新サイバー閑話(56)<平成とITと私>⑤

ムック『ASAHIパソコン・シリーズ』の刊行㊦

・『おもいっきりPC-98』で好スタート

 ムックを出すと決まったとき、私たちがまずPC-98を取り上げようとしたのは、当時、パソコンと言えば、日本電気(NEC)のPC-98(キュウハチ)と相場が決まっていたからである。これからはパーソナル・コンピュータの時代だと、これまで大型コンピュータを作っていた日本の電機メーカーは、日本電気も富士通も東芝も日立もシャープも、そろってパソコンを出し始めたが、その中でPC-98は圧倒的シェアを誇っていた。その代表的機種がPC-9801シリーズだった。「パソコンと言えば98」の時代があったのである。

 ちなみに国立科学博物館は2016年、科学技術(産業技術を含む)の発達に貢献した「未来技術遺産(重要科学技術史資料)」として9801を選んでいる。「日本で最も普及した16ビットパソコン」というのが選考理由である。

 コンピュータの頭脳部分であるCPU(中央演算処理装置)が16ビットで、ディスプレイは活字しか映し出せなかったし、もちろんマウスもなかった。それでもパーソナル・コンピュータがホビーマシンやビジネスツールから誰もが使える文房具へと変遷しつつある節目に登場、同時にその趨勢を大きくリードした名機だった。98は他社機種に対してサードパーティから提供されたソフトの豊富さで群を抜き、国民的機種としての地位を築いた。

 PC-9801シリーズは1983年10月に発売され、当初は29万8000円だった。メディア(記憶装置)は8インチのフロッピーディスクでハードディスクは内蔵されていなかった。85年のVMシリーズが普及機として有名で、ジャストシステムの日本語ワープロ、一太郎はこのころに出ている。86年5月に発売されたUV2からディスクドライブが5インチになった。

 私たちはこのVM2とUV2の2機種を購入して作業を始めた。まだパソコンが文章を書いたり編集したりする道具だとの認識が会社になく、会計用の「事務合理化ツール」という名目で予算請求したのが懐かしい。98シリーズが累計販売台数100万台に達したのは87年3月、まさにムック編集中の出来事だった(写真は最初のPC-9801。未来技術遺産選定時の資料から。

群小メーカーのソフトが妍を競う

 ムックおよびその後の雑誌『ASAHIパソコン』のコンセプトは「これからはだれもが鉛筆や万年筆のような文豪具としてパソコンを使うようになる。そのやさしい使いこなしガイドブック」というもので、ムックにもたくさんの実用情報を詰め込んだ。

 目次には「フレッシュマンもOLもエグゼクティブも今日からPCライフ」という巻頭カラー、98の先駆的利用者を訪ねた「98の現場」、当時のOS(基本ソフトだった)MS-DOS(エムエスドス)のガイド「MS-DOSこれで十分」などが並んでいるが、力を入れたのがアプリケーション・ソフトのガイド、「こんなときこのソフト 失敗しないソフト選び」だった。これは三浦君がフリーライターを動員しつつ、実際にそのソフトを使ってみて作り上げた苦労の作で、この実用情報の徹底紹介はその後の『ASAHIパソコン』の基本的な手法となった。

 当時はCD-ROMはまだ普及しておらず、ワープロ、表計算、データベースなどのソフトがそれぞれ独立して1MB(メガバイト)のフロッピーディスク(以下FD)に収納して市販されており、高価なものになると、FD何枚組かになっていた。

 そのとき扱ったソフトのうちワープロ、表計算、データベースのみ表示したが(ソフト、販売会社、価格の順)、個別にソフトの本数をあげると、ワープロ16、表計算5、データベース10 、グラフィック8、通信7、エディターを初めとするユーティリティ11など、全部で約60本になる。これらのソフトを初心者、中級者、上級者、個人向け、オフィス向け、スペシャリスト向けなどのラベルとともに紹介した。

 ほかにもハードウェアとしてメモリー拡張用のRAMディスク、外付けのハードディスク、通信用モデム、ディスプレイ、プリンタ(ドットプリンタやインクジェットが主流だったが、132万円のレーザープリンタも)なども細かく紹介しているから、便利な98ハンドブックになった。

 いまのスマートフォン・ユーザーには何の感慨もないだろうが、当時を知る人にとっては懐かしい名前ではないだろうか。ソフトメーカーは、ジャストシステム、アスキー、大塚商会、エー・アイ・ソフト、管理工学研究所、ダイナウェア、日本マイコン販売、ビー・エス・シー、ロータス ディベロップメント、マイクロソフト、ハドソンなど、これもなつかしい名前が並ぶ。ソフトウェアの世界はまだ寡占が出現せず、小さな会社が特色あるソフトを工夫して出していたのである。基本的にはFDに収容して用途別に市販され、ユーザーもそれらのソフトをディスクに差し替えて使うというまことに牧歌的な時代だった(ちなみに2022年現在のスマートフォンiPhoneの容量は64㎇から1TBまで。1TBは約1000㎇、1㎇は約1000MB。半導体の集積度に関する「ムーアの法則」の驚くべき結果である)。『PC-98』は、ムックとしては異例とも言える8万8000部を刷り、ほどなく増刷した。

 大型コンピュータの雄、IBMがパソコンに進出したのは1981年で、そのときの基本ソフト(OS)の開発を依頼されたビル・ゲイツがMS-DOSでその後のマイクロソフト隆盛の基礎を作ったのは有名である。IBMパソコンとの互換機はDOSVマシンと呼ばれ、次第に市場シェアを握ることになり、NEC、富士通、シャープなどが競い合っていた日本オリジナルのパソコンはグローバル化の波に取り残されていく。デザインの世界などで早くから人気のあったアップルのマック(マッキントッシュ)は、絵も活字と同じように扱えるビットマップディスプレイ、画面上のアイコン、マウスなどの体裁も整い、日本でもアート系の人びとに人気があったが、DOSVマシンもマイクロソフトが1995年にウィンドウズ95を発売するにともない、ユーザーにやさしいインターフェースの時代が花開く(前回ふれた小田嶋君が愛用していたマックSEは当時の人気機種だった)。

