、城春にして草木深しではなく、その山河が残っているのか、草木はちゃんと育っているのか!」と悲痛な叫びを発していました。こういう状況を選挙だけで変えられるわけではもちろんないけれど、次期衆院選では、何としてもれいわに躍進してもらいたいと思いますね。これは「悲願」です(^o^)。