IT社会の今(第147回、2018/4号)連載12年半(第148回=最終回、2018/5号)


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12年半も続けてきた『広報』連載が148回で終わった
お疲れさまでした。2年ちょっとですが、大過なく……かどうかはさて置き、この掉尾に末席に名を連ねることが出来、光栄でした
毎回情熱をかけて描いてくれてありがとう。記事でもこの間のIT社会の進展ぶりをふり返ったけれど、問題はいよいよ深刻さを増しているねえ
いまこそサイバーリテラシーの出番ですよ
転ばぬ先の「杖」から、社会を照らす「燈台」の光となれるかな
なれますよ!
して、その心は?
優秀なライト(Light/Right)スタッフ(stuff/staff)がついています
ほんに……お後が宜しいようで

< ML楽屋話 >


Kan

 『広報』連載の打ち切りにともない、このコラム<いまIT社会で>も147、148回の合併号の今回でいったんピリオドです。


Sic

 147回のコンセプトは「ありえない邂逅」です。モチーフはルイス・キャロルのアリスシリーズで、画面の化け物はジャバウォック、少女は言わずもがなアリスです(言わずもがなの「もがな」ってなんでしょうね)。

 このアリスシリーズは、様々な映像化がされたほか、これらをモチーフにした作品も非常に多い、今も人気の児童文学ですが、原作(『鏡の国のアリス』)ではこの2人(?)は対面しません。何故ならジャバウォックは、アリスの世界での本「ジャバウォックの詩」に登場するキャラクターでアリスは本を読む……というシーンでしか接点がないからです。

 これは、本来出会うはずがない人との出会いを可能にしてしまうサイバー社会の風刺です。特に本文中のドクターキリコ事件、座間殺人事件などはWebがなかったら本来出会うことはなく、事件そのものすらあり得なかったでしょう。

 また、ジャバウォックはルイス・キャロルのかばん語(複数の語の一部をそれぞれ組み合わせてつくったポートマントー=portmanteau)ですが、作者曰く、アングロサクソン語で「ジャバ」は「熱狂的な発言」または「侃侃諤諤の議論」、「ウォック」は「子孫」、そして「ジャバウォック」は「激論の賜物」または「議論の賜物」を意味すると説明しています。一方で英文学者の高橋康也は、「わけのわからない言葉を発する声」、転じて「言語の混沌」「言語の存立を脅かす騒音」の象徴であるとしていて、私は「無責任に発した誰のものともわからない声、混沌・錯綜した言葉……文字メディアのごちゃごちゃした闇」と解釈しました。

 首が長いジャバウォックは、アリスに対して首を大きく捻じ曲げていますが、これは醜く歪んだ情報を表現しています。本来、そういった混沌(ジャバウォック)とアリス(少女)は、住む世界が違うために遭遇することはありません。サイバー世界では、ソレを可能としてしまう怖さがあります。また、アリスは傘をさしています。カラー版の背景は怪しい花が咲き乱れるバージョンです(これが第一稿です)。空に魚が泳いでいるので、傘は意味不明な世界の「せめてもの」防御策という象徴だったのですが、この背景をモノクロにすると、挿絵としてはゴチャゴチャしすぎと感じたので、雑誌に掲載したのはグリッド(格子)背景としました。

 どこまでも広がるサイバー(グリッド)世界では、いかにも雨の心配はありませんが、既にあり得ないこと(遭遇)が起きている中、アリスの行動はあながち見当違いであるとも言えません(靴は普段のものなので、備えが不足しているとも言えますが)。晴れの日の傘は、万が一の対策……「保険」に象徴されることもあるので、あり得ないことに備えたアリスなりの対応……「サイバーリテラシー」としてもいいかなと思います。

 ルイス・キャロルのかばん語は、色々な遊びを含んでいて、子供に喜ばれましたが、作家や言語学者には不評だったようですね。勝手に単語を作るという行為が、常識はずれに映ったのでしょう。それは、今までの常識に捕らわれて、柔軟に対応できなくなっている……ということでもあると思います。

