< ML楽屋話 >
「座間アパートの9遺体」をめぐる事件は、学校でサイバーリテラシー教育を急ぐ必要があることを切実に物語っています。
イラストコンセプトは、「1文字にかける思い」です。今、スマホはフリック入力が主流で、慣れると1分間に300文字近くの入力が可能で、タッチタイピング(ブラインドタッチ)よりも早いんだそうです。また、昨今の若者言葉は略語が多く、「りょ(了解)」とか「ま?(まじで?)」みたいな会話で成立するんだとか。
入力文字数が向上し、かつ略語が溢れているとなると、若者はさぞかし密度の濃いコミュニケーションをしていると思いますが、全然そんなことはなく、今も昔も他愛のないやり取りみたいですね。
イラストでは、そういった、凄いのか凄くないのか分からない情報量をやり取りしている若者のスマホに、小さい書道家が何やらモノ申しています。溢れる(どうでもいい)情報に生きる若者と、一筆入魂、一文字に命をかける書道家を対比してみました。記事にあった「書く」というテーマを新旧世代でどう捉えているかという風刺です。
でも旧世代もそんなに重視していたわけではないと思います。誰しも、闇に葬りたいラブレターなんて経験あるんじゃないでしょうか?それが身内、あるいは学級(笑)で晒されるのか、全世界に晒されるのかの環境の違いのように感じます。
今は変換ですぐに候補が出てくるので漢字も書かなくなりましたね。私もPCにたよっているので、いざアナログ環境でメモを取ろうとするとなかなか漢字が出てきません。予測変換で辞書まで呼び出せるので便利になった一方、人間の退化も実感したりしています。
座間市の事件は、マスコミの対応も問題になっていました。最初に惨殺死体、その後強姦や拷問なども発覚した凄惨な殺人事件であったにも関わらず、マスコミは被害者家族の要望も無視して顔写真を公開し、個人情報も放送していました。
私が非常に興味をもち、かつ恐ろしさを感じたのは、とあるマスコミ関係者の記事です。「我々は報道の義務があるから公開する。ただし、遺族に配慮して1回だけにする」。そんなことが書いてありました。そして、その局も他局と競うように、「何」回も個人情報を出していました。メディアリテラシーとは何なんでしょうね。まさに今こそ、発信側、受信側双方に必要な「サイバー世界」のリテラシーが問われている時代だと思います。
事件をどうやったら防げたのか?情報ソースがネット中心のものに限定されたことで、選択肢が広がるというより、逆に狭まってしまったことが要因として上げられるのではないでしょうか。
行き詰って「死」を選択肢に入れるという点は、個人的には否定しません。あらゆる可能性を比較検討することは、決して悪いことではないと思うからです。ただ、ランダムにピックアップした選択肢の整理が不十分だったのではないかとも感じます。精神的に追い詰められて、ネガティブな感情になっているときには、相当難しいことであるとは充分承知の上で言うと、反対意見、ポジティブ意見の検証もすべきであったと。
もっと重要なのは「逃亡」についての吟味だったのではないしょうか。自殺という選択をしてしまう人は、責任感の強い人ですね。でも、責任ってそんなに重いものではない……そんなアドバイスをしてあげる人が必要なのかなと。死ぬくらいなら、逃げればいい……というのではなく、死ぬ方法と同じくらいに逃亡方法も吟味すべきである。そう考えます。
行きつくところ、教育の話に繋がるのではないでしょうか。サイバーリテラシーは知識として教えることなのか。生活する上での知恵なのか。誰が子どもに教えるべきなのか。家庭なのか、学校なのか。学校で教えるためには教科として認識される必要があります。教職過程に組み込まなければなりません。
教育として捉えると、あっという間に疑問点が上がります。仕組みとして取り組むには明らかに時間がかかりますよね。でも誰かが教えないと。
人にあったら挨拶をするとか、何か手伝ってもらったらお礼を言うとか、迷惑をかけたら謝るとかいったことと同じように、ネットリテラシーって特別なことではなくなっています。但し、ネットリテラシーの家庭格差は大きい。
まずできることは道徳の時間の「サイバー絵本」の読み聞かせと、「サイバーリテラシー超入門」の小冊子配布かな(^o^)。
サイバー絵本も、サイバーリテラシー超入門も、すでにサイバー燈台で公開ずみなんですよね。問い合わせはまだ来ないけれど(^o^)。
「サイバーリテラシー」はIT社会の仕組みを教えるもの、「サイバー倫理」はそこでの生き方、処世訓だといちおうは分けているけれど、両者は切っても切れない関係にあり、やはり大事なのは幼いころからの教育です。
先日の忘年会に参加していた中本浩之さんが「人間は0歳から5歳までにどう育てられるかで決まる」と言っていたけれど、江戸時代においては寺子屋が町人の子どもたちに読み書きそろばんを教え、塾が武士の子弟に漢籍を通じて儒教、道徳を教えたわけです。いまそういう基本的な教育、カリキュラムというものがありません。
たまに道徳教育が必要だと力説する人たちが、自らはきわめて非道徳的でアナクロニズムな政治家だったりするために、いよいよ真正の教育が失われていくという情けない状況です。というわけで、Gorさんの言うように、いまや「IT社会を生きるための基本素養としてのサイバーリテラシー」を若い人たちに教えていかなければいけないですね。そのためには、我々自身が塾を開くのが一番だと、最近強く思うようになりました。
Sicさんのおっしゃる「アドバイスしてあげる人」ってキーワードですよね。自殺した人にとってはそこに導かれたこともアドバイスだったのだろうし。アドバイスの善し悪しって何だろうと考えてしまいます。
教育という観点になると、確かにGorさんの仰るように、サイバーリテラシーは「人にあったら挨拶をするとか、何か手伝ってもらったらお礼を言うとか」に喩えられるほど、まさに「人が生きていく上での基本」に近い内容ですね。
しかし現実として、幼児教育や小学低学年レベルには、内容としてやや難しいのも事実。やるとすれば小学高学年以上、中学校くらいでしょうか。逆に高校まで行ってしまうと、ちょっと遅すぎる気もします。
子どもたちがIT機器に触れ合う年代も個人差があるので、「いつ教えるべきか」といった点が、一番難しいように思います。ただ、そもそも、「人にあったら挨拶をするとか、何か手伝ってもらったらお礼を言う」とかいうことは、本来、家庭内の教育、躾の問題でもあります。
だとすれば「サイバーリテラシーの教育」は、基本的に「親」や「教員」に向けたカリキュラムにしたほうが、効率が良いのでは。子どもに教える時期については、(学んだ)親が決めれば良いのですし。
塾にしても、そこに子どもたちを集めるのは、なかなか厳しいかもしれませんが、
- 子どもを持つ親
- 小中学校の教員
- 悩みを抱える中学生以上の少年少女
- 学問として学びたい高校生以上の学生
と、対象を切り分け、まずは「親」や「教員」向けにスタートしてみるというのはいかがでしょうか。カルチャースクール的な気楽さなら、それなりに集まるかもしれません(意識のある人しか集まらないのは、相変わらずの課題ですが…)
塾はなお構想段階だけれど、まずローカルな塾を立ち上げ、そこで教えながら、同時にカリキュラムを紙の冊子やネットなどで広く伝えることを考えています。これには多くの支援が必要だけれど、来年(2018年)の最重点課題にしましょう。
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