[Japanese] [English]







市民をただの素人でなくするための情報開示が大切


小林 夏井さんがあれだけいいかげんなことを言ったので、僕もいいがけんなことを言っても許されるかなと思いますけれども(笑)、実はですね、皆さんのお話、とくに小野田さんのお話と横江さんのお話を伺っている時に、のどまで出かかった言葉があるんですね。僕が言うわけじゃないですよ。そういう言葉に対してどう答えるかっていう話なんですけれども、「素人はすっこんでろ」とか、「素人は黙ってろ」とか、そういう言葉が何度も頭をよぎったんですよ。
   一応僕は文字コードの専門家ということになっていて、国際的な基準をどうするかとか、E-ガバメンスをどうするかという話をしているわけですけれども、そういう話の一環として、開発途上国のIT化のために文字コードをどうすればいいか、みたいなことも議論するわけです。そうするときに素人が来るわけですよ。善意で来てるのはわかってるんだけど、申し訳ないけれど「素人はちょっと黙っててくんない、じゃまだから」って思うことがたしかにあるわけです。
 で、何が申し上げたいかというと、そういう僕のような玄人ぶった訳知り顔の奴らをやっつけることができないか。できるはずなんですよ、そういう力を持たないと、たぶんだめだと思うんですね。
 さっきの中村さんの話はおもしろかった。僕も10年間、連画を見続けてるわけですけど、いみじくもF1クラスって言ったでしょ。そのF1クラスでやってたことを、カンブリアンで素人を引きずりこんだわけですよね。その素人を引きずり込んだ、そういう戦略みたいなものっていうのを、たとえば小野田さんにしても横江さんにしても、市民活動にしても政治の世界にしても、やっぱり必要なんじゃないかなということですよね。とりあえずの感想ということで(笑)。

横江 おっしゃる通りだと思います。だから、素人でなくするために情報を開示してほしい。やはり素人が出てきて、というか、そもそも論から始まっちゃうと議論にならないですし、パブリックコメントだって、専門家の意見が必要なものは専門家に聞いてほしい。いままでは、素人のままでいてくれた方がエリート民主主義としてはやりやすいっていうので、どちらかと言うと何も教えてこなかったわけですね。
 ちょっと宣伝ですが、近く文芸春秋から『シンクタンク』という本を出します。シンクタンクを調べてみると、アメリカでは議会とか政策の補完的な場所、研究機関ですよね。シンクタンクがなぜあれだけの力をもつようになったかというと、やはりデータベースなんですね。そのおかげでふつうの研究者も、一般人も、官僚と同じくらい情報も持てるようになりました。
 全員がすべてを読む必要はないと思うんですよ。必要がある人たちが、馬鹿なことを言わないためにも、こういったきちんとしたデータベースを作ってほしいと思います。エリート民主主義と大衆しかいなかったところに、もう一つ研究員ですね、大学の先生も、私たちのようにNPOで政策を提言する人もそうだと思います、そういう人たちが使えるツールになるっていうのが必要じゃないかと思います。

矢野 おもしろくなってきましたね。ネットワークの世界は誰もが参加できる。カンブリアン・ゲームと同じようにね。それはすばらしいことだが、一方で世の中の秩序みたいなものが混乱しているのも事実なわけです。新しい仕組みみたいなものはどういうふうに生まれてくるのか、あるいはどういうふうに作っていかなくてはいけないのかというのがこれからの課題だと僕は思うわけです。
 それはJCAFEなんかも取り組んでおられることだし、政治とか経済の分野でもそういう取り組みが行われていると思うんですね。そういう世の中の大きい問題とカンブリアン・ゲームという小さい問題には、共通の根っこがあると思うわけですね。無理やりそうまとめようとしている節もあるけれども(笑)、興味深いと思った次第です。

小野田 先ほどのご質問もからめてお話したいと思うんですけど、よく「専門家に任せておけば間違いがない」とか、あるいは「専門家の言うことだったらほんとだろう」とか言いますね。私たちの潜在意識の中になんとなく専門家だったらばというのが、夏井先生はそんなことないとおっしゃられてますけれども、やっぱり夏井先生がこういうことを書かれれば、そうかもしれないと思う方もいらっしゃると思います。だけどそうじゃないんですね。専門家に任せた結果がいまの日本の状態だと私は思います。
 「良識の真理」ということを言ってる方がおられますが、市民は自分の専門外のことであっても関心を持って、それに対して意見を言うだけのものを持っていなければいけないと、だいたいそんなことを言っています。私もそうだと思います。誰でも初めは素人だと思いますけれども、関心を持つことである程度、自分自身が責任を持つ、意見を持つというようなことを繰り返しやっていかなくてはならないんじゃないかと思ってます。これがいま求められているのではないかと感じています。

