まともな人間を育てない「教育」
A 旧統一教会問題、安倍国葬、コロナ第7波、そして岸田政権の迷走、立憲民主党のグダグダ――、このところのニュースを見るにつけ、怒りを感じるより、むしろ脱力感に襲われます。このまま、国会も開かれず、統一教会問題もフタをされ、国葬実施となりそうな‣‣‣、これだけの不条理に対して、国民の自浄作用が働かないのは何故なんでしょうね?
日々起こる政治的事件を追いかけるのにいささか疲れて、久しぶりに池田晶子さんの『人生のほんとう』という本を開いてみました。「人間が崩れてきた」と書いています。拝金主義が横行してきたというのがメインの主張ですが、16年前にこういうことを述べているのはさすがです。
B まず自民党議員が崩れ、野党議員も崩れ、岸田政権はまさに崩壊寸前、しかし、しぶとく持ちこたえている。自民党議員有志の会が「安倍元首相を『永久顧問』にした」という報道がありましたが、死者を「永久顧問」にするというのはどういうことでしょうか。ここでは日本語も崩れていますね。
A 何もしない岸田内閣なのに、なんと原発を再稼働し、新設も視野に入れると報じられました。東京新聞&中日新聞社説が「あの悲惨な原発事故をなかったことにしようというのか」と強烈に一発かましていましたが、岸田首相の背後にいるのは誰でしょうね。
B 古代ギリシャの哲学者、ディオゲネスは真昼間からランプをともして、行きかう人びとの顔を照らしていたらしい。「何をしているのか」と問われたとき、彼は「人間を探している」と答えたと言います。昔から「まともな人間」はなかなかいなかったということなんだろうけれど、当今の日本の現状を見ると、「まともな人間」が、とくに自民党周辺では絶滅した印象を受けますね。「アベノウィルス」、恐るべしです。
A 国民はどうかというと、さすがに報道各社の世論調査では国葬反対が賛成を大きく上回り、岸田内閣支持率も急落していますが、岸田内閣を打倒するような国民運動までには至っていない。メディアの追及も手ぬるい。国民の間の「まともな人間」の比率も低下しているようです。
B とくに若い層で内閣支持率が高いし、国葬賛成者も多い。これこそ安倍政権8年余の「成果」ではないかと思わされます。すっかり従順に飼いならされ、物事を批判的に見る力がなくなっている。ここに「失われた教育」が大きな影を投げかけていると言えるでしょう。
もっとも、若い人だけの傾向でもないですね。自分の歳がら、高齢者専門の精神科医、和田秀樹さんの本をいくつか読んでみたけれど、その中に「テレビを見て、『そうだったのか!』と感心しているだけでは老後は心配と言えるでしょう」と書いてあった(^o^)。池上さんはそう言うが、私の経験ではそうとは言えないというふうに考える力が必要だと。そう言われると、池上彰がもてはやされる現状も変ですね。教育とはただ物事を知っているということではない。
A 池上彰がもてはやされるのは、彼の訳知り顔の能書きにころりと騙される手合いが多いからではないでしょうか? 池田晶子さんが『14歳からの哲学』以来言い続けたように、自分の頭で考えることが必要なんですね。
B 全般的に「知性の劣化」は否定しがたいですね。エマニュエル・トッドの『大分断』(PHP新書、2020)という本には「教育がもたらす新たな階級社会」という副題がついており、教育が知性を育むことから離れて、ただの「資格」取得のためとなり、物事を考える暇もなく学歴を積み上げていくだけの「自分でものを考えない」、「愚かな」人びとが指導層を生み出していると書いてあります。
教育の変貌は世界共通のようですが、それにしても日本の現状はひどい。自民党政治家や評論家の中に、東大&ハーバード大卒などと経歴はずいぶん立派だが、なんと馬鹿なことを言うものかとあきれる人がけっこういる。教育と知性が切り離されているばかりか、高等教育を受けている過程でむしろ知性を失っていく恐れさえある。
そのいい例が統一教会との関係をめぐる山際大志郎経済再生担当大臣です。2016年にネパールで統一教会系団体の国際会議に出席しスピーチもしているのにこれを否定し、報道でその証拠を突き付けられると「明確に覚えていないが、報道を見る限り出席したと考えるのが自然だと思う」と、まるで子どもの言い逃れのような発言をした(後に写真を見せられて「明確に出席した」と認めた)。この人は以前にも「我々は野党の人からくる話は何一つ聞きませんよ」と臆面もなく民主主義のたてまえを否定しています。大学院まで行って専門知識以外には何も学ばなかったようですね。