・ムック編集作業の舞台裏

 ムック製作は私たち2人だけの作業だったから、筆者から始まり、レイアウター、校閲、カメラマン、イラストレーター、デザイナーに至るまで、すべての人材を社外に頼ることになった。『PC-98』の巻末に「編集に協力してくださった主な方々」として15人の名を上げているが、当時『初めてのパソコン』という本を書いて売り出し中だったライター、山田祥平さんが「編集協力」として名を連ねている。彼にいろんなライターを紹介してもらったのが、私たちのスタートだったわけである(彼にはMS-DOSの解説も書いてもらっている)。全体のアートディレクションをパワーハウスの熊沢正人さんに頼んだが、彼には引き続き『ASAHIパソコン』を引き受けていただいた。『アサヒグラフ』以来の岡田明彦カメラマンには、人物ものからパソコンのキーボードの精密写真など何でもござれの活躍をお願いした。

 パソコン誌を作るのだから、雑誌づくりにパソコンを最大限に利用したいと、ライターの入稿から印刷会社への出稿まで、パソコン通信を使ってすべてを電子化しようとしたが、これは、実に便利でもあり、大変でもあった。

 当時はまだ紙に書いた原稿をレイアウト用紙とともに印刷会社に出稿、それを活字に組んでゲラをつくり、そこに筆者が朱を入れるというのが普通の雑誌作りだった。電子出稿となると、ライターの原稿を直すのに、紙に印字したハードコピーと電子ファイルの両方を直さなくてはならないし、印刷会社への通信での出稿は、過度期だけにいろいろ予期せぬトラブルがあった。夜中の午前2時ごろ、パソコンとパソコンをつないで筆者から原稿を受け取り、「深夜でも原稿が受け取られるのは便利だ」などと言いながら、その原稿を翌日午後4時までにレイアウトして印刷会社に出稿するような、非人間的な生活を送っていたのである。

 出版局プロジェクト室の他の人びとは夕方になるとほとんど引き上げてしまうので、広い部屋を自由に使えるのはありがたかった。夕方や夜になるとフリーライターが打ち合わせや入稿のためにやってきた。私たちは連日、ライターやカメラマンとのやり取りに忙しく、だいたい午前5時ごろ、掃除のおばさんがやってくるころに簡易ベッドにもぐり込み、午前10時にはもう席についていた(三浦君は、朝は私より遅く寝て、その午前中、私より早く起きる大車輪の働きぶりだったが、「この職場は労働基準法はおろか、日本国憲法の保護下にもない」と言うのが口癖だった。私は三浦君に何かことがあったら、ムック制作を諦めようと何度も思ったものである)。

 ムックの第2号は『おもいっきりネットワーキング』、ようやく盛んになりつつあったパソコン通信ガイドだった。ネットワークとして、PC-VAN(ピーシーバン)やアスキーネット、日経MIXなどを紹介している最中に、NIFTY-Serve(ニフティサーブ)が発足した。草の根ネットワークとして、地方のBBS(Bulletin Board System パソコンをホストにした小規模パソコン通信ネット)が個性的な活動を展開しつつあり、大分のC0ARA(コアラ)が話題になっていた。この号はネットワーキングの世界で精力的に活躍していた会津泉さんに協力してもらった。

 彼はネットワーキングデザイン研究所の看板を掲げて、すでに『パソコンネットワーク革命』などの著書があったが、黎明期のインターネットの発達(セルフ・ガバナンス)に尽くした業績は大変大きい。後には、スティーブ・ジョブズによってアップルに招かれながら彼を追放するという皮肉な役回りを演じたペプシコーラの元社長、ジョン・スカリーの伝記『スカリー』も翻訳している。

 COARAも彼の紹介で、大分での研究報告会を取材したり、事務局長の小野徹さんに寄稿してもらったり、三浦君の司会でCOARA会員たちの楽しいネット生活座談会をしたりと、13ページの「COARA白書」を作ったのも懐かしい思い出である。

・フロッピーディスクは、便利だがおっかない

 さて、三浦君が『PC-98』のソフト紹介などで奮闘しているころ、私はいろんな雑務をこなしながら、次に迫っている『ネットワーキング』の準備をしていた(食事をする暇も惜しくて、日曜などは食品売り場で2人分の弁当を買っていった。社に来るライターに買ってきてもらうこともあった。自宅から弁当を持参しても食べる時間がなくて、取材先や広告会社を訪ねる社のハイヤーの中で食べたりした)。

 各地の草の根ネット、BBSから主な百ネットを選び、そこでどんな会話が行なわれているかを紹介する、これも24ページ特集をすることにし、これをあるパソコン雑誌編集部に依頼することにした。締め切り1ヵ月以上前に都内にある編集部を訪ねて、人の良さそうな編集長に趣旨を話すと、気持ちよく承知してくれ、若い担当者も決めてくれた。「力仕事ですが宜しく」と頼んで、綿密な打ち合わせを行い、締め切りも決めて、それで私はやはり安心して他の仕事に没頭していた。

