I サイバー空間には制約がない
最近、「デジタル万引き」が話題になった。本屋の店先で雑誌のレストラン特集などを見て、気に入った店のデータ(店名、電話番号、地図)をカメラ付きケータイで撮影してしまう行為のことで、これだと雑誌が売れない、万引きされたのと同じだと、日本雑誌協会などが防止キャンペーンに乗り出す騒ぎになった。
これまでも雑誌や本を立ち読みする行為はあったし、店頭でおもしろい本を見つけても、そこでは買わず、タイトルや出版社を覚えておいて、自宅近くの本屋に注文することはふつうに行なわれていた。気に入ったレストランの店名や電話番号を空で覚えて、店を出たらすぐメモするなどということもあったはずだ。
自分の記憶に頼っているぶんには大目に見られ、行為の立証が難しいために摘発もされなかったそれらの行為とデジタル万引きが違うのは、それが情報の完璧なコピーであり、しかも仲間にも簡単に伝えられることである。その結果、目に見えて雑誌が売れなくなり、本や雑誌そのものが盗まれる万引きと、本質的に変わらない。だから「デジタル万引き」と呼ぶわけである。
しかし、記憶だと許される(大目に見られる)ことが、なぜデジタルカメラだといけないのか。カメラは記憶の延長ではないのか、という素朴な疑問が出されるかもしれない。ここにデジタル情報の、ひいてはデジタル情報によって成立するサイバー空間の特異な性格がある。それを一言でいえば、「サイバー空間には制約がない」ということである。
現実世界には、空間的な、時間的な制約がある。空気が全地球を覆い、重力もかかっている。それらの制約が、実は、一定の自然秩序を作り出している。それは一種のバランスであり、行動の歯止めでもあった。
かつて世界は、峻厳な山、広大な海、長い河川などの自然環境によって隔てられ、一地方で発生した疾病や事件も、遠く離れた地域には伝わらなかった。現実の都市において、歓楽街はやはり公園、川、道路などで文教地区や住宅街と隔てられ、それなりに独立した一角を構成していた。まっ昼間から歓楽街に足を向けるのはどうか、とやりにくいからやらないことが行為を規制し、それが一定の秩序を維持していたとも言えよう。
デジタル万引きの場合、これまでのアナログ(銀塩)カメラなら、外形も大きいし、撮影後にフィルムを現像する手間もかかる。だから、よほどの人でなければ、本屋の店頭で雑誌や書籍の一部を撮影するなどということはしなかった。デジタル万引きは、まさに道具がケータイという小型で安価なデジタル機器であること、操作が簡単なこと、性能がいいこと、その場で写真が見られること、そのまま仲間に電送できることなど、デジタルカメラだからこそ可能なのであり、だから気軽に行なわれて、しかも皮肉なことに、その被害は大きい。
出会い系サイトをめぐる事件やネット集団自殺にからめて言えば、これまで人びとがつきあう範囲は、おおまかではあるが、職業や地域、年齢などによって区切られていた。どちらかというと、より閉鎖的な集団の中で生活し、だから高裁判事が中学生とつきあうとか、住む場所が各地に散らばった若者たちが一箇所に集まって、同時に自殺するなどということはふつうには起こらなかった。
サイバースペースは、技術によってつくられた空間であり、そこには、意図的に仕込まない限り、原則として制約がない。
空間的にも、時間的にも、シームレスにつながっている。裁判所の隣が歓楽街みたいな環境で、世界中の人びととつきあえる。またコピーはオリジナルとうりふたつで、繰り返すうちに性能が劣化することもない。遠くに伝わるうちに減衰することもなければ、磨耗して消えてしまうこともない。
現実世界がもっている「あいまいさ」、「不徹底」、「自然減衰」、「物理的障害」、「自ずからなるバランス」、「自然秩序」といったものがサイバー空間にはない。そして、このデジタル情報の特質が、情報の徹底的な規制、コントロールをも可能にする。これが災いの種であり、現代社会のさまざまな問題を引き起こしているのである。
II サイバー空間は忘れない
現実世界とサイバー空間の違いを、記憶、あるいは記録に対する私たちの努力という面から考えると、その方向(ベクトル)が180度反対であることに気づく。
たとえば日常、私たちが発言したことは、その場の空気を振動させ、相手の耳に届くだけで、ほうっておけば、すぐ忘れられる。しかも、回りにいるごくわずかな人にしか届かない。それを記憶するためには、何度も反復するなり、メモをとるなり、録音するなり、ビデオに収めるなり、なんらかの努力を払わなければならない。古くは、イエスの福音も、ソクラテスの対話も、釈迦の説法も、弟子たちの涙ぐましい努力によって、いまに伝えられているわけである。
そういった努力の一環として、さまざまな出来事を記録し、多くの人に伝えるためのメディアが発達したが、アナログの時代では、新聞は1日たてばせいぜい包装紙代わりに使われるだけで、ラジオやテレビは聞きっぱなしが普通だった。だからこそ私たちは「ひとのうわさも七十五日」、「旅の恥は掻き捨て」などと、安心していられたわけでもある。換言すれば、情報を記録し、伝達し、保存するためには大いなる努力が必要だった、ということになる。
サイバー空間だと、これがまるで逆になる。
いったんデジタル化された情報は、ほぼ永久に消えない。しかも瞬時に遠くまで伝えられる。サイバー空間上の自分の発言を削除しても、その情報はすでにコピーされ、どこかに保存されているだろうから、並大抵の努力では削除できない。いや完全に消し去ることは、すでに不可能だといっていい。
