自民党&日本に深くたくみに潜行した統一教会
B 安倍元首相の銃撃事件をきっかけに、統一教会(旧統一教会と現世界平和統一家庭連合を一括してこう表記)は、信者の世界だけでなく政治の世界にも深くたくみに潜行していたことが、日に日に明らかになっています。
若いころ水中ダイビングで比較的浅い海底に立った時、ふと前の岩場を見ると穴から大きなウツボがこちらをにらんでいた。あの獰猛な面構え。目を移すとそこにも、振り向いた背中の後ろにもウツボがいて、ゾッとしてあわてて浮上したことがあります。その恐怖に似た感覚を今回、思い出しました。統一教会はこんなに日本社会にひたひたと浸透していたのか、と。長期に及ぶ異常とも言える安倍政権を支えていた構図の一断面がはっきり見えたようにも思います。
A 統一教会と議員に対する自民党の調査は相変わらずおざなりで、本丸ともいうべき安倍元首相、細田衆院議長などは調査の対象外、数々の関連が明らかになっている山際大志郎経済再生担当相も閣僚に居座ったままですね。
岸田首相は最近の国会で統一教会に対する宗教法人法に基づく調査を「質問権」を行使してやると言ったものの、解散命令請求が認められる法令違反として刑法だけでなく民法まで含まれると答弁するのに、1日の朝令暮改がありました。こんな腰の軽さでは、本気で解散命令を考えているようにも思えません。世論調査の内閣支持率急減にあわてふためき、この場をなんとか切り抜けようという魂胆が見え見えではないですか。
B 国政選挙で選挙の手助けをする見返りとして、統一教会側が自民党国会議員に対して教団の政策を推進するよう「推薦確認書」を提示し、署名を要求していたことも明らかになりました。そりゃそうでしょう、選挙事務所に教団員を無償で応援にかけつけさせ、雑務や電話応対をさせていた教団側からすれば、当然の見返りだったとも言えます。しかしこれは教会が日本の政治に影響を与えようとしていた証拠としてきわめて重要です。この事実は自民党調査では表に出てこなかったですね。自らの恥部を隠そうとしたのだと思えます。
A 統一教会と自民党議員の癒着は地方議会も例外ではありません。教団員の一票の重みは地方自治体選挙でこそ増すわけだから当然でもあります。妙なツイート発言をめぐって紛糾した小林貴虎三重県議の統一教会との深い関係はすでに明らかですが、自民党富山県連会長は10日、国会議員や県議を集めた会議で「統一教会と県内議員との関りについて調査しないことに決めた」との方針を明らかにしました。
日刊ゲンダイDIGITALが「調査したら大混乱となり、有権者の支持を失うと恐れて、調査しないと決定した可能性がある」と書いています。こういう「臭いものにふた」というのは、政界のみならず日本社会の悪弊だと思いますが、もはや悪臭芬々、すべてを明るみに出すべきときだと思います。
富山県では県知事や富山市長の統一教会との関係も指摘されています。これも保守王国の岐阜県では、中日新聞調査によると、県政自民クラブの19人が統一教会や関連団体のイベントに出席したと回答したようです。この種の例は各県で見られるのでは。
B 推して知るべし、でしょうね。
A 統一教会の地方への浸透ぶりを示す一つの指標として、2012年以来、地方議会で成立している「家庭教育支援条例」の広がりがあります。財団法人、地方自治研究機構の調べだと、2022年9月現在で、都道府県条例が10、市町村条例が6成立しています(表)。
提案者は議員や市長となっていますが、各種報道によれば、提案を働きかけた人物に統一教会(勝共連合も含む)関係者の影が見え隠れしています。提案議員と統一教会の直接的な関係が指摘されている例もあります。最初の熊本県条例が成立した2012年は第2次安倍内閣が発足した年でもあります。
これとは別に、国レベルの家庭教育支援法を制定しようとする動きがあり(野党の反対で現在は棚上げ)、全国34の地方議会が家庭教育支援法の制定を求める意見書を可決しています。ここでもたとえば熊本県や神奈川県などで統一教会の関与が指摘されています。