杉谷(法学部4年) 矢野先生のサイバーリテラシーの授業を受けている者ですが、中村さんのカンブリアン・ゲームの話に、連画も含めて大変興味もちました。先ほど顔のことがテーマに出てましたけれど、カンブリアン・ゲーム、連画等を通して何が生まれるか、そこに何が見出せるとか、そういったことを自分なりに考えてみたんですけど。サイバースペースの住人として自分がいるとき、個性が限りなく薄められてしまうんですね。やっぱり顔の見えない社会ですから、書き込んだりする文字とか文体って言ったらいいのか、口調とか、そういったものが、個性を示す大きなものになってしまっている。文面とかそういったことから人間性が判断されてしまうと思うんですよ。自分もインターネットを通してオークションとかそういったもので人とコミュニケーションとることがあるんですけど、相手の人柄を知るのって、言葉とかしかないので、僕に送ってくる相手の方のメッセージの口調とか、そういったものしか個性を測るものがないので、非常に前が見えなくて不安なんですね。
 そういったときに、連画ですとかカンブリアン・ゲームというのは、文字ですとやっぱり建前とか本音とかいろいろ書き分けられてしまったり、みんな同じ似たような文章になってしまったりしてしまうところを、非常にその、建前や本音を越えた部分で、それ以上の個性の領域でその人が全面に押し出されてくるので、相手がどんな人間なのか、どういった感性をもってどういうふうにものごとを見てるかとかどういうふうな着眼点を持ってるかとか、そういうことをカンブリアン・ゲーム、連画通していくと、文字以上にネットワークでの見えない相手を探る。もちろんお知り合い同士でのカンブリアン・ゲーム、連画やってるんでしょうけれども、もしそうでない部分でできるとすれば、それはやっばり、ネットワークの社会での見えない相手を探る、個性をみるという意味で有意義性が高いと思うんです。稚拙な感想でご容赦いただきたいと思います。

中村 これはもうぜひ、矢野先生のクラスで特別授業やります。もう、宣言します(笑)。

矢野 カンブリアン・ゲームやるの?

中村 カンブリアン・ゲームやりましょう。アナログでやって、それからデジタルでやっても。これはちょっと、後での話になると思いますけど。今の話はほんと、薄められてしまう、まさにそうですよね、流されてしまいそうでしょ。私もそうです。うっかりすると。そこに何とか杭を打って自分の中の圧を高めて、半生の状態で自分を出してしまわない。今、例えば小学生とか、ネットワークにかかわる人たちって、言わされちゃってたりね、無理やり発信させられちゃってたりして、自分の中で一回滞留する時間があまりにないように思うんですよね。その辺について私たちはすごくわがままで、できるだけ自分の中の圧、それから苦心して推敲って言うんですかね、物を書く世界で言うと、推敲みたいなことをしてから出そう。その手段を考えてるんですよね。だからカンブリアン・ゲームは、創作ではなくて、やっぱり個性を鍛えるトレーニング方法ぐらいに考えてください。その先に自分の得意分野とかいろんなものにつなげていったらいいと思います。

矢野 ぜひ今度は講師として。

中村 いやいや、助っ人。

矢野 助っ人としてね、来てください。

三根(他大学) たしかにアメリカの政府の電子化率はすごく高いですが、僕は日本の政府もそれなりにがんばっているのかなという印象を持っていたんですが、お話によるとそうではないということだったんですけれども。両政府の違いどこにあって、また、違いの背景というのはどこにあるんでしょうか。

横江 私もそれで論文を書こうと思っており、非常にグッド・クエスチョンですね。ずっと考えているんですけど、やはり蓄積するかしないかという考え方、民主主義の考え方の違いがすごく大きいと思います。日本は明らかにエリート民主主義だし、アメリカは参加型民主主義と簡単に言いますけど、あれは本当は参加することによって教育しようということで、責任からの民主主義を追求しようとしている。
 なぜそうなってきたかというとですね、やっぱり向こうはポリティカル・アポイントメントで、人がすぐ変わりますよね。情報やデータを残していかないと、次の人に伝えられない。それに、テレビができた時に、政治のあり方がかなり変わったんですよ。日本の場合、テレビができてもテレビ討論会もないし、選挙のやり方が大きく変わることもなかった。いま行政の方は紙を少なくしてるんですが、電子政府の中に入れるとあとから文句言われるのやだからって、元の紙情報そのものを少なくしているっていう悪循環も生まれているんです。情報を出すと怖いっていう気持ちがすごくあり、かなり民主主義的に遅れています。
 なぜそこに民主主義の考え方があるのかを突き詰めていくと、仏教とキリスト教の違いになっていくのかなと思うんですね。お坊さんしか説明ができない、読めない仏教と、だれもが読める聖書をつくる国という違いですね。簡単に申し上げると、民主主義の考え方、エリート民主主義か、説明型責任の考え方、あと市民の権利ですよね。説明責任の考え方が一番大きいんじゃないかというのが今の時点での考えで、なんとかこれで論文を書こうと思っています。