すなわちサイバー空間では、情報を記憶、あるいは記録することにはほとんど努力を必要とせず、逆にそれを削除するためにこそ大いなる努力が要請される(もちろんデジタル情報には、パソコンの電源が切れて作成中のデータがあっという間に消えてしまったり、ハードディスクがクラッシュして、長年蓄積してきたテキストや映像をなくしてしまったりする「悲劇」も起こるが、こういったもろさについてはここではふれない)。
だから情報の記録という点で考えれば、現実世界とサイバー空間では、フィルムのポジとネガ、印刷技術の凸版と凹版のように、努力の方向が逆になる。図式的に言えば、「現実世界のデフォルト(初期設定)=<忘れる>、サイバー空間のデフォルト=<記憶・記録する>」である。
もちろんつい最近まで、情報を最初にデジタル化する作業には、それなりの努力が必要だった。年賀状の宛名をプリントアウトするためには、それらの住所を一つひとつパソコンに打ち込んでデータベースを作っていたわけである。それがコンピュータのネットワーク化で、いったん入力したデータをコピーしあったり、多くの人が共同で入力作業をしたりできるようになった。
買い物をするとき、銀行にお金を預けるとき、運転免許や納税など行政事務にかかわるとき、私たちは自分のデータをネットワークにせっせと登録し、膨大な個人情報データベースを作るのに貢献してきた。パソコンやケータイを通じて送る電子メールも、「削除」という努力がどこかで払われない限り、永久にネットワークに保存される。
その意味では、コンピュータのネットワーク化は、データ入力を自動化する歴史でもあった。そして、いま喧伝されているユビキタス・コンピューティング時代というのは、身の回りのいたるところに配されたコンピュータが、私たちの情報を自動的に収集し、デジタル化し、サイバー空間に蓄積することをめざしているといっていいだろう。
現代のプライバシー問題は、まさにこのサイバー空間の特質にこそ根ざしている。だから、現実世界とサイバー空間の異なる原理を理解し、その上でデジタル技術がもたらす諸問題を解決していく視点が必要なのである。
Ⅲ サイバー空間は「個」をあぶりだす
デジタル情報の強みは、膨大なテキストの中から求めるキーワードを力ずくで見つけ出す検索機能である。こうして取り出された個々の言葉は、もとのテキスト構造(文脈)からいったん切り離され、あらためて再構成されるとも言えよう。この「解体と再構成」こそ、デジタル情報最大の特質である。
たとえば本は、著者が構想した筋道にそって、著者と同じように思索しながら、あるいは書かれた出来事をなぞりながら直線的(シーケンシャル)に読む。これに対してオンラインなどのデジタルテキストは、文中の単語をマウスでクリックすると、それらの人物や出来事、関連情報などにジャンプできるから(リンク機能)、読み手は自分の興味にあわせて、さまざまなテキストをランダムに読むことができる(これによって読むことの自由度は高まるが、読み手の能力によっては、単なる知識の拾い集めに終わり、思索が深まる可能性は低い。新しいツールの使い方次第でもあるが、そこでは個人の資質が重要にもなる)。
この単語とテキストの関係は、そのまま個人と組織の関係にあてはまる。私たちは現実世界における地域や組織からいったん解き放たれ、あらためてサイバー空間によってふるいにかけられているのである。
たとえばケータイは、家庭や学校、企業といった空間的制約を離れたコミュニケーションを可能にしたが、それだけ既存組織の連帯感は稀薄になる。ケータイがかえって家族のコミュニケーションを促進することはあるが、それは意図してそう心がけているからである。肝心なのは、そこでは「個」が前面に出ざるを得ない事実である。サイバー空間は「個」をあぶりだす、とも言えよう。
前面に出た「個」は、サイバー空間によって翻弄され、操作され、管理される危険があるが、逆にサイバー空間をうまく利用して、自律的なネットワークを築き上げることも可能である。これもまた一人ひとりの裁量に委ねられる部分が多い。
欧米を中心とした近代化の歴史そのものが、「個」解放の過程だった。私たちは自然の秩序と一体化し、そこに安定を見出していた時代から抜け出し、一人ひとりの「個」を確立し、自然を対象化、さらにはそれを支配して、産業を発達させてきた。だから、現在進んでいる事態は、近代が推し進めてきた「個」解放の新たな、しかもよりドラスティックな展開と言えるかもしれない。近代化の「個」の解放を「氷が水になる」変化と譬えれば、現代のそれは「水が水蒸気になる」変化と言ってもいいだろう。
カナダの哲学者、チャールズ・テイラーは、「近代の不安ということばで意味しているのは、……、文明が『発展してゆく』のとは裏腹に、現代の文化と社会がある種の喪失として、もしくは没落として経験されていることです。……。その場合はおうおうにして、近代とは17世紀に始まってからずっと没落の時代であったとみなされます」と書いている。この自由であることの不安もまた、これからの私たちに倍化して襲いかかることになるだろう。
既存の秩序から解放された個人が、一方でサイバー空間の網に捕捉されながら、他方で自律的なネットワークを築き上げていけるかどうかは、まさに一人ひとりに課せられた大いなる試練である。しかもいまだに欧米的な「個」を確立できていないと言われる私たち日本人にとって、それはより切実なものになると予想される。これからの私たちは、好むと好まざるとにかかわらず、「個」としての生き方を考えざるを得ないと言えよう。<矢野直明『サイバー生活手帖』(日本評論社、2005)から>