  途中で一、二度は電話連絡したが、すっかり任せきっており、いよいよ締め切りの日、原稿は届かなかった。翌日も、翌々日も。編集長に電話しても「いま担当者がいないもんで」と歯切れが悪かったが、真相は何と、担当者が突如、蒸発してしまったのだった。これまでの作業で蓄積した全データを入れた1枚のフロッピーディスクを持ったままである。当然あるべき予備のバックアップコピーもなく、独身のその担当者の部屋はカギがかかったままだった。

  1MBのFDにはざっと50万文字、400字詰め原稿用紙にして1250枚、ムック1冊の原稿がすっぽり収まってしまう。今とは比較にならないけれど、あの丸いペラペラのFDに24ページ分の記事と、1か月かけてのぞいたBBSの中味がすべて入っていて、それが一瞬にしてなくなったのは、まさに驚天動地の出来事だった。

  個人の扱える情報量が飛躍的に増えたという便利さがかえって新しい危険を生むという、情報社会の強烈なパンチをくらって、「パソコン誌構想も、ムック2号にして挫折か」と、しばらくは誰にも言えず、眠れぬ日々を過した。

  しかし、さすがに気がとがめたのか、担当者が深夜ひそかにFDを編集部の郵便受けに返してくれた。責任を感じた編集長氏が何日かの徹夜作業をしてくれ事なきを得た。のちに聞いたところによると、その担当者は前夜まで変わった様子はなく、「明日締め切りの仕事が残っているが進んでいない。これから徹夜だ」といって同僚と別れたという。家に帰ってパソコンに向かったが、一日の徹夜ぐらいではどうしようもない絶望的な仕事の進行状況に、あっけなくプッツン。善後策を検討するとか、上司に相談するとか、そういう行動は一切とらずに、はいさようなら、だったようだ。

  ちょうどそのころ、ソフトウェア会社の社長をしている友人から、「受注したプログラムを制作中、担当者が蒸発して、何千万円の借金を背負い込むことになった」という話も聞いたけれど、「パソコン業界はまだ若いだけに、おもしろくもあり、またおっかない」というのが私の感想だった。

 仕事で誌面に穴をあけて蒸発、会社をやめた当の担当者は、さぞかし心に大きな傷を負って、もはや再起不能、場末の飲み屋あたりで酒に溺れているだろうと、私はかってに想像していたのだが、ある日、その本人が大手ネットの掲示板にのんびりと書き込みをしているのを見つけた。メールを出してみたら、ちゃんと返事が来て、「その節は迷惑をおかけしたが、いまは新しいソフトハウスで働いている」とあっけらかんとしていたのには、また驚かされた。

 その特集「草の根ネット100」だが、「広島のラーメンはここが一番」、「太田貴子ファンによるボード・ミュージック」「核は地球を灰にする」などの話題をピックアップしながら、全国100のBBSネットを紹介しており、パソコン通信初期の熱気と自由な空気がみなぎる貴重な資料になったと自負している。「年内には1000局の大台に乗る」との予想も掲げているが、時代はそのようには動かず、今ではフェイスブック、ツイッターなど、それこそグローバルなコミュニケーション・ツールが真っ盛りである。

・「分からない人は読まなくていい」じゃ困る

 特集の中には、パソコンを使った「BBSの作り方」という4ページものもあったが、編集長氏もそこまでは手が回らないと、別の筆者を紹介してくれた。その原稿はほどなく出稿されたが、難しくて素人にはさっぱり分からなかった。「これじゃ、分からないよ」と私が言うと、彼は「技術に関する記事は、分かる人が読めばいいので、分からない人は読んでくれなくていい」と答えた。

 なるほど、そうなのだった。パソコン誌の記事は専門用語が並び、素人にはちんぷんかんぷん、とても読む気がしなかったが、書く方が「そういう人に読んでもらう必要はない」と考えていたのだ。科学技術の筆者には今でもその傾向があるように思われる。

  私は「これから出すムックは、専門家向けのものではない。パソコンの初心者でも分かるように書いてもらわないと困る」と言ったが、筆者はなかなか自説を曲げない。彼が「分かった。書き直す」と折れたのは、例によって深夜だった。「それはありがたい。ついては締め切りは明日の昼まで」と私は言い、さすがにこれは無理かなと思ったが、日曜昼にはすっかり見違えるほどの、すばらしい原稿が届けられた。

 納得しない限りテコでも動かないが、分かったとなると、誇りをもって仕事に取り組む若い筆者の姿に感激したが、先方も気持ちよく「今後の記事づくりのために、いい経験になった」と言ってくれ、お互い、目をしょぼしょぼさせながら、気持ちよく別れたのだった。

 他のムック、『おもいっきりワープロ』はまだ利用する人の多かったワープロ専用機のガイド、『おもいっきり電子小道具』はラップトップパソコンから電子手帳、電卓、多機能電話、時計、おもちゃにいたるまでの、まさに電子小道具全カタログである。『ワープロ』では脚本家のジェームス三木のワープロ生活を紹介したり、演出家、鴻上尚史に「はじめてのワープロ通信」に挑戦してもらったりしている。それぞれハードやソフトの徹底紹介が基本だが、それでもいろいろ読み物に工夫しているのは、いま振り返るとほほえましくもある。それらの編集作業にも尽きぬ思い出があるけれど、今回はここまで。また別の機会に紹介することもあるだろう。

 多くの社外ライター、カメラマン、イラストレーター、デザイナーなどのおかげで、波乱万丈だったムックは5冊とも予定通り刊行できた。それは朝日新聞入社以来、私たちが一番よく働いたときだったのではないだろうか。各巻に「編集に協力してくださった主な人々」を紹介しているが、ほとんどが20代、30代である。40代はおそらく私だけだったと思う。ちなみに小田嶋君は30歳だった。みなさんにあらためて厚くお礼申し上げます。

 その結果、定期雑誌『ASAHIパソコン』が翌1988年から創刊されることになったのである。

 