B これは2006年、第1次安倍政権下で実現した教育基本法改正と歩調をあわせた動きです。いじめ、登校拒否、虐待などの原因は親の責任だとして、公権力の家庭への介入をめざしています。その背景には伝統的な家族観があり、核家族、共稼ぎ、貧困家庭、不十分な福祉政策など現在の家庭を取り巻く環境は捨象したままです。ジェンダーフリー・バッシングの動きとも軌を一にしており、個人(子どもや障碍者、性的マイノリティーなど)の基本的人権への配慮が極めて希薄です。
実はこれは自民党改憲草案に脈々と流れる考え方でもあり、安倍政権や自民党、公明党、さらには維新などの保守勢力が推進しようとしている政策を、同じ考えに立つ統一教会が支援しているとも言えます。二人三脚と言ってもいいし、政権側が統一教会の強力なエネルギーを利用し、運動の下支えどころか実質的な駆動力にしているとも言えるでしょう。
A 統一教会は2015年に世界平和統一家庭連合と改称したように、「家庭」、「家族」が教えのキーワードで、その家族観は、創始者の故・文鮮明氏を「真のお父さま」と呼び「神様の下に人類が一つの家族である世界」を理想に掲げており、自由恋愛や婚前交渉は論外、信者には合同結婚式で相手が選ばれます。社会の構成単位が個人ではなく、教主を頂点とする家族なわけですね。個人の自由をまったく尊重していない。むしろ否定している。生まれた2世へのしばりもそうですね。
B 家庭が大事だというのはその通りで、子どもの教育には親もあずかってしかるべきですね。たしかに安倍元首相のふるまいを見ていると、この「金持ちのお坊ちゃん」は家庭でどういうしつけを受けてきたのかと不思議に思うことが多かったですね。その人が家庭教育が大事だというのも不思議と言えば不思議です。
冗談はさておき、一連の動きの背景には国や地方自治体が家庭に介入する国家統制的な考えが潜んでいます。「法は家に入らず」という格言もあり、この種の立法には慎重でなくてはいけません。
自民党と統一教会の癒着は、選挙で協力してもらう見返りに社会的認知と広報㏚をするというだけに止まらず、もっと深いところで結びついている。もはや同根と言ってもいいでしょう。来年4月に設置予定の「子ども家庭庁」の名称は、元は「子ども庁」だったらしい。統一教会側が自らの働きかけの成果として報告しているほどです。
A 統一教会は、「山上家の悲劇」に象徴されるように、家庭を破壊しつつ、家族愛を訴える。大いなる矛盾を抱えた組織です。
・「ウツボの恐怖」と闇を払う覚悟
B 問題を広げると、自民党改憲草案と統一教会の政治組織、国際勝共連合の見解が「緊急事態」や「家族条項」などでほとんど一致していることが指摘されています。ニワトリが先か卵が先か、この辺は何とも言えないけれど、結果的に、統一教会の意向が陰に陽に最高法規にまで忍び寄ってきている感じがしますね。
統一教会と政権与党の考えが一致しているから統一教会の影響を受けているとはもちろん言えませんが、統一教会の考えと家庭教育支援条例の内容が似ていることは確かで、自民党議員と統一教会のどちらが主導しているのかは非常にあいまいです。
A 暴力的とも言える献金などを強要していた「反社会的集団」の統一教会と政権与党が手を組んでいたと。
B 前回も言及しましたが、世耕参議院議員は「この団体の教義に賛同する我が党議員は1人もいない。我が党の政策に教団が影響を与えたことはない」と語ったけれど、語るに落ちるというか、影響を受けたのではなく、もともと同じ考えだと言うつもりでしょうか。その類似点、および相違点についても釈明してほしいですね。
これに関連して、「文春オンライン」(9月22日)は下村博文衆院議員が政調会長時代、統一教会の関連団体幹部から陳情を受け、党の公約に反映させるよう指示を出していた疑いを報じています。統一教会の改称が認められた2015年の文科大臣は下村氏でした。
A 自民党の野田聖子・前男女共同参画担当大臣が超党派の女性議員らでつくる勉強会で、「伝統的な価値観を重視する宗教団体が自民のジェンダー政策に一定の影響を与えた可能性がある」という認識を示したとも報道されました。
B すなおに見ればこういうことだと思いますね。ここ十数年、戦前への回帰の動きが強まってきていますが、保守政治の着々とした動きの背後、少なくともその一部に、統一教会の存在があることがしだいに明らかになってきたということでしょう。