 でも、かばん語ごとき(失礼)にアレコレ言っていた人たちは、現代のネット語を見たら卒倒してしまうかも知れませんね。まあ単純に、不思議の国(ワンダーランド=サイバー世界)で迷うアリスと、遭遇した(してしまった)ジャバウォック(醜く歪んだ情報の化け物)のイラストとしてもよいかな、と。


Kik

 「もがな」の話だけれど、以前、同じ疑問を感じて調べました。「もがな」は願望を表す終助詞です。なので、本来の「言わずもがな」は、現代的な「言うまでもなく」という意味ではなく、もう少し弱い「言う必要はない」「言わない方が良い」といった意味だったとか。


Kan

 最近、父の蔵書から引き取った(後述)小学館の『大日本国語辞典』を引いてみたら、「もがな」は「終助詞『もが』『な』の重なったもの。上代の『もがも』に代わって中古以後に用いられた。願望を表す」とあります。古典的な意味では、「世の中は常にもがもな渚こぐあまの小舟の綱手かなしも」(源実朝)、「しづやしづしづのをだまきくり返し昔を今になすよしもがな」(静御前)なんてあるけれど、「言わずもがな」は、「言わでも」→「言うまでもなく」というふうに使われるようになったみたいですね。ちなみに同辞典の別巻(「言う」の項)には「言わずもがな」という項目もあり、「わかりきっていて今さら言う必要のないこと」との説明があり、石河啄木『天鵞絨』から「お八重はいはずもがな、お定さへも此時は妙に淋しく名残惜しくなって」という文が紹介されています。


Sic

 識者にとっては言わずもがななことなんでしょうが、丁寧に説明していただいて感謝しているのは言わずもがな。最上もがが電波Incだったことも言わずもがな、モボモガがモダンボーイズ&ガールズの略であることも言わずもがな、モモンガはリスの仲間ということも言わずもがなですね。何だか、もががゲシュタルト崩壊してきました。もがもが。
   五月雨を集めてはやし最上川もがな。


Kik

 記事にあるフェイスブックのニュースは、起こるべくして起きた気がしますね。巨大メディア・プラットホームが力を持ちすぎて(ネット自体がそういう構造なので、ある意味仕方ないのですが)、多くの人にとって、彼らのサービスは、もはや一種の公共的社会インフラになっています。しかし、その実態は特定企業によって提供されている商用情報サービス(製品)です(言わずもがな)。

 もはや手放せないほど便利な社会・生活のインフラでありながら、公共物(公的な組織による運営)ではありません。フェイスブックやTwitterは、特定企業の「製品」である以上、彼らのモノ(資産)なんです。その現実を思う度、驚嘆するんですが。

 もちろん、公的な組織(たとえば国家)が運営しているとすれば、それはそれで警戒しなければなりません。とはいえ、サイバー空間に収集・蓄積される個人データを、企業が自由に扱うことに対して、公的な規制は必要かもしれない、と考えるときがあります。商用サービスであっても、政府にデータを保護するよう求める流れは、あってしかるべきです。まあ、肝心の政府が一番信用できないという不幸もありますが……。

 正直、一朝一夕の解決は難しいだろうと思います。記事にあるように、「技術の発達スピードは、我々がそれを理解し、コントロールしたり影響を弱めたりする能力の向上を上回って」いるからです。もはや、生身の人間の限界は、とうに超えています。AIもそうですが、この先に「起き得る」ことは、どんな人間の予測をも超えていくことでしょう。そんな中で、何が出来るのか。正直、途方に暮れますが、一人でも多くのユーザーがサイバーリテラシーを身につけ、「何が起こり得るか」ということを考え続け、広く啓蒙し続けるしかないのかもしれませんね。


Sic

 Kikさんのいうように一企業の資産がインフラ化してしまった場合に、その企業が単独で公共性を保つというのは事実上不可能でしょうね。やはり企業ではなく、映倫とかCEROとか第三者「機関」みたいなものが必要なのかなと感じます。

 とはいえ、審査対象がフェイクかどうかというのは判断が難しいし、影響が出た後の対応となってしまうので、保険会社の格付けみたいな感じでSNS内の正当性・安全性を担保する……みたいなものが現実的でしょうかね?。

 SNS運営会社の共同出資で相互監視も兼ねると、SNSのビジネスモデルとしてもよさそうに思うんですが、どうでしょう?