ここにはもはや一片の「知性」もない。知的劣等生で悪ガキのような人間を党首にかつぎ、8年余も首相として君臨させた自民党集団にこそ知性の鈍化は否めないですね。山際大臣を依然として閣内にとどめている岸田首相も例外ではない。
A 信者から半ば強制的に大金を差し出させたり、壺などの霊感商法で法外な金を巻き上げたりしていた反社会的集団である統一教会と、なぜかくも多くの議員が関係をもっていたのか。自民党ばかりでなく、立憲民主党など野党にも毒牙は伸びていたらしいが、そのことが明らかになったあとの各議員の対応そのものがまことに「まとも」でない。ひと昔前なら内閣総辞職ものなのに、その元凶ともいうべき安倍前首相を国葬にしようという驚くべき事態です。
・「お前、さしずめインテリだな」
B コラム⑦でふれた「明るい闇」とも関係しますね。安倍元首相の献花にきた若い母親が理由を尋ねられて、小さな子どもを見ながら「この子が(首相を)好きだったもんで‣‣‣」と答える。今回当選した元タレントは選挙期間中も、当選後もほとんど発言していないようだけれど、要は自分に関わる問題にすら意見を言えない。統一教会の後押しがあったとはいえ、こういう人間を選ぶ有権者も情けない。
一時「反知性主義」というのが話題になったけれど、それには2つの側面がありますね。1つは知性をふりかざす人間に対する批判、あるいは揶揄です。寅さんの「お前、さしずめインテリだな」に象徴される、むしろ健全な精神です。ここには「嘘を100回もついたら地獄で閻魔さまに舌を抜かれるよ」という庶民の知恵もあります。
もう1つが知性そのものへの無関心、反抗、蔑視です。これはアメリカなんかで顕著なようだけれど、知性全般の否定で、これが日本に入ってくると、「ものを知らなくても平気」という態度になる。
大学生が「高校で世界史を取らなかったから、ナポレオンって知らないんだよね」などと言います。昨今の教育は無知で大勢順応的な人間や、知識はあっても人間的にどうかと思うような人材を育ててきた。安倍政権が進めてきた教育改革の本質でしょう。
A バラエティー番組のコメンテイターの多くがいわゆるタレントで大勢順応的な発言が多いけれど、「お前、さしずめインテリだな」ぐらいの芸人としての矜持をもってほしいですね。
B 立身出世主義のころから学問を出世の方便にしてきた人は多く、東大法学部などはその最先端だったけれど、それとは違い、人格の陶冶をめざすとか、社会のために尽くす、あるいはそのような発見をするとか、まあ、ふつうに学問とか教育という言葉で頭に浮かぶような学問をめざす人も一定数いました。社会そのものがそういう人への尊敬の気持ちをもっていたわけですね。
A 教育の産業化なんてあり得ないですよ。ところが「人文系の学問はいらない」などとわけのわからないことを言う政治家がいる。2019年のれいわ街宣で応援弁士として登場した前川喜平さんが「自民党政治は印度哲学を学びたい学生にはまるでお金を出さない政治ですよ」と警告していたのを思い出します。
B 最近は子どもに投資の勉強をさせようとまじめに言っている人がいて、実際、そのような施設もあるようですね。
A 狂っているとしか言いようがない。池田晶子さんが指摘していますよ。小さな子どもまで「お金が欲しい、金儲けをしたい」と、夢ではなくて欲望を語る時代だけれど、「たとえ世界をわがものにしたとしても、心を失えば終わり」だと。五輪汚職で逮捕された電通の高橋治之元専務は年収4億円(?)だとか聞きましたが、彼が子どもの理想ということになると、これは恐ろしい。
B ハーバード大学教授のマイケル・サンデルは『それをお金で買えますか』という本で、市場が入り込むべきでない分野に市場が介入することで道徳、規範に変化が生じることを強調しました。たとえば本を読む習慣をつけるために、子どもに1冊本を読んだらなにがしの小遣いか褒美をやると、本を読むという行為が小遣い稼ぎに変質する。それでも読むようになればいいという面もあるが、結局、本を楽しんで読むという習慣が失われる。すなわち価値観が変わる。「生きていくうえで大切なものに値段をつけると、それが腐敗してしまうおそれがある」と言っています。
