< ML楽屋話 >
今回のコンセプトは、「見る者によって異なる実態(真実)」です。画像のキャラクターは、持国天・増長天・広目天・多聞天のいわゆる四天王です。日本にある仏像の四天王は表情が違うものの、外見がよく似ているので、中国北京妙応寺の四天王をベースにしています。表情は東大寺四天王像を参考にしました。
携帯電話を持っているのが多聞天(毘沙門天)、PCを持っているのが持国天、双眼鏡が増長天、何も持っていないのが広目天です。
携帯:多聞天は、多くの情報を手元に置いておけます。PC:持国天は、持国(自己)≒信念を持ってデバイスを使う……PCで情報収集をする人は、どちらかというと裏(ソース)を調べようとする印象から。双眼鏡:増長天は、他の人よりも詳細が見えるためにやや増長気味になっている。裸眼:広目天は、自分の目(視界)で見ている。
多聞天(顔色は黄)は尻尾だけ見て「蛇」と判断し、持国天(蒼白)は顔を見て「竜(ドラゴン)」と判断しました。全体像をとらえたかと思われた増長天(青)は、被写体に近づきすぎて「ヒュドラ(八岐大蛇)」に見えました。広目天(赤)には「枯木」が見えています。
四天王は、仏教における守護神ですから、悪意は全くなく、デバイスを通して見えたそのままを口に出しました。しかしデバイスそれぞれの視野には大きな隔たりがあり、全体像は見えません。広目天の見ているものが真実らしいけれど、心で思っているだけです――と、まあサイバー社会の風刺です。
話に尾ひれをつけたがる人、邪推する人、その他大勢で、どんどん話はあらぬ方向に進んでいきます。そして質の悪いことに、それらに悪意はありません。悪意をもって情報操作をする輩もいますが、情報を広める大多数の根底には、悪意ではなく使命感や正義感があるのではないでしょうか。情報過多な現代では、自分自身の体験(目でみたもの)すら信じられなくなっているのかも知れません。無責任な発言が圧倒的多数を占め、真実の声が押しつぶされてしまう。あるいは、憚られて口に出すことが出来ない……。
肉眼で真実が見えているかどうかはひとまず置くとして、デバイスによるデフォルメを強調したわけね。
これを描いているとき、東洋の龍と西洋の竜は、同じDoragonですが、それぞれモチーフが違うんじゃないかと、ふと思いました。東洋の龍は、「角は鹿、頭は駱駝、眼は兎(鬼とする場合もある)、身体は蛇、腹は蜃(シン)、鱗は魚(鯉)、爪は鷹、掌は虎、耳は牛」という中国の伝説がベースになっていますが、全体的に見ると大蛇のようであり、水にまつわるエピソードが多いです。
一方、西洋の竜はどちらかというとトカゲで、大きな体躯に蝙蝠のような羽根、多くは火を吐き、毒(ガス)を吐き、山奥に隠れ住んでいます。東洋龍は川がモチーフで、西洋竜は山がモチーフなんでしょうか。
面白いのは、龍と竜への人々の意識です。日本での龍はどちらかというと神様で、畏敬をもって崇められています。蛇神信仰もあるくらいなので、蛇によく似た龍神も信仰対象なんでしょう。しかし、西洋の竜は圧倒的に悪であることが多いです。民俗学なんかですでに論じられている話かも知れませんが、今回思ったのは、龍=川、竜=山であるならば、Doragonの訳として龍(=西洋竜)としてしまったのはとても乱暴な話だな……ということ点です。
西洋のドラゴンが山のイメージというのは、某大学妖怪研究会会長(^o^)の身としても、あまり聞かなかったので、面白かったです。
東洋の竜というのは、川の流れだったり、雲の動きだったり、大自然への畏敬から生まれたイメージだと僕も思います。中国の竜は、雲や風のイメージですね。雷雲や竜巻といった自然の脅威が形になったのではないでしょうか。それが日本に伝わり、水害が多かったためか、在来の蛇神信仰と交じって水神系に変わったようです。いまでも、神社の手水舎で、口から水を吐いているのはたいてい龍神様ですしね。
一方、西洋のドラゴンは、Sicさんが書かれていましたが、トカゲっぽいですよね。西洋では古くから大型恐竜の化石が発見されていたので、それを見た当時の人々がイメージを膨らませたのではないかなあ―とか、語源のドラゴンが蛇を指す言葉なのでニシキヘビやアナコンダを見た人々が、悪魔だと思ったのかなあ―とか、勝手に想像して楽しんでますが、いずれにしても「実在」した生物から考えたんじゃないかと(「自然は人間に征服されるモノ」という考え方をする西洋人が、大自然に畏敬の念とか抱きそうにないので(^o^)。
ちなみに、「龍」と「竜」を書き分けておられましたが、これは旧字体、新字体の違いだけで、全く同じ意味だそうです。日本では「竜」の字のほうが古く、甲骨文字が使われていた時代から存在が確認されています。その後、「竜」を厳格に表現するために採用されたのが「龍」という字なんだとか。以前、本当は「竜」のほうが旧字体なんじゃないかと調べたことがありまして……。どうやら、中国で「竜」が「龍」の略字体だったので、日本もそれに倣ったようです。要するに、中国で最初に「龍」という字が出来て、それが「竜」と略されるようになり、それが日本に伝えられ、そしてまた「龍」になったということのようですね。こういうの調べるのって、面白いですよね
「龍」のほうが古いと思っていましたが、逆だったんですね。私のドラゴン・デビュー(?)はドラゴンクエストでしたが、それより以前、幼少のとき入院したときに買ってもらったコナン・ドイルの「恐竜の世界(失われた世界The Lost world))」の児童書版が大好きだったので、大型爬虫類にはいまだにロマンを感じます。
話がズレましたが、情報伝達に想像力が入る余地があるかどうかというのも、デジタルとアナログの差なのかなと思います。こんなことがあったよ……という話を盛り上げるため尾ひれをつけるっていうのはよくありましたが、いまは写メや動画ですからね。私は両方をほぼ同じくらい経験している世代なので、単純に昔はよかったとは思いませんが、デジタルネイティブ世代にとっては、どう見えるんでしょうか?