それは安倍政治がめざしていたものであり、さらに言えば、彼が念願していた憲法改正への下準備でもあったように思われます。国会で改憲する、改憲すると言いつつ、裏ではなし崩し的な〝改憲〟状態を進めようとした面を否定できないですね。
A 自民党議員たちが選挙協力を受けることで、統一教会に隠れ蓑を貸したり広告塔になったりすること自体が大いに問題だけれど、自らの政策遂行のために反社会集団と手を組んでいる実態こそをより深刻に受け取るべきですね。まるで同じ穴のムジナではないですか。
B 自民党議員が統一教会との関係をあいまいにしようとしている真意は、どうやらそこにありそうです。冒頭でムジナならぬ「ウツボの恐怖」と言ったのは、統一教会がいつの間にか日本の深部に深く浸透してきていることへの驚きです。これが安倍政治の本質だったと思いますが、いま岸田政権はその安倍政治を踏襲すると言っています。
この日本社会に広がる「深く暗い」闇を払うには、野党も、メディアも、私たち自身も、相当の覚悟が必要ではないでしょうか。

A 政治をあたかも家業のように考えているのでしょうね。過去の偉大な政治家に「世襲」がいたとは聞いたことがありません。2代目3代目は政治的信念を継承するのではなく、ただ地盤と利権を継承するだけ。そもそも彼らに成し遂げたい政治的信念があるとは思えない。人望や実力がなければなれないヤクザの2代目3代目の方がまだ筋が通っていますね。もちろん、例外がないわけではない。
が51.9%で、「賛成」は25.3%です(添付のグラフは時事通信調査における支持・不支持率の推移です)。 岸田首相の国会での「丁寧な説明」もこれまでの繰り返しに過ぎず、逆効果だったようですね。

最初のころの顔ぶれには村瀬さん、おてもりさん、斎藤さん、編集部の宮脇、見沢両君、「あむ」の荒瀬君、小本さんなどの姿も見え、まさに『ASAHIパソコン』気勢会の趣で、当時の出版局次長、柴田鉄治さん、三浦君なども参加してくれている。その後はときに地元鎌倉の作家、井上ひさしさん、CGの大家、河口洋一郎君なども顔を見せた。雨の日に若い女性陣が気を利かせて持って来てくれたぬいぐるみで大いに盛り上がったこともある。明治大学の夏井高人さんも一度来て、しこたま酔っぱらって帰っていった。法政大学の白田秀彰さんが他の人とは群を抜いた伊達姿で若い女性と写っている写真も残っている。
私が『アサヒグラフ』編集部員の時で、徒歩で描き出した壮大な絵地図の作者を紹介してもらったのがきっかけだった。
りと並ぶ『ASAHIパソコン』を見せてくれたときは、ちょっと感激した。北九州から中国文学者の林田慎之介さんがやってきて、朗々たる歌声を披露してくれたこともある。林田さんとは『月刊Asahi』時代に三国志特集をするときに寄稿していただいて以来の仲だが、その縁で知り合った知泉書館の小山光夫さんも常連の花見仲間で、彼にはそ
の後、私のサイバーリテラシー3部作を出版していただくことにもなった。同書館の高野文子さんが一緒だったこともある。
コンもだんだん自分に似てくる」などとしゃれたことを言って私を喜ばせたのである。その日は偶然の再会を祝してすぐ食事に出かけ、乾杯した(写真は『アサヒグラフ』1981.4.17号)。
そんなことで昼過ぎになると、両グループはすっかり打ち解け、にぎやかな花見が始まった。梶原君は今でも「あのときほど酔っぱらったことはない」と回想している。我々は重い発動機を山に持ち上げ、レンタルのカラオケマシンで景気をつけたが、先方の飲み屋の女将が「花見にカラオケなんて無粋なものは持ち込んじゃダメ」と制止するのも聞かず、仲間から飛び入りも出て、花見は大いに盛り上がった。
たのが伊東君の長男、直基君である。若かった3人ももう50代半ばである。
好き、花見をすると言ったらさっそく、出演してくれることになった。我が家に衣装を持ち込んで身支度を整え、しゃなりしゃなりと山に登る。「よっ!桃太郎」と拍手喝采で、通行の花見客からおひねりも飛んだ。あいにく雨の日に、敏ちゃんがせっかく用意したのに、と夕方になって鶴岡八幡宮の段かずらまで繰り出したこともあった。
