< ML楽屋話 >
134回「超監視社会」では、映画「宇宙戦争(原題:War of the Worlds)」のレトロSF風な表紙をイメージしました。ビッグブラザー=三脚の巨大ロボットとUFOに監視(というより襲撃)されて、世の中は火の海になっています。巨大な監視を逃れようとして物陰(ビッグブラザーの死角)に隠れていた人たちも、リトルブラザーの告げ口・報告により、その場も追われているという、記事にもあった、逃れようのない情報社会の風刺のつもりです。
1台のロボットは、光線を出して町を破壊し炎上させています。監視側が発生させる(演出する)「炎上」は、今のマスメディアによく見受けられる気がします。デジタルタトゥーなどとも言われるネット上の記憶は、「過去の過ち」が永遠に過去にならないという恐ろしさもはらんでいます。そういった「利便性」を悪用され、あっという間に「罪人」が作り出されるところは、サイバー社会の闇と言えるかもしれません。
ところで、「宇宙戦争」は何度か映画化されました。私がちゃんと見たのは2005年度版だけです。地球に侵略してきた宇宙人は、最後は地球のウィルスの空気感染によって自滅します。宇宙人の圧倒的な軍事力が、呆気なく破れてしまうオチが個人的に大好きなのですが、今回のイラストのモチーフはここにあります。
単に、「監視社会」と「告げ口」から「セキュリティの犠牲」という記事のキーワードの連想として、レトロチックなSFの絵と見てもらってもよいかなと思います。
Sicさんの解説で映画「宇宙戦争」のタイトルを見つけ、いろいろ懐かしい映画を思い出しました。
なので、今回は(勝手に)映画の話。
H・G・ウェルズの「宇宙戦争」といえば、オーソン・ウェルズによるラジオドラマ(1938年)が有名ですね。本当に宇宙人が攻めてきたと誤解した人が多く、文字どおり「全米がパニック!」となった、史上最も成功したラジオドラマ。「メディアリテラシー」が最初に問題になった事例じゃないですかね(笑)。
ラジオドラマ「宇宙戦争」はメディア史上、画期的で、社会学の参考書でもよく使われています。僕も『総メディア社会とジャーナリズム』で紹介しています。
1953年には、ジョージ・パルが製作した映画「宇宙戦争」も公開されました。僕にとって(映画としての)「宇宙戦争」はコレです。もちろん、僕もリアル世代じゃないのですが、少年時代にテレビで何度か観ました。深夜帯で放映されることが多かったこともあり(夜中にこっそり見ていたので)、本当に怖かった記憶があります(とくにあの一つ目の「ウォーマシン」が……)。今でも大好きな作品です。
そうした世代にとって、強烈だった”リメイク作品”は、ローランド・エメリッヒの「インデペンデンス・デイ」(1996)でした。Sicさんの説明にあるように、原作では(宇宙人は)地球の「ウィルス」で自滅するのですが、本作ではなんと、人類が作った「コンピュータ・ウィルス」で撃退されるのです。このシークエンスには、思わずニヤリとしたのを思い出します。と同時に、本作はコンピュータ・ウィルスが強大な兵器になり得ることも示しました。
とはいえ、当時コンピュータ・ウィルスの脅威は、今ほど認識されていませんでした。「コンピュータ・ウィルスを武器にして宇宙人を撃退」というラストに、ピンとこなかった人も少なくなかったと聞きます。
その後、「サイバー・テロ」や「サイバー戦争」といった言葉がマスコミで取り上げられるようになり、コンピュータ・ウィルスが(一般的に)兵器と同列の脅威として認識されるようになったのは、この10年くらいではないでしょうか。
有名なところでは、2010年6月に「スタックネット」というコンピュータ・ワームが、イランの核施設を攻撃した事件がありましたね。このワームについては謎が多いのですが、昨年のベルリン国際映画祭で上映され、話題となったドキュメンタリー映画「Zero Days」では、スタックネットをアメリカが開発したことや、オバマ大統領の指示で使われたこと、既に世界中に拡散して制御できなくなっている事態を伝えているようです(未見なので詳細は分かりませんが)。