 

新サイバー閑話(55)<折々メール閑話>⑦

「安倍国葬」にみる現代日本の「明るい」闇

B なかなか終われない<折々メール閑話>です。安倍元首相銃撃事件に対するメディアの見当違いとも思える「暴力に屈するな」、「言論を守れ」というご都合主義的な「軽さ」については前回ふれたけれど、その後の調べで、犯行はカルト宗教、旧統一教会(現在は世界平和統一家庭連合、以下統一教会と表記)に絡むことがわかりました。母親が同教会にのめり込んで多大な献金をしたために家庭が崩壊、そのうらみをはらすために元首相を襲った。同教会と安倍元首相の深い関係はぼ公然の秘密、というより、安倍氏本人は隠しもしていなかったわけですね。
 彼のこれまでの政治的実績、およびその責任については前回書いたのでくり返さないけれど、犯人は元首相の主張とは無関係に、ただ「親の仇討ち」の一目標として銃撃したようです。

A その元首相を岸田首相は国葬にすると決めました。銃弾に倒れたというのが大きなきっかけですが、むしろその不幸な死を最大限に利用して、自民党支配を徹底しようという思惑がはっきり出ています。今に来ての自民党の安倍絶賛モードは恐ろしいほどです。
 岸田首相は国葬にする理由として8年8か月という憲政史上最長の首相在任期間を上げていますが、その間に安倍元首相がやった諸政策への検証はまったくない。不慮の死を遂げた安倍元首相を祭り上げて、あらゆる批判を封じるとともに、そのことで岸田内閣の安定を図ろうとする「元首相の政治利用」の魂胆が見え見えです。
 戦後、国葬をしたのは敗戦直後の吉田茂だけで佐藤栄作、大平正芳、中曽根康弘、みんな国葬ではなかったですね。
 政党で国葬にはっきり反対しているのは日本共産党、れいわ、社会民主党だけです。共産党はすぐ志位委員長談話を発表し、「安倍元首相を、内政でも外交でも全面的に礼賛する立場での『国葬』を行うことは、国民の間で評価が大きく分かれている安倍氏の政治的立場や政治的姿勢を、国家として全面的に公認し、国家として安倍氏の政治を翼賛・礼賛することになる」と厳しく批判しています。れいわも「国葬という形でこれまでの政策的失敗を口に出すことも憚れる空気を作り出し、神格化されるような国葬を行うこと自体がおかしい」との声明を発表しています。

B これらの意見はまっとうですね。ジャーナリストの佐藤章がツイッターで実に明快な批判をしています。「安倍は日本国に殉じたのでも功績を残したのでもない。国に残したものは国民の分裂と混乱、行政の堕落と経済の泥沼。しかも最期は霊感商法の『守護神』として霊感商法被害者の家族に復讐された。国葬とするなら文字通り日本国の『国葬』となろう」と。
 元首相は森加計問題、桜を見る会などで司直の捜査を受け、罪に服すべき人間でもあったわけで、凶弾に倒れたことでそれらがすべて反故にされ、祭り上げられるというのはまことに皮肉です。
 死者への哀悼と彼の政治的責任がごっちゃにされている昨今の風潮にこそ、現代日本のおぞましい状況を感じざるを得ません。それは必ずしも岸田政権だけの話でもなく、それになびきがちのメディアもそうだけれど、もっと深刻なのは、かなりの国民がそのことを不思議とも思わず、なんとなく認めてしまっているように見えることです。
 テレビニュースでこんな画面を見ました。
 事件現場の奈良市や都内に設けられた献花台にけっこう若い人も参列しており、奈良では若い母親がインタビューされて、「この子が(元首相を)好きだったので」と幼稚園児らしい子どもを指さして話していました。東京ではパート従業員という若い女性が「日本のためにがんばってくれていたのに」と涙ながらに語っていました。
 奈良の母親は子どもになぜ「ウソをついたら地獄で閻魔さまに舌を抜かれるよ。この人は国会でウソを100回以上もついていた人ですよ」と教えないのか。パート従業員の女性はなぜ自分の給与が低く、ここ数十年、暮らしが楽にならないのは政治のせいではないかと考えないのか。
 ここには、ものをまともに考えなくなっている日本の「明るく」、それ故に底なしに「深い」奇妙な闇が広がっていると思います。こういう人を選んだかのようにテレビで流して平気な放送局も同じです。
 安倍政権(を始めとする自民党政権)は、長い時代に大勢順応的で政権批判をすることは中立的ではないと思う人びとを育ててきたわけですね。その「遺産」を岸田政権は踏襲し、日本をますます劣化させていきたい、そのための国葬と言ってもいいでしょう。

A 前回は参院選投票前日だったわけですが、選挙の結果は、「嬉しさも中くらいなりおらが春」という感じでした。れいわの熱狂的支持者の間では「れいわ旋風」が起こったとの声まで上がっていましたが、もともと選挙にあまり関心を持たない層には、それこそどこ吹く風なんだということも感じさせられました。少なくとも比例で長谷川うい子、大島九州男、高井たかしは通るのではないかと思っていましたが、ふたを開ければ特定枠の天畠大輔と水道橋博士のみ。大阪のやはた愛、埼玉の西みゆかなどよく健闘したとは思いますが‣‣‣。