くれた西田雅昭さんである。彼はたしか2回目から最終回まで毎回、参加してくれたばかりか、コンピュータ仲間の黒岩潤司、久米正浩、市川剛、橘静枝、倉田彰敏、大江富夫、松島好則といったコンピュータやインターネットの猛者をどんどん誘い、それらの人びとがまた常連になって、花見グループの一大勢力を築くにいたった。みんな飲んベイかつうるさ型で、花見はいよいよ盛り上がった。『DOORS』を手伝ってもらった加藤泰子さんが顔を見せたこともある。
西田さんは現在、ライフワークとも言える『治安維持法検挙者の記録―特高に踏みにじられた人々』(小森恵著、西田義信編、文生書院)のデータベース作りに取り組んでおられる。恩師の小森恵さんが手がけた治安維持法検挙者のデータを引き継ぎ、2016年に大部の書物を刊行したが、そのデータをより完璧なものにすることにほとんど独力で取り組んでおられる。こういうことにこそ国(デジタル庁)の補助がほしいものだとつくづく思う。
た安田央、渡邊淳、新井健太郎、西岡恭史各君、やはりサイバーリテラシー研究所仲間の齊藤航君や藤岡福資郎君たちが参加するなど、メンバーも大きく移り変わったが、初期の参加者の輪はずっと続いた。ライターの吉村克己君や『月刊Asahi』で一緒だった高野博昭君は初期から参加してくれたし、朝日新聞の同期で大妻女子大学教授になった松浦康彦、『DOORS』で一緒だった鎌倉在住の角田暢夫両君も後半の常連だった。元NECの後藤富雄さんもその1人で、玄関にびっしり並んだ別人の靴を履いて帰ったこともある。

発表当時、大いに話題になったはずだが、トフラーの『第三の波』から遡ること20年というのはすごい。これらの論考を集めた『情報の文明学』『情報論ノート』(いずれも中央公論社)が1980年代末に出版されているが、いま読み返してみても、新鮮な驚きに打たれる(「情報産業論」の先駆性については、本サイバー燈台所収の小林龍生「
これからは「情報の検索、処理、生産、展開についての技術が、個人の基礎的素養としてたいせつなものになる」との認識のもとに、その具体的技術を紹介したものだ。「情報の時代における個人のありかたを十分にかんがえておかないと、組織の敷設した合理主義の路線を、個人はただひたすらはしらされる、ということにもなりかねないのである。組織のなかにいないと、個人の知的生産力が発揮できない、などというのは、まったくばかげている。あたらしい時代における、個人の知的武装が必要なのである」とも書いている。
創刊前の1988年3月、木村泉『ワープロ徹底入門』(岩波新書)が出版され、たちまちベストセラーになったことが私に大きな自信を与えてくれたのだった。そのころすでに十数万部が売れていた。コンピュータという専門領域の話をやさしく語った文章、「とことん派」を自称する著者の徹底した実証精神が、多くの人に、この本を手にとらせたのである。
冒頭で、木村さんは「ワープロは洗濯機や電子レンジと同じようなものでね。ま、食わずぎらいしないでつきあってやって下さいよ」と読者に呼びかけ、その気のある人には「若いもんにばかにされないように、ワープロとの具体的なつき合い方を伝授する」と約束していた。さらに著者としてやりたいこととして、「ワープロがわれわれの生活にさいわいをもたらし、災いをもたらさぬようにするための手だてをさぐりたい」と、社会的影響にも言及していた。「ワープロ」を「パソコン」に置き換えれば、私が『ASAHIパソコン』でやりたいと思っていることではないか。
数学の森毅・京大教授には、1990年初頭に会っている。専門の数学を離れて、文学、評論の分野でも活躍、その飄々として、しかも歯に衣着せぬ発言で「森一刀斎」とも称されていた森さんに、パソコンよもやま話、情報社会とのつきあい方を聞いた。話は多岐にわたり、いずれもおもしろかったが、プライバシー問題にからんでの「情報社会とバグ」の発言を紹介しておく。まことに含蓄深いというべきだろう。
『教育とコンピュータ』(岩波新書)の佐伯眸・東大教育学部教授には、コンピュータのシミュレーション機能を中心に話を聞いた。佐伯さんは、コンピュータが経験代行的なシミュレーションに使われていることに疑問を呈し、「シミュレーションといわれているものの何がおかしいかというと、シミュレーションを作ったプログラマーのコンセプト、目的意識、メタ理論などを隠すところです。舞台の前面だけを見せて、すべてを描き出しているがごとく見せて、われわれを受け身の観客にしてしまう。代行させようとしている人の意図が浅い場合、一見うまくいっているように見えても深まりがない