A 教育を市場原理にゆだねることが問題ですね。
B 空気、水、電力といった本来、人類共有の財産(コモン)であるべきものが資本に取り込まれて価値を付加され、そのことで人々の生活が脅かされている現状があるわけです。
A 岸田首相の「新しい資本主義」は官僚の入れ知恵だと思いますね。最近は資産倍増計画などと言い出した。「所得」ではなく「資産」です。どこまで行っても金のことばかり。子どもの投資の勉強は「新しい資本主義」にとって不欠欠だなんて言いだしそうですね。ちなみに高橋元電通専務がつくった会社の名は「コモンズ」なんですね。人類の共有財産までしゃべりつくそうという決意ですかね。
B そもそも学ぶということは人格を陶冶するというか、「まともな人間」になるためだったはずだが、教育が社会の底辺にまで広がると同時に、教育の質が変化して、本来の趣旨から外れてきているのはまことに皮肉です。そういうふうに育った人が社会の指導層になり、「教育」をはき違えたような教育改革に奔走、統一教会や国葬問題を生み出している。先のトッドも「今後は名誉がインセンティブとなるシステムに戻していかないと、社会が立ちいかなくなる」と言っています。まったく、「武士は食わねど高楊枝」とうそぶくほどの人材がほしいですね。池田晶子さんが「人間が崩れてきた」と言ったのはそういうことでしょうね。



最初のころの顔ぶれには村瀬さん、おてもりさん、斎藤さん、編集部の宮脇、見沢両君、「あむ」の荒瀬君、小本さんなどの姿も見え、まさに『ASAHIパソコン』気勢会の趣で、当時の出版局次長、柴田鉄治さん、三浦君なども参加してくれている。その後はときに地元鎌倉の作家、井上ひさしさん、CGの大家、河口洋一郎君なども顔を見せた。雨の日に若い女性陣が気を利かせて持って来てくれたぬいぐるみで大いに盛り上がったこともある。明治大学の夏井高人さんも一度来て、しこたま酔っぱらって帰っていった。法政大学の白田秀彰さんが他の人とは群を抜いた伊達姿で若い女性と写っている写真も残っている。
私が『アサヒグラフ』編集部員の時で、徒歩で描き出した壮大な絵地図の作者を紹介してもらったのがきっかけだった。
りと並ぶ『ASAHIパソコン』を見せてくれたときは、ちょっと感激した。北九州から中国文学者の林田慎之介さんがやってきて、朗々たる歌声を披露してくれたこともある。林田さんとは『月刊Asahi』時代に三国志特集をするときに寄稿していただいて以来の仲だが、その縁で知り合った知泉書館の小山光夫さんも常連の花見仲間で、彼にはそ
の後、私のサイバーリテラシー3部作を出版していただくことにもなった。同書館の高野文子さんが一緒だったこともある。
コンもだんだん自分に似てくる」などとしゃれたことを言って私を喜ばせたのである。その日は偶然の再会を祝してすぐ食事に出かけ、乾杯した(写真は『アサヒグラフ』1981.4.17号)。
そんなことで昼過ぎになると、両グループはすっかり打ち解け、にぎやかな花見が始まった。梶原君は今でも「あのときほど酔っぱらったことはない」と回想している。我々は重い発動機を山に持ち上げ、レンタルのカラオケマシンで景気をつけたが、先方の飲み屋の女将が「花見にカラオケなんて無粋なものは持ち込んじゃダメ」と制止するのも聞かず、仲間から飛び入りも出て、花見は大いに盛り上がった。
たのが伊東君の長男、直基君である。若かった3人ももう50代半ばである。
好き、花見をすると言ったらさっそく、出演してくれることになった。我が家に衣装を持ち込んで身支度を整え、しゃなりしゃなりと山に登る。「よっ!桃太郎」と拍手喝采で、通行の花見客からおひねりも飛んだ。あいにく雨の日に、敏ちゃんがせっかく用意したのに、と夕方になって鶴岡八幡宮の段かずらまで繰り出したこともあった。
くれた西田雅昭さんである。彼はたしか2回目から最終回まで毎回、参加してくれたばかりか、コンピュータ仲間の黒岩潤司、久米正浩、市川剛、橘静枝、倉田彰敏、大江富夫、松島好則といったコンピュータやインターネットの猛者をどんどん誘い、それらの人びとがまた常連になって、花見グループの一大勢力を築くにいたった。みんな飲んベイかつうるさ型で、花見はいよいよ盛り上がった。『DOORS』を手伝ってもらった加藤泰子さんが顔を見せたこともある。