B 水道橋博士の滑り込み当選は、前回衆院選での大石あき子に次ぐ「滑り込み快挙」で、選挙運動の進展に伴いぐんぐん成長していった彼の今後は大いに楽しみです。
 しかし、全体的に見ると、投票率は相変わらず低く52%、自民圧勝、維新も伸びるという今後の政局に暗雲が漂う結果でしたが、その「暗雲」がさっそく垂れこめたのが岸田内閣による「安倍元首相国葬」の決定と、それを陰で支えるメディア、そしてかなりの数の国民の存在です。
 今回の国葬騒ぎを見ていると、残る50%が投票に行けば、野党の票が伸びるとも言えない感じですね。投票に行かない層や若年層も含めて、一億総自民化が進んでいるように思われます。与党は憲法改正を発議する両議院での3分の2の勢力を大きく上回ったわけで、実際に改憲が発議されるのも遠くないでしょう。
 ここで心配なのは国会での改憲論議が、憲法はいかにあるべきかという原理論はすべて棚上げ、沖縄県知事が望んでいるような「改憲よりも先に地位協定改定」といった切実な声もまったく顧慮されないまま、ただ「自衛隊」という文字を憲法に書き加えるという、国の最高法規である「憲法が泣く」とでも言うべき、みすぼらしい改憲案となり、それがまた国民投票であっさり承認される(過半数の賛成を得る)のではないか、という悪夢です。

A れいわ「苦戦」の背景もこれですね。

B 選挙における1人1票運動に取り組んでいる升永英俊弁護士に話を聞く機会がありましたが、「選挙は国会の多数を獲得するための国民の戦争である」というのが升永さんの考えです。彼は「そのことがよくわかっているのが自民党で、多数を獲得するためにあらゆる努力をし、そして成功している」とも言っていました。今度、東京選挙区で当選した自民党の新人タレント議員は、選挙期間中もほとんどテレビ局の取材を受けなかったけれど、巷間伝えられるところによると、「今はまだ勉強不足でお話できることはない」のが理由だったとか。こういう人が当選するわけですが、これが「議員に見識など不用。法案審議のとき、あるいは憲法改正発議のとき、議会で1票を投じてくれればいい。余計な考えはむしろ邪魔」とでも言うような自民党の選挙戦略なわけですね。そして当選した人は、自分の起用のされ方を恥ずかしいとも思わず、「安倍さんの志を受けついで日本のために頑張りたい」と言うわけです。
 こういう状況に対して野党はどう戦うべきか。互いに足の引っ張り合いばかりして、大きな視野を持っていない現状では、選挙で負けるのも当然と思われます。また国民はどう行動すればいいのか。自民党も嫌だけれど、野党も頼りない、と棄権したり、消去法で自民党を選んだりしてきた結果がいまの政治を生んでいるという冷厳なる事実をもっとよく考えるべきですね。

A 維新も議席を増やしましたが、維新は明らかに自民党の選挙戦略をまねていますね。参院選前に山本太郎が衆議院のバッジをわざわざ外し(次点の櫛渕万里に議席を譲り)参院選に打って出たのは、彼にはその現状がよく見えており、それに対するあせりがあったからだと思いますが、その不退転の決意は、むしろ「明るい闇」の壁に阻まれたとも言えます。結成わずか3年で、衆参合わせて8議席を獲得したのは上出来と言えなくもないですが‣‣‣。

B この日本を本当の意味で「取り戻す」ためには、これからも長く辛い戦いが続くでしょう。我々としては、なお「貧者の一灯」を掲げて、大石あき子が言うような「頼りがいのある野党」をつくりあげるために出来ることをしていきましょう(^o^)。

 

新サイバー閑話(54)平成とITと私④

ムック『ASAHIパソコン・シリーズ』の刊行㊤

・小田嶋隆君の思い出

 軽妙洒脱な文章で世相を鋭利に切り取ることで人気があったコラムニスト、小田嶋隆さんが2022年6月24日、65歳で病没され、7月1日に送別会が行われ私も出席した。『アサヒグラフ』のあと出版局大阪本部に異動になり、そこでメディアとしてのパソコンをテーマとする新雑誌を構想、1986年から出版局プロジェクト室で準備を始めたが、そのとき小田嶋君(当時の呼び方に習い、以後「君」呼びさせていただきます)に会ったのだった。

 テクニカルライターふうではあるが、後年を思わせる達意の文章を書いているのに興味をもち、都内のアパートの一室に尋ねた35年前を今でもよく覚えている。たしか友人と同居していたが、アップルの最新機種、マッキントッシュSEが畳の上に無造作に転がっていた。

 <平成とITと私>はずいぶん間隔があいてしまったが、第4回は小田嶋君の死で突然蘇った辛く、懐かしく、また楽しかったムックの思い出を書くことにする。私よりははるかに年少の小田嶋君に先立たれるとは思ってもみなかったことである。

 アサヒグラフでコンピュータ取材をしたことをきっかけに私は「メディアとしてのパーソナル・コンピュータ」を対象とする新雑誌を構想、出版局プロジェクト室で同僚となった三浦賢一君(ずいぶん前に亡くなった)と2人で、『科学朝日』別冊として、5冊のムックを出すことになった。新しい分野にいきなり進出するよりは、まずムックを数冊つくって、販売、広告など業務も含めて、ならし運転しようというわけである。

 そのタイトルと刊行月日は以下の通りである。

『ASAHIパソコン・シリーズ』①おもいっきりPC-98(別冊科学朝日1987年5月号)
『ASAHIパソコン・シリーズ』②おもいっきりネットワーキング(別冊科学朝日6月号)
『ASAHIパソコン・シリーズ』③おもいっきりワープロ(別冊科学朝日7月号)
『ASAHIIパソコン・シリーズ』④おもいっきりデスクトップ・パブリッシング(別冊科学朝日10月号)
『ASAHIパソコン・シリーズ』⑤おもいっきり電子小道具(別冊科学朝日12月号)

