新サイバー閑話(111)<折々メール閑話>52

小池百合子都知事の「嘘で固めた」人生の黄昏?

 B 小池百合子都知事の「カイロ大学を首席で卒業」という経歴をめぐっては、ずいぶん昔から折にふれて疑問が呈されてきましたが、彼女はその都度、その批判をなんとかかわし、権力の階段を着々と登ってきました。そして、今回の自民党凋落を期に衆院選に打って出て自民党に復党、人気低迷の岸田首相を襲って女性初の総裁、首相をめざそうという野望も取りざたされていた折も折、前回都知事選前の経歴追及をみごとに鎮静化した「カイロ大学声明」なるものが、実は都知事陣営による自作自演だったとする告発記事が、月刊『文藝春秋』5月号に掲載されました。
 題して「私は学歴詐称工作に加担してしまった」。告発したのは元環境庁キャリア官僚の側近、小島敏郎氏で、告発のあらましは以下の通りです。

 前回都知事選前の2020年6月6日夕、「相談したいことがある」と小池さんに呼び出された。その年5月、ノンフィクション作家、石井妙子『女帝 小池百合子』(文藝春秋)が刊行され、そこで小池さんのカイロ時代の言動がくわしく検証され、カイロ滞在中に彼女と同居していた北原百代さん(本では仮名)の証言をもとに、カイロ大学卒業の経歴は虚偽だと告発していた。カイロ大学卒業を疑っていなかった私は、一応彼女に卒業証書や卒業証明書の存在を確認して、なぜうろたえるのか不思議に思いながらも、「カイロ大学から声明文を出してもらえばいいのではないか」と提案した。
 するとわずか数日後の9日、駐日エジプト大使館のフェイスブックに、カイロ大学学長名の「声明:カイロ大学」という文書が掲載された。そこには、小池さんは1976年にカイロ大学を卒業した、卒業判定は公正な審理と手続きを経てなされた、日本の一部にカイロ大学の認定を疑問視する声が後を絶たないのは看過できない、などとと記されていた。
 そのすばやい対応に驚いたが、その声明のおかげで学歴問題追及の動きは鎮静化、小池さんは翌10日、都知事選出馬を表明、再選された。圧勝だった。
 私はその後、この声明と同じような文章を小池さんのブレーンだったジャーナリストA氏が書いたことを知った。A氏とのやり取りを通じて、A氏の文案と声明文には微妙な違いがあることもわかったが、そこでは後に言質を取られるような言い回しは巧妙に避けられていた。カイロ大学が出した声明文ならなぜカイロ大学のホームページに掲載されないのか、文章がアラビア語でなく英語と日本語だけというのも不思議である。私は、実際には大学を卒業していない小池さんが、声明文を自ら作成し疑惑を隠蔽しようとしたとの疑いを強めた。私とA氏は図らずもそれに加担したことになる。

 小島さんは、経歴を偽り、それを糊塗するために隠蔽工作をするような人が国の中枢にいることを許してはいけないと、手記を書くに至るわけですね。彼は環境庁時代に小池環境大臣といっしょに「クールビズ」政策に取り組んだ縁で小池氏に呼ばれて都庁に転身したようです。12日、東京の弁護士会館で記者会見しましたが(左写真)、なぜ告発に踏み切ったかに関して、水俣病を告発したチッソ水俣工場付属病院長の細川一さんや、今回、「事実を知りながら黙っているのは共犯者になることだ」と実名証言に切り替えた北原百代さんなどの勇気に後押しされたと語っていました。2期目以降、東京オリンピックや神宮外苑再開発問題ですっかり自民党寄りになってしまった小池知事の政治姿勢への不満もあったようです。
 なお、同じ文藝春秋には、北原百代さんの「カイロで共に暮らした友への手紙」のタイトルで「百合子さん、あなたが落第して大学を去ったことを私は知っている」との告発記事も載っています。

A 文春独走が続きますね。いまや文春と日刊ゲンダイ、それと赤旗が頼りになる媒体では?(^o^) 大手新聞社は一体何をしているのかと思いますね。そもそも小池氏がダントツで前回の都知事選を制したことがおかしい。