西田さんは現在、ライフワークとも言える『治安維持法検挙者の記録―特高に踏みにじられた人々』(小森恵著、西田義信編、文生書院)のデータベース作りに取り組んでおられる。恩師の小森恵さんが手がけた治安維持法検挙者のデータを引き継ぎ、2016年に大部の書物を刊行したが、そのデータをより完璧なものにすることにほとんど独力で取り組んでおられる。こういうことにこそ国(デジタル庁)の補助がほしいものだとつくづく思う。
た安田央、渡邊淳、新井健太郎、西岡恭史各君、やはりサイバーリテラシー研究所仲間の齊藤航君や藤岡福資郎君たちが参加するなど、メンバーも大きく移り変わったが、初期の参加者の輪はずっと続いた。ライターの吉村克己君や『月刊Asahi』で一緒だった高野博昭君は初期から参加してくれたし、朝日新聞の同期で大妻女子大学教授になった松浦康彦、『DOORS』で一緒だった鎌倉在住の角田暢夫両君も後半の常連だった。元NECの後藤富雄さんもその1人で、玄関にびっしり並んだ別人の靴を履いて帰ったこともある。

発表当時、大いに話題になったはずだが、トフラーの『第三の波』から遡ること20年というのはすごい。これらの論考を集めた『情報の文明学』『情報論ノート』(いずれも中央公論社)が1980年代末に出版されているが、いま読み返してみても、新鮮な驚きに打たれる(「情報産業論」の先駆性については、本サイバー燈台所収の小林龍生「
これからは「情報の検索、処理、生産、展開についての技術が、個人の基礎的素養としてたいせつなものになる」との認識のもとに、その具体的技術を紹介したものだ。「情報の時代における個人のありかたを十分にかんがえておかないと、組織の敷設した合理主義の路線を、個人はただひたすらはしらされる、ということにもなりかねないのである。組織のなかにいないと、個人の知的生産力が発揮できない、などというのは、まったくばかげている。あたらしい時代における、個人の知的武装が必要なのである」とも書いている。
創刊前の1988年3月、木村泉『ワープロ徹底入門』(岩波新書)が出版され、たちまちベストセラーになったことが私に大きな自信を与えてくれたのだった。そのころすでに十数万部が売れていた。コンピュータという専門領域の話をやさしく語った文章、「とことん派」を自称する著者の徹底した実証精神が、多くの人に、この本を手にとらせたのである。
冒頭で、木村さんは「ワープロは洗濯機や電子レンジと同じようなものでね。ま、食わずぎらいしないでつきあってやって下さいよ」と読者に呼びかけ、その気のある人には「若いもんにばかにされないように、ワープロとの具体的なつき合い方を伝授する」と約束していた。さらに著者としてやりたいこととして、「ワープロがわれわれの生活にさいわいをもたらし、災いをもたらさぬようにするための手だてをさぐりたい」と、社会的影響にも言及していた。「ワープロ」を「パソコン」に置き換えれば、私が『ASAHIパソコン』でやりたいと思っていることではないか。
数学の森毅・京大教授には、1990年初頭に会っている。専門の数学を離れて、文学、評論の分野でも活躍、その飄々として、しかも歯に衣着せぬ発言で「森一刀斎」とも称されていた森さんに、パソコンよもやま話、情報社会とのつきあい方を聞いた。話は多岐にわたり、いずれもおもしろかったが、プライバシー問題にからんでの「情報社会とバグ」の発言を紹介しておく。まことに含蓄深いというべきだろう。
『教育とコンピュータ』(岩波新書)の佐伯眸・東大教育学部教授には、コンピュータのシミュレーション機能を中心に話を聞いた。佐伯さんは、コンピュータが経験代行的なシミュレーションに使われていることに疑問を呈し、「シミュレーションといわれているものの何がおかしいかというと、シミュレーションを作ったプログラマーのコンセプト、目的意識、メタ理論などを隠すところです。舞台の前面だけを見せて、すべてを描き出しているがごとく見せて、われわれを受け身の観客にしてしまう。代行させようとしている人の意図が浅い場合、一見うまくいっているように見えても深まりがない