と、ここまで映画の話だけで、肝心の「監視社会」について触れていませんでした。「監視社会」についても映画に絡めてみます。
映画で監視社会を描いた作品といえば、まずは「未来世紀ブラジル」(1985)が思い浮かびますが、本作はどちらかといえば「監視社会」というより、全体主義的な官僚政治(=「管理社会」)を描いた作品でした。雰囲気としてはジョージ・オーウェルの小説『1984年』に近いかもしれません。
それはそれで恐ろしい世界観ではありますが、「管理社会」は、まず「社会を管理しようという(何か/誰かの)意志」ありきです。本質的には「思想」の問題ですよね。一方、「監視社会」の問題とは、本質的には「テクノロジー」そのものが抱える危険性だと思います。もちろん、「監視」が「管理」に使われる可能性があるからこそ問題なわけで、「テクノロジー」が「権力」と結びついた時に、非常に危険なことが起き得ます。
監視社会はテクノロジーそのものが抱える危険性だという指摘はたしかですね。②のイラストがその象徴です。
そうしたことを最初に、いかにも映画的に描いて見せたのは、トニー・スコット監督の「エネミー・オブ・アメリカ」(1998)でした。国家の機密を知ってしまった主人公が、家族ごと命を狙われることになるのですが、国中に張り巡らせた監視カメラや、さまざまなハイテクによって、次々に居場所やプライバーを暴かれ、どんどん追い詰められていきます。サスペンス映画として秀逸で、今観ても、それほど古さを感じさせません。
ちなみに主人公を演じたウィル・スミスは、「インデペンデンス・デイ」では宇宙人と戦っていました。エラい奴です。僕は彼をサイバーリテラシー俳優と呼んでいます(嘘です)。2008年には、制作総指揮スピルバーグで『イーグル・アイ』という映画もありました。いかにもスピルバーグ×ハリウッドな、荒唐無稽なエンターテインメント大作ですが、現代のテクノロジーが、いかに「監視」のためのツールになり得るか、という点を非常に分かりやすく伝えています。
サイバーリテラシーに興味のない人へは、監視社会の問題点を言葉で伝えるより、こうした映画のほうが何倍も伝わるかもしれませんね(ハッピーエンドで終わるハリウッド映画なので、問題意識が持続できるかどうか疑問ではありますが……)。
とりあえず、上に挙げた作品は、どれもサイバーリテラシーに関心のある方には、興味深い作品だと思います。未見なら是非。
トニー・スコット監督の映画は全部好きです。ただ、「エネミー・オブ・アメリカ」ってどうしてもラストが他の映画とゴッチャになっちゃうんですよね。「インデペンデンス・デイ」のウィル・スミスは宇宙人をグーで殴ってましたね。さすがはサイバーリテラシー俳優です。「イーグルアイ」も観たはずなんですが、どうしても後半にオプティマス・プライムが出てくるので、どこかで記憶障害が起きているようです。
サイバーリテラシーに関連して印象的だった映画は、「スターシップ・トゥルーパーズ」と「第9地区」ですね。「スターシップ~」は、どちらかというとプロパガンダですが、ポール・バーホーベン映画のプロパガンダは皮肉を入れすぎてコメディになっているような気がします。「第9地区」は、エゲツない情報操作が見どころ(笑いどころ?)ですが、ロボットが出てきたりと、ジャンル分けが難しい映画ですね。
ちなみに同じ監督作品のチャッピーに飛行ロボット出てきたときは、「またか!」と大爆笑しました。アニメですが「ひるね姫」は、情報の見え方を「キャラ視点」で扱っていて面白かったです。まあ、情報なんて誰しも自分視点でしか見てなくて、更には都合よく解釈してしまうなんてのも、日常茶飯事な世の中だからこその面白みですけど。