・『おもいっきりデスクトップ・パブリッシング』

 これをたった2人で1987年4月から同年11月までの間に出した。社内にはパソコンに詳しい記者は皆無と言っていい状態だったから、私たちは編集者に徹して、執筆はほとんど社外のフリーライターに依頼することにした。このライターの1人が小田嶋君だった。

 このムックの売り上げが好調だったことが翌1988年からの『ASAHIパソコン』創刊に結びつくのだが、すでにマックに親しみパソコン通だっただけでなく、優秀な編集者にして科学ジャーナリストだった三浦君とシャカリキになって過ごした多忙な1年間はことさら思い出深い。先に記した熊沢正人さんも、このとき助っ人として参加してくれた。小田嶋君にまつわるほろ苦くも感動的な思い出は、4冊目の『おもいっきりデスクトップ・パブリッシング』をめぐってだった。

 いまはスマートフォンで音も映像も簡単に扱えるので、当時の状況はもはや想像するのも難しいが、1986年当時のパソコンは文字を編集するのが精いっぱいで、ようやく画像処理ソフトが市販され始めていた。パソコンにはまだ内臓ハードディスクがついておらず、画像ソフトもフロッピーディスクで提供されていたから、デスクトップ・パブリッシング(DTP、机上出版)という言葉はあったけれど、画像をそれなりに扱うためには大型コンピュータが必要だった。

 それでもパソコンの将来は画像処理が主役になるだろうという考えから、ムックの一環にデスクトップ・パブリッシングを取り上げたのだが、時代を先取りしすぎていたかもしれない。当時の有名な電子編集システムとしてEZPS(イージーピーエス、キアノン)を紹介しているが、パソコンより大型のワークステーションとレーザーコピア(レーザープリンタとイメージスキャナ)の組みあわせで598万円だった。

 さて、ムックをつくるにあたっては、市販のマシンやソフトを使って何ができるか、そのDTPサンプル集を目玉にすることにした。その作業を誰にまかせるか。いろいろ検討した結果、私たちが白羽の矢を立てたのが小田嶋君だった。彼はわりと簡単に「いいですよ。おもしろいですね」と請け合ってくれた。

 24ページの大特集を予定し、締め切り1か月前に発注した。私たちはそれで安心して他の作業に没頭していたのだが、締め切り日になっても原稿は来ず、電話すると、「1ページも書けていない」と言う。私は大いに慌てた。「すぐ社に来てほしい。これから24ページ作るのだから、1人じゃ無理だ。誰でもいいから、仲間を数人連れてくるように」。

 こうして小田嶋君は、3、4人の仲間を連れて編集部にやってきた。例によって、夜を撤しての突貫作業が始まったのである。ワイワイガヤガヤと話し合って、「一太郎と花子で作った短歌同人誌『蒼生』」、「EZPSで作った『足立銀河総合開発』会社案内」、「OASYSで作った『愛犬のDCブランド』広告企画書」、「RIHPSで作った『亀山物産』新入女子社員心得」、「NEWSで作った『ハイパーシャープペンシル』ユーザーズマニュアル」の5作品を、それぞれのシステムを紹介しながら作ることにした。

 仲間は入れ替わりがあったので正確な人数は覚えていないが、私は小田嶋君グループを「逃がさない」ことを第一義に、全員に社の簡易宿泊施設(2段ベッド)に泊まり込んでもらった。仮眠するときも警戒を怠ることなく(^o^)、3日ぐらい作業を続けたと思う。いまならブラック企業と批判されるところである。作業終了後、小田嶋君たちは不精ひげをはやしたまま、げっそりして帰っていったが、私たちとて同様だった。

  そして出来上がった作品は――、いずれもすばらしいものだったのである。私は小田嶋君およびその仲間の実力に心底感心した。本文の創作は言わずもがな、美しいカットやグラフ、写真、表をあしらった、立派なDTP文書が完成したのである。

 小田島君は「RIHPSで作った『亀山物産』新入女子社員心得」を担当してくれたが、本文、囲みインタビュー、イラストなどすべてに工夫が懲らされ、飲んべいの先輩記者が登場したり、怒ってばかりいる会長が登場したり、それは本人ふうであったり、編集者へのあてつけふうだったりしたが、なかなかの出来栄えでもあった。

・短歌同人誌『蒼生』

 私が感心したのは友人のK君が作った短歌同人誌『蒼生』だった。最初のページには、入道雲に朝顔をあしらったカットの下に「『蒼生』発刊の辞」がある。

   墨痕鮮やかという形容があります。私などは悪筆の方なので、人様から立派な書を見せて頂くのは大変嬉しいのですが、一筆お願いしますなどと頼まれると赤面せざるを得ません。
 歌は自身の内より湧き出てくるものですが、できればそこに詠み込んだ心のありかたというものを、人様にも知って頂きたい。そうすることで自らの感興をより深め、また歌として定着させることができる。
 今回、最先端技術であるデスクトップ・パブリッシングを採用して、町田短歌会同人誌『蒼生』を発刊しましたのは、より深く短歌を味わい、歌の心を知るためなのです。
 新しいモノ好きのお調子ものかもしれませんが、美しい文学、楽しい絵、美しい言葉を求めるのは当り前のことなのです。新しきを温ねて古きを知るというのも、決して無茶な話ではない。文化という範疇は広いですが、心と切り離して語ることはできないものなのです。

 いかにも短歌同人誌の主宰者が書きそうな文章で、しかもデスクトップ・パブリッシングという「課題」をうまく取り入れている。続いて、○○○○○選、▽▽▽▽▽選、歌枕再発見などが続くが、いずれも歌と選評が書かれている。その中の5首の項を紹介する。