し、またほんものそっくりになってしまったら、現実を力学の対象としてみるのか、美術の対象としてみるのか、それらが全部はいってしまい、ということは、結局、何にも見えなくなってしまう」と言った。
ジャケットにジーパンというラフな姿。しかし、ネクタイを締めていた。髪はふさふさと、足は長く、軽快そうな靴をはいて、とても50歳過ぎには見えなかった。目はやさしく、いたずらっぽく、笑っていた。ハワード・ラインゴールドは『思考のための道具』でネルソンについて「社会的おちこぼれで、うるさ型の自称天才である。……。野性的で活気があり、想像力が豊かで、神経過敏であるためか職につくのに問題を起こしがちで、同僚とトラブルが多い。彼こそ、数年前は10代前半で自作のコンピュータやプログラムに夢中で、現在はパーソナル・コンピュータ産業での立て役者である世代の隠れた扇動者である」と書いている。インタビューした感想で言えば、才気にあふれ、上品なユーモアセンスを身につけた、実に魅力的な人だった。父親は『ソルジャー・ブルー』などで有名な映画監督、ラルフ・ネルソンで、母親も女優だった。
ハイパーテキストは、いくつかの枝分かれ構造と対話型の応答を基本にしているが、そういった考えを最初に商品化したソフトが、マッキントッシュ用の「ハイパーカード」だった。ハイパーカードの開発者、ビル・アトキンソンさんは、絵を描くソフト「マックペイント」の開発者でもある。
紀田順一郎さんは仕事に趣味にパソコンをフル活用し、「パソコンが文字通りパーソナルな道具になれば、個人の知的生活はより豊かになるだろう」と考え、実践もしていた「パソコンの達人」で、話を聞いて楽しく、また同感することも多かった。当時紀田さんが使っていたソフトは、ワープロが一太郎、データベースがdBASEⅢ、表計算がエクセル(マックⅡで使用)。ワープロ辞書についてとくに話がはずんだ。
石綿さんは、『ASAHIパソコン』の表記基準策定にあたってのお知恵拝借インタビューだった。たとえば、『アサヒグラフ』では、朝日新聞でふつう使われているように、コンピューターと音引きを入れていたが、『ASAHIパソコン』では、専門誌の立場から、コンピュータ業界でふつうに使われるコンピュータと音引きなしに統一し、そのように表記していた。
インタビューしたのは総勢44人で、ほかにもこんな方々がいた。事故で手足の自由を失いながら持ち前のがんばり精神でパソコンに挑戦、CG(コンピュータ・グラフィックス)で作品を発表したり、パソコン通信で同じような仲間に夢を与えたりしていた上村数洋さん。金春流家伝の太鼓の手付きをワープロで表記していた金春惣右衛門さん。パソコン通信、琵琶COM.NETで活躍していた陶工の神崎紫峰さん、神崎さんは古信楽焼を再興した人で、私は
その苦労話に大いに感激、誌面もそちらの話が多くなった。秋葉原電気街の知る人ぞ知る「本多通商」の本多弘男さん。「マイコン乙女」にして「UNIX解説者」の白田由香利さん。
サ開発に大きな役割を果たした嶋正利さん。『思考のための道具』の著者で、その後もたびたび来日していたハワード・ラインゴールドさん。NECでパソコン事業部立ち上げに貢献した渡辺和也さん、彼は「物事を始めるベストタイミングは80%の人が反対している時だといいますよね」と思わず膝を叩きたくなるようなことを言った。当時放送教育研究センター助教授で
、後に東京大学大学院教授となった浜野保樹さん、『ハイパーメディア・ギャラクシー』や『同Ⅱコンピュータの終焉』などの意欲作で、コンピュータが中心となって推し進める将来像を洞察しようとしていた。情報法の権威で、高度情報社会のプライバシー問題に取り組んでいた一橋大学教授の堀部政男さん、など。
このインタビューをふりかえって思うことは、1つには『ASAHIパソコン』の仕事が、私にとって常に新しいことへの挑戦だったことである。もう1つはこの35年におけるコンピュータ、およびインターネットの発達のすさまじさである。かなりの人が話してくれた将来の夢は現在ではほとんどかなえられている。テッド・ネルソンさんが言っていたベイパーウエアがいつの間にかインターネットの現実になっているのである。一方で、当時は想像もしていなかった新しい事態がいま人類全体を深く覆っている。私は2000年ごろからIT社会を生きる基本素養として「サイバーリテラシー」を提唱するようになった。