子どもネット研(子どもたちのインターネット利用について考える研究会)が、以下のような調査を発表しています。「未就学児の生活習慣とインターネット利用に関する保護者意識調査結果」
なかなか興味深い調査で、「1歳児の4割超、3歳児の6割、6歳児の7割超がスマホなどの利用を経験、6割近くは、2歳までに機器の利用を開始」、「機器を利用する子どもの半数以上は『毎日必ず』または『ほぼ毎日』触れている」、「まだ利用させていない保護者の多くが考える『利用させてもよい時期』は小学生以降」などがポイントです。保護者の36%が情報機器を小学校低学年から使わせて良いと考えています。
スマホは大学生からと考えている私はかなり時代遅れなのでしょうか。
去年(2016年)10月の調査ですねえ。主に動画や写真の閲覧ですね。以前、いっしょにやっていた連載記事で、「スマホを子守り代わりに使わない」ことを提言したことがありますが、スマホを子どもに使わせないという考えは、これからの子どもをもつ親には通じなくなっているようだねえ。
うちの孫は小中学校だけれど、親がフィルタリングなどの規制をしているものの、もはや自由にスマホを使って(親のスマホを借りて)、ポケモンGOなんかやっていますねえ。
本好きもいるし、もっぱらゲームというのもいるねえ。昔から子どもに本を読ませる運動というのがあったけれど、新しいかたちでの読書推進運動も必要かも。
子どもネット研のサイトには、保護者のためのインターネット・セーフティガイドや保護者向けのセルフチェクリストなどもありますので、参考までにご一覧を。
いろんな団体が調査をしていますが、Kyuさんが見て、これは興味深いというデータがあれば、サイバー燈台のプロジェクト・コーナーで「気になるデータ」として報告し、あわせてコメントをつけてくれるといいですね。
未だにガラケー使い(しかもPHS)のKikです。アンケートを見ると、大半は玩具代わりのようですね。いまは、乳幼児向けのアプリも多く(特定の絵に触ると音がするとか、簡単なゲームとか)、とりあえずそれを渡しておけば子どもをあやせるため、(乳幼児向け知育アプリとして)使っている親が(僕の周辺にも)結構いますよ。
その手のアプリは、子どもが間違ってアプリを終了させたり、他の機能を勝手に使わないような対応がされていることが多いので、かえって安心だったりもします。「スマホを利用させている」というと幼児にスマホを買い与えて、幼児が自由にスマホ(の様々な機能)を使っているかのような印象を持ちますが、そういうわけではなさそう(当たり前か(^o^)。「利用」という表現が微妙ですよね…。
この見出しは、なんとなく「スマホ(情報通信機器)」と「(その中で動く個別の)アプリ」がごっちゃになっている気がします。幼児に玩具やゲームを使わせること自体は、昔からあることですよね。回答にあるように、いろんな写真を子どもに見せることも同様。
写真に関しては、ちょっと前まで紙のアルバムが主流でしたが、電子的なゲームはかなり前からありました。今は、それらが、スマホの中にあるだけです。つまり、今の親も、昔の親と同様、子どもに「写真を見せる」「ゲームで遊ばせる」「テレビ(動画)を見せる」という意識であって、「スマホを利用させている」という意識はないのだと思います。
そこにも(その意識自体にも)色々問題はあるのですが、単純に【1歳児の4割超、3歳児の6割、6歳児の7割超がスマホなどの利用を経験!】という見出しに引っ張られると、「乳幼児には、昔ながらの玩具しか与えてはいけない」という変な理屈になっていきそうで、慎重に捉える必要がある気がします。
ちなみに我が家では、上の子にスマホを買い与えたのは大学生の頃でした。下の子には、「高校生になったらね」と言っています。もっとも、どちらの子にも、幼い頃から、僕の端末で(僕の監視下で)ゲームをやらせたり動画を見せたりしていました。
個人的には、
・子どもに使わせながらも「気にしていることは特にない」とした保護者はごく少数(6.1%)にとどまった。
・子どもの安全な利用に関する知識に関しては、8割以上の保護者が、なんらかの形で機器の使わせ方や安全な利用について学びたいと回答。