最後にもう一本、サイバーリテラシー関連でお勧めを。今年公開された、巨匠オリバー・ストーン監督の「スノーデン」は、スノーデン氏の証言を集めたドキュメンタリーです。
NSAの文書を暴露したスノーデンに関しては、本ウエブの「5分間の公開事業―『IT社会事件簿』を読む②」で詳しく説明しています。
先述した「Zero Days」同様、米国が各国のインフラ産業(のコンピュータ)にマルウェアを埋め込んでいるとの証言も出てきます。その対象には日本も含まれており、もし日本が米国に敵対したらインフラがダウンするようになっているとか。
こういう話は、つい眉唾的な「陰謀論」にも捉えられがちですが、技術的な問題なら検証(できるし)してみる価値はあると思うんですけどね。日本のインフラ業界が、そうした危機意識を持っているかは不明ですけど……。
いずれにせよ、ポイントは証言の真偽じゃないような気も。万一、証言が嘘だとしても、現代のテクノロジーは、それを可能にする。そこが恐ろしいとこですよね。
嗚呼…映画の話を始めると止まらないですね…(^^;)
映画の話はまだ続きますよ(^o^)。②のコンセプトは、「なし崩しで形振り構わぬ捜査網」です。その昔、アーノルド・シュワルツェネッガー主演の「ゴリラ」(1986)という映画がありました。
早朝、車の中で見張りをしているマフィアのところにイラストのようなランニングウェアの金髪ギャルが走ってきます。スタイル抜群(ノーブラ)のギャルに、マフィアは冷やかしを入れますが、ギャルはニッコリと笑顔で近づいていき、マフィアが車の窓を開けると、「FBIよ!」と銃を突き付ける……そんなシーンがありました(昔の話なので、他の映画、シーンと混同しているかも知れませんが……)。
当時私は小学生だったかと思いますが、そのシーンはとても鮮烈で、「FBI」「監視」「捜査」と聞くと、どうしても「ランニング中の金髪ギャル」を連想してしまうのでした(これが「FBI捜査官」となると、「羊たちの沈黙」のジョディ・フォスターの連想となるので、人間の脳は面白いですね)。
という訳で、記事を読んで真っ先に思いついたのはランニングウェアの女性だったのです。まあ、個人的な思い出は別として、マラソン(ランニング)の休憩時ですら個人監視されてしまうという風刺もあります。
監視は露骨に行われており、隠そうともしていません。監視対象者からもバレバレな「監視」は、記事内の「なし崩し的な捜査」の表現です。
最近では、ランニングのサポートとしてGPSを利用したナビがあります。GPSの移動分を走行距離として消費カロリーを計算してくれるアプリなんかもあります。走っている最中には、アプリが心拍数を感知し、ビート(心拍)に合った曲を選出してくれるものもあり、それだけで滞在位置、心拍、嗜好などの個人情報をアプリに預けているわけです。パーソナルな嗜好を満足させる程、そこには個人情報が集約していき、事業にプライバシーを預けてしまうというのは、便利な反面怖いとも思います。
コラム①冒頭でバリ島での経験を記したのも、便利さと裏腹の恐怖について注意を喚起したかったからですね。
サイトの広告なんかも、最近は過去の履歴から最適なコンテンツを表示するタイプになってきて、煩わしいと感じるときもあります。(画面ロード時に位置がズレたりして)画面操作を誤って、たまたまクリックしてしまった広告が何度も現れたりすると、本当にうんざりします……。
こういうものの「丁度よさ」っていうのは中々に難しいようです。
監視しているチビっこいのは、防犯カメラをモチーフにしたキャラクターです。PLANEX社製のスマホ監視カメラがユニバーサルピクチャーズのミニオン(子供向けキャラクター)みたいだったので、擬人化してみました。今回限りのキャラですが、「デバカメくん」という名前があります。「(監視用の)デバイス」「出歯亀」「カメラ」あたりを連想した思いつきです。元がカメラなので、非生物→心のない捜査という連想でもあります。