し、またほんものそっくりになってしまったら、現実を力学の対象としてみるのか、美術の対象としてみるのか、それらが全部はいってしまい、ということは、結局、何にも見えなくなってしまう」と言った。
ジャケットにジーパンというラフな姿。しかし、ネクタイを締めていた。髪はふさふさと、足は長く、軽快そうな靴をはいて、とても50歳過ぎには見えなかった。目はやさしく、いたずらっぽく、笑っていた。ハワード・ラインゴールドは『思考のための道具』でネルソンについて「社会的おちこぼれで、うるさ型の自称天才である。……。野性的で活気があり、想像力が豊かで、神経過敏であるためか職につくのに問題を起こしがちで、同僚とトラブルが多い。彼こそ、数年前は10代前半で自作のコンピュータやプログラムに夢中で、現在はパーソナル・コンピュータ産業での立て役者である世代の隠れた扇動者である」と書いている。インタビューした感想で言えば、才気にあふれ、上品なユーモアセンスを身につけた、実に魅力的な人だった。父親は『ソルジャー・ブルー』などで有名な映画監督、ラルフ・ネルソンで、母親も女優だった。
ハイパーテキストは、いくつかの枝分かれ構造と対話型の応答を基本にしているが、そういった考えを最初に商品化したソフトが、マッキントッシュ用の「ハイパーカード」だった。ハイパーカードの開発者、ビル・アトキンソンさんは、絵を描くソフト「マックペイント」の開発者でもある。
紀田順一郎さんは仕事に趣味にパソコンをフル活用し、「パソコンが文字通りパーソナルな道具になれば、個人の知的生活はより豊かになるだろう」と考え、実践もしていた「パソコンの達人」で、話を聞いて楽しく、また同感することも多かった。当時紀田さんが使っていたソフトは、ワープロが一太郎、データベースがdBASEⅢ、表計算がエクセル(マックⅡで使用)。ワープロ辞書についてとくに話がはずんだ。
石綿さんは、『ASAHIパソコン』の表記基準策定にあたってのお知恵拝借インタビューだった。たとえば、『アサヒグラフ』では、朝日新聞でふつう使われているように、コンピューターと音引きを入れていたが、『ASAHIパソコン』では、専門誌の立場から、コンピュータ業界でふつうに使われるコンピュータと音引きなしに統一し、そのように表記していた。
インタビューしたのは総勢44人で、ほかにもこんな方々がいた。事故で手足の自由を失いながら持ち前のがんばり精神でパソコンに挑戦、CG(コンピュータ・グラフィックス)で作品を発表したり、パソコン通信で同じような仲間に夢を与えたりしていた上村数洋さん。金春流家伝の太鼓の手付きをワープロで表記していた金春惣右衛門さん。パソコン通信、琵琶COM.NETで活躍していた陶工の神崎紫峰さん、神崎さんは古信楽焼を再興した人で、私は
その苦労話に大いに感激、誌面もそちらの話が多くなった。秋葉原電気街の知る人ぞ知る「本多通商」の本多弘男さん。「マイコン乙女」にして「UNIX解説者」の白田由香利さん。
サ開発に大きな役割を果たした嶋正利さん。『思考のための道具』の著者で、その後もたびたび来日していたハワード・ラインゴールドさん。NECでパソコン事業部立ち上げに貢献した渡辺和也さん、彼は「物事を始めるベストタイミングは80%の人が反対している時だといいますよね」と思わず膝を叩きたくなるようなことを言った。当時放送教育研究センター助教授で
、後に東京大学大学院教授となった浜野保樹さん、『ハイパーメディア・ギャラクシー』や『同Ⅱコンピュータの終焉』などの意欲作で、コンピュータが中心となって推し進める将来像を洞察しようとしていた。情報法の権威で、高度情報社会のプライバシー問題に取り組んでいた一橋大学教授の堀部政男さん、など。
このインタビューをふりかえって思うことは、1つには『ASAHIパソコン』の仕事が、私にとって常に新しいことへの挑戦だったことである。もう1つはこの35年におけるコンピュータ、およびインターネットの発達のすさまじさである。かなりの人が話してくれた将来の夢は現在ではほとんどかなえられている。テッド・ネルソンさんが言っていたベイパーウエアがいつの間にかインターネットの現実になっているのである。一方で、当時は想像もしていなかった新しい事態がいま人類全体を深く覆っている。私は2000年ごろからIT社会を生きる基本素養として「サイバーリテラシー」を提唱するようになった。