五首 阪本耕平
 八月二十二日、勤めより帰りて深夜に読む。
 故郷ではもう草取りは終わりだと端末にむかい虫を取っている
 ぬばたまの闇夜となりて停電に書きかけの文の失われし
 ハンカチを濡らして瞼に乗せて冷やす熱暴走の葉月を過ぎて
 蝉の声にかぶさるようにディスク読む指先は湿るキーの固い冷たさ
 プログラム飛びし夕暮れ火もつけず我はひとつの80286となりぬ

選評 島原白山子
 藪入りは打ち水の道一人往く蝉しぐれにのみ送られて往く
 作者の阪本君は、大手コンピュータ会社のソフトウエア開発部門に勤務する弱冠二十三歳。当会には四カ月前より参加と、まだ経験は浅いが、歌に対する真摯な態度には古株の会員達からも好意が寄せられている。まだ歌の形を成していないと、彼の作首を切って捨てることは簡単だが、五音七音にはおさまらぬカタカナ言葉に囲まれた生活、日本語の外にある仕事と、日本人であるおのれとの溝を三十一文字によって埋めんと欲する創作態度には、歌上手の先輩達の失ってしまった必死の心が感じられる。
 ここで取り上げた五首は、納期の遅れのために盆休みも取れなかったという阪本君が、墓参り代わりに詠んだというもの。
 最初の一首を除いては、故郷への思いは直截には歌われず、仕事道具であるコンピュータとおのれとの間にふと生じる隙間を直視することで、その違和感の闇を故郷まで透視しようとしている。まだ十分に成功しているとは言えないが、刻苦勉励の跡を見るという意味で、今回取りあげた。これを励みに、より一層の努力を望みたい。
  なお最後の歌の80286は、コンピュータの中央演算処理装置の型番である由。破調もまた歌である。

   見事な芸に、私はほとほと感心してしまった。最後の編集後記はこうである。

 本誌は、老体に鞭打って、デスクトップ・パブリッシングなる手法を用いて、完璧なる編集実務OA化のもとに発刊を行うことと相成った。短歌が上代より時代の節目には必ず新たなる冒険を必要とした如く、同人誌も常に新たなる冒険に望まねばならない。また、これで今迄、何かと行き違いの多かった田中印刷所の面々にも、恩返しができたというものである。

 この横溢する遊び心。私は、DTPサンプル集の扉に「ご注意 サンプルの内容は、フィクションです。実在の個人、あるいは団体とはいっさい関係がありません」との断り書きを入れたが、発売後、編集部に「『蒼生』編集部の連絡先を教えてほしい」との問い合わせがあって、私を喜ばせたのだった。 そんなわけでムックづくりは、ほかにもハラハラドキドキの連続であり、体力的にはずいぶん辛い日々だったが、新しいことを始める創造的楽しさにも満ちており、たった2人の編集部ながら、社内外の多くの人びとに助けられ、何とか無事に乗り切ったのだった。他のムックについては次回に記す。

 小田嶋君の送別会の席で、奥さんに「『ASAHIパソコン』の初代編集長」と名乗ると、よく覚えていてくださり、「矢野さんにはたいへん迷惑をかけた、とよく言っていました」とのことだった。私は持参した『おもいっきりデスクトップ・パブリッシング』を見せながら思い出話をしたのだが、小田嶋君が「迷惑をかけた」と言ったのはこのムックのことではなく、その後創刊した『ASAHIパソコン』のことだと思う。

 月2回刊の『ASAHIパソコン』でも毎号コラムを書いてもらい、その秀逸な文章に見出しをつけるのが私の大いなる楽しみだったが、締め切りは基本的に守られなかった。そのたびに電話をかけて厳しく催促していたのである。そのため休載は一度もなかったけれど、私としてもいささか気になっており、後年、彼が有名になり朝日新聞紙上で大きく取り上げられたとき懐かしくなって思わず電話、「激しい催促で申し訳なかったねえ」と言うと、「何でこんなに怒られるのかと思ったが、今ではあれもよかったと思う」と言ってくれた。これが最後の対話になった。

 奥さんに『蒼生』の話をすると、Kさんは明日の葬儀に来るとかで、会えないのはちょっと残念だった。

 小田嶋隆のその後の活躍は多くのファンの知るところで、私も『わが心はICにあらず』、『仏の顔もサンドバッグ』、『ポエムに万歳!』など、単行本が出るたびに購入しては、にやにやしながら読んでいた。最近では『日経ビジネス』連載、<小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明>が秀逸だったが、2011年から20年に至る10年間のツイッター発言を集めた『災間の唄』(2020)」は、本人があとがきに書いているように、「芥川龍之介先生の『侏儒の言葉』以来の‣‣‣大傑作」だと、「今回ばかりは言わせてもら」っても、だれも文句は言わないだろう。私はツイッターをほとんどやらないが、ぱらぱらとページをめくるたびに、往年の朝日新聞夕刊の傑作コラム『素粒子』(筆者・斎藤信也)のような、「山椒は小粒でもピリッと辛い」冴えに感心しきりだった。本人はこれからもツイッターを続け、続集を刊行する予定だったらしい。反骨を小脇に抱え飄々と生きた名コラムニストの早すぎた死に、あらためて深く哀悼の意を表します。

新サイバー閑話(53)<折々メール閑話>⑥

安倍元首相銃撃事件と言論の力

B この<折々メール閑話>は5回で終わる予定だったけれど、参院選投票日直前の8日になって奈良県下で応援演説中の安倍晋三元首相が凶弾に倒れるというきわめてショッキングな事件が起こりました。戦前には犬養毅、浜口雄幸といった現職首相が軍部によって倒された例があるけれど、元首相が白昼、銃撃され死亡するというのはまさに驚きです。犯人は元海上自衛隊員でその場で逮捕されましたが、犯行の動機に思想的、あるいは政治的背景があるというより、2021年に大阪で起こった精神クリニック放火殺人のような、私的なうらみからだとも報道されています。標的がたまたま元首相であり、選挙運動中に犯行が行われただけだとすると、動機の究明はこれからとしても、今回の事件は「テロ」というより、むしろきわめて現代的な悲劇のようにも思われます。
 亡くなった安倍元首相や関係者のみなさまに深く哀悼の意を表します。