左右からそれぞれ監視していますが、旧式のマイク(ダイナミック型:音源が近くないと拾えない)を遠くから掲げたり、肩車(無理な体勢)で至近距離からパラボラ収音機(遠くの音を拾う機械)を使っていたりと、アンバランスな監視をしています。これは、「法治国家の公権力が超法規的手段によって捜査をする」という、アンバランスさの風刺を込めています。
出歯亀の語源はヒドイですよね。当時のことなんで本当なのか確かめる術はありませんが、確か裁判中も出歯亀って言われて、会場に笑いが起きた……なんてエピソードもあったり。単なる窃視だけじゃなく殺人事件なんで、和んでどうする!というツッコミ入れたいですが……。
このキャプション、また「言葉狩り」で炎上しないと良いですね(笑)。
言葉狩りって、毎回論点ズラシのように感じてしまうのは私だけでしょうか。
ご両人の映画談義、楽しく拝見しました。「エネミー・オブ・アメリカ」は、ちょうど公開されたころだったので『インターネット術語集』(2000年、「通信傍受」の項)でも紹介しているけれど、NSAが歴史の舞台に躍り出たころですねえ。感慨深いです。
ショートパンツ姿の若い女性と言うと、僕なんか、アップルが1983年にマックを発売したとき、スーパーボウルの球場で唯一放映されたCMを思い出すなあ。Sic君はまだ生まれていなかったかな。
トニー・スコットの兄で、「ブレードランナー」をつくったリドリー・スコットが製作したもので、最後のナレーションで、IT社会がビッグブラザーに支配されないための、個人の道具としてのパソコンを宣伝したものです。伝説のCMでもありますね。
しかし、スマホ時代になって、IBMの大型コンピュータに対抗するパーソナル・コンピュータという発想がずいぶん牧歌的だと感じますね。「監視社会」に対抗できるはずだったツールが、かえって「超監視社会」を出現しているのは皮肉でもあります。
エピソードをもう一つ。日本の出歯亀に対応する英語、Peeping Tomは、西洋の諺「公益のために」に関係しており、それはチョコレートで有名なゴディバ(英国の貴婦人)にまつわる話です。僕はこれを倫理とはどのようなものかを説明する恰好のエピソードとして使っており、『サイバーリテラシー概論』でも取り上げています。
1983年というと、私はまだ小学生でした。「ブレードランナー」と言われると、なるほど同じ監督っぽいですね。CMの最後に流れるナレーションは、いま改めて聞くと意味が違って聞こえますね。アップルのOSアップデートの強制なんかは、それこそ「ビッグブラザーの支配」みたいな感じですけど……。
せっかくの最高裁判決も、共謀罪が成立したら、捜査機関や権力が簡単に令状を取れるようになるのでしょうね。そして「これなら合法だろ」と。共謀罪、反対。
共謀罪は「黒を白と言いくるめる」ような政権が推進しようとしているところに何重もの危険を感じますね。こういう状況でも安倍内閣支持があまり減らないようなのが不思議です。
ところで、原稿でも紹介したブルース・シュナイアーは、いくつかの著書で、「セキュリティはトレード・オフである」ことを強調しています。
あちら立てればこちらが立たぬ、だけれど、そこにどう折り合いをつけるのか。本人の生き方もかけて決断しなくてはいけないわけだけれど、そういう決断が個人レベルでできにくいわけですね。決断するための十分な情報が与えられていなかったり、決断する前に流されていたり……。
だから、セキュリティ対策を個人レベルで考えるだけではとても無理で、社会的な努力が不可欠というのが、僕の考えで、最高裁判決もそう位置づけて評価したわけです。
この辺の議論は、みなさんの投稿に譲ることにしましょう。
<追記>今回は映画談義に花が咲きました。近くプロジェクト欄で「映画史に見るサイバーリテラシー」の連載も始める予定です。乞う!ご期待。
ご意見をお待ちしています