B 大学の卒業証書や卒業証明書は本人が大事に保管しているもので、それを公開さえすれば真偽は明らかなはずだが、マスコミに公開したその写しが不鮮明で、かえって偽造したものではないかとの憶測を生んでいます。『女帝』では、その点も検証しています。
 また自作自演の文書がなぜ駐日エジプト大使館のホームページに掲載されたのかは、小島さんにもわかっていないようですが、ここに不明瞭な関係が介在しているとすれば、エジプト側に弱みを握られた人が一国の首相になることについては、大きな不安も出てきます。今回の告発内容は、過去の出来事に対しても同じような偽装工作が行われた疑念を強めますね。
 小島さんの経歴や記者会見での態度からは、たいへんまっとうな人だとの印象を受けます。これは「私は学歴詐称工作に加担してしまった」という懺悔の手記であり、こう言っては何だけれど、官僚の良心を久々に見る思いもしました。
 一方で、都庁記者クラブの知事追及はまことに情けなかったようです。『文藝春秋』の記事を受けて正面から切り込むのではなく、都知事が否定する発言をうのみにするというか、それに迎合して「知事が文春記事を否定」と書いた新聞もありました。
 『女帝』は大宅壮一ノンフィクション賞受賞の力作で、小池氏が十代で単身、カイロに出かけるころから始まり、「カイロ大学卒業」という経歴を武器に、ニュースキャスター、国会議員、環境大臣、防衛大臣、ついに東京都知事と権力の階段を登っていく経過が詳細に描かれています。一言でいうと、「嘘と虚飾」の人生であり、男社会で伍すために女性の立場を積極的に利用、男性がそれにころりと騙される話でもあります。著者の石井さんが度々書いているけれど、小池氏には政治家になって何をしたいかというビジョンはほとんどなく、うまく時流に乗り、ただ目立ちたい、偉くなりたいという執念だけが強かったようです。
 中東専門記者も含めてマスコミや政治家、経済界の人びとが若くてバイタリティーあふれ、魅力的な容姿の小池氏をちやほやし、彼女の言うなりに(裏も取らずに)、「芦屋のお嬢さん」、「カイロ大卒でアラビア語ぺらぺら」などと持ち上げた。北原さんは『文藝春秋』の記事で「作り話にメディアが飛びつくので、百合子さんも『受ける』話を作ってしまいたくなるのでしょう。私は悪気なく嘘をつく百合子さんも悪いとは思います。でも嘘をつかせ続けてきた、メディアの責任も重いと思います」と書いています。

A メディアが彼女を育てたとも言えますね。文春オンラインに石井さんが自著の文庫版に寄せた以下の文章が再掲されています。

 女性活躍、女性の時代といった言葉の数々がある。こうしたかけ声を追い風に、あるいは巧みに利用して「小池百合子」は誕生した。女性であっても公人である限り、その能力は冷静に批評されなければならないはずだ。だが、女性であるという理由で、批判が「女性に対する差別」としてすり替えられてしまう。それもまた、彼女が現在の地位を築き得た理由のひとつとなっている。
 「小池百合子」は、小池百合子という、ひとりの存在によって作り上げられたわけではなく、私たちの社会が、時代が生み出したのだ。仮に小池百合子が去ったとしても、社会が変わらない限り、女にしろ男にしろ、第二、第三の「小池百合子」が現れることだろう。私は小池百合子という個人を恐ろしいとは思わない。だが、彼女に権力の階段を上らせた、日本社会の脆弱さを、陥穽(かんせい)を、心から恐ろしく思う。

B まことにその通りですね。彼女が今月28日に投票予定の衆院補選東京15区からの出馬を断念したのも、『文藝春秋』の記事掲載を察知したからとも言われていますが、今度の告発は決定的だと思いますね。7月に都知事3選を目指すとして、肩書に「カイロ大学卒業」を謳えるのか。肩書を外せばいよいよ憶測を生む、逆に書いたら今度こそ公職選挙法違反で訴えられる可能性もある、嘘に嘘を重ねてきた父親譲りらしい虚飾の人生もこれで破綻かと思わせられますが、最大の危機とも言うべきこのディレンマを彼女はどう乗り切ろうとしているのか。
 彼女が徒手空拳で権力中枢にまで上り詰めたエネルギーにあらためて驚嘆するし、彼女が男たちをうまく手玉に取っていく姿はたしかに「女傑」を思わせ、本書の興味深い読みどころでもあります。彼女自身、「ウソも方便」と言っているけれど‣‣‣。

A 虚言ということでは、国会で嘘をはき散らした安倍晋三元首相とよく似ている。こういう人間が跋扈するのが日本政治の哀しい実態ですね。
 安倍首相と言えば、最近、小林製薬の紅麹サプリで死者が出た「機能性表示食品」は、事業者が食品の安全性と機能性に関する科学的根拠を届け出れば、健康効果などを表示できるようにしたアベノミクスの一環です。2015年に導入されています。国の審査が必要な特定保健用食品よりも規制が緩くなっており、健康産業育成のために規制を撤廃するやり方が、今回の事故を引き起こしたとも言えます。これも安倍政治の負の遺産と言っていいでしょう。
 新聞『赤旗』が4月10日に報じたところでは、小林製薬は安倍元首相が代表だった自民党山口県の支部に2022年までの12年間で310万円の献金をしていたと言います。まことにおぞましい話です。