大野 ドコモシステムの大野です。ちょっと携帯電話とは関係ない(笑)世界なんですけれども、アメリカではパブリック・アドミニストレーションという学部がかなりいろんな大学にあって、そこが公的な行政のための専門家を養成しているわけですね。アメリカの大学にいたことがあるんですけれども、パブリック・アドミニストレーションの関係者と議論していて、この世界は日本にないなということを非常に感じました。

夏井 パブリック・アドミニストレーションだと考えられてきたものは、じつはどこの大学にもあったんですよ。ただ、それは違うように理解されていた。何かと言いますと、ほとんどすべての大学にあったものは公務員試験合格養成講座だった(笑)。つまり、パブリック・アドミニストレーションというのは、上司の言うことをきいて勤勉に働く、下僕としての公務員になるための資格試験に受かることであると、固く信じてやってきたのが日本なわけですね。だから根幹は、市民が自分で自分のためのエージェントを選出して、オフィシャルもそうであるという感覚を持っているか、持っていないかという哲学の違いだと思いますね。
 あと、情報があるかないかの違いは、これは小林さんも大野さんもまったく同意してくれると思うんだけど、アルファベットを使っている人は文字を記号として使っているんですよね。何かの記号の列を用いて、情報として蓄積していくという感覚が強いのに対して、日本人はどうもそういう感覚を持っていないかもしれない。少なくとも漢字は象形文字から始まっているから、文字に対する感覚がそもそも違うかもしれないし、記号の列によって概念を表すよりも、一文字一文字に思いを込めるというのが強すぎて、そのためにコミュニケーションの道具として機能しなくなってしまう。そういうこともあるんじゃないかと。
 それから、つけたしですが、参加していくために必要なものとして、ものを書いたり話したりすることを重視しがちだと思います。連画の話をうかがっていて、ポストイットに書くような自己表現は自分でもやれそうだし、すごく得意にできる人もいるだろうと思うんですね。大事なことは、すべての表現が手段であって、実現するための手段は人によって全部違うということですよ。ネットワーク社会と言われているものの、基本的なコンピュータ装置はたいてい二次元の平たい板の上で存在していて、表現できるものが少なすぎるので、それ以外のものがあるということを強調した情報政策を採用しないと、目から見ると人間のように見えるんだけれど、横から見るとペラペラの紙のような人間ばかりが増えてしまいかねないかな、と思ったりしました。

小野田 情報公開法がまだなかったころ市民活動をやっていて、官庁に出かけても情報が出てこないんですね。ところが、アメリカの情報自由法を使ってアメリカに請求をすると、山のような情報がもらえたことがあります。日本の厚生省みたいなところで「こういう情報がほしいんだけれども」と言うと「はいどうぞ」と。「データベースありますか」と聞くと「あります」。「日本からアクセスできるか」と聞くと、パスワードを教えてくれるんです。インターネットはまだ使われていないモデムで情報をやり取りする時代に、そういうことをやらせてもらえました。だから、すごくびっくりしました。そんなこともあって、ほんと日本は、と思います。
 だけど、先ほど母乳育児の話をさせていただきましたが、WHOの国際基準、マーケティングコードの批准が一番遅かったのもアメリカです。アメリカは、ネスレってコーヒーのメーカーだとみなさん思われますけど、粉ミルクをすごく扱っている会社なんですね。ネスレの粉ミルクの問題で製品のボイコット運動が起こってます。こういうことをなくすための基準なんですけれど、アメリカでは企業側のロビーングが激しくて、WHOコードは批准されなかったんです。
 日本もそれに同調して、賛成とも反対とも言わない、保留だとなりました。けれども今は普通のお母さんの認識も深まってきました。インターネットの力が大きいと思います。これまでこういうことを知っていたのは一部のお医者さんだったり、はじめから興味を持っていた人たちだけなんですけれど、何とかしなくてはというお母さんたちが翻訳を始めて、それをホームページに出すようになった。先ほどおっしゃった素人が次第に意見を持つようになったプロセスでもあると思います。

矢野 だんだん収斂しつつありますけれど、もう時間ですね。3人の方にいろいろお話しいただいて、それぞれは別個の話のようだが、実は大きいグローバル・ネットワーキングという円の中に入っている、と。これが今日の結論です(会場笑)、とまとめておしまいにしたいと思います。パネルの皆さん、お忙しいところをどうもありがとうございました。梅雨の中、天気もよくなかったんですけれど、お越しいただいた方もありがとうございました。お手伝いいただいた法学部事務局ほかの皆さんにもお礼申し上げます。<文責・矢野>


Copyright (C) CyberLiteracyLab