Kik

  Sicさんの「SNS運営会社の共同出資で相互監視も兼ねる」というのは、面白いアイデアですね。

 また、情報が「フェイクかどうかというのは判断が難しい」という問題に関しては、今後ブロックチェーン技術が使われていくと予想しています。実際、メディアの中でもそうした話は出ていますし(どこまで実現するかは分かりませんが)。まあ、ユーザー側の成熟も必要ですし、そもそもの一次情報がファクトなのか、リアルタイムに応答できるのかという問題もありますが。
参考:https://www.nikkei.com/article/DGXMZO14699020Q7A330C1000000/
   https://ideasforgood.jp/2017/12/19/ananas/
   http://kuronotori.blog.jp/archives/1407422.html

 少なくとも、新聞ニュースに関しては、どこの新聞社が一次情報を出したのか、どこで誰が改変したのか、という情報が辿れるのは重要かと。新聞社も「誤報」は少なくないですけど、それでも記者→デスク→整理→校閲→印刷と大勢の目を通すので、個人ブロガーらが出す情報と比べれば、何倍もチェックされて世に出ます。事実をどの方向から見るかによって論調は多様になりますが、事実そのものは(比較的)正確である、ということに価値を作れないかなあと、個人的にも考え中です。

 て、記事の話は、それ以上に、ユーザーの個人情報を、ユーザーが意図しない形で利用された点が問題でしたね。個人情報も、それらを集積したビッグデータも、いまは一民間企業の「資産」になっている状況をどうするか。

 非常に難しいのは、ネットのサービスは、個人情報を開示すればするほど便利になる点ですよね。どんな端末でも、ディスプレイはユーザー個人とって、最も使いやすい環境を表示してくれる。

 自宅と勤務先の天気を表示してくれ、通勤に使う交通機関の運行状況も知らせてくれる。ワンクリックで欲しいモノが買えて、関心あるテーマのニュースが常時流れる。メールやコミニュケーションツールには、どの端末からでも必要な連絡先がすぐ出てくる。朝は起こしてくれるし、スケジュール管理はしてくれるし、友人の誕生日を教えてくれて、プレゼントの候補も表示してくれる。

 個人情報を出さなかったり、ログアウトしていたりしたら、これらのサービスは受けられなくなる。一度このサービスに慣れてしまうと、そこから逃れるのは難しいですよ、やっぱり。そうした、謂わば「餌」の代わりに、我々は何を失っているのか、あるいはどんな危険に身をさらしているのか。考え出すと、キリがないですねえ。


Kan

 かつて、それなりに育てていくことが大切だと思われていた公共空間(公共圏などとも呼ばれた)が大手メディア・プラットホームという私的空間に取って代わられているわけですね。

 僕は2000年に刊行した『インターネット術語集』の最後でこの公共圏にふれ、「ジャーナリストは『公共圏』の耕作者であるべきだ」という花田達朗氏の見解を紹介したりしているのだけれど、隔世の感がありますねえ。

 僕の意見は、この私的空間に公共的な規制を加える必要があるということなんだが、さて、どういう可能性があるのか……。
 ところで、最終回ではこの間のIT社会の変遷を、サイバー燈台掲載の<サイバー空間と現実世界の交流史>を通してふり返りました。


Sic

 148回のコンセプトは、「集大成」です。イラストの12は記事連載の年月で、その文字の中にあるのは、今までの納品物、プロトタイプ、没案など(私が描いた)計38枚です。

 画像編集ツールを使えば、もうちょっとササっと出来たかも知れませんが、全部手作業でパッチワークしました。一枚一枚に思い入れのあるイラストだったので、作成当時を思い出しながら、貼っていきました。