・すっかりタガが外れた日本社会

B 規制を緩くしても、企業はきちんと安全を守るというまっとうな企業風土そのものが壊れている。政治の世界だけでなく、財界、メディア界、もっと言えば、日本人の生き方そのものが危機に瀕している。石井さんが書いている「日本社会の脆弱さ」、「陥穽」です。小池知事も、安倍元首相も、こういう風土の上に咲いたあだ花とも言えるでしょう。岸田首相や他の自民党議員、あるいは野党議員にもその類の人が多いですね。権力監視を第一義とすべきメディアもその例外でないところが情けない。
 本コラムでは日本を覆う倫理崩壊を象徴するものを「アベノウイルス」と呼んできましたが(『山本太郎が日本を救う』参照)、日本人のタガがすっかり外れてしまった。身の周りの市井の人びと、あるいは今回告発に踏み切った小島さんや北原さんなどを見ていると、「日本人なお健在なり」との印象も強いけれど、国力が低下するに従い、基本的な規範がどんどん崩れつつある。もちろんそこには、折にふれて指摘してきたように、ITの影響も大きいわけです。まさに社会の液状化です。
 これまで取り上げてこなかったけれど、今年1月に、漫画『セクシー田中さん』の作者、芦原姫名子さん(50)が自作のテレビドラマが「原作者の意図と異なる脚本になっている」とテレビ局に訴えている過程で自殺するという傷ましい事件がありました。ドラマ化にあたって脚本家は原作者と相談しないのが慣行になっているらしいのだが、これって不思議ですね。同一性保持権など著作者人格権の侵害だと思うけれど、実情はそれが守られず、原作者としても、ドラマ化してもらえば原作が世に知られ、したがって売れるからまあいいか、ととくに異議申し立てをしない風潮もあるらしい。
 これはひどいと思っているところへ、東京新聞(4月13日付)に同じ漫画家、東村アキコさんへのインタビュー記事が出ていました。その中で東村さんが、自作が韓国でドラマ化されたときの経験を話しています。韓国から脚本家4人がやってきて、セリフの1行1行について綿密なうち合わせをしたそうで、彼女が「好きにやっていいですよ」と言っても、「先生の世界観、思いをしっかり反映したいんです」と逆に怒られたとか。インタビューでは「原作者の意向をいかに忠実に映画やドラマに反映するかへの思いも強かった」と言っています。なんという彼我の差か。当たり前の姿が韓国にはあるのに、日本では崩れているわけです。
 こういう現象はほかにもあります。先日、主宰するOnline塾DOORSで東京学芸大学大学院生でもある小学校教師の話を聞いたけれど、彼女は大学生時代に台湾大学に留学したことがあります。そのとき、現地の小学校教育の現場を見たけれど、教員の勤務時間は7:30から17:00まで。18時過ぎには学校からだれもいなくなる。担任が受け持つ授業は15コマ。1クラス20~26人。教員採用倍率は10倍ほど。なりたくてもなれない人が多く、教員は尊敬される身分だとの社会的受け止め方が強いとか(これに対して、彼女が教員のときの授業は24~26コマ。雑務に忙殺されて、午後6時前に学校を出ることはほとんどなかったようです。公立学校教員採用率で見ると、東京都はほぼ1倍)。日本の小学校における教師の多忙さ、拘束時間の長さ、教師志望者の少なさなどと比べると、台湾の方がはるかにまっとうな教育行政です。この2例だけで一般化するのは乱暴ではあるが、国の底力という点でも、すでに日本はアジア諸国に遅れを取りつつあるような気がします。

A そのためにこそまず政治を変えていく必要がある。このところ統一教会問題、オリンピック汚職、大阪万博をめぐる混乱、遅れる能登地震復興、突出した防衛費増強、少子化対策などを名目にする実質増税、目に余る裏金問題などで、自民党政権の膿があふれ出ていますが、そういう中で岸田首相は国賓待遇でアメリカ訪問、すっかりご機嫌です。政権交代すればすべてが解決するとは言えないにしても、せめて政権交代ぐらいしないと、という気持ちも強まりますね。この点については、少し明るい材料もあるようです。さすがに国民も目が覚めつつあるのではないでしょうか?
 これも文春オンラインに載っている調査だけれど、次期衆院選に対する党派別獲得議席予測がちょっと興味深い。自民党は現有議席259が186に減少、公明党も32→22に減ります。逆に立憲民主党は95→147と大幅増で、日本維新の会は41→62。国民民主党は7→16と倍増です。
 立憲民主党がこんなに伸びるとはちょっと信じられないけれど、その中でれいわ新選組は3→10とやはり大幅増です。参院の5人に加えて国会議員15名になる予想だけれど、目標の20議席にはまだたりない。
 いずれにしろ、16日に告示された28日の衆院補選(東京、長崎、島根)、5月の静岡県知事選、7月の東京知事選――、これらの選挙は衆院選の前哨戦です。少しはまっとうな風が吹くことを期待したいですね。