私のコンセプトを肉付けして誌面化するにあたって、三浦君はその編集マインドをいかんなく発揮して、彼の個性をうまくまぶしつつ、すばらしい形にしてくれた。三浦君は私より7歳、熊沢さんは5歳年少だったが、その2人とも今はこの世にない。そういうこともあって、この記録を書く気にもなったのである。
ムック5冊を出し終えてほっと一息ついたころ、出版されたばかりのロジャー・レウィン著、三浦賢一訳『ヒトの進化 新しい考え』(岩波書店)という本の献呈を受けた。サインの日付が1988.1.18となっている。三浦君の専門は生物学であり、めざしたのは科学ジャーナリストだったのである。
『科学朝日』時代には世界のノーベル賞学者20余人にインタビューした『ノーベル賞の発想』(朝日選書、1985)を世に問い、科学ジャーナリストとしての高い評価を受けていた。この本のあとがきで彼は「ノーベル賞を受賞するような飛躍は、守備範囲を狭く限定したような研究からは、なかなか生まれにくいようにみえる。守備範囲を限定しているようにみえても、広い範囲の知識を吸収し、広い視野を持っていた人が飛躍を成し遂げたというパターンがありそうに思われる」と、いかにも彼らしい控えめな表現ながら、意味深長な「真理」を語っている。
創刊から4カ月ほどたった2月15日号から3回にわたって「すべてはパロアルトから始まった」というルポが掲載された。筆者は三浦賢一君である。パソコンに向かいっぱなしのデスクワークから少し離れてのんびりしてもらいたいという気持ちもあって、パソコン発祥の地、アメリカ西海岸を訪ねてもらったのである。
目玉は何といっても、村瀬康治の「入門講座」だった。村瀬さんはアスキーから出版されていた超ロングセラー『入門MS-DOS』、『実用MS-DOS』、『応用MS-DOS』のMS-DOS3部作などの著者として、この世界では知らぬ人のない人だった。村瀬さんに入門講座を引き受けていただけたのがラッキーだった。
ムックのところで紹介した小田嶋君には、パソコン雑誌のライターらしからぬ、ものの見方、身の処し方が気に入って、「路傍のIC(石)」連載となった。実は、小田嶋君には創刊前に作った㏚版(ダミー版)で、特集の「徹底活用をめざして あなたのパソコン度チェック」を手伝ってもらい、コラムとして「追いつめられるパソコン・ビギナーの憂鬱」も書いてもらっている。
ムックの「苦難」でとりつかれたというか、その才能に魅了されというか、私たちはすっかり小田嶋ファンになり、いろいろ手伝ってもらおうとしたのである。特集は編集部との合作で、適性度、親密度、習熟度、中毒度の4レベルにあわせてそれぞれ20のチェック項目をつくり、質問に答えてもらって、そのパソコン度をチェックした。「片手で食べられるものが好きだ」(適性度)、「98といえば、パソコンとわかる」(親密度)、「DIR/Wを知っている」、「『我が心はICにあらず』の著者を知っている」(以上習熟度)、「音引きのあるカタカナは気持ちが悪い」、「2の乗数に愛着を感じる」(以上中毒度)などのユニークな項目と寸評、最後に掲げた「快適パソコン・ライフのための格言」まで、ダミー版には惜しい内容だった(古川タクさんのイラストが来るべき雑誌のパソコン初心者にやさしい特徴をうまく表現してくれた)。コラムもまた秀逸で、本人とも相談した結果、『ASAHIパソコン』本誌ではコラムを担当してもらうことになった。
アサヒパソコン編集部が1988年5月に発足したとき、配属されたのは間島英之君と西村知美さんだった。創刊時には宮脇洋、工藤誠君が加わった。この6人態勢で月2回の雑誌を出したのだから並みの忙しさではなかった。それぞれ連載を担当しつつ誌面の目玉ともなる特集づくりに翻弄された。出版局内の広報誌「出版局報」で宮脇君や間島君に「2人でムックを年5巻も出したりするから、こんな過酷な状況になった」と怒られている、と書いている。筆者を社外に頼るしかない事情のせいもあったが、編集部員の数で言うと、月刊の『科学朝日』と比べても、彼我の差は歴然としていた。