 当時は、完成のイメージはあるものの、手順をどうしたらいいか悩んだり、結局いい方法が思いつかずに、思いっきりアナログ手法に頼ったり…… グレースケール加工で絵が潰れてしまい、結局丸々描き直しをしたりもしました。今ではよい思い出です。アドビのイラレも持っていたのですが、作成工程もネタになると思い、ベクター画像をWordで作ったり、お世辞にも効率的な生産工程とは言い難い、悪あがきみたいなことばかりでしたね。おかげで「絵描き」ではなく、画像編集のスキルばかりがあがったような気がします(^o^)。

 サイバー燈台のブログには、過去連載のタイトルが公開されていますが、ケータイ小説やドローン、ウェアラブル端末なんかも扱っており、12年という長期連載ならではの、歴史年表みたいな史料価値があると思います。例えば、年表グラフにリアル(現実)世界とサイバー(IT)世界の出来事を平行に書いて、そのときの連載記事をリンクさせる……というようなコンテンツも面白そうですね。

 記事では、ITが絡んだ犯罪、事件も扱っているので、そのITが発足したときの光と闇みたいな対比が作れそうです。便利になった反面、発生するリスクというのを図式化するコンテンツは、今までありそうでなかったように思います。


Kik 『広報』の原稿最終回、おつかれさまでした。12年半という期間そのものも驚異的ですが、その内容も常に時代の最先端を追い続けていらして、そのご苦労が偲ばれると共に、やはり矢野先生でなければ出来なかったことだと、改めて感銘を覚えました。

 Sicさんも、3年とは言え毎回興味深いイラストをありがとうございました。あのイラストがあったことで、ここでの話題も広がりましたし、大きな力だったと思います。

 最終回原稿の最後に「いまこそサイバーリテラシー」とありました。先生が拓いてくださった道ですが、連載終了がただ残念な出来事として記憶されるのでは意味がありません。この一つの節目が、サイバーリテラシー普及にとっても大きな転換期だったと、後に振り返ることが出来るよう、メンバー各位も頑張っていきましょう。


Kan サイバー燈台として立ち止まってしまうのは残念ですね。<いまIT社会で>の看板はおろさずに、後続番組を考えましょう。

以下は、連休を利用して帰省したときの雑談です。

 <1>友人に紹介してもらったIT技術者との懇談が興味深かったです。彼は「すべては技術が解決していく、いまは過渡期だから問題が噴出しているだけ」と技術への信頼が強烈で、サイバーリテラシーは旗色が悪かったです。「ダグラス・アダムスの法則」を紹介してもらい、僕は知らなかったのだけれど、ネット上では〝常識〟みたいですね。

 その法則は「人は、自分が生まれた時に既に存在したテクノロジーを、自然な世界の一部と感じる。15歳から35歳の間に発明されたテクノロジーは、新しくエキサイティングなものと感じられる。35歳以降になって発明されたテクノロジーは、自然に反するものと感じられる」というもので、年代区分はともかく、マクルーハン的警句としてはたいへん興味深く思いました。僕も148回の原稿で、インターネットが技術から所与の環境になったことに言及しているわけで……。

 ユーチューブで育った若者は本や新聞は愚か、テレビさえ見ないわけで、しかもそういう世代がどんどん社会の中心を担っていくわけですね。技術がもたらす社会的影響をこそこちらは問題にしているのだけれど、「彼らにはサイバーリテラシーは届きませんよ」と、大きな弱点を突かれた思いでした。

 <2>母が亡くなったので、亡父の放置したままになっている蔵書を整理しようと、古本屋に来てもらい、値踏みしてもらったのだけれど、提示された買取価格は予想をはるかに下回るものでした。

 父の専門は国文学と言うより国語学だったけれど、専門書ばかりでなく、日本文化全体に及ぶ本をずいぶんため込んでいました。専用書庫のほかに応接間、居間、廊下、2階の至る所に本棚が並び、『日本古典文学大系』(岩波、全約100巻)、『日本国語大辞典』(小学館、約20巻)、『日本絵巻大成』(中央公論社、26+別巻、1冊9800円)、『日本古寺美術全集』(集英社、25巻)『大和古寺大観』(岩波、全5巻、1冊22000円)、『明治文学全集』(筑摩書房、全97巻)などのほか、現代書道全書、書道全集、漱石全集、鴎外全集、本居宣長全集、荻生徂徠全集、荷田春満全集、高見順日記、世界美術全集、棟方志功全集、謡曲大観などが全巻揃って、しかも新品のままで大切に保存されています。そのほか『文楽の人形』(65000円)、『能』(35000円)といった豪華本(1部は限定版)もゴロゴロしています。