私のコンセプトを肉付けして誌面化するにあたって、三浦君はその編集マインドをいかんなく発揮して、彼の個性をうまくまぶしつつ、すばらしい形にしてくれた。三浦君は私より7歳、熊沢さんは5歳年少だったが、その2人とも今はこの世にない。そういうこともあって、この記録を書く気にもなったのである。
ムック5冊を出し終えてほっと一息ついたころ、出版されたばかりのロジャー・レウィン著、三浦賢一訳『ヒトの進化 新しい考え』(岩波書店)という本の献呈を受けた。サインの日付が1988.1.18となっている。三浦君の専門は生物学であり、めざしたのは科学ジャーナリストだったのである。
『科学朝日』時代には世界のノーベル賞学者20余人にインタビューした『ノーベル賞の発想』(朝日選書、1985)を世に問い、科学ジャーナリストとしての高い評価を受けていた。この本のあとがきで彼は「ノーベル賞を受賞するような飛躍は、守備範囲を狭く限定したような研究からは、なかなか生まれにくいようにみえる。守備範囲を限定しているようにみえても、広い範囲の知識を吸収し、広い視野を持っていた人が飛躍を成し遂げたというパターンがありそうに思われる」と、いかにも彼らしい控えめな表現ながら、意味深長な「真理」を語っている。
創刊から4カ月ほどたった2月15日号から3回にわたって「すべてはパロアルトから始まった」というルポが掲載された。筆者は三浦賢一君である。パソコンに向かいっぱなしのデスクワークから少し離れてのんびりしてもらいたいという気持ちもあって、パソコン発祥の地、アメリカ西海岸を訪ねてもらったのである。
目玉は何といっても、村瀬康治の「入門講座」だった。村瀬さんはアスキーから出版されていた超ロングセラー『入門MS-DOS』、『実用MS-DOS』、『応用MS-DOS』のMS-DOS3部作などの著者として、この世界では知らぬ人のない人だった。村瀬さんに入門講座を引き受けていただけたのがラッキーだった。
ムックのところで紹介した小田嶋君には、パソコン雑誌のライターらしからぬ、ものの見方、身の処し方が気に入って、「路傍のIC(石)」連載となった。実は、小田嶋君には創刊前に作った㏚版(ダミー版)で、特集の「徹底活用をめざして あなたのパソコン度チェック」を手伝ってもらい、コラムとして「追いつめられるパソコン・ビギナーの憂鬱」も書いてもらっている。
ムックの「苦難」でとりつかれたというか、その才能に魅了されというか、私たちはすっかり小田嶋ファンになり、いろいろ手伝ってもらおうとしたのである。特集は編集部との合作で、適性度、親密度、習熟度、中毒度の4レベルにあわせてそれぞれ20のチェック項目をつくり、質問に答えてもらって、そのパソコン度をチェックした。「片手で食べられるものが好きだ」(適性度)、「98といえば、パソコンとわかる」(親密度)、「DIR/Wを知っている」、「『我が心はICにあらず』の著者を知っている」(以上習熟度)、「音引きのあるカタカナは気持ちが悪い」、「2の乗数に愛着を感じる」(以上中毒度)などのユニークな項目と寸評、最後に掲げた「快適パソコン・ライフのための格言」まで、ダミー版には惜しい内容だった(古川タクさんのイラストが来るべき雑誌のパソコン初心者にやさしい特徴をうまく表現してくれた)。コラムもまた秀逸で、本人とも相談した結果、『ASAHIパソコン』本誌ではコラムを担当してもらうことになった。
アサヒパソコン編集部が1988年5月に発足したとき、配属されたのは間島英之君と西村知美さんだった。創刊時には宮脇洋、工藤誠君が加わった。この6人態勢で月2回の雑誌を出したのだから並みの忙しさではなかった。それぞれ連載を担当しつつ誌面の目玉ともなる特集づくりに翻弄された。出版局内の広報誌「出版局報」で宮脇君や間島君に「2人でムックを年5巻も出したりするから、こんな過酷な状況になった」と怒られている、と書いている。筆者を社外に頼るしかない事情のせいもあったが、編集部員の数で言うと、月刊の『科学朝日』と比べても、彼我の差は歴然としていた。