「自他ともに認める機械オンチ」だった万智さんが「短歌のためならエーンヤコラ」と一大決心をしてパソコンに挑戦、悪戦苦闘しながらも、「さまざまなハイテク・ランドをめぐりながら、『言葉』について考えた」楽しいエッセーは、新たな魅力をつけ加えてくれた。万智さんが言っているように、それは、「万智さんの私生活が少しわかる欄」であり、「初心者に勇気を与えるページ」でもあった。担当した間島君の指導よろしきを得た結果でもあった。
MIT(マサチューセッツ工科大学)メディアラボとニコラス・ネグロポンテ所長は、当時のコンピュータ関係者にはあまねく知れ渡った名前だった。MITはアメリカ東海岸、ボストンにあるテクノロジーの総本山で、メディアラボは45ある研究所の中の一つだった。コンピュータとコミュニケーションに関する最先端研究施設として、1985年から実質活動に入っている。ネグロポンテ所長、ジェローム・ウィズナーMIT学長らは、メディアラボ設立にあたって、精力的なスポンサー探しに乗り出し、パーソナル・コンピュータ産業、映画・出版などの情報産業に働きかけるとともに、日本からも多額の資金を集めており、出資企業の社員を研究員として受け入れたから、MITで学んだ日本の企業人も多かった。

アラン・ケイは、最初のパーソナル・コンピュータともいえるアルト(Alto)計画の中心技術者であり、幼稚園の子どもから研究所の科学者まで、だれもが楽しみながら使える「創造的思考をするための道具、ダイナブック・メディア」の提唱者として知られている。ケイ自身が描いた、2人の子どもが野外で「ダイナブック」を使っているたった1枚の絵(写真)は、「夢のパーソナル・コンピュータ」を人びとの前に具体的に提示し、その実現に向けて無限のインパクトを与えたのだった。
またジョブズは1984年にマッキントッシュを発売したとき、SF映画の傑作『ブレードランナー』の監督、リドリースコットを起用して、有名なコマーシャル・フィルムを作っている。下敷きにされたのがジョージ・オーウェルのSF『1984年』で、パーソナル・コンピュータで大型コンピュータがもたらす超管理社会を打ち壊すとの夢が託されていた(1984年1月22日に一度だけ放映された)。一方のビル・ゲイツがIBM-PCの基本ソフト(OS)、MS-DOSを開発して今日に及ぶマイクロソフトの基礎をつくったこともすでに述べた。
1997年7月、有名なコンピュータ雑誌、『ASCCI(以後、アスキー)』が創刊されたが、当時のマイコンはディスプレイもなく、マニアの少年たちが自分でプログラムを打ち込んで遊ぶ、ホビー用のおもちゃだった。だから、初期の『アスキー』には、アルファベットや数字がぎっしり並んだプログラムが何ページに渡って掲載されていた(キャッチは「マイクロコンピュータ総合誌」)。NECのマイコンキット、TK-80が、その象徴的マシンである。
『アスキー』から6年後の1983年10月、日本経済新聞社 (日経マグロウヒル社、その後日経BP社)から『日経パソコン』が創刊された。このころからパソコンは、ビジネスの強力な武器に変身する。記事の中心は、ビジネスマンに向けた、ワープロや表計算、データベースといったアプリケーション・ソフトの使い方ガイドだった(キャッチは「パソコンを仕事と生活に活かす総合情報誌」)。ムックで取り上げたNECのPC-9800シリーズの発売は1982年末であり、これがその象徴的ツールである。
とは言うものの、最初から『ASAHIパソコン』に期待して支援してくれる人もいたし、「自分で使ってみなければ何も始まらない」と、最新のラップトップパソコンを買って仕事に打ち込んでくれる広告部員も現れるなど、『ASAHIパソコン』創刊ムードはしだいに高まっていった。創刊を予告した社告への反響がすごくよかったり、岩波新書から出た『ワープロ徹底入門』(木村泉著)という本がベストセラーになったりといった社会の流れにも後押しされて、立派なキャッチコピーも出来上がった。<「『ASAHIパソコン』は便利なパソコン使いこなしガイドブック」「使っている人はもちろん、使ってない人も>。
ムックを出すと決まったとき、私たちがまずPC-98を取り上げようとしたのは、当時、パソコンと言えば、日本電気(NEC)のPC-98(キュウハチ)と相場が決まっていたからである。これからはパーソナル・コンピュータの時代だと、これまで大型コンピュータを作っていた日本の電機メーカーは、日本電気も富士通も東芝も日立もシャープも、そろってパソコンを出し始めたが、その中でPC-98は圧倒的シェアを誇っていた。その代表的機種がPC-9801シリーズだった。「パソコンと言えば98」の時代があったのである。