 さて、その本棚を見終わった古書店主は「あと10年早ければ良かったですねえ。今は図書館も古書を引き取りません。いくら豪華本でもそれを収める書庫、場所がある家は少ない。だから誰も買いません」と言いました。「とりあえず全部引き取ってもらえるとして、いくらぐらいになりますか」と聞いたら、彼は気の毒そうな顔ながら「7万円」と言いました。たったの7万円です。「いまは仏像なんかの写真もインターネットで見られますし、全集なら文庫本の方が値はいいですよ」とも言っていました。

 大体そんなもんだとは思っていたけれど、7万円にはびっくり。僕はかねてから目をつけていた『日本古典文学大系』と『日本国語大辞典』を引き取りました(後に知人にこのことを話したら、「着物が同じ状況で、豪華なほど引き取り手がなく、二束三文になっている」とのことでした)。


Sic 本やテレビを見ない世代にサイバーリテラシーは届かないというIT技術者の言葉、私も似た思いをずっと抱いておりました。どんなによい薬も、飲まなければ効果はありません。ですので、まずは見てもらう。面白さを餌に呼び込む。サイバーリテラシーのエンターテイメント性というのは、私がずっと考えていたテーマです。

 とりあえず、気軽に読めて、それなりに面白くて、で、ちょっとためになる……、そんなコンテンツを作りたいと思います。見て(聞いて)もらえなかったら意味ないですからね。


Kik ダグラス・アダムスの法則って、真面目な論じゃないんじゃないですか。彼はSF『銀河ヒッチハイク・ガイド』の作者です。ちなみに、グーグルで「生命、宇宙、そして万物についての答え」と検索してみてください。検索結果に「42」と表示されます。これは上記SFの中で、スーパーコンピュータが弾き出した答えとして、世界的に有名なジョークで、この検索結果もグーグル技術者のシャレとして有名です。

 個人的には「ダグラス・アダムスの法則」は「マーフィーの法則」レベルと感じています。僕が生まれたとき、既に原爆(核開発技術)がありましたが、核兵器やその技術を「自然な世界の一部」とは感じたことはありまません(むしろその逆です)。一方で、スマホの登場は35歳過ぎですが、特に「自然に反する」とも思いませんし……。

 我々の懸念が100年後、技術によって解決されるとしたら、それは(当然ながら)そうした技術が必要とされたからです。すなわち、そこに「問題」があるから必要とされたわけで、その問題を(現時点で)無視していたら、その技術が必要とされなくなるという矛盾が生じます。実際には、我々の懸念が社会に広まってこそ、解決のための技術が開発されるので、サイバーリテラシーが普及すればするほど、その開発時期も早くなると考えられますね。


Kan ダグラス・アダムスが安田君の守備範囲に入っていたのはさすがでもあり、またほっともしました。我が陣営の実力を示すというか(^o^)。アダムスの『銀河ヒッチハイク・ガイド』を読んでみたけれど、どこがおもしろいのかさっぱりわからなかった。この法則は「没後に未完の原稿などを集めて出版された Salmon of Doubt に収録されている」(ウィキペディア)らしい。

 またこれが話題になったのは、ツイッターの発言からのようですねえ。法則の適否もさることながら、この言説の流布のルートが興味深い。素朴に言えば、ツイッターの威力のすごさであり、また同時にこの法則が正確な原典照合もなく一部に流布している事実ですね。