A 事件の一報を聞いたときはフェイクニュースかと思いました。詳しいことを知りたいと今朝は、近くの駅の売店に新聞各紙を買いに行きました。

B 各紙とも2段ぶち抜き程度の大見出しで、まったく同じ「安倍元首相撃たれ死亡」。その論調は「民主主義への愚劣な挑戦」、「言論は暴力に屈しない」といった暴力(テロ)への強い批判になっています。その論調そのものには異論はないし、現段階の見出しとしてはそうならざるを得ない面もあるけれど、その上で、どこかしっくりこないものが残ります。それはなぜでしょうか。
 こういうことではないかと思います。
 安倍元首相は「日本を取り戻す」という掛け声のもとに戦前日本への回帰を訴えてきたわけですが、その政治手法は、既存制度に組み込まれていた民主主義を健全に運営するためのチェック機能を事前に解体し(法制局長官や日銀総裁を仲間内で固めて)、自説を強行するものでした。多くの憲法学者が違憲とする集団的自衛権容認を閣議決定したのがその最たるものですが、一方で森友、加計問題、あるいは桜を見る会などの不祥事に関しては、のらりくらりと他人ごとのような答弁を繰り返し、挙句の果ては、自分の国会答弁に符合しない証拠書類を官僚に改竄させ、自殺者まで出しています。
 衆院調査局によれば、安倍首相(当時)が行った事実と異なる国会答弁は、2019年11月~20年3月の間で118回だとされています。安保法論議のころ石川健治東大教授(憲法)が安倍政権の手法を「『非立憲』政権によるクーデター」と批判したのはこのことを指しています。
 政治に嘘はつきものと言われれば、身も蓋もないけれど、何の抵抗もなく嘘をついてそれで平気という精神は尋常でなく、そういう首相をもった国民がモラル崩壊に向かうのもけだし当然と言えるでしょう。
 彼の暴走ぶりは体調不良を理由に首相を退いてからも続き、最近のロシアのウクライナ侵攻を受けて、防衛費増強を強く訴えていました。「日銀は政府の子会社」との発言もありました。長い安倍政権下において、国会も、検察庁を含む官僚機構も、安倍元首相の暴走を止められなかったけれど、それはメディアも同罪ではなかったのか、と思うわけですね。新聞やテレビは言論の力を駆使して安倍政治の暴走に有効な歯止めをかけられなかったばかりか、いたずらにその意向を忖度してきたのではないでしょうか。これはあくまで全般的な傾向を述べているもので、そうでない記事や主張があったことはもちろんです。戦うべき時に武器としての言論を使ってこなかったメディアが、これからは闘えるのか、いや闘う気があるのか。そう考えると、選挙中の元首相銃撃という修羅場を〝奇禍〟として、「言論こそ大事だ」と大見えを切ることに、タテマエに寄りかかった気楽なご都合主義を感じざるを得ません。これが違和感の正体ではないかと思うわけですね。動機が私的なうらみということになると、いよいよその感を深くします。

A この事件は明日の投票にどう影響するのか、心配な面もあります。保守の論客、中島岳志は「日本の未来のために自民党の方々にお願いしたいのは、明日の選挙戦最終日を『弔い合戦』にもちこまないでいただきたいという点です。テロと選挙結果に因果関係が生まれると、さらなるテロを誘発しかねません。野党が敗北した場合、野党側も敗因を『弔い』に求め、真の敗因に向き合わなくなります」とツイートしていました。投票日までもはや1日も残っていないけれど、安倍元首相の非業の死が政治のあり方をゆがめないようにしてほしいですね。

B 死者にムチ打つことをしないのが日本的美風だと言われるし、それはそれで悪いことでもないけれど、不慮の死を遂げたからといって生前に政治家としてやってきた行為の責任は反故にはできないですね。

A れいわは街頭選挙運動でこれまでのイベントのようなにぎやかな催しをやめましたが、これは節度というものでしょう。事件当日のれいわ候補者の街頭活動をユーチューブで見ていましたが、党代表であり東京選挙区で厳しい戦いを続けている山本太郎は、安倍元首相の冥福を祈りつつ、「言論、主張の場である選挙期間中に言論を封殺するような事件が起こったことに強い憤りを感じる。街頭活動をやめるという党もあるようだが、選挙はまさに言論を戦わせる場所だから、れいわとしては、音楽入りなどお祭りムードのイベントは自粛させていただくが、街頭活動は明日も続けるつもりです」と毅然として語り、全国比例から出ている長谷川うい子は「積極財政で民主的で平和な道を歩んでいきましょう」といつも通りの主張を力強く繰り返していました。
 まだ若い大阪選挙区のやはた愛は「起きてはいけないことが起きてしまった」と訃報に動揺を隠せないようでしたが、参院選候補の応援に駆けずり回っている衆院議員、大石あき子は、山本太郎を国会に戻す一心で奮闘していました。彼女がツイートした「野党というものを、もっと強い野党にしないといけない。本当にこいつらならやれるなっていうガチの野党を作るしかない」という意気込みはたいしたものだと思います。4人4様の対応で、これこそがれいわの多様性を象徴しているでしょう。

B 我々としては、固唾を飲んで明日の投票結果を待ちましょう。れいわの躍進を期待したいですね。(敬称略)