PC-9801シリーズは1983年10月に発売され、当初は29万8000円だった。メディア(記憶装置)は8インチのフロッピーディスクでハードディスクは内蔵されていなかった。85年のVMシリーズが普及機として有名で、ジャストシステムの日本語ワープロ、一太郎はこのころに出ている。86年5月に発売されたUV2からディスクドライブが5インチになった。
フト、販売会社、価格の順)、個別にソフトの本数をあげると、ワープロ16、表計算5、データベース10 、グラフィック8、通信7、エディターを初めとするユーティリティ11など、全部で約60本になる。これらのソフトを初心者、中級者、上級者、個人向け、オフィス向け、スペシャリスト向けなどのラベルとともに紹介した。
ムックの第2号は『おもいっきりネットワーキング』、ようやく盛んになりつつあったパソコン通信ガイドだった。ネットワークとして、PC-VAN(ピーシーバン)やアスキーネット、日経MIXなどを紹介している最中に、NIFTY-Serve(ニフティサーブ)が発足した。草の根ネットワークとして、地方のBBS(Bulletin Board System パソコンをホストにした小規模パソコン通信ネット)が個性的な活動を展開しつつあり、大分のC0ARA(コアラ)が話題になっていた。この号はネットワーキングの世界で精力的に活躍していた会津泉さんに協力してもらった。
他のムック、『おもいっきりワープロ』はまだ利用する人の多かったワープロ専用機のガイド、『おもいっきり電子小道具』はラップトップパソコンから電子手帳、電卓、多機能電話、時計、おもちゃにいたるまでの、まさに電子小道具全カタログである。『ワープロ』では脚本家のジェームス三木のワープロ生活を紹介したり、演出家、鴻上尚史に「はじめてのワープロ通信」に挑戦してもらったりしている。それぞれハードやソフトの徹底紹介が基本だが、それでもいろいろ読み物に工夫しているのは、いま振り返るとほほえましくもある。それらの編集作業にも尽きぬ思い出があるけれど、今回はここまで。また別の機会に紹介することもあるだろう。
多くの社外ライター、カメラマン、イラストレーター、デザイナーなどのおかげで、波乱万丈だったムックは5冊とも予定通り刊行できた。それは朝日新聞入社以来、私たちが一番よく働いたときだったのではないだろうか。各巻に「編集に協力してくださった主な人々」を紹介しているが、ほとんどが20代、30代である。40代はおそらく私だけだったと思う。ちなみに小田嶋君は30歳だった。みなさんにあらためて厚くお礼申し上げます。
このムックの売り上げが好調だったことが翌1988年からの『ASAHIパソコン』創刊に結びつくのだが、すでにマックに親しみパソコン通だっただけでなく、優秀な編集者にして科学ジャーナリストだった三浦君とシャカリキになって過ごした多忙な1年間はことさら思い出深い。先に記した熊沢正人さんも、このとき助っ人として参加してくれた。小田嶋君にまつわるほろ苦くも感動的な思い出は、4冊目の『おもいっきりデスクトップ・パブリッシング』をめぐってだった。
仲間は入れ替わりがあったので正確な人数は覚えていないが、私は小田嶋君グループを「逃がさない」ことを第一義に、全員に社の簡易宿泊施設(2段ベッド)に泊まり込んでもらった。仮眠するときも警戒を怠ることなく(^o^)、3日ぐらい作業を続けたと思う。いまならブラック企業と批判されるところである。作業終了後、小田嶋君たちは不精ひげをはやしたまま、げっそりして帰っていったが、私たちとて同様だった。
小田嶋君の送別会の席で、奥さんに「『ASAHIパソコン』の初代編集長」と名乗ると、よく覚えていてくださり、「矢野さんにはたいへん迷惑をかけた、とよく言っていました」とのことだった。私は持参した『おもいっきりデスクトップ・パブリッシング』を見せながら思い出話をしたのだが、小田嶋君が「迷惑をかけた」と言ったのはこのムックのことではなく、その後創刊した『ASAHIパソコン』のことだと思う。