PC-98の思い出(第130回、2016/11号)


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イラスト

日本電気(NEC)のPC-9801が未来技術遺産に選ばれたことを記念して、PC-98にまつわる思い出からスマートフォンまで話が飛んだ……
せんせーは、『ASAHIパソコン』の編集長もやられていたんですよね?
懐かしい話だね。あの頃はPC-98一色、何か思い出はあるかな
当時はまだ小学生でした
ありゃりゃ!
ボクのパソコンの思い出というと、ずっと後のWindowsMEですね
う~む……私も歳をとるわけだ
98とかって、テレビでもCMをやっていましたよね。バザールでござーる~♪って
それは随分あとになってからだね。といっても、もう25年前か
仕事にザウルス!あとはいらん~とか
ザウルスはPDAの走りだったが、そういえば、イラストもザウルス(恐竜)だね
あ、はい。何となく古いパソコン=ザウルスってイメージだったので
もう片方のは……宇宙人?
そうです! 古代⇔未来 という対比を表現したかったので、宇宙人像として有名な「フラットウッズ・モンスター」をモチーフにしました。UFOといえば、円盤型や葉巻型が有名ですが、やはりなんといってもアダムスキー型が一番じゃないでしょうか。1952年にジョージ・アダムスキー氏が撮影した金星人のUFOのことで、なだらかなカーブを描く皿状の飛行翼と円柱状のボディ、下部には反重力発生装置と思わる球状のパーツが……
……お後がよろしいようで

< ML楽屋話 >


Sic イラストの宇宙人、フラットウッズ・モンスターは1950年代に目撃され、その衝撃的な似顔絵?で一躍有名になりました。単なるグレイタイプの宇宙人でもよかったのですが、デフォルメするとただの裸のオッサンに見える可能性もあり、レトロでありながら宇宙人の代名詞、アイコンとしても分かりやすいフラットウッズ・モンスターを採用しました。

 没案もあります。当時98シリーズには、Qハチ君というキャラクターがいて、ノベルティグッズも結構出回っていました。一方現在のNECは、ガイドロボMOMOというキャラでパソコンガイドのページを設けています。これが結構面白く、単なる無味乾燥なPC基礎知識も、味付け次第ですんなり入ってくるものだな……と感心しました。

 NECという企業が、そういった手法を利用したのも驚きです。でもまあ、秋葉原でパソコンパーツを漁ってたような人にとっては、むしろ懐かしい姿勢なのかもしれません。

 というのも、NEC製のパソコンのマニュアル(チラシ?)には、当時のアニメチックな女の子のキャラクターが描かれていたからです。その名も「シュポポ3世」、いかにもその場のノリでつけられたようなキャラ設定は、今なおマニアックなファンがいるくらいです。


Hei 雑誌『ASAHIパソコン』とその前に発行したムックのコンセプトが「だれもが鉛筆や万年筆のような文房具としてパソコンを使うようになる」時代がくるというフレーズが衝撃的でした。なんという先見性……。

 このムック是非読んでみたくなりました。お持ちですか?


Kan バックナンバーは持っているけれど、残部僅少なので、恒例の花見のときにでも見てください。


Kik PC-98シリーズ、懐かしいですねえ。僕は高校が「電気技術科(電気と情報技術を学ぶ科)」だったので、最初にパソコンに触ったのは高校時代。機種名は覚えていませんが、8インチのフロッピーディスクで授業を受けたのを思い出します。

 もっとも当時の僕は、部活のために登校しているような生徒でしたから、パソコンと言えば、どこかで拾ってきたシャープのMZ2000で、オセロゲームをやっていた記憶のほうが鮮明です。(カセットテープで、ジーコジーコと数分かけてプログラムをロードしてました)

 その後、「電気やコンピュータは面白くない!もうイヤだ!」と思って、新聞社に入社したところ、最初に配属されたのが「印刷局 電動課」という輪転機の電気制御と、マイコン機器を担当する部署でした。文系の極地へ行ったつもりが、まさかの技術屋。毎日辞めることばかり考えていたものです(^o^)。