「自他ともに認める機械オンチ」だった万智さんが「短歌のためならエーンヤコラ」と一大決心をしてパソコンに挑戦、悪戦苦闘しながらも、「さまざまなハイテク・ランドをめぐりながら、『言葉』について考えた」楽しいエッセーは、新たな魅力をつけ加えてくれた。万智さんが言っているように、それは、「万智さんの私生活が少しわかる欄」であり、「初心者に勇気を与えるページ」でもあった。担当した間島君の指導よろしきを得た結果でもあった。
MIT(マサチューセッツ工科大学)メディアラボとニコラス・ネグロポンテ所長は、当時のコンピュータ関係者にはあまねく知れ渡った名前だった。MITはアメリカ東海岸、ボストンにあるテクノロジーの総本山で、メディアラボは45ある研究所の中の一つだった。コンピュータとコミュニケーションに関する最先端研究施設として、1985年から実質活動に入っている。ネグロポンテ所長、ジェローム・ウィズナーMIT学長らは、メディアラボ設立にあたって、精力的なスポンサー探しに乗り出し、パーソナル・コンピュータ産業、映画・出版などの情報産業に働きかけるとともに、日本からも多額の資金を集めており、出資企業の社員を研究員として受け入れたから、MITで学んだ日本の企業人も多かった。

アラン・ケイは、最初のパーソナル・コンピュータともいえるアルト(Alto)計画の中心技術者であり、幼稚園の子どもから研究所の科学者まで、だれもが楽しみながら使える「創造的思考をするための道具、ダイナブック・メディア」の提唱者として知られている。ケイ自身が描いた、2人の子どもが野外で「ダイナブック」を使っているたった1枚の絵(写真)は、「夢のパーソナル・コンピュータ」を人びとの前に具体的に提示し、その実現に向けて無限のインパクトを与えたのだった。
またジョブズは1984年にマッキントッシュを発売したとき、SF映画の傑作『ブレードランナー』の監督、リドリースコットを起用して、有名なコマーシャル・フィルムを作っている。下敷きにされたのがジョージ・オーウェルのSF『1984年』で、パーソナル・コンピュータで大型コンピュータがもたらす超管理社会を打ち壊すとの夢が託されていた(1984年1月22日に一度だけ放映された)。一方のビル・ゲイツがIBM-PCの基本ソフト(OS)、MS-DOSを開発して今日に及ぶマイクロソフトの基礎をつくったこともすでに述べた。
1997年7月、有名なコンピュータ雑誌、『ASCCI(以後、アスキー)』が創刊されたが、当時のマイコンはディスプレイもなく、マニアの少年たちが自分でプログラムを打ち込んで遊ぶ、ホビー用のおもちゃだった。だから、初期の『アスキー』には、アルファベットや数字がぎっしり並んだプログラムが何ページに渡って掲載されていた(キャッチは「マイクロコンピュータ総合誌」)。NECのマイコンキット、TK-80が、その象徴的マシンである。
『アスキー』から6年後の1983年10月、日本経済新聞社 (日経マグロウヒル社、その後日経BP社)から『日経パソコン』が創刊された。このころからパソコンは、ビジネスの強力な武器に変身する。記事の中心は、ビジネスマンに向けた、ワープロや表計算、データベースといったアプリケーション・ソフトの使い方ガイドだった(キャッチは「パソコンを仕事と生活に活かす総合情報誌」)。ムックで取り上げたNECのPC-9800シリーズの発売は1982年末であり、これがその象徴的ツールである。
とは言うものの、最初から『ASAHIパソコン』に期待して支援してくれる人もいたし、「自分で使ってみなければ何も始まらない」と、最新のラップトップパソコンを買って仕事に打ち込んでくれる広告部員も現れるなど、『ASAHIパソコン』創刊ムードはしだいに高まっていった。創刊を予告した社告への反響がすごくよかったり、岩波新書から出た『ワープロ徹底入門』(木村泉著)という本がベストセラーになったりといった社会の流れにも後押しされて、立派なキャッチコピーも出来上がった。<「『ASAHIパソコン』は便利なパソコン使いこなしガイドブック」「使っている人はもちろん、使ってない人も>。