 いまの大半の若者たちは上層に上りたいといった考えもしていない(受験競争に励んでいる層はあるけれど)。いずれ社会の矛盾は技術が解決してくれるという技術信仰が強く、既存の社会システムや政治、大人たちの考え方に韜晦を決めているところがありそうですね。そしてこの層がいよいよ肥大化するけれど、一方で高齢化も進むわけですね。そういうふうに考えると、ダグラス・アダムスの法則は馬鹿にできない力をもって僕に迫ってきます。うまいところを突いているな、というか、サイバーリテラシーも褌を締め直さないといけないな、とか。


Kik 「言説の流布のルートが興味深い」に関して。この問題に触れると長くなりますが(^o^)、ただいま現在のサイバーリテラシー的課題の根本はそこにありますね。

 と思って、時間を見つけてはちょこちょこ書き足していたのですが、数千字書いて辿り着いた結論が「サイバー空間には制約がない」という「三原則の一」でした。結局、「この言説の流布のルート」も、本来(?昔?)なら、仲間内的な世界から出ることのない話が、制約なしに拡散し続けた結果ですね。


Kan サイバーリテラシー第1原則の再発見、おめでとう(^o^)。なかなか鋭いですねえ。井戸端会議の拡散、というか、井の中の蛙の量産というか、そういうことですね。制約がないからこそ、新たなタコつぼ化が進むというかね。

 思うのは、アマゾン躍進のころに盛んに言われた「ロングテール」のことです。たとえば、アメリカにはインド人が何百万人か住んでいるわけだけれど、インド映画がヒットすることは、というより上映されることはほとんどありませんでした。映画館の観客は狭い地域の人々だから、そこに住むインド人はほとんど無視される。ところが、地域的な制約のないネットだと数百万人の顧客が浮き出てくると。

 新しいタコつぼが生まれて、それはそれでかなりの人数を抱えた小宇宙になる。それなりに自足した生活も送れ、社会を束ねるものがなくなってくる。ネットの全貌を知ることはいよいよ難しくなってきた気がします。

 そして現実世界においても、たとえば安倍政権は日本の政治の中心にいながら、どこかの井戸端会議の連中と同じような小さな宇宙に閉じこもり、しかも現実には強大な権力を行使しているわけですねえ。

 昨日、連載最終回が載った『広報』が届き、いささか感慨を覚えました。サイバー燈台では、プロジェクト欄の<客員コーナー>が少しずつ充実しています。まず名和小太郎さんの「拘忌高齢者のつぶやき」がスタートしました。名和さんはIT社会の理論的リーダーとして知られた存在ですが、すでに80代半ば。体調面では苦労しておられるようですが、精神的にはいよいよ旺盛。持ち前の軽妙な筆致で、「後期高齢者の、後期高齢者による、後期高齢者のための読み物」に挑戦してくれています。

 もう一つ、すでに第1回はスタートしている森治郎氏の「日本国憲法の今」の第2回「安倍首相主導改憲案の遮二無二とご都合主義」をアップしました。これは他の3コラムとは違い、ジャーナリズム性の強い記事ですが、国会でも改憲論議が本格化しそうな時期をとらえて、問題の核心をわかりやすく解説していただくつもりです。サイバー燈台を適宜刊オンライン総合誌にしたいという願いからの挑戦ですが、母屋のサイバーリテラシーのアップが停滞するのは避けたいところです。


Kik いま受講中のサイバー大学(教養)の「社会学入門」で、「インターネットの炎上」について語られていました。ではどうすれば良いのか…というサイバーリテラシーが求める結論は(当然ながら)提示されませんでしたが、「なぜそうしたことが起きるのか」という部分を、社会学的にみた講義自体は興味深かったです(まあ、大半は既知の話でしたが、書物だけでなくこうして直接教えて頂けると「勉強した感」があります(^o^)。

 で、ふと思ったのですが、サイバーリテラシーの集まりでも、サイト構築といった実務的な話もそろそろ一段落したので、「勉強会」というか、それぞれがその期間に学んできたことや、気づいたこと、研究結果などを、互いに教え合う時間があっても良いかもしれませんね。


Kan たしかにサイバーリテラシー研究所も新しい段階に踏み出す時期ですね。


ご意見をお待ちしています