 踏ん切りがつかずにズルズル続けるうち、職場内でパソコンを扱える人がいないことに気づき、「自分の居場所づくり」と思って部内業務のOA化を、(勝手に)推進することにしました。その時使っていたのが、PC-98シリーズでした(機種名は定かではありませんが、3.5インチFDD搭載で、CPUが80286でしたから、PC-9801UXだったと思います)。

 BASICやLotus1-2-3のマクロ、DOSのバッチファイルなどでコツコツ何か作っていたのを思い出します(何を作っていたかは忘れましたが)。

 時間軸がちょっと前後しますが、僕が個人で初めて買ったパソコンも、PC-98シリーズでした。世界初のTFT液晶を搭載したノート、PC-9801NC。定価は59万8,000円と高額でしたが、秋葉原の店で粘りに粘って、30万ちょっとで買いました。これを買って何をしたかったかというと、競馬の必勝ソフトの開発です。毎日仕事を辞めることばかり考えていたので、競馬で億万長者になって辞めてやろうと思ったんですね。

 今でも若い後輩に言うのですが、若いころは、「勉強」と思って(言われて)やることなんて、ほとんど身につかないものです。というか、モチベーションが維持できません。一方、博打とか、エロとか、ゲームとか、その他何でも、自分が興味を持ってのめり込んだものに関しては、技術や知識が勝手に身につきます。


Kan 僕は字が汚くて、自分でも読めないことがあります。新聞社の整理部にいたころは、見出しの活字を拾う専用の植字工がいたくらいです(^o^)。その後、出版局に移って記事を書くようになったとき、まず買ったのがワープロ専用機で、1982年です。富士通のMY OASYSで、まだ70万円以上したと思うね。独特の親指シフトキーボードだった。


Kik 競馬必勝ソフトを作って億万長者になる夢は果たせませんでしたが、このころ多変量解析や重回帰分析など統計学の本を読みあさり(さっぱり分かりませんでしたが……)、Lotus1-2-3のマクロや、BASICのプログラミングを覚え、競馬四季報から手作業でデータを移植し、パソコン通信を楽しんだ経験が、結果として、後の仕事に役立ちました(仕事も辞めずに済みました)

 その後、「印刷局にパソコンが使える奴がいる」という評判を得た僕は、「辞めないけど、せめて印刷局から出る!」という念願を果たして編集局へ(本来は取材のサポート部門でしたが、好きな映画評も書かせてもらえる、素敵な職場でした)。

 この時も、職場にはPC-98シリーズはありましたが、既に少数派になっていました。Windows3.1が主流になりつつあった時代です。「パソコンと言えば98」だった時代は、終わりつつありました。そして気付けば、僕は現在、システム部門の人間です。「電気もコンピュータもイヤだ!」と思っていた若いころの自分が、今の僕を見たらどんな顔をするかと思うと、なんだか可笑しい気分になります。

 あのころPC-98との出会いがなければ、今とは違った人生になっていたかもしれません。今でもPC-98は、その使い勝手の良さとともに、忘れられない思い出が沢山あります。

 祝!「重要科学技術史資料(未来技術遺産)」登録!


Hei 98はいまだに町工場ほか様々なものづくりの現場で活躍しており、耐久性・安定性は抜群です。中古の市場もあるくらいです。

 日本を席巻したPC98が現在ほとんど姿を見せなくなったのは、モノづくりの強みはありつつも、〝グローバルな市場なり競争なりのルール形成〟への意識がなかったのではと思います。

 現在のWEBサービスは、アマゾンをはじめ米国が席巻していますが、サーチエンジンのグーグルが伸びた理由は著作権法がオプトアウト型だったこと、法制上のフェアユースがあったこと。戦略をもって制度を対処したことが大きいと感じています。

 これからの世界でもとめられるのは、モノづくりの強みだけでなく、ルール形成の役割をいかに果たしていけるかにかかっていると思います。


Kik Sicさん、時代は異なりますが、PDAでザウルスという名称の商品がありましたねえ。それも懐かしい。僕も持っていましたが、いわゆる「リナザウ」で、僕にとっては「初Linux端末」でした。

 使い道は限られていたけど、当時IBMから出ていた「ウルトラマンPC(Palm Top PC 110)」や日電の「モバイルギア」らとともに、「小さなテキスト入力端末好き」には遊び甲斐のある端末でした。どれも、まだ家のどこかで眠ってます(たぶん)。