東山「禅密気功な日々」(36)

人は努力する限り悩む、これが修行である

『禅密気功』会報第121号の原稿を再掲。

 あしかけ4年余りをかけて禅密気功の動功編、および静功編について、朱剛先生のお話を聞きながら、自分なりの実践結果をまとめてきた。執筆、編集、レイアウトまですべてが自作で、書籍流通ルートを介さないアマゾンだけの販売である。第1作が東山明『健康を守り 老化を遅らせ 若返る』(2019)、第2作が東山明『動功+静功 瞑想で蘇る 穏やかな生活』(2023)で、サイバー燈台叢書(サイバーリテラシー研究所刊)の一環である。このたび会報に執筆の機会をいただいたので、よしなしごとを書かせていただいた。

◇ 

 前著でふれた鍼灸師の山本エリさんが、東京から逗子まで居眠りしながら毎日通勤している人の首にコブが出来ていたという話をしてくれたことがある。しょっちゅう前かがみになっているためである。そのコブがあるからといって、肩が凝りやすいという程度で、日常生活にそれほどの支障があるわけではないだろう。老化の一種と考えて自然に任せていればいいとも言えるが、それは必ずしも健康な姿とは言えない。ならば、思い立ってそのコブを取ろうとすると、かえってやっかいなことになる。本来の健康を取り戻そうとすることがかえって別の悪さをするからである。コブ(滓)解凍の副作用が生じたり、やり方によっては他の部位に支障が出たりする(コブを外科的に切除すればいいとは思えない)。ここが健康になるための修行の難しさである。

 昔は年齢とともに「枯れていく」のが自然であるとされてきた。悠々自適、あくせくせずに老いに身をゆだね、枯れ木が朽ちるように死を迎える方がいいのだと。いわゆる「老境」である。その人の考え方次第だが、私はどちらかというと、その老いに逆らい、若さを保つことを心がけてきた。そして、「健康を守り 老化を遅らせ 若返る」ための功法こそ禅密気功だと思ってきたのである。

 修業するから悩みが起こる。努力する限り悩みは尽きない、と言ってもいい。これにどう対応するか、それが『動功+静功 瞑想で蘇る 穏やかな生活』のテーマでもあった。先生の瞑想教室に何度目かの参加をした後、「身と心の滓が ほぐれて下る 瞑想の淵」という駄句が浮かんだ。淵とは気海・丹田のつもりである。これを第1作にあわせて瞑想編のタイトルにしようとしたが、抽象的でわかりにくいと思ってやめた。気を気海・丹田に下ろすことで、身心の滓をほぐすのが健康法だというのが、私の当面の〝悟り〟である。

 練習(修業) は、事情が許す限り、毎日やるのがいい。これも昔話で、名前は忘れたが、有名な歌手が「1日練習を怠ると、自分にわかる、2日怠るとマネージャーにわかる、3日怠ると、観客にわかる」と言ったらしい。1日、練習をさぼると自分にわかるところが肝心である。すべては体が教えてくれる。悩んだ時も自分の体に訊く、そうすれば今何をすべきか、教えてくれるだろう。

 先生の本(『気功瞑想でホッとする』春風社)に、雑念に寄りかかるのはそれが気持ちがいいからだが、雑念や眠気を乗り越えたら、それとは較べられないほどの良い気持ちを味わうことができる、と書いてある。「辛さが消えるのではない。辛くなくなるのだよ」という禅僧の言葉もある。

 「血が上る」と言う。「心火」もまた上ってくる。「上虚下実」こそ健康な状態であり、後書で紹介した白隠禅師は、観想するとき「およそ生を保つの要は気を養うにしかず、気、尽くる時は身死す」と3度唱えることを勧めている。

 先生の教えの中でとくに重要だと思うのが、この気の下ろし方である。意識して気を下ろす状態(意領気行)から気が自然に下りて意識がそれに従うよう(随意気功)になり、最後に意と気が一体化する(15P参照)。そのとき、身体の荒れた状態が細やかなものに変わるようで、これを私は「粗触」から「細触」への変化ではないかと思っている。

 いずれにしろ、そうして坐っていると、身心の滓がほぐれて下っていき、穏やかな気持ちになる。そして、その先に真の瞑想状態が訪れるだろう。朱剛先生によれば、そのとき、その人の「人間性」が変る。もっとも、これはただいま現在、修業中である(^o^)。