という点に少しホッとしました。アンケート内容を読み込むと、思った以上に保護者の健全な意識が目立ちます(こういうアンケートに回答する層なので、多少偏りはありそうですが)。特に後者に関しては「学習の方法では、集合型の研修以外へのニーズが高い」とあるので、こういう親をサイバー燈台にどう誘導できるか……。
スマホには絶対触らせないというのは無理だけれど、それをどううまく使うか、あるいは使わせないかを親がよくよく考えないといけないですね。
サイバー燈台ではプロジェクト・コーナーに<子どもと親のためのサイバーリテラシー>という大きな柱を立て、そこに「サイバー絵本」や「子どもとネットいじめ」などの企画を考えているのだけれど、「気になるデータ」などもここに組み込むといいですね。みんなで知恵を絞りましょう。Kyu君などが取り組んでくれたいくつかの実績もあることだし。Hei君もこの問題には旬になってきたし(^o^)。
最近の中高生が本を読まないという話がありましたが、僕が本好きなせいか、我が家の子どもたち(と、その周辺の子たち)は、かなり読書好きですよ。ただ、本の読み方にも性格があって、上の子は気に入った本があると何度も繰り返して(暗記でもするの?と思うほど)読み返しますが、下の子は乱読派。どちらかというと、僕に似て活字中毒なのは下の子のほうかもしれません。
そんな下の子が、ここ数週間、全く本を読まず、タブレットを何時間も抱えて過ごしているので、何をしているか聞いてみたところ、「読書」とのこと。聞けば、友だちの間で流行っている小説が、無料で(ネットで)読めるとのこと。ネットなら、いろんな小説が無料で読めると喜んでいました。
上の子は Kindle Paperwhite で本を買いあさっていましたし、「スマホやタブレット読書する」というのは、デジタルネイティブ世代にとっては、何も違和感がないのでしょうね。「最近の子どもたちは本を読まない」というのは、僕らの世代もよく言われました。当時の「テレビばかり見て…」という枕詞が、「スマホばかり…」に代わっただけのような気がします。ここ数十年、読書好きな子の割合って、案外変わってないんじゃないですかね。
もっとも、比率に差は無くても、「読まない子」の内訳はかなり変わったようです。(子どもたちに聞いた話がベースなので、何の裏も取れていませんが)昔は、「読まない」と言っても、「たまにしか読まない」「あまり読まない」といったレベルの子が多く含まれていたものですが、現在「読まない」子は、まったく本というモノを手に取ることがないんだとか。教科書以外に「頁を繰る」という経験が失われていくのは、なんとなく寂しいですね。
考えてみれば、ドラマやバラエティーといった、かつてテレビに属していたコンテンツや、映画、ゲーム、コミュニケーション、調べ物に至るまで、何でも自分の手の中にあるわけですから、人によっては本を全く必要としなくなっても不思議じゃないわけで。
大人でも、最近本を読んでいないという人が増えてきましたし。勿論、それによる弊害も多くあるでしょうが、人一人が受け取る情報量は、過去とは比較にならないくらい多い時代。失われていくモノばかりではないのかもしれませんね。
重要なのはコンテンツであって、媒体(デバイス)ではありません。ただし、デジタルの媒体にはさまざまな危険があることと、そのコンテンツも、正しく取捨しないと危険だと言うことを、今の子どもたちにどう伝えるか……、サイバーリテラシーの大きな課題ですね。
コンテンツとデバイス、あるいはメッセージとメディアということに関して言えば、「スマホは紙のメディアとはもちろん、パソコンともまるで違うメディアである」と書いているわけだが、実は、僕はもう一度、マーシャル・マクルーハンの「メディアはメッセージである」との警句を思い出してもらいたいと思っています。
彼によれば、同じ映画番組でも、映画館の暗い部屋の銀幕で見るのと、家庭の団欒の場のテレビで見るのと、一人部屋にこもって小さなスマホの画面で見るのとでは、受ける影響が違うということなんですね。
映画だけならともかく、すべての情報摂取がスマホで行われることの意味を考えてほしいわけです。古典小説を分厚く、古びた、硬い表紙の本で読むのと、デジタルテキストで読むのとはどこか違う、というのは、本を読んだ人は肌で感じることですよねえ。
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