 PC-9801、私にとっては色々な思い出があります。学生のころPC-8001が世の中でブームになり、『Oh!PC』という雑誌が、ソフトバンクから創刊された記憶があります。当時コンピュータに目覚めはじめた私としての愛読本でもありました。記事はNECのPC8000、8800、9800シリーズのことが中心で、パソコン入門書として読んでいました。

 やがて、パソコン(EPSONの98互換のブックPCやディスクトップ)を購入し、パソコン通信やインターネットを始めるようになり、購読を始めたのが『ASAHIパソコン』、『EYE-COM』、『DOORS』、『インターネットマガジン』でした。

 これらの雑誌からは、パソコンを使いながら、ネットに接続してのノウハウを教わりました。特に『ASAHIパソコン』や『EYE-COM』は薄い雑誌で、初心者向きの分かりやすい記事が多く、往復の通勤の際に車内で読んでいた記憶があります。

 今では当たり前のインターネットですが、かつて接続するのには、数々の雑誌を読んだり、読んで分からないことは秋葉原の店舗へ聞きに行ったり、四苦八苦した思い出があります。


Kan ここにも『ASAHIパソコン』の愛読者がいたとは嬉しいですねえ。

 


 我が家に最初にやってきたPCは、OSがCP/MのPC-8801でした。当時はデータのやり取りはフロッピーや磁気テープで行われており、大学の演習課題の計算プログラムを友人からカセットテープでもらい、PC-8801にウォークマンを繋げてカセットテープからダウンロードしたことを記憶しています。


Kan CP/Mも懐かしいねえ。パソコン初期には日本でもそれこそガレージ産業よろしく、いろんなパソコンが製作され、売り出されていたんだよね。ハードとソフトをミックスした名称のソードというパソコンメーカーもありました。


 その後、OSがMS-DOSのPC-9801が主流になり、一太郎や花子、ロータス1-2-3などのソフトも流行りだしたころ、仕事場ではPC98シリーズのPCを使っており、私自身もMS-DOSマシンに乗り換えようと思い、若干価格の安い、EPSONの98互換PCを購入しました。NIFTYのパソコン通信に夢中になったり、パソコン通信やインターネットをするためにNTTのテレホーダイに加入したりしたのも、PC98シリーズ時代だったと思います。

 私にとっては、MS-DOSやPC98シリーズ、EPSONの98互換シリーズの時代は、懐かしさとともに、ある意味での原点のような気もします。


Sic 98が町工場でいまだに現役なんてスゴイです。今の時代、古くなったら新しいものに変えるという風潮が強いですが、古いものを直して使うという精神はもっと見直されたほうがいいかもしれないですね。

 パソコン通信は、話に聞いていたものの、結局、自分の時代には終了していました。カセットテープでの読み込みは、友達のお兄さんがMSX?だったかでゲームをするのにガーガーやっていたのを記憶しています。

 自分のPC歴は、個人のものとしてはWindowsMEのプレサリオ(コンパック)が初めてです。それまでは親のPCをこっそり弄ってました。最近、自分のPCもそろそろ買い替えを検討しようかと色々調べてみて驚いたのは、最新PCはメモリ8GB、HDDは500GB~1TBが普通になっていることでした。動画編集などには必要なのでしょうが、一般向けにしてはいささかオーバースペックな気もします。Windows10も、この辺りをターゲットにしているようで、所有PCのひとつをアップグレードしようとしたときは、スペックがギリギリでした。

 いずれにせよ、PC黎明期に直接立ち会えた先輩たちが羨ましいです。


Kan コラム本文でもふれ、Hei君も言及していますが、日本のコンピュータ事業が世界に進出できなかった原因の一つが、ハードとソフトの未分化ですね。これはケータイ(スマートフォン)でも同じです。スマートフォンにおいてすら、日本のキャリアはソフトの入ったシムを自社提供のハードにロックしていたわけです。

 なぜ日本ではソフトがハードに結びついてしまうのか。ここに日本的特質があるのは確かで、メリットがないわけではないが、国際化には負けてしまう。この辺についても、多くの人のご意見をお待ちします。


ご意